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| 王の物語/王道の物語 |
Q1.今、いちばん人に勧めたい物語は?
Q2.今、いちばん続きの読みたい物語は? Q3.今、いちばん好きな作家は? A1.『悪霊シリーズ』 A2.『十二国記シリーズ』 A3.小野不由美 と、いうわけで、今どっぷりと小野不由美にハマっている。 なにしろ、新作が出ない! 1998年秋発行の『屍鬼』(新潮社)上下巻以来、新作がない。いちばん読みたい『十二国記』に至っては、新刊が出なくなってはや4年が過ぎた。 仕方なく、旧作を何度も読み返し、ひたすら待つ。時折り襲ってくる、どうしようもない飢餓感と戦いつつ、ひたすら待つ。これはもはや、精神修養である。 むろん、小野不由美だけが作家ではない。他にも好きな作家はたくさんいる。なのになぜ、これほどまでに小野不由美に惹かれるのか?それは、おそらく彼女の作品が、私の思う「物語の王道」に一番近いところにあるからである。 では果たして、物語の王道とはなんだろうか。波瀾万丈か、大団円か、勧善懲悪か。それこそ、各人各様の王道とする物語があること思う。そして、私の場合それは次の2点で定義される。すなわち、 ●物語における現実が、シビアにきちんと描かれる ●描かれた現実を打破してハッピーエンドに至る である。そしてこれは、言うほどに簡単ではない。 まず、シビアな現実である。シビアというなら『十二国記』シリーズは、異世界ファンタジーというジャンルにあって、かつてないほど内容はシビアである。それは、このシリーズが「異世界ファンタジー」というジャンルに存在していた暗黙の「お約束」を拒否しているからに他ならない。 異世界ファンタジーは、もともと現実逃避を意図して発生したようなところがある。そこで描かれる異世界とは、読者の、現実には叶えられない夢やあこがれを満足させるための、ユートピアであった。これはこれで悪くはないのであるが、ともすると、このジャンル自体がご都合主義の温床になって来たようなところがあった。 その「お約束」によれば、一般に、異世界に渡った主人公は見ず知らずの人々に、訳もなくちやほやされる。又は、唐突に人間離れした能力を身につける。しかし『十二国記』の世界は、違っていた。小野不由美描くところの異世界は、異世界なりのシステムに従って動いている。ここではないという意味で異世界であるが、そこは決してユートピアではない。 小野不由美の作品は、そこが異世界であれ、また現代日本の1地方であれ、そこがどこかに確かに存在している、生活している人がいると感じさせるだけの描写力、詳細なディテールの積み重ねにより、構成されている。であればこそ、『十二国記』も『屍鬼』も、圧倒的なまでの迫力と感動を読者に与える事ができたのだと思う。 …と、ここまでは、小野不由美ファンであれば、誰も異存のないところ。一般的な書評でもめずらしくない内容であろう。であれば、今更私などが何を言う必要もない気がして、かなり長いことこの先を書くのをためらっていた。 それが、この駄文の先を書きたくなったのは、実は『ブギーポップ』シリーズ(上遠野浩平/電撃文庫)を読んだことがきっかけであった。こちらを読んだことのない人のために、ストーリーには触れない。しかし、その好き嫌いは別として、『ブギーポップ』シリーズに一貫して漂う、強烈な暗さ、閉塞した空気には、誰もが慄然とするに違いない。なぜなら、それが上遠野浩平という作家が捉えた、この世界の現実の表現であり、それが「今」という時代の空気を、ある面で、まぎれもなく切り取って見せていたからである。 そこに描かれていたのは、少年少女たちの自我の痛み、あるいは病であった。自分自身に希薄なリアリティしか持てず、人とつながるすべも持てず、孤独な刹那的な心象風景。もはやその痛みは日常化、一般化し、誰もがそれを感じている。それが当然であるため、声をあげることすらできなくなる。 それは、この現代日本の病んだ現実の、まぎれもない断片であった。 小野不由美は、特にライトノベルでは、読者となる彼ら彼女らへのメッセージとして小説を著してきたように思う。弱い心に負けないように。孤独に負けないように。あきらめてしまわないように。あなたが生きていることが大切なのだと。口に出すとクサ過ぎるかもしれない言葉を、主人公達の戦いに託して送ってきた。主人公達の戦いは、まぎれもないこの世界の現実、現代の少年少女達が生きるための戦いとシンクロしていた。 しかし、現実がここまでシビアになった現在、それでもそれを打破することができるのだろうか。もちろん、物語に登場するのはナマな現実でなく、あくまでの個々の作家の内的世界である。作家が明るい世界観を持っていれば、明るい世界を描くのは容易である。しかし、このご時世に明るい現実認識を持つのは容易ではない。物語のリアリティもまた、時代の空気と無縁でないとすれば、より深い闇へと降りて行かないと読者の現実とシンクロできないのだとしたら、この先、物語はより一層、シビアで救いないものとなって行かざるをえない。 かつて、作家があまりにシビアな内的世界を持っていたがために、内的世界を物語に表現しようとして、物語が破綻していくことが、ままあった。『はみだしっ子』(三原順)しかり。『エヴァンゲリオン』(庵野秀明)しかり。彼らは、物語を救いきれなかった。前述の『ブギーポップ』も、おそらく切り取ってみた現実は変えることはできないだろう。そこまでは、おそらく作者は意図していないだろうから。 それでも、あくまでも、私はハッピーエンドの物語を見てみたい。シビアな現実を、ウルトラマンが来なくてもいい。印籠がなくてもいいから。主人公が苦しみ、自ら成長し、現実を克服していく結果として得られる、ささやかなハッピーエンドの物語を見てみたい。 前述した通り、それは簡単ではない。その課程は、おそらく作家の現実克服シュミレーションになりかねない。作家自身が世界を救うエネルギーを要求されるであろう、1作家にはあまりに酷な作業である。が、それでこそが、私の期待する王道の物語なのである。 王道の物語は、いつも少し陳腐である。目新しい仕掛けやテーマは追わない。どこがよかったのかをうまく表現できない。それでいて、至福の時間を与えてくれる。それ故に、私は、今日も明日もこの先ずっと、この「精神修養」に励むことになるのだ。トホホ… |
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