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| 改訂 2003.6.20 初版 2002.7.1 |
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| シティーランとは、舗装した状態であれば、たとえ坂道の登りであろうと安全に滑走できるという、インラインスケートの特性を駆使して街中を滑ることを指していう。アメリカやヨーロッパではいまやなくてはならないイベントとしても定着している。最も有名なのがパリローラー。 | シティーランで佃島を訪れた時のこと。高層ビルと高層マンションの立ち並ぶ湾岸エリアの壮大な光景を前面にしながら中央大橋を渡って、かなりのスピードで飛び込んだところが佃島だった。インラインスケートだと橋の下り坂は加速する、そのままの勢いで隅田川を一気に、それこそ飛ぶように江戸時代の空気を漲らせる佃の町並みに滑り込んだ。 | |
| タイムマシーンに乗った気分をマサドンはこのとき味わったんだ。これぞ、シティーランの醍醐味か!奥が深いとはこういうことを言うのだろう。車の中にいてはこうした空気と体感を味わうわけにはゆかないだろう。タクシードライバーであるマサドンは数限りなくこの場所を通り過ぎてきた。にもかかわらず、いちどもこの身体感覚、この時間感覚はかんじたことがなかったのだ。凄い体感が……ガーンときた!タイムトンネルを通過する気分……だ? | ||
| これは、ただごとではないのだ。近代建築群が広がるなかに、古い街が、歴史が立ち現れる。異次元のこの狭間に、江戸時代の生活が、純粋に結晶化した香りが、ポッカリと存在する。空気は一気に私の全身にしみ込んだ。この皮膚感覚は、車社会に身を没してきたわたしの身体の深刻な位相の狂いを点滅させた。 | ||
| ご存じかと思うけれど、ご当地、佃は400年は続く佃煮の生産地だ。私達を包んだ時間空間はこの歴史の厚みだ。400年の香りがすると言えばいいのだろうけれど、そう簡単に決めつけても聞いた方はイメージが浮かんでこないことだろう。さて、一行は、この古い町並みのなかで休憩することになった。住吉神社の傍らの小さな橋の袂は居心地の良い場所となっていた。大阪の方ならこれが東京の、いや、江戸のものでないことはすぐに察しがつくことと思う。そう、まさにこれは大阪の住吉神社なのだ。江戸時代初期、大阪の佃にあった住吉神社が家康と共に江戸に渡ってきた、と言うわけで、なんと古いことかとあきれ果てる。 | ||
| 江戸っ子コトバというのがある。これは関西商人の言葉と地元農民の言葉、そして台頭した職人達の言葉などが統合されて、まったく新しく創られた言葉なのだ。武士は立場上すべてお国言葉を使っていた。だから、江戸っ子は田舎侍なんていいながら見下げていた。フランス人は500年かけてフランス語を創った。だが、江戸っ子は50年で自分たちのことばを創ったという誇りをもっていた。 | これまで、東京の人間は”三代続けば江戸っ子”と言いふらしてきたけれど、じっさいには江戸に住み着いたら江戸っ子、東京に住んだらもう東京の人なのだ。もっとも、”東京っ子”は語呂が悪いから東京に住み着いたら江戸っ子で少しも構わないとマサドンは思っている。もともと、原住民がほとんどいない江戸では、古くから住んでるからといって威張ったら……もうアカンのや!新田という地名が関東地方にはやたらと多い、何故か?……ズーッと海の下だったのが、次第に海面が低くなって陸地に昇格してできたのが江戸なのだ。なんだか、近頃の温暖化問題の話みたいで、信じられない人も多いことだろうが。 | |
![]() Collage - YOSHINO masaki 2002 図解・大阪の佃村の近所にあった住吉高灯籠、廻船が入港するのを誘導する灯台として機能していた。佃村の漁民は、徳川家康の希望で江戸港の護衛にも当たる役割を担って大川(隅田川)の河口の洲に占有の土地を与えられた。詳しいことはhttp://www.asahi-net.or.jp/~dz3y-tyd/jinjya/sumiyoshi/sumiyoshi.html を参考に |
いかにも、大阪の商人という風貌のお客さんが私の車に乗ってきた。気軽に話せそうな印象だ、さっそく世間話を始めて見た。大阪のお客さんは漫才の伝統があるせいか、たいがいノリがいい。だからマサドンは関西のお客さんが好きだ! | |
| 『運転手さん!東京のお人は気っ風がいいんだってねー、宵越しの銭はもたねー、とかいうんでっしゃろー』 『あー、それですか!それはちょっと違うんです、本当は……宵越しの銭はいらねーけど、宵越しの金は欲しい、というのが本当なんです』 |
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| 『なるほど、わてらとかわりありまへんなー』 『関西、殊に大阪は経済的に豊かで、こんなことをわざわざ言わなくても生活出来ていたということです。江戸の庶民は小銭ぐらいしか景気のいい話が出来なかった、という貧しさなんです。』 『……ん、じゃー江戸っ子というのはどないなものですねん?』 |
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『それは、大阪と江戸を比べると解るのです、大阪は例えて言えばアムステルダムです、自由経済交易都市、なおかつ幕府の金融センターだった。それに対して江戸は、常時非常警戒消費都市、永久戒厳令不自由都市だったのです。町人は勿論武士だって夜間外出禁止なんですわ、木戸が街道筋、町内の辻に無数に設けられていて、自由に歩くことは出来なかった。こんな不自由な世間を楽しく渡ってゆくには……というのが原点で、厳しい規制の下で如何に上手く遊ぶか、楽しむか、に必死の努力をした……つまり、これはあくまでも岡本太郎の言う意味ですが、「命がけで遊ぶ精神=お遊びではない、本当の遊びを楽しむこと」が江戸っ子の気っ風になったのです。大阪ではこんなことは考えられないことでした。』 『なるほどなーようわかりまん……!』 |
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| 『江戸は右肩上がりに膨張しましたから、仕事はいくらでもあったのです、街が拡大すると、都市の再整備の必要がでてくる、と、都合良く大火事が起こる……?……これで、また仕事が増える。もともと緩いとはいえ江戸は夜間外出禁止、ところが大火事のときだけは戒厳令が解除されるから、火事が起こると江戸っ子は外出の自由を満喫できることとなるわけ……で……仕事と遊びが一緒にくるのがこういうとき。火事と喧嘩は江戸の華……ということになる。町に出ればなんとでも仕事は見つけられる、楽観的な人生観が助長されても不思議でない状況が生まれていた……今時、猫のノミを捕る専門家が暮らしてゆけるかどうかは知らないけれど、そんな職業でもまあなんとか食ってゆけたのです。』 『じゃー江戸っ子というのはずいぶん可哀想なものだった、で……』 |
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![]() Collage - YOSHINO masaki 2002 |
『しかし……必ずしもそうとも限らないのです。町人のパワーは規制がきつければきついほど、ボルテージは高くなった、これが江戸の町人文化を開花させてゆくエネルギーだった、その結果、武士の次男三男には武士の身分を捨てて芸人になったりする者が出てきた……お囃子と言う言葉はそれを良く表している、本来は囃子手といえばいいのにわざわざ「お」をつけたのは、武士出身の芸人がこの分野にも多くいたからなんです。楽屋にはちゃんと刀架けが用意されていたのです。』 『粋な江戸文化に武士が憧れたということでんなー』 |
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| 『その通りです、しかし、そればかりではなく、江戸は大名達の大消費地でしたから、芸術にパトロンがついたのです、従って実入りもよかったということです。大名などは江戸では暇でしょうがない、することといえば遊ぶことしかない、広い敷地にいても別段面白いわけでもない、こうなると如何に面白く遊ぶか、というわけで町人と調子が合った、一方で町人はというと、関西から来た裕福な商人がおおいに散財した、これが元手になって豊かになって行く……豊かになった分をみんな遊ぶことに費やす……芸人や俳人、作家、画家などのエンターテナー、また腕のいい職人はいまの売れっ子タレントと同じ境遇になったのです。』 | ||
| 『……わてはなーときどき、ワレは江戸っ子だー言うお人にあいまんねんが……気色わるーてなー!』 『……でしょうね、わざわざ自分から言いだされては聞いている方がつらいわけです、江戸っ子というのは言うなればカウンターカルチャーのことですから、江戸や東京で生まれたから江戸っ子になれるわけでもない……逆に、大阪に生まれた江戸っ子を私は知っているんです……これは更に拡げてシカゴ生まれの江戸っ子にも出会ったことがあるということになる……まあ、こうなるとEDOKKOと言うべきでしょうね!』 『運転手さんは東京のひとですかー?』 |
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| 京、大坂の商人のパワーはこの番付を見れば一目瞭然。三井家は知っていても鴻池家を知っている人は少ない。これはかなり片手落ちというもの。鴻池こそ江戸幕府の金融を一手に握っていた大資本だった。三井、住友は商人、鴻池は銀行マンというところだ。各藩で独立した通貨を使用していた江戸時代、江戸では幕府の通貨しか使えない、そこで鴻池が幕府通貨へと両替していた。このため物資はほとんど大阪に集まったのだ。この金が江戸で消費されることとなった。 | 『はい、親父は提灯屋でした、親父が戦死しなかったら、肌にあったタクシーではなく、提灯屋の倅ですから、いやいやながらも後を継いで商いをしていたのかもしれません。親父の本家は神田で江戸時代からの提灯屋です、いまでも従兄弟があとを継いで商っております、そうだからと言って、このことは江戸っ子とはあまり関係ないのです……ただ江戸っ子らしい生き様は沢山見てきました、違うと言ったらこのことでしょうね……だから私は江戸っ子というコトバを使う時は自分を主語にしてはあまり使いたくありません。だいいち、恥ずかしいじゃありませんか……』 『東京の人ってなかなか難しゅうおますなー』 |
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| 『関西の人はこうゆう肩肘はった関東の人間のことを笑っていることでしょうなー……笑われても致し方ないことです、あまりに江戸っ子が安売りされて、とうとう東京の人間にも何がなんだか分からなくなってしまったからです……江戸っ子という人間の条件、たとえば、何処で生まれて、何処で育った、の問題ではないのです、あくまでもカウンターカルチャーの側に主語があるのです……』 『……あーもう八重洲に着いてしもうたか……もっとはなしを聞きたかったなー……!!なんとなく胸がすっきりしましたんねん……ちょっと置いてゆきますー……』 (いずれ、どなたかにこのうろ覚えの大阪コトバを直して頂きたく思っていますが、しばらくはこの記憶の中の大阪コトバでご勘弁を。) |
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| これで分かったつもりになってしまう、というのも良いことではないけど、まあこんなところか。これは実際にマサドンが大阪からの乗客と交わした会話に多少の演出を加えたものだ。”三代続けば江戸っ子”は大嘘ということになる。ここが東京生まれの人間が自分自身で誤解しているところ、こうなれば自業自得ということか。 | ||
| さて、佃の街を一歩出ると、そこは、ベイエリアの荒涼とした光景になってゆく、なんとなく冷たくよそよそしく今の今まで通過してきた人間の香りがする佃島が際だってきた。そろそろ、昼時間に近づいて空腹を感じ始めた時分、ここで、またまた佃島が体の中に蘇った。そうだ……お茶漬けだ!マサドンの幼児体験のなかに残る「下町風味のお茶漬けの味」が、タイムマシーンに乗って鼻っさきにやってきた。江戸前のお茶漬けには佃煮、この取り合わせこそ究極のもの。ちなみに、「お茶漬け」の「お茶」というコトバが曲者、どこかのメーカーさんは、緑茶のエキスとカリカリ海苔煎餅でインスタント茶漬けを発売している。コマーシャルのお陰さんで家内までが、これが本道と心得違いしている有様だ。 | ||
| いたしかたなし、ここで茶漬けの話をするしかない。江戸茶漬けは、なにがなくとも佃煮を茶の葉に「見立てる」ことでしか味わえない。見立ての美学なんて格好をつけるものではないが(結構この手の通がいたりする)、粋な食事と心得ている当人はなかなか格好いい気分になれたものだ。なんと言っても早い、忙しくて、短気な庶民はご飯の上に様々な佃煮の具を乗せて、一気に熱い湯をかけて、すすり込む。どちらかというと、ソバをたぐっている姿に相似だ。近頃のカップラーメンやら、インスタント食品と比べたら自然度は高い、健康に文句なしの即席の食事ができる。もっとも、これは私の体験だから、これがそのまま江戸時代に当てはまるものではないかもしれない。 | ||
| ここで、「下町風味のお茶漬けの味」は大阪の佃村の人の作品だったことを思い起こそう。江戸は経済マネジメントを上方の商人に依存していた、江戸の大店(オオダナという、老舗の大企業)はほとんど関西から進出してきた商人によっていた。だから佃煮は当初こうした裕福な商人、武士、大名などがその消費を独占していたようである。が、いつかこれは「下町風味のお茶漬けの味」になっていった、町人の株が上がったのだ。だからいま、マサドンは大阪の味が江戸前の味に変わるプロセスに関心がある。ということは、大阪生まれの江戸っ子、いやもっと広く関西の江戸っ子に興味が湧くのだ。 | ||
| シカゴの江戸っ子については『頑張るなんて粋じゃない』に、すでに書いた。で、これから関西の江戸っ子を書きたいと願うのだ。といっても、マサドンは大阪の人達と交際する機会に恵めれていなかった。もっとも、こっちから大阪へ出かけて行くために、箱根越えの手間をかけようとしない、無精なマサドンだからこんな言い分はないのだが。……ということで、身体を大阪へ持って行く必要のないサイトで探し求めたというのだ。さて、この続きは次のエッセイで、では沢山のEDOKKOに会えることを楽しみに。 | ||
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