雪の上に、足跡を残して、神様がくる
…家の中には子どもがいる

『訪問者』より

 
 萩尾望都について語るのは難しい。

 なぜなら、私のあらゆる趣味、傾向、好きなものたち。それらもろもろのを語ろうとするときに、萩尾望都は、それらの一番核に近いところに位置しているような気がする。
ゆえに、萩尾望都について語ろうとする。どこが好きか考える。どうして好きかを問いかける。いつのまにか、私自身の性格の偏りを、あからさまに露呈してしまうような気がする。これは、かなりやばい。

 萩尾望都のどこがいいのか。まず、そのストイシズムが好きだ。完璧主義といってもいいかもしれない。昔から、あまり長い話は描かない人であったが、どの作品も、そのページ数の中に、ありあまる内容が凝縮されていた。そしてどの1コマたりとも動かせない、絶妙なエピソードの連続の中で、物語が完結していった。あまりにマンガとしての完成度が高いために、アニメ化すらおぼつかない。それが彼女のマンガであった。

 次に、哀しいほどに突き放されたその感情表現が好きだ。私自身冷めている人間のようで、あからさまに熱血されると、どうも引いてしまう。勢いや力技で感動させられるのもたまにはよいが、そういう作品はえてして、熱が冷めたら2度は読めなくなってしまいがちだ。
萩尾作品の感情表現は、常に不器用なまでに抑制されている。それでいて、例えば登場人物たちの瞳の色や、手の表情までもが、いつも微妙な感情や空気の色を雄弁に語るのだ。これは、泣ける。

 最後に、萩尾作品の物語の底を通奏低音のごとく漂う、哀しみが好きだ。
それはつきつめると、人は所詮分かり合えるはずがないという諦観のようなものであった。そして、スプラスティックなコメディ作品すら、この感覚と無縁ではなかったように思う。この孤独感、あるいは絶望、あるいは虚無。これこそが、萩尾作品を、萩尾作品の影響下に輩出した有象無象の作家たちとを、明快に区別たらしめたものであったと思う。

 最近になって、萩尾望都は彼女の育った家庭での葛藤を折々に語りはじめた。その葛藤自体は、もしかしたら、よくある話であり、誰もが罹る思春期のはしかであったのかもしれない。しかし、その彼女個人の孤独と葛藤とは、物語の中にあって、人という存在に普遍のニヒリズムへと見事に昇華された。
 
萩尾望都が『ポーシリーズ』を完結させたとき、彼女はまだ20代であった。天才の物語に必ずしも実体験は必要ないという、よい例なのかもしれない。

 尚、これまで述べてきたのは、実は70年代〜80年代前半にかけての萩尾作品についてである。それ以降の作品は、残念ながら追っていない。ある時期を境に萩尾作品の新作が読めなくなった。それが悪いとは、今では思わない。
作家は描き続ける限り、変わり続なくてはならないものなのだから。若くして代表作を描いてしまった作家が、周囲の期待する路線を振り切って、次へと進んで行こうとしたことを、今では評価したいと思う。

 90年代を通して、萩尾望都が進んできた路線。最長の連載となった、『残酷な神が支配する』。それが、単に遙か先に行っているため、私に追いつけないだけなのか、それとも、方向が違うがゆえに、二度と交わることはないのか。
すべての結論は、『残酷な神…』が完結したときに出るような気がする。


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