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| 改訂 2003.6.10 初版 2001.10.15 |
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| いまや、50年も昔の話になろうとしている。当時は子供の遊んでいる道路に自動車が─”やって来る”─ということは、そうしょっちゅうあることではなかった。……そう!お気づきになりましたか……遊んでいるところへ車が邪魔しに来るから、この表現だ!!これは、あくまでも遊んでいる子供の視点からのものだが、車は遊びを”妨害しに来る”……だから、こう子供達は表現することになる。敗戦後の東京に車はたまに走り去るものだった。この頃は、東京の街の中を馬車が荷車を曳いていた。 | ||
| うっそー?!なんて聞こえてきそうですなー。……当然ながら馬だって生理的な要求でオシッコを催す。でもの腫れ物のことだから処構わずという騒ぎは日常的に目の前にあった。神田川沿いの住宅に住んでいたアメリカ人は高級車を持っていた。その洒落たカントリー風の家は近くだったから、神田川岸にあった砂利船の船着き場へ遊びにゆくと、その家の前を通り過ぎることがしばしばあった。このアメリカ人が、珍しいことだったが、故障した大型の蓄音機とラジオを修理するために、祖父の経営する電気店の前に駐車したことがあった。悪ガキたちはこの外人の車に子供らしい悪戯をした……汚れなき悪戯!?……だった。……これなど子供心にも印象に残っている珍しい出来事だったくらいだ。 | ||
| 神田川 | 近くに止めた車は遊びには邪魔者だから、自動車をガキ達は邪険にした。時には食って掛かるのも現れるほど子供達は自己主張していたと記憶している。広い舗装道路で ”そこのけそこのけお子さまが通る” なんて雰囲気を今では想像することも難しかろう。メインストリート以外の場所ではドライバーが小さくなっていたように思う。子供の遊び場である夕方の道路に駐車でもしようものなら、遊び仲間の大人達が子供に加勢したのだ。 | |
![]() 「ほ組」が浅草橋から蔵前・鳥越近辺、「を組」がいまの御徒町から鳥越近辺までと火消しの守備範囲、これもなにかと喧嘩の種になるから賑やかで、下町はやっかいだ Collage - YOSHINO masaki |
この頃、子供達にとって今時よりは随分と自由だったのだと思う。下町では路地は砂利道だったが、表の道路はほとんど舗装してある。したがって、子供の頃の遊び場はチョットしたものは、ほとんどコンクリートの上になった。気遣いもいらずに、街全体が遊び場なんて、今思えば驚きでしかないだろう。マサドンの常識はかくして出来上がったと思っていただきたい。そんな古きよき時代の話だから、近頃とはなにかと常識が一致しない。まあ早い話、天地が逆転していることも多いと思う。 | |
| 「S字」という遊びがあった、このゲームをするには道路の半分以上を占領する。チョークでコンクリート舗装の道いっぱいに巨大なSの字を書く、二つの輪の中にそれぞれ子供が5人から7人ぐらい、時にはかなり年長のものまで入っている。一種のドッジボールのようなものだから、道路はたちまち遊戯に夢中の子供達に占領された状態になってしまう。 | ||
| まあこんな所に近づくドライバーは居なかった。他にいくらでも車を停める場所はあるし、大体遊んでる場所は見当がつく。だから、何の心配もなく、日が暮れるまで子供たちは思いっきり遊んだ。ご飯だぞー!!と親たちが迎えに来るまで遊ぶのが普通だった。……ナヌ?!……塾?……それは、数年後の話になってくる。まあー……当時は学校から帰ると、ポンとカバンを投げ出して街なかえ飛び出してしまう……塾なんてものは、大店の栄見屋のボンボンぐらいのものだったか!? | ||
![]() パリローラーの光景だ!!老若男女、人種も様々これにギャラリーの子供や野次馬を加えたら、きっと1950年代、浅草で毎晩のように繰り広げられたローラースケート・フィーバーの光景とそっくりになることだろう。 パリローラーのサイトから転載 撮影 Alain ERNOULT 雑誌 Focus に使われた作品とのこと http://www.pari-roller.com/fr/Galery/Focus/16.htm http://www.pari-roller.com/fr/Galery/Focus/17.htm http://www.pari-roller.com/fr/Galery/Focus/22.htm |
だいたいこんな雰囲気の下町で、ローラースケート熱に火がついたのだ。想像できるだろうか?……夕方になると、街は鋼鉄で造られた粗末なスケート、革靴に縛り付けられたローラーと荒っぽい舗装のコンクリートとが発する摩擦音と歓声で、ロックコンサートのような状態になる。夜も8時を過ぎると、いよいよ最高潮。メインストリートも道巾いっぱいにスケーターが広がっている。これが、それは、それは、毎晩だ!!歩道で見物する老若男女にガキが加わってお祭りのような騒ぎとなるのだ。確か、マサドンが小学校に入学する頃だから、1948年(昭和23年)前後にはすでに町中をローラースケートの音が聞こえてきた。それが次第に盛り上がって、1950年ころにはこんな祭りになっていたのだ。 | |
| マサドンの叔父(当時は中学生)や近所のガキ大将などが、このころすでにスケートに熱中していたのだ。マサドンもさっそく、ねだって買ってもらった。小学校に入る前後のころのことになる。当時は食べるものにも不自由していたというのに……遊びは別……というところがあった。つまり、戦争が終わってまだ3〜4年しか経っていないころだ。チョット想像するのが難しいかもしれない。だが、戦争がなくなったという開放感は、食料や生活の困窮とは別に街の中に満ちていたのだ。 | ||
Illustlateion - YOSHINO masaki 2003 |
まあ、下町は祭りが大好きな街だし、祭りを人生の薬味と心得ている街だ。食べるだけのために人生があるんじゃーない!!……人生は遊びや祭りのためにある。これは頑としてあった!!……多少、食糧事情が悪くて飢えていても、この騒ぎは一向にこの街にとって不自然ではない。だから、大人も一緒というのが本音。浅草・鳥越神社のそばに浅草橋消防署があった、なぜかここが溜まり場になってしまった。なんたって消防車が出入りするメインストリートですぞ!!しかも、当初は消防署から交番のある左衛門橋までの2百メートルほどがこの状態になったのだ。がこれなんかも、とても今どきの常識ではその理由が理解できないことだろう。だが、この謎も”祭り”に引っかければ難なく解けるという次第だ。火事と喧嘩と祭りは江戸の花か、いや江戸の華! | |
![]() 明治2年(1869)東京の地図から消防署の溜まり場を再現してみた。周辺は大名の下屋敷が残っており、マサドンの生家はフクイ丁が佐竹左京敷地の引き払いで拡張され町家になり新福井町となったところ。浅草橋近くのカヤ丁に火消しがあった。下の方向が北、上方が南になる Collage - YOSHINO masaki |
しかしだ、このお祭り気分はそうそう永いこと続かなかったんだ。しばらくはこのにぎやかな状態が定着していたが、これにいちゃもんをつける無粋な輩が現れることとなる。このへんから時代が少しずつ変わり始めたのだ。マサドンが小学生の2年から4年生位まで(1950〜52年)が最盛期だったろうか。 世の中、経済が力を持ち始めてくると、祭りより商売が大事という江戸っ子の風上におけぬ輩が勢力を強めてくることとなったのだ。遊びより仕事か?……?……これは、下町に次第に地方から流れ込んだ復員兵があふれたからなのだ。 |
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| 復員兵と言ったところで、いまどきお解りいただけないだろうが。戦地から戻ってきた召集兵などの生き残りで、一般に軍人軍属よりは下っ端の兵隊のことだ。戦争が終わって、外地に出征していた元兵隊達が喰うために、ただ、それだけのために東京に流れ込んできたのだ。農地は荒れ果てて、次男、三男は故郷に住み着く余地は無かったのだ。仕事のある都会でしか生き残れなかった。 | ||
| 彼らは、青春時代を戦争と飢餓のもとでなんとか生き延びて戦地から戻ってきた人々だ!最も遊びに浸らなければならない少年時代、青年時代という大切な年齢を、戦時体制のために犠牲にしていた世代だ。祭りだ、遊びだなどと言うことすら禁じられるような生活を余儀なくされていた。そうした、世代が戦場から都会へ、そしてこの下町に入ってきた。どうやら、これが問題だったのだと、つまり人生は喰うことより他には考えられない人たちの持ち込んだ、戦争による後遺症の問題だと、今にしてマサドンは気がついた。 | ||
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こうして、下町の空気は次第に変わり始めた。もともとの住民とこうして都会に住み着いた人々とは、どうしても常識がかみ合わないのは致し方なかったのだろう。 こんな、困窮と混乱の時代は、いつしか経済の立ち直りで立場の逆転をもたらした。経済成長への最初期の段階である、朝鮮戦争による特需景気へと突き進すすむとともに、車の数も次第に増えていたのだ。 |
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| 情勢の変化は、いよいよ ”祭り派=江戸っ子” と ”経済中心派=兵隊の生き残り派” とのぶつかり合いの様相を呈しはじめてきていた。スケーターを応援する大人の数は次第に少なくなっていったのだ。こうして住人の意識の変化とともに交通事情が激変したから、祭りのような騒ぎは取り締まりされるものへと転換してしまうこととなる。左衛門橋に駐在の警察官がスケーターを追い回すようになってきていたし、校長先生は朝礼で禁止令を出したりと、事態はスケーターにとって容易ではない状態に追い込まれていた。もう、この頃からはスケーターは今で言えば暴走族扱いになったていたと思う。 | ||
| 禁止令を読み上げた校長先生やそのほかの教師のほとんどが地方出身の人々だった。彼らには江戸の文化や伝統、そして街の空気を理解することは出来なかったにちがいない。マサドンの例で言えば、小学校の担任は千葉県、中学での担任教師は静岡県、茨城県の出身だった。彼らの多くは地元下町には住まず、遠くから通勤していた。通勤圏が拡大した当今なら不思議でもないが、50年前に千葉や筑波から通勤する教師はかなり時代を先取りしていたんだと思う。 | ||
| 江戸通りに面して人形の久月と吉徳が軒を並べ、近くには佃煮で有名な鮒佐、隅田川と神田川の合流点にある柳橋には高級料亭の亀清楼と老舗が集まる浅草橋周辺。赤く塗った道路は浅草消防署の通り、神田川に架かる橋は左衛門橋、この道路一帯がエブリーナイト・スケート・フィーバーのメッカとなった。(江戸老舗地図・江戸文化研究会編、主婦と生活社刊─1981 からコラージュとして制作) Collage - YOSHINO masaki |
マサドンはこのような事態の中で、いじましくも目立たない所を選んで、一人で滑っていたのだ。いま思い出しても、なんで諦めなかったか?と不思議にさえ思えてくる。この頃からマサドンは一人で滑る習慣が出来てしまったのかも知れない。かつて、夥しいほど居たスケーターは数えるほどに減ってしまった。一人で滑るのに飽きると、後楽園や錦糸町のリンクへ仲間を求めて、また仲間と遠くの公園や外苑へと通うようになった。お祭りが生活の中心にあった下町はこうして商業が中心の殺風景な街に変わってしまったのだ。裏長屋の祭り好きの大人はこのころには全く存在感を失って、祭りもそれと共に次第に影の薄いものになっていった。 | |
Collage - YOSHINO masaki 2002 |
小学5年生(1953年)のころには、街の舗装道路を滑るのは2人か3人になっていた。道は夜でさえ車と自転車がひっきりなしに通るようになって、とてもおちおち滑っていられないのだ。街の雰囲気はすっかり変わってしまった。アットホームな包容力の大きな下町はこれを境に余裕のないせかせかとただ忙しいだけの街になった。この1953年頃を最後に東京は江戸であることを停止したのだ!! | |
| さて、これはご町内シティーランを始めてから3年ほどのことだが、マサドンが西荻の街をいつもの通りシティーランしていたときのことだ。横町のスロープを快調にパラレルターンをしていたら、私に注意してくれた親切な巡査がいた。快適そうだなー?!と言いながら、丁寧に道路がスケート場ではないこと、そして法律でキチンと規制されていることを説明してくれた。そこで、マサドンはタクシードライバーであることを彼に告げた。タクシードライバーには自由になる時間に限りのあること、昼間の僅かな時間を有効に使わないと仕事に差し支えることを説明したのだ。その巡査は、だんだん話に理解を示す態度で、かつて若い頃パトカーのドライバーであったと話してくれた。 | ||
| そこで、マサドンはインラインスケートが自転車やバイクと比べて特に危険なものではないことを力説した。じっさい、毎年、数十万人の死傷者を出している車と比較してみても、生身の身体と人力だけで走行するインラインスケートは極めて安全なものであること。一方、自転車やバイクが原因と思われる事故や死傷者に関する確実な実態は数値化されていないこと。 また、ここが大事なところだが、タクシードライバーの立場から見ても他の交通機関と照らし合わせても全く問題のないこと。あるいは、仮に危険を感受する人がいたとしても、それは見慣れないためであり、その判断は極めて恣意的なものである。これらの事をかなりの時間をかけて述べたのだ。 |
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| 腰を痛めた経験のあるこの元パトカードライバーからの話が出たところで、マサドンは自分の体験からわかるのだが、運転による腰痛には非常によい回復運動であると話したのだ。これは、かなり説得力をもったようだった。こうしてこの巡査とは和気相合とした気分で話を終えたのだった。 | ||
| ……うーん……今はたと気のついたことだが、この巡査のいう規制なるものができたのは、あの下町の騒乱が遠い因果ではないかという考えなんだ。となると、ローラースケートに対する規制は50年以上の歴史があるということになろうか。 | ||
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