2004.2.22
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頑張るなんて粋じゃない
大地震とスケートの名手チャップリン
誰がピーターパン症候群なのか?
塩でミネラルウオーターをポカリスエットに
雪の中で!ケイトは江戸っ子じゃ!
年の瀬の名物クリスマス・シティーラン!
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競技は真剣が楽しい
パリは祭りに燃えている
インラインスケートはメディアだ!
インラインスケートはお茶漬けの香りがする
ゼウスだ!オメガだ!関西の江戸っ子だ!!
 その2”ゼウスだ!オメガだ!江戸っ子だ
 その3” ゼウスだ!オメガだ!江戸っ子だ
2050年の旅(1)アスファルト・バロック
2050年の旅(2)SF的 平賀源内の大発明1
マックとsk8(1)バロック仕掛けのアップル
マックとsk8(2)ゲーデルとPowerPoint
ハイゼンベルクの申し子マツキヨの世界
ゆっくり急げ(1)マカロニ仕掛けの幸福
ゆっくり急げ(2)かっと目を見開け
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『運転手さん……トイレット・ペーパー騒動って憶えてる?』
『あーありましたねー!かれこれ30年以上も前のことでしょう!』
『なんで?トイレット・ペーパーだったんだってーことだけどねー』
『そうですねー……うーんなんでだったんだろー?』
『原油価格が高騰するという第1次石油危機があった年だ。この年の11月には、不安に駆られた消費者がスーパー・マーケットのトイレット・ペーパーを買いに殺到したという、ことだよねー』
『そうでした!!ニュースで凄まじい光景をみたのを覚えてますよ!』
『このおなじ年に日本では雑誌、テレビも含めて、こんな奇妙な世相をひとまとめに説明してくれそうなカタストロフィー理論というものをブームにまで押し上げたんだー』
『ほーそんなこともありましたねー……思い出しましたよ……高等数学がこんなにブームになった……それも難解な最先端の数学が!とビックリしたことがありました……』
『奇妙な世相だから、なにかに頼ろうと、ワラでもすがる思いだったのかもしれません……そうとでも思わなかったら説明がつかないことだった!』
『トイレット・ペーパーを持ちきれないほど持って右往左往する様は、まさに危機的状況でした、目が引きつってました!』

Hyperkubus-Yantraから
http://www.saar.de/~luci/Raumzahl/HyperkubusYantra.html
『つまり、カタストロフィー理論が流行する状況に日本があったんでしょう。長引く不況と経済の行き詰まりが進行する中で、カオス理論や複雑系理論が流行する今の状況と似ていると思います。』
『しかし、カタストロフィーは、用語としては突然の「大変動」「大惨事」、悲劇的「終末」などの意味ですが、現在のカオス理論や複雑系理論にはそうした暗いイメージがありませんねー!』
『なぜか、と考えたんですがねー恐らくいまの技術や経済の行き詰まりには理由のあることが当時よりはっきりしたので、かえって安心して見ていられる、という気分があるんじゃないでしょうか!』
■ゲーデルの不完全性定理

1. 十分に広い数学の分野をカバーするように作られた形式的理論は完全かつ無矛盾であることはできない。(第1不完全性定理)

2. 十分に広い数学の分野をカバーするように作られた形式的理論では、その形式的理論が安全であるということ、つまり、それが無矛盾であるという事実は、その事実が本当である限り、その部分となる形式的理論や、それ自身では証明することができない。(第2不完全性定理)

これは林晋教授が、解きほどいて素人にも分かるようにと、文章化したもの。……それでも素人には努力は必要だろう……このように専門家の側から素人に近づいてきてくれると嬉しくなる。この定理のさらに詳しい消息は、林晋教授のゲーデルサイトのファイルをじっくりと読んでいただけば、、いかに不完全性定理が現代生活に重要な哲学的重みをもってくるかが理解されよう。
http://godel.m78.com/manifesto.htm
『エッ!?安心……?』
『そうです!30年前にはジタバタしたのですがねー今度は違うんですよー!!』
『ほー……』
『出来ないことは出来ないのです!ねっ、そうでしょう!!だから、可能な世界を探索すればいいんです。このへんの見極めが次第に出来るようになってきた……』
『不可能は不可能、なんだかウイトゲンシュタインみたいですねー言葉にならないことは話すなーとか彼は言ったんでしたね?』
『それよりゲーデルじゃないかなー!』
『……ゲーデル?!』
『不完全性定理てー知ってるかナー?』
『なんだか……難しそうですねー!』



ゲーデルの肖像の中では一番気に入っている、さすがに一流の肖像作家のものだ、ニューマンはマリリン・モンローなど著名人の肖像を数多く残しているアメリカの写真家。
サイエンス誌.日本経済新聞社版.1983september.105
photo:Arnold Newman
Collage - YOSHINO masaki 2004
『いやいやーそう思うかもしれないけど、実は案外……カンのいい人なら直感の世界で理解しているんじゃないかなー!』
『……?』
『カンでなら解る人は分かる、けど、、、論理でとなるととたんにやけに難しい!それを数学的に厳密に証明したってーところがゲーデルの凄いところなんだ!!』
『どんな風に凄いんです?!』
『これから本格的なコンピューターや通信環境が整ってくると、人間と機械の境が曖昧になる!このときゲーデルの不完全性定理の威力が発揮されるんだ!……人間自身と他者である電子回路の間に自己言及的新回路が発生するんだ……ここでアイデンティティーをどのように自覚できるかという問題でもあるな。』
『まるで精神医療の世界みたいですなー!!』
『だね……ゲーデルの世界って……』
『未来志向の科学原理てーとこですか……』
『メタ科学だよー!!』
『ウッ……メタメタにならないための科学?!』
他人のためじゃない、と、こともなげに言う自信。自分のためにデザインするんだ!と言い切る見識。他人のことは、その身になることがもともと不可能だ、、と見限る、、だから自分が見る夢から発想して、自分が欲している希望(欲望ではない!!)をそのままダイレクトにプロダクトに移す決断。この世に見たこともないような、でもどうしても欲しい、どうしても生きてゆくのに必要だと猛烈に心に訴えるような夢と遊びのある製品を創り出す。これが本来のモノをデザインする姿だ、と、、彼は、、断定する。消費するためにだけ造られるモノの行き詰まり……には訳があるのだと大局を判断する。価格競争の果ての荒廃にもキチンとした理由があると見極める。。。これをハッキリさせなければなにも前に進まない、と、、見通す。だから、、”デジジャラ”、、を解明する哲学がなければならなかった。これを「デジジャラ哲学」と軽く優しくしてしまう遊び。きっと哲学者なら重量級の体系を必要とするだろうところを、軽妙、洒脱に軽量化することに向かう。そうしなければ、現場の者には役に立たない、と知っている。。。。。
彼はキッパッリ言う”筋の通ったワガママは思いやりになる”、、、ここが、、いま、最も頼もしい。

The DIALOGUE(明哲明言)菅野沖彦・川崎和男 から
川崎  伝統工芸に出会ったんです。越前打刃物、700年の伝統。その産地に単身飛び込んだ。でも職人さんたちはデザイナーになんて、口もきいてくれない。三ヶ月くらい口をきいてくれなかったんですけど、包丁づくりを一新する覚悟でやりました。越前打刃物、越前和紙、漆器とやってきましたが、根底にはやっぱりオーディオをやってきたというものがあったものですから、ツマミひとつスイッチひとつにこだわるように、それこそ包丁の刃先ひとつにこだわる。職人たちが、ひじょうに狡くなっているんですね。手作りだからばらばらでもいいんだという考え方で、きれいに仕上げない。ぼくは「それは手芸だ」と言って、パッケージで攻めまくった。パッケージをきちんと作ると、寸法が合わないとパッケージに入らないものがものが出てくる。それに江戸時代のものを見れば、手作りのものは寸法ひとつ違っていない。いくつあってもきっちりつくられている。彼らを説き伏せて、それでいまは刃物作家も出てきて、タケフナイフビレッジという産地も作って……。と同時に、やっぱりコンピューターのことが気になっていました。たまたまアメリカで、伝統工芸が評価を受けて、むこうのデザイン雑誌に載っていたものですから、電話をかけ飛び込みで、それを見せながら、これをやったのはおれだ、みたいな。向こうは自分を表現しないといれてくれませんから。まだOS(オペレーティングシステム)もまだ定かじゃない時代の話です。
菅野  おもしろいね。伝統工芸からコンピューターへ。アップルは出ていました?
川崎  まだApple IIの時代です。1984年にMacintoshの128Kが出たときに、これだろう、と。これはパソコンになりえるだろう、と。もうひとつエンジニアリングワークステーションの方で、UNIXというOSが出たときに、たぶん全世界でこのUNIXになるんじゃないかと予測を立てて、それでパソコンとUNIXを両方をやろうと。それにぼくの体で今後デザインをやっていくには、コンピューターなしではダメだろう。でもなんにも知識がないわけですから、アメリカに直接見に行ったほうがはやいだろうということで、飛び込みで、ハードウェアの会社やソフトウェアの会社に行っているうちにネットワークがだんだんできるし、そんなことを福井新聞のコラムにちらっと書いたりするんです。すると、どっかに飛び火するんですね。あと、パソコン雑誌に書かれているパソコン通信の記事に、間違いが多くて、それに関しては編集部に電話をかけて、それは違っているんじゃないかという話をすると、なんか変なやつが福井にいるというんで、たずねてくる。アスキーの西もそういうふうにたずねてきてくれた。結局、気がついたら、デザイン界では最初にコンピューターをやっていました。ですから机の上には、伝統工芸の和紙だとか包丁が並んでいるんですけど、片方ではコンピューターがあったりして。
川崎  そんなことをやっているうちに、コンピューターのデザインにもタッチするようになって、東芝のダイナブックのスタートのところはタッチしていたんですけども合わなくて、今度はナショナルから呼ばれて、これもすぐに喧嘩してやめたんですけど、もう日本ではコンピューターのデザインもできないと思っていたら、Appleのスカーリーに会わないか、という話が来て、スカーリーが日本に来たときに会わせられて、話をしたら、彼が、ぼくのポートフォリオを送れ、と。送ったら、すぐに来い、と言われたんです。
川崎  すぐにアメリカに行きまして、プロジェクトに加わり、2年半ほどやってたんですけど、Appleの経営者たちがペローを大統領にするというのに、彼だけがクリントンを応援していたんですね。クリントンの就任式の時に、横にスカーリーがすわっているのを見て、これはひょっとするとうわさが本当になるかもしれないと思ったら、スカーリーが首を切られた。すると、ぼくのほうの顧問契約もバッサリ。
もう1つのPowerBook開発秘話ー
川崎和男がAppleのためにデザインしたMacは心をのせるコンピュータだった。このMindTopは、単なるモックアップモデルではなく、1991年7月30日に、Apple本社にて開発部隊やデザインチームの首脳陣に、発売を間近に控えた100シリーズの次のPowerBookとしてプレゼンテーションされたもの。さまざまな経緯があり、結局は実現しなかったことが、とても残念です。PowerBook100のデヴューがその年の10月。Duoの登場がその1年後ということを考えると、Appleの首脳陣の先見性はこのへんから曇りはじめていたような気がします。もし、来年発売されてもインパクトのある機種だと確信しています。
川崎和男がデザインしたPDAはコードネームPOPEYEと呼ばれるマルチメディアビューアーだった。ポパイはついに金型の完成にこぎつけようとしていた!次期PowerBookの開発を進めると同時に、Kaleida社(IBMとAppleが共同設立した会社)のマルチメディアスクリプト言語を採用するPDAのデザインにも参画していました。これは、東芝がハードウェアの製造を担当することになっていました。が、直前にキャンセルとなりました。この種のPDAが、市場に受け入れられたかどうかは、難しいところですが、斬新でありながら、触ってみたい、所有してみたい、というストレートな気持ちを起こさせてくれるデザインはさすが。
川崎は、北陸の街を救った、このドリームデザイン・パワーで救った。いまにも700年続いた伝統刃物の街は消えそうだった、街の主力産業は競争相手に負けた、負け続けて廃業するものが出てきていた。ここに、ドリーム・デザイナーが救いを求める街に乗り込んだ、彼はこの日本刀の伝統に裏打ちされた街の技術が世界のトップレベルにある、、と見抜いた、だから決まった。俺が欲しくなるスプーン、フォーク、ナイフをこの町なら造れると確信できた。消費者に媚びを売らない、毅然と自分の要求、熱望、満足、自分の遊びにこだわった。製品は世界にコダマした……とうとうこの「越前打刃物」の職人技がなければ生まれない名品が世に送り出された、価格競争ともお別れだ。デザイナーは使命を終えてこの街から去った、その行き先は全世界に向けて……
川崎和男はマックしか使わない、それ以外のモノは体がうけつけないからだ。そして、その行動はあまりにもジョブス達の行動の描く軌跡と似ている。
それもそのはずだ、川崎はアップルの顧問デザイナーだった時期があるのだから。自分の欲しいモノを自分で造る……その決意が世界に通じる道なんだという確信、これもアップルのポリシーだ。こうした、川崎の国際感覚は彼自身を日本の閉塞感の中に追い込むこととなってしまう。状況はインラインスケーターの姿に二重写しになって私には見える。日本のスケーターには履きたい日本製のインラインスケートはない。全く日本製がないのではない、自分の要求、熱望、満足に充当する製品がないのだ!!今後それは現れるか?!……という希望すら容易には持てない。だから、若者は健気にも、自分の要求、熱望、満足を与えてくれる部品を造ろうとする。マイナーな世界では少しずつこうしたジャンキーなグループが自主ネットワークを使って現れてきている。
だが日本の誇るシマノ社はローラーブレード社、K2など現在の世界企業であるメジャーなメーカーと肩を並べて商品を送り出すなどとは私には思えないのだ。インラインスケートのジャンキー達に熱狂的に支持される製品を作る能力はあってもSK8に進出の気配はいまだない。
先進国では今や極く日常的なもになってしまったものが、日本では開かれていないと感じさせることが多い。たとえば、東京のシティーラン(街の中を滑るシティー・スケート)には多くの外国人スケーターが訪れるようになった。まさに!!……石原都知事の観光立国東京を広める素敵なチャンスだ!!……だがその前に立ちはだかるものがある。それは、実情に合わない法律、官僚的な上部団体の問題、あるいは狭小で電信柱ばかりが目立つ街路構造、余暇に割くことの出来る時間が極端に少ない……など、、、これが変わらない限り、シマノ社が次世代の超メディアになるであろうインラインスケート界に向かって、ローラーブレード社、K2社、サロモン社などメジャーなメーカーに互して進出することはないであろう。
私の予想では、シマノ社が本格的にインラインスケート界に進出し、なおかつ川崎がプロダクト・デザインを担当したら、最高のフィーリング、世界最高の機能と品質をもって極私的要求、熱望、満足、遊び心を充たす製品をインラインスケート界へ送り出すに違いない。すでに有名なシマノのリールは世界標準だし、自転車部品に至っては堂々と世界のトップにある。インラインスケートにおいても実現してくれることだろう。。。そうなれば、、、新たな産業、じつは観光産業までもを巻き込んだ壮大なエコロジー産業として、日本の若者に素敵な就業の機会をもたらすはずなのだが?!
シマノは新しい時代精神を反映する能力をもつ日本の次世代の企業だ!!こうした企業が存在していることの意味は大きい、若者の切実な希望を支えてくれると思う。
■現在の日本の状況について「残念ながら末期的な閉塞状態にある。自分のプレゼンテーションにしても、海外では反響が大きいのに、日本では明らかに反応が弱い。野球もサッカーも、上を目指すものはどんどん海外に出ていってしまう。不幸な事だが、新しい物を受け入れる力が今の日本には感じられない。」と川崎は言う。 川崎はプロダクト・デザイン界とそれを取り囲む日本の業界、広く社会全般に対して深い閉塞感を抱いている。だからカタストロフィー理論の創始者ルネ・トムが死去した記事を読んだ川崎は「創造のための改変=カタストロフということであるならば、トポロジー的改変の数学的構造論を思考の中心に位置づけたルネ・トムという学識者=超数学者の技を語り継ぐ必要があると私は思っている。」……と考えるに至った。この想いは、、、
「聴衆は、なぜPowerPointでは駄目なのか(その理由)がわからないのではないだろうか……」という川崎のある公式の場での痛烈な体験へとつながるのだ。
■モノと人間のデザイン
「今までデザインは、消費を喚起させるために行われていた。」という川崎氏。「言い方を変えれば、欲望の為のデザイン。生産〜消費という一方通行のデザインを考えていた。いかに消費されるデザインを作るかが目標だった。それでは今後は通用しない。製造、収集、分別利用、修繕、再利用、回収、再生産、廃棄、焼却・・・作られたモノが行き着く先は、多岐に分散化している。デザインはその全てを考慮しなければならない。」と続ける。
そして「今までデザイナーは、カタチの事だけを考え『カッコイイ』デザインを追い求め、それ以外の事を放棄してきた。それではデザインとは言えない。モノと人間のインタラクションを考えないデザインは、今後はありえない。」と力説します。
http://www.japandesign.ne.jp/HTM/SEMINAR/980826/product-2.html
〈生産者モ消費者〉という方向付けをもった物づくりには、消費者一般へ媚びたり、単なる『カッコイイ』カタチの事だけを考え、大量に売れることだけが目的となったものつくり。それ以外の事を、たとえば安全、快適さ、快いフィーリング、造る悦びのある製造行程、収集、分別利用、修繕修理、再利用、景観阻害防止力、回収、再生産、廃棄、焼却……と言ったデザインの大きな要素を放棄することになると危惧される。このことが、生産の行き詰まり。ついにはもっとも大事な自分の要求、熱望、満足という〈極私的世界の解⇔特殊解⇔幸福〉というものが置き去りになる必然がある、と。
一方向的な〈生産モ消費〉というレールに乗って造られたものの押しつけは生産者やサービス業者の怠惰を生む。いつしか麻痺し、なんら疑うことなく当然のこととして期待される「一般解=大量販売・消費」のための図解形式。惰性的なものとして人々の頭の中に定着してゆく。……そう、いつのまにか頭が固くなるってことだ!!これを川崎和男は「一般解への依存症候群」として捉えた、この数学的な視点の正確さ。そして、自分の要求、熱望、満足にこだわることを「極私的特殊解」と捉えた数学的感性の凄さの中に川崎の個性があるのだ。

Collage - YOSHINO masaki 2004
一般解を求めたそのあげく、機能が雪だるま式に増殖して、一度たりとも使うはずのないような機能を満載した……そんなマシーン、家電、ソフトが身の回りに増え続けている。その代表、と言っては気の毒なような気もするが、弊害を世界中に振りまいて居るという意味で、マイクロソフトさんには我慢していただこう。これは頭脳と体をPowerPointによって支配されている消費者の立場からの指摘なのだから。
「Keynoteの作業画面に表示される機能ボタンの数は、PowerPointの3分の1しかない。45対17である。明らかに機能が少ないので作業時間は短いのだが、完成したプレゼンの見栄えはKeynoteのほうがいい。」これはアップルが2003年に新たに発表したプレゼンテーション・ソフトのKeynoteを使った感想だ。
(それは世間によくある話─「煩雑と利便の狭間で漂う老成者」戸島国雄;MacPower 2003 Mar.225、から)
■Keynote
2003年1月23日、日本では3月7日発売。アップル久々のニュー・プレゼンテーションソフトだ……ここにはスジの通ったわがままが見事に形になっていることを知るのである。
なるほど、世間によくある話ではある!少しでも多くの人に使ってもらおうと「「一般解」」を求めるあまり機能ボタンの数は増え続け、一般解を生み出すためにはその製品にすべての条件を満足する『完全性』を要求する。その結果いよいよ重装備になる、それでも不足すると、更に完全性を求めて新たな機能を増築する。この悪循環にはまるともう身動きがとれない。そして、「世界中のユーザー=極大の一般解」を満足させること、これ一本で間に合うという
Office & PowerPointにはこの悪循環の終わりが無いように見える。
■PowerPointの歴史は、「アイディアプロセッサー」というジャンルと共に始まっている。まず初代Macintosh用に、「ThinkTank128」というアイディアプロセッサーソフトが誕生した。この時期に開発されたソフトだから、もちろん英語でしか使えなかった。このソフトの存在を知ったとき、英語の文体構造が、これほどまでに日本語と異なっているのかとびっくりしたことを思い出す。当時、私はこのソフトを紹介する際に、英文というものはまさに「サンドイッチ」であって、サンドイッチのように文章の内容が展開し、文節が積み重なっていると説明したものだ。そして、日本語の文章とは、「海苔巻き」のように核心を包み込んでいく構造だというような分析をしていた。そのことが理解できたのは、アイディアプロセッサーというソフトに出会ったからだった。やがて、このソフトは、「MORE」というソフトに進化する。このソフトには、アイディアプロセッサーそのものをプレゼンテーション用に図解化する機能が付加された。そして、この図解化される部分が充実してくると、スライドショー的な要素が強化されて、逆にスライドショーにアイディアプロセッサー的な要素が付属するような形態になった。
最初に開発された「PowerPoint1.0」は、白黒であった。カラー化されるのが待ち遠しかった思い出がある。「PowerPoint2.0」で、ようやくカラーとなった。ところが、このソフトはマイクロソフトに買い取られてしまい、統合ソフト「Office」の一画を成すようになった。その後、Mac版のソフトとして「Magic」というソフトが登場したが、このソフトはすぐに消えてしまった。現在の「Flash」に近いソフトで、文字が画面上を自由に動き回るおもしろさがあった。
■現在、講演を行う際には2台のプロジェクターを使い分けている。1台は、私自身が制作したプレゼンテージョ,ン用の資料を写すのに用いる。これには、デジタルステージが開発したVJソフト「motion dive」とアイデアプロセッサー「Inspiration」を使うことにしている。もう1台は、マクロメディアの「Flash」や「Director」で制作した資料を映し出す。
 motion diveの使い方は、私の話に関連したキーワードや画像を、画面中にリアルタイムで写し込んでいくというものだ。最近は、これらのソフトにグッドデザイン賞のグランプリの候補となったLiFE with Photo-Cinemaを加えてプレゼンを行うようになった。motiondive十Inspiration十LiFE with Photo Cinemaの機能を統合したプレゼンテーションソフトがあればと思う。(デザイン・トーク「いまわしい」川崎和男. 2003-1号MacPower)
川崎が日本グッドデザイン賞授与式という公式の場で、審査委員長という公的な立場で、何故ゆえに
PowerPointは駄目だと言わなければならなかったか、、、その理由はこうだ。
『人々は「特殊解=一人一人の要求」が必要な場合であっても、「一般解=統計上のマーケット」を安易に求めてしまうからだ。』……どうしてこうなってしまうのだろうか?『「特殊解」だと思っていることが、実は「一般解」になってしまうという単純な例を挙げてみたい。「PowerPoint」というソフトがある。マイクロソフトが開発する、大定番のプレゼンテーション用ソフトだ。サラリーマンであるためには、「読み書きそろばん」の代わりに「ワード・エクセル・パワポ」と言われるくらいに必須のソフトである。学会や企業でも、ほとんどの人がこのソフトを使っている。PowerPointが、プレゼンテーションの際にスライドショー的に用いることができるため、企画書作成においてとても簡便で便利なソフトであることは認めておきたい。』(「かぐわしい」川崎和男:MacPower 2002 Dec、から)
川崎はここで”スライドショー的に用いる”ことの危険さを指摘している、まさに慧眼だ!!重大な落とし穴と問題はここにある!!それは”とても簡便で便利”という甘い大きな口を開けて消費者が落ちてくることを待っているかのようだ。このことは
PowerPointが人間工学的に破綻していることの裏の一面だから、こんへんを混同してほしくないのだ。つまり、多くのユーザーがこのPowerPointという甘い蜜に群がるのは何故だろう、という問題である。
PowerPointは使いにくいけど、一度使うとはまってしまう甘美さがあるのだ。この人々を引きつけて止まないエデンの園の甘い誘い、「煩雑と利便の狭間で漂う……」と呼んだ、戸島の悩ましい惑い。老成者にしてこの深い煩悩、色即是空とはスッパリゆかない人間の問題を考えてみよう。
「マニュアル人間=システム人間」ってあります、イヤ居ります。こう呼ばれるマニュアル人間の立場に立てば、、、雇われたから教わったままやっている、、、だから、彼らを攻めるのは見当違い、と……問題はマニュアルを作った人間の志の低さとそれを許している経営者の無教養さ、客の不感症の、、、三者問題。。。まさに悪循環のトライアングルだ!!……マニュアルに完全なものを求めれば求めるほど、泥沼に陥ってしまう……これを脱出する鍵はどこにあるか?

Collage - YOSHINO masaki 2004
「オォーそれは、、、ワシの得意な問題じゃよー!!」
……なんて独り言をいいながら、丸い眼鏡をかけた小柄な老人がはにかみながら歩いてきた。
さて、いよいよここから、、ゲーデル先生にご登場を願おうという場面になった!では……

宇宙に、そして森羅万象に数字を振り分ける、これもまた東洋哲学的だ。曼荼羅には宇宙の数列的配置が図像の裏付けとして見られるからだ。この数字を線上に並べればストリング宇宙になる。
Collage - YOSHINO masaki 2004
「マニュアルに完全なものを求める……う〜ん、問題は完全性じゃな!」
「まず、、じゃなー!……完全性とは一般解が特殊解を飲み込めるということを、そのシステムなりマニュアルに要求したものじゃ、と考えなされ!」
「で、そんな具合にうまく行くか?……と、問うて見るのじゃー、つまりここでは完全性とは〈ハンバーグ屋=一般解〉が〈お客=特殊解〉に対して必ず勝つことだと言い換えてもよろしい!!」
「これなら、わかりやすいじゃろう……」
「マイクロソフトなら世界中の人をお客と考えるだろうな!見もしない無数の相手に対して常に勝つなんてのは無限を相手に格闘するようなものじゃろー」
「そこで、もしシステムに不備が見つかったとする、そんなときは作家の安部公房じゃーないが……”湧いてくる矛盾や不備を公理主義的な循環論法によって生理学的に排泄する下水装置”……に流してしまえばいいと、まー腕のいい経営者はそんな風に考えたとする。商売するためには致し方がない、、、とねー」
■『従来の考え方ですと、脳に論理構造があって、それが外に出てきてわれわれは言葉を使うことができるというように説明するわけですが、最近僕はどうも逆じゃないかと考えています。〈普遍構造=ゲーデル数〉というものがあって、それを脳が拾っているのではないか。』《寄り道して考える―対論(森毅・養老孟司)PHP研究所1996・162-3.》

■だから、『数学の論理は、それがある〈形=構造〉で脳内にあるからこそ、見つかるのである。しかし、数学者は、そのこと自体を「意識していない」。』《唯脳論(養老孟司)青土社1989・25.》

■あるいは、私のアドリブで悪のりさせていただくと、『”自然数’x’に対して’x+1’を対応させる関数をもとにして、自然数全体の集合を定義した数学者の行為とは何かを問う。これは、ウィトゲンシュタインがいうように〈「最後の説明なんてない。」というなかれ、そういうことは、まさに「この街路に最後の家なんかない、いつでも増築出来る」とでも言うようなもの《哲学探求1953・29.》〉に等しい。あるいは次のようにも言えよう、〈ある集合がそれ自体の維持=定義が目的であるような場合には、その.集合=システム.の中では、機能=関数.に関して「無責任=悪言語ゲーム=フリーズ」が生ずる。』《脳に映る現代(養老孟司)毎日新聞1993・12-15.》


■「実証されなければ科学ではない」。その場合、数学を利用した科学の部分は、全て科学ではなくなるであろう。その部分はおそらく唯脳論でなくては「実証」できない、しかし、その「実証」は、普通の実証主義者の考える実証ではないであろう。それは、数学と同様に、『一種の論証=第二の航海=多元的世界』にならざるを得ない。《唯脳論(養老孟司)青土社1989・25.》

■公理は言語の形に書かれる。では、なぜ公理は言語で書かれるのか。言語は脳の連合野の機能を、おそらくはそのままに近く、表出するものだからである。《唯脳論(養老孟司)青土社1989・114.》

養老孟司氏のコトバに加工を施してバリエーションを楽しんでしまったが…いかがなものであろうか?

「一方、システムを書く人間は、真面目な人間ほど、システムやマニュアルは完全なものでなければと自分自身に求めているものじゃー」
「だから、システム制作者は必死で堂々巡りがなく、矛盾や不備もなく絶対大丈夫だということを強調しようする。また、それを使命と考えてもいる。つらいことじゃー、、、」
「……ここでいう矛盾や不備とはPowerPointに照らせばバグというよりフリーズや使い勝手のことじゃよ……」
「だがじゃー、、、情けないことにだなー、、起承転結というごとく、始めを決めると後はその制約のなかでしかスライドショーを作ることが出来なくなるものなんじゃ!!融通のきかない、気の利かぬ奴、それがスライドショーの宿命というものなんだ。」
「これを数学者は一元的形式的システムあるいは数学ゲームとも呼んで居る。まー微積分らしきものまでは一応やった君ならこれぐらいは知っていてよかろう。」
「そこでスライドショーじゃが、一直線にのびた線の上に一コマずつ対象を並べることと思いなされ。数学者はこのような操作そのものを数とみなして、ゲーデル数と呼んだんだ!」
「ゲーデルは世界の全ての物と事に数を対応させることができると考えた、、、ちょっと馴染みにくいがスライドショーの本質とはこれなんじゃよー」
「スライドショーをレコード盤に例えたのが有名なホフスタッターの『ゲーデル、エッシャー、バッハ』だな……」
「無伴走アキレスのためのソナタ、とか、、洒落対位法、、、はたまたフーガの蟻法、、、無限に上昇するカノンを含んだ音楽の捧げ物、、、これがエッシャーが描いた絵の中の絵、自画像の中の自分を見る自分、などと協調してゲーデルを語る、という手品みたいで文学書のような面白数学をやってのけた、、、と、これもスライドショーの謎の物語りなんじゃ!」
「反省というものを人間ならば必ずどこかでする、しかしこうしたスライドショーのような形式的システムには自己言及的な反省は入り込める余地がないんじゃ!」
「働いている自分がしていることを、手元を見るように観察しないわけにはゆかんじゃろー。。。その自覚的観察から仕事に対するよい考えが生まれるものじゃ。だが、これこそスライドショーには欠けているものじゃな。」
「無」の図解 1



「無」を西欧の合理的な考え方で図象化するとこんな風になる、極めて単純、一元的である。
Collage - YOSHINO masaki 2004
「哲学者の西田幾多郎なら”無の自覚的限定”というところだが、ゲーデルなら”無限の自覚的限定=対角線論法”じゃな。」
「自覚と限定という概念はお互いに水と油じゃ……だが、いつかは限定しなきゃー……動くことも働くことも出来ない、この問題に真正面から取り組んだ日本の哲学者西田は凄い学者だと思うんじゃが!!」
「店員はこのマニュアル通りにすれば、なんなく食えるハンバーグを客に出せる訳じゃ!……融通が利こうが利くまいがだー、、つまりその店員はハンバーグの自動販売機の一部になったのと同じってーことじゃー」
「店員は”自覚的限定の無い”仕事に熱中するしかない、しかもじゃー、、、困ったことに、これはこれでなかなか自虐的な快楽をもたらす、なにも考えなくていいという安心観と、、依頼心の甘い怠惰の蜜、、を味わうという、まさにエデンの園の快楽じゃな!」
「それが、プロの仕事だと思えばこそテキパキと真剣だ!!見た目は怠惰どころではないわなー、、全く不憫なことじゃー」
「無」の図解 2



東洋では「無」は極めて複雑な多元的構造をもつと考える。これは「無限」に複雑な構造を見いだした集合論に通じる考え方だ。だから、カントールの発想は西欧の数学者の猛烈な反発を受けたのかも知れない。
Collage - YOSHINO masaki 2004
「もともと、人間は一人一人やりかたは違うものなんじゃ、養老孟司氏が言うとおり、身体においてこそ全く同じ人間はこの世に一人としていない。。これが個性とか特殊解のはずじゃった!ところが、それを画一的に、普遍的にしようとする一般解指向、これが度を過ぎると問題発生じゃなー……コンフリクトしたりフリーズするってことになる!……そんな経験はハンバーグ屋さんで一度や二度、あんたもしているだろう。」
「棟梁というのを知っていなさるかな?日本の伝統的な建築技術者のトップのことだ。彼らは完全なものを嫌った!何故かというと、人間には完全なものを作ることは出来ないと知っていたからだ!この謙虚さこそものを造るものの一番大切な心得と知っていたンだ……凄いじゃろー」
「置き瓦というのがある、精魂込めて見た目には完全に出来た建物の屋根の端に、瓦を一枚置くんじゃ、まるで忘れ物をしたみたいに、あるいはへまをしでかしたごとくに演出するんじゃ」
「無」の図解 3



中央部に東洋の無の世界を、外縁に西欧の無の世界を配置して図解したものと考えていただきたい。
出典はすべてヤントラの代表的な教科書からコラージュ
ヤントラを「直感相似幾何学」とでも訳しておきましょうか
Yantra: The Tantric Symbol of Cosmic Unity
by Madhu Khanna (Preface), Ajit Mookerjee
1979 Thames and Hadson Ltd. London
Collage - YOSHINO masaki 2004


■無について
禅の精神では「世界と私は一つであるので、私が存在しなくなるという観念は成り立たない」らしい、ところが西欧人の私達は「私は世界に対峙した一人であるから、世界は私”無”しでも私には関係なく在り続けるだろう」 ─ とホフスタッターは考えた。東洋で盛んに言われる”無”はこうして、西欧では私の死とともに無になってしまう。だから、西欧では無はなんの意味もない存在論的な概念になってしまった。ところが東洋では”無”は存在するすべてのモノ、無機物から、あらゆる生とし生けるものを含んだものの総称である。こうして”無”は存在論の核心的な概念となった。西田が「無の自覚的限定」へと存在論を発展させていったことの中にはこうした禅思想の背景があった。
(ホフスタッター『ゲーデル、エッシャー、バッハ』白水社版p.687)から
(絶対矛盾的自己同一;西田幾多郎、1939.03;これは「無の自覚的限定」1931、から哲学をさらに展開、発展した論文で、西田の完成され思惟世界がここにある)
「だから、マニュアル人間がなぜ不憫かと言いうとじゃ、、、ゲーデルの結論……それはな、マニュアルで一応うまく行っていながら、他方で悪いやつがチョイと捻じ曲げたマニュアルを作ることができるならば。。。……例えるならじゃ!、、マニュアルの一種でもある法律にも穴が開いてる、だから、ザル法なんて言われる訳じゃがー、、、どれほど真剣に真面目に書いたものでも、そのマニュアルを完全だと証明することは人間には不可能となる、これは人間の造るものすべてに当てはまるという……驚くべきものなんじゃー!……と、、、ここまでは解るかなー?!」
「商売の天才と言われるほどの人物なら、ゲーデルのこの不完全性定理を直感で知っている。だからSF作家の安部公房が予言したような巧妙な装置を誰にも気づかれないように、あらかじめ組み込んでおいたりする。安部が生理学的に排泄する下水装置と呼んだものは、PowerPointでは人間工学的に破綻しているところに顕著に現れているのじゃー」
「棟梁のやることならフェアーだ!!誰の目にも分かるよう、屋根の上に置き瓦をするという、ごく人間的な配慮をする。だが、これとは正反対のことを平気でやらかすのがPowerPointのアンフェアーなとこじゃな」
「……PowerPointは毒針を使っては、手当たり次第自分たちの世界を広げてきた。そして、とうとう機能を一杯にした。この世界独占という極限状況で、毒針がズブリと刺す獲物はいなくなり、いつの間にか自分には窮屈になった穴倉のなかで、心ならずも毒針を自分自身に刺してしまった……一般解が特殊解を飲み込んだら自家中毒に当たった。これは林教授の作ったたとえ話だ、、不完全性定理のなかなか見事な寓話ではないかと感心したんじゃー」
「……スライドショーの危険性とは、最初に入れたアイデアに支配力を持たせてしまうことにあるんじゃー、、、知らない間に、いつのまにか人間の脳みそがシステムの敷いたレールの上に乗ってしまう……一般解への依存症候群……つまりじゃ、脳が自分たちが作ったシステムの奴隷になるってーことじゃ!!」
■西田幾多郎データべース(c) Niels Guelberg 2000  ここからテキストデータを取り込むことができるので検索、索引、引用が容易になった。こうしたデジタル化のもたらす恩恵は計り知れないほど大きい。こうして、西田幾多郎全集のデジタル化が日本語、英語、ドイツ語で着々と進行している。恐らく世界中に西田哲学を広める導火線になりうる強力なものだ。また、そうゆう大きな夢をこのサイトから感じる。テキストデータに各行記号が挿入されてマップを形成している。
http://www.f.waseda.jp/guelberg/nishida/nishidaf.htm

■青空文庫インターネットの電子図書館、青空文庫:西田幾多郎 使い方によっては親切なもののようだ。
作品リスト
1. 愚禿親鸞 (新字新仮名、作品ID:3503) 
2. 絶対矛盾的自己同一 (新字新仮名、作品ID:1755) 
3. 善の研究 (新字新仮名、作品ID:946) 
4. フランス哲学についての感想 (新字新仮名、作品ID:1049)
5. 我が子の死 (新字新仮名、作品ID:3506)
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person182.html#sakuhin_list_1
http://www.aozora.gr.jp/cards/000182/card1755.html
マサドンは特に(2)の 「絶対矛盾的自己同一」のテキストデータから大きな恩恵を受けた。
「西田幾多郎はこんな事を言っている『多から一へということが機械的ということであり、過去から未来へということである』と、これがスライドショーの姿であることは理解できるじゃろーなっ!、、ところが……『一から多へということは世界を発展的に考えること、合目的的に考えることであり、未来から過去へということである』と言っている……」
「西田は更にいう、、『同じ生産が繰返されると考えられる時、それが普通に考えられる如き直線的進行の時である』ともいう、スライドショーの姿を直線的進行の時と言っている、、正確なもんじゃ!」
「未来から過去へ、などと言われると後退しているように思うかもしれん、が、実は逆なんじゃよ!!こちらが発展的だと西田は言うのだ!……ここが大事なところじゃぞ!」
「『何処までも創造的ということは、いつも未来からということであろう、過去から新たなものが作られるということはないのである』と念を押している。」
「この辺の事情を西田は『作られたものが作るものを作る、作られたものから作るものへである』と説明している。」
「ホフスタッターは『ゲーデル、エッシャー、バッハ』のなかでスコット・キムの図像『図と図の図』を掲げている……」
「西田もまたゲーデルの仕事と自己言及的な側面で、、よく響き合っているじゃーないかねー!」
「つまり『既に作られたものからモこれから作るものへ……それが過去から未来へということである』と惰性の、そして怠惰のなんたるかを納得させてくれる。」
「早い話が、スライドショーに夢と創造性を求めることは無理、、、と、西田は結論づけているわけじゃな。。。」
(絶対矛盾的自己同一;西田幾多郎、1939.03)
素人宣言
ゲーデル本はいまや数多ある。だが、素人に向かって易しく書こうとすると困難は計り知れない、、の、だ、そう。それだけに素人の読めるゲーデル本は数少ない。マサドンのゲーデル本遍歴はかなり平凡だろうと思う。何故かと言うと、どれを買っても結局初めと終わりに目を通すだけで、ホコリをかぶったまま奧に、と……巷にころがっている、私のようないいかげんな素人が歩むであろう道のりは……
オット、、、いやはや大変失礼を……これは私一人だけのことだったか!
ところがである、、、ここに、素人宣言をする勇気ある専門家が現れたのである。誤解と偏見を恐れずに実行……林晋教授の素人宣言とは ─ 「ゲーデルの不完全性定理は、数学や数理論理学の枠を大きく超え、新時代の科学の指導原理的メタファーとなるだろう。だから、その理解には"素人のまなざし"こそ大切なのである。このホームページは、"素人のまなざし"による、ゲーデルと数学基礎論史の理解を目指す。」 ─ というものである。
如何がなものであろうか!!数学基礎論の世界ではゲーデルの定理は過去のものなのだそうだ、しかしその価値は数学の世界を離れてこそパワーを発揮する性格のものだと林教授は言う。コンピューターサイエンスの先端的な研究者らしい現場感覚と、広い視野からこうしたセンスが生まれたもののようだ。今回のエッセイを書くに当たって、林教授のサイトから多くの示唆、アイデア、引用などをさせていただいた。また「ゲーデルの謎を解く」(林晋著1993年:岩波科学ライブラリー6:2002年版、岩波書店)は数学者とコンピューターサイエンスの研究者と、二つの立場を踏まえて素人に語りかけた解説書として一級の価値を持つものと思う。この著書からも多くの事を教えていただいたことを特記したい。

さて、こうした新たな流れの中で、今回これまで不勉強で初めと終わりに目を通すだけで積んでおいた「ゲーデル・エッシャー・バッハ」(ホフスタッター著、野崎昭弘、はやしはじめ、柳沢尚紀:訳、白揚社、1985年版)を改めて読むこととなった。驚いたのは、その見事なイラストとの交響だった。エッシャーの芸術特有の自己言及的歪みの世界については多少の知識はあったが、これが文章と調和したときのパワーには圧倒されてしまったのだ!!

そして、マサドンはど素人の立場からプロダクト・デザインの世界でゲーデルの定理がどんな働きをしてくれるのかを見届けたくなったのだ!!何故か?日本の実情にあった、しかも世界に通用する夢のような、素敵なインラインスケートを欲しいからに他ならない。

林晋教授の「ゲーデルと数学基礎論の歴史」
「人工知能の方からスライドショーというものを見ると、チューリングマシン(計算可能性の定義に使われる思考機械)とそっくりの構造があるんじゃー!」
「単純なチューリングマシンがスライドショーだと言ってもよかろう」
「だから、、人工物であるチューリングマシンが,どれだけ現実に迫れるか,その代わりになるかという人工知能の間題と重なるのじゃー!!」
「これは、一般解はどれだけ特殊解に迫れるか、替わりになることができるのか、という問題に書き換えてもおなじことじゃが。。。」
「……お分かりと思うがチューリングマシンはコンピューターのアーキテクチャ一に連なるものだ。。こうした大からくりを最初に見破ったのが、例の『ゲーデル・エッシャー・バッハ』の著者ホフスタッターじゃったと、林教授が申されてなー……林博士は数学者であり、歴史学者でもあるんじゃ、多元的な学者といっていい方なんじゃよ。。」
「どんなOSであろうが、いま君が使っているパソコンはノイマン型と言われているものだ。ノイマンはゲーデルの同僚であると同時にゲーデルを真に理解し崇拝した最初の科学者だった。」
「フォン・ノイマンはただの数学者ではなかった。彼は抽象的で公理主義的数学形式の中に,この現実がどれだけ包括できるかという科学全般の基礎論的間題意識を常にもちつづけた最初期の数学者であり科学者だったんじゃ!」
「ノイマンの体の中では、ゲーデル数、チューリングマシーン、エニアックの三者が歴史の激しい渦の中にあったとき、ノイマンの天才がこれをらくらくしばって一本の組み紐にまとめ上げた、、、ここからいわゆるノイマン型コンピューターが生まれるのにそれほど多くの時間はかからなかった。1945年のことだ……」
「知脳の全ての働きは、計算可能な大脳新皮質群から導かれる、とチューリングは仮定した。。。これは実は脳科学の発展によって事実であることが分かってきたんじゃ!」
「大脳新皮質を構成している規則正しく配列されたコラム群には、ゲーデル数と相似の性質があると養老孟司氏が唯脳論の中で言っている。だから、、、人間は宿命的に一般解への依存症候群を背負っているとも言えるんじゃ。」
「エデンの園以来、人間が背負った弱点がここにある。」
「ここで面白い話をしてあげよう、、、、、じつはなー、、ゲーデルより1400年も昔にゲーデル数に近いアイデアを考えついた学者がいたんだ。。。」
「この学者は『モノから数を取り外せば、すべては破滅してしまう』と言ったんだ。唯脳論じゃーないが、数とは大脳新皮質のことだから、なかなか正確に言い当てている、、、ということが分かろうというものじゃ!」
「こんなことを言ったのは、セビリヤのイシドール、、、この人物は西暦600年ころスペインで百科事典を編纂した人物だというから驚きなんじゃが、、、その第3巻で数学について彼はこんなことを言っているのだ、、、」
「人間から数を取り上げることは出来ない、しかし、その数こそが人間の脳のアキレス腱になってしまうのじゃな!!」

調和の摂れた多元的システムとはどんなもののことか?……を、、ヤントラ図形解析を基礎に瞑想してみたい……と思って、こんなヤントラ図形をなぞって描いてみた。どれほど昔の知恵ある人の考えついた図形か……こうした図形が東洋には残されてきた。その筋道をゆっくり辿ってゆくと、、エッシャーの迷宮のようなスライドショーを体験できる。無を瞑想する伝統図形解析がこれである。これは5元システム、もしくは5声のリチェルカーレというべきものか?
Illustlation - YOSHINO masak 2004
「人工知能やコンピューターは我々の生活から、空気や水と同様に取り上げることの出来ないほど、生きるための必需品になった……」
「ところが、『ゲーデル数に依存する、一般解を導き出すシステムは不完全』だとゲーデルによって証明済みなのだから、この必需品は使い方次第では危険というより命がけじゃないか、、、!!」
「だから、一般解への依存症候群に陥ることを避けるためには、、、無節操に肥大化し複雑怪奇になった建て増し一元的形式システムを使わないことだ!」
「これしかない、次善の策としては、単純な一元的システムを人間の問題に深く配慮しながら使うか、もっといいことは多元的な=人間に優しいシステムを構築するしかない。」
「こういう多元的なマニュアル、シンプルなシステムなら、直感や感受性を優しく包んでくれるんじゃ!」

ヤントラの幾何学的な作図工程を解析した図
http://alumni.cse.ucsc.edu/~mikel/sriyantra/destruction.html
sambara-kramaから
「バッハの”音楽の捧げもの;6声のリチェルカーレ”にはこうし多元的なシステムの具体例が示されていると考えられるんじゃ……一元的なシステムの危険性と無味乾燥な内容を熟知した上で、バッハはそれを超え、補いうる6元的なシステムがいかなるものかを芸術として昇華し、我々に今でも聴かせてくれるんじゃよー、バロック文化のレベルの高さがいかに凄いものか、実感できるだろー!!」
「よく言われる、、バロック音楽の癒しとはこれなんじゃ、、、ホフスタッターの狙いもここにあった、まさに音楽の捧げもののフィナーレの黙示なんじゃ!!自己言及の不思議な環のなかにバッハとゲーデル、そして仕掛け人エッシャーをらくらくしばって組み紐にしたんじゃー」
「そうゆう多元的なシステムをカノンとフーガという超越的形式に纏め得たからこそ、インプロビゼーションを織り込むことが可能となった……ともいえる!!」

Geometry and the Imagination(原題は直感幾何学)
by David Hilbert and Cohn Vossen 1932 から
ヤントラを立体化したらこうもなる、この図でははっきりしないが正8面体の中に同じ8面体が数学的に存在している様子がこれ
Collage - YOSHINO masaki 2004
「……2050年には全く新しいバロックの時代になると信じている理由はこのへんにあるんだよ。。。」
「新しいバロックとはメディアが多元的に重なり合った入れ子状態の文化じゃな、、だからメタ=超越的形式の世界なんじゃよ」
「メタ・バロックの新時代はデジジャラ哲学と西田哲学、そしてゲーデルが見事な組み紐に纏められているに違いない!日本人が世界に文化力で貢献するときが来るのじゃ!!」
「ホフスタッターのパロディーでゆけば、、”ゲーデル・ニシダ・カワサキ”、、じゃなっ!!」
「人間はやはり直感が働かないことには危険から身を守れないし……また、芸術もスポーツもなしえないじゃないかー!」
「それには、スライドショーの舞台裏をオープンにする多元的なシステムが必要なんじゃ!」
「エデンの園から香ってくる甘い誘いを断念するしかない!答えはこれしかない、と、、いうところが大事なんじゃー……こうした大局的な見通しをつけることが出来るのは、ゲーデルの不完全性定理のお陰というわけだ!!」
■『飛んでいる矢は止まっている、というゼノンのパラドックスは、まさしく”視覚=構造=右脳”における考察を、”聴覚-運動系=機能=左脳”に対して提示してみせたものである。《唯脳論(養老孟司)青土社1989・156.》 「……人間はどうであれ、なんとか生きてゆく、懸命に、、一生懸命に生きている時には、論理的に高い次元で多数の推論ステップを実行していることには変わりがない……」
「ということは、怠惰でないような人間、、は、たった一つの形式、つまりスライドショーのような形式で行動するものではない!……われわれは多次元の形式システムを臨機応変に取捨して作動しているのだと……言えるんじゃな。。。」
「これで、、、よろしいかな?!」

Collage - YOSHINO masaki 2004

from Yantra: The Tantric Symbol of Cosmic Unity
by Madhu Khanna (Preface), Ajit Mookerjee
1979 Thames and Hadson Ltd. London
いやはや、クルト・ゲーデル先生いや下出来戸先生の毒舌はとどまるところを知らない。が、よく考えてみるともっともではないか、と考え込んでいる、、、と、……”オッカムの剃刀”という話を思い出した。
中世イギリスのスコラ哲学者でフランチェスコ会の修道僧であったオッカム村のウイリアムは”不必要に複雑な言明を提示すべきでない”と。あるいは”むやみに実体の数を増やしてはならない”と。う〜ん……棟梁も修道僧も分かっていたんだねーだから伝統というものは大切なんだ!!
何故こうした叡知が現代では忘れ去られたのか?ハンバーガーショップの店員さんがハンバーグを作り売る悦びをもてる多元的なシステムなら消費者も楽しく食べられるかもしれない。それには、広くマニュアルやシステムは生産者からだけの一元的な視野を捨てて、特殊解の中の多元的な要求を満たさなければならないのだ。
……快適さ、快いフィーリング、作る悦びのある製造行程、収集、分別利用、修繕修理、安全、再利用、回収、再生産、廃棄、焼却……と、、川崎が強調した要素を”全て=多元的に”取り込む必要があるのだ。
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だから、、、もう解ったことと思うのだが、、川崎和男はマックしか使わない。川崎は断言する……
「問題は、論理としての思考形式に内容が閉じこめられてしまうということである。つまり『特殊解=多』でなければならない問題を『一般解となる図解形式=スライドショー』で考察して、それで済ませようとする甘えの癖がつく。」
「すでに米国では、PowerPointを用いてプレゼンテーションされた企画には、商品価値がないとさえ言われている。」……と、プロダクト・デザインに関す限り、川崎は真剣で手厳しい。(「かぐわしい」:MacPower 2002 Dec)
マサドンはここにいたって、インラインスケートの置かれた位相に想いを馳せる……そこにはエコロジー・スポーツの未来的な姿がある、自分で加工したり組み合わせる楽しみがある、実用的にも自転車と分かち合う移動手段として、またメッセージを送るメディアにもなる、快適さ、遊び心と冒険心、快いフィーリング、作る悦びのある製造行程すらもがある。老若男女、家族ぐるみで楽しめる優しい地域力を形成する潜在パワーがある。これらを含めて、、、インラインスケートは特殊解の中の多元的な要求を十全に満たしてくれる条件が揃っている。
だからこそ、、未来が開けていると言える、これまでとは根本的に違う意味での「ネオ巨大産業」の新局面が開かれていると確信する根拠がここにあるのだ。。。
シマノよ!……川崎和男よ!!……インラインスケート産業のニューホープとして現れ出でよ!!

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