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断想 〜回想 2〜

● 1999年 

8.20

自然の脅威というものの自覚がなくなってしまった我々には、
その恵みもまた、本当には得られなくなっているに違いない。
自然の恩恵をなりわいにしている人たちは、
脅威も無情さも、同等に享受していることだろう。

・・・

自然保護の理念、私は好きです。
無用な乱開発、金目当ての密猟、貴重生物の無益な売買などなど、
そんなものは規制するにこしたことはありません。

けれど「自然保護」という言葉、これはひどく嫌いです。
まるで人というものが自然の外にあり、
しかも自然より優位に立ち、
自然を「保護」できるかのような錯覚。
勘違い、思い上がりも甚だしいこと。

悪いけれど、自然を害しているのが人間である以上、
自然保護の最も有効な手段は人類滅亡でしょう。
50億からの人類が存在を消しても、
自然にとってはなんでもないひとつの現象でしかないのです。
でも、大陸ひとつ海に沈めば、
それは人類にとって大きな脅威と存続の危機を招くことになります。

人は自然を保護する立場にあるのではなく、
自然に保護されている・・・いいえ、
人自身、自然の一現象にしかすぎません。
「自然保護」という名前で行われていることは、
自ら掘った巨大な墓穴を、微々たる力で埋めようとしている、
その努力でしかないと知らなければ。

・・・

人は雨を貯めて洪水を回避し、
それを飲料水に変え、発電に利用することが出来る。
それで自然を制服した気分になるのは勝手。
けれど、降り出した雨を止めることはできない。
ひからびた時は雨乞いの他になす術もない。

水が流れてくれば、そのまま流されるしかない。

犠牲になった方々のご冥福と、
生き残った方々の心の回復を祈ると同時に、
「河原のキャンプは危険」
「自然は時として人に牙をむく」
と言った皮相な感想に惑わされることのないように。
人は本質的に自然に沿ってしか命を紡げない、
危うい存在だと思い出さなければ。

 

8.6

富士山を望むほのぼのとした場所にある六地蔵さんの首が、
誰かにすべて切り取られて持ち去られていたそうですね。
ちらりと見たテレビでやっていました。
痛ましいその切断面は、今は地元の方が、
帽子やよだれかけで覆い隠して、
頭部が戻るのを待っているそうです。

誰がそんなことを?と問うのは愚問かもしれません。
頭を切りたい人がいて、地蔵がそれを差し出しただけ。
そうしなければ、現実の人間に危害を加えていたかもしれない。
地蔵は被害にあったかもしれない人と、
その人自身を救ったのでしょう。

それでも、六つの小さなお地蔵さんのお顔を持ったその人は、
いったいどこへ歩いて行ったのでしょうねえ・・・。

そして思うのは、国内の各博物館にちょこなんと納められている、
ガンダーラだの敦煌だの外つ国の石仏たちの頭部。
あれは頭として落ちていたのでも作られたのでもない。
全体を持って帰ることのできない「先進国」の「研究者」たちが、
最も美しい頭部だけをガリガリと削り取って持ち帰った、
それをまた売り買いして最終的にこの国が手に入れた、
そういうもの。

故郷に残された体は、やはり地元の方によって、
帽子やよだれかけで覆われたのでしょうか・・・。

 

7/31

豊かな想像力というものは、
人生を何倍にも楽しいものにしてくれると思う。
閉じこめられた牢獄ですら、
花咲き乱れ、鳥の舞う大地と青空を自分のものにしてくれるから。

けれど、ひとたびそれが「猜疑」というダークサイドに堕ちた時、
どれだけ自分自身を削り苛み痛めつけることか。
醜く歪んだ空想は、
しかもこれほどの真実はあり得ないとまで思わせるほど、
自分自身にとって事実となる。

Aの疑問がBの疑惑を産み、Cの懐疑へと固定するのに、
どうしてたいした時間がかからないのだろう。
何故途中で別の活路を見いだせないのだろう。
最悪の想定へと猛進するこの猜疑心を、
いつも、いつも私は止められない。

体を損ない、最も守るべき大切なものまで失いかけて、
それでも飽きもせず疑い続ける自分を、
もういい加減、脱してしまいたい。
何も想わぬ、何も感じぬ楽な境地へ転がってしまいたい。

けれど反面、この一途さを、愛しくも感じる愚かさよ。
かけらほどの想像力も持たなくなるつまらなさに比べれば、
苦しむ一時も愛嬌とやりすごせるような気がしてくる。
かくてまた、心奥の葛藤が繰り返されるのだろう。
体中の血が搾り取られて枯れるまで。

 

7/20

なにか嫌なことに出くわした時、
他のもののせいにして逃げることのないように。
親のせい子のせい、夫のせい妻のせい、
友達のせい、先生のせい、上司のせい、
会社のせい学校のせい社会のせい・・・

そしてそれ以上に心すべきは、
自分のせいと悩み卑下するふりをして、
歩みを止めることのないように。

・・・逃げや停滞には、幸せを呼ぶ力がないから。

 

7.13

自分が真剣になった時、同等の真剣さで応えてくれる者があること、
それは人にとって、望みうる最高の幸福のひとつに違いない。

愛するだけでなく、慈しむだけでなく、
案ずるだけでなく、ただ見守るだけでもない。
導くのでも育てるのでもなくて・・・。

全霊かけて打ち込む言葉ひとつに、
否定であれ肯定であれ、保留であってすら、
同等の魂の深淵を覗かせた言葉が返される。
それはかつて知ることのなかった、
神々しいまでの幸せ、孤独の癒し。

 

6.25

今日の朝日新聞の夕刊で、
「楽しいと思うこと」に関する記事を、
偶然にもふたつ見つけました。

ひとつは、
子供たちの間で一世を風靡した「セーラームーン」の演出家、
幾原邦彦さんのインタビュー記事で、
今の時代に欠けているのは「楽しい未来を想像する力」だ、
というもの。
これがないと未来への行動が起こせないとありました。

もうひとつは、
水泳の千葉すずさんのカムバックに関する記事。
競技の一線から退いていた間、
アメリカで様々な人に水泳を教える経験を通して、
初めて水泳を楽しむ境地を知ったのだそうです。
それが今回の日本新をマークする鮮やかな復帰の下地になったようです。

世の中では、忍耐や苦労、辛抱などを美徳として、
楽しいことはなんとなく堕落のように感じがちな気がします。
いかに苦労して生きてきたかを自慢する人は多くても、
いかに楽しく生きてきたかを語る人は少ないです。

でも確かに、それでは大人も子供も、
ただでさえ先の見えない明日へ向けて、
どうやって生きる力を持てばよいのか、
わからなくなってしまいます。

自分を振り返ってみれば、
嫌なことに立ち向かう時のマイナスのパワーもそこそこありますが、
楽しいことをする時のプラスのパワーのほうが、
そういえば遙かに強力で無限大ですものねえ・・・(笑)。

ということで、そうか、楽しいという気持ちは、
隠さず遠慮なく堪能していいのだな、と思った次第です。
お先真っ暗な時は、とりあえず楽しいことを見いだして、
当面生きる力を補充するって手もありなんですね。

 

6.23

努力と根性で、
自分の運命を切り開こうとする人は、
逞しくて素敵だけれど、
与えられた運命を、
にこやかに笑って受け止められる人は、
本当はもっとしなやかに強いのかもしれない。

天の与えたものはとても重いはずなのに、
穏やかで素直な笑い声に、
救われたのは私のほうだった。

 

4.29

気がつくと泣いていた。
窓の薄暮が切なかったから。
波風たてずに暮らしてきても、
思い出せば涙の出ること、
一つやふたつはあったから。

 

4.26

雨に降り込められて、
珍しく眠れない真夜中のベットで、
あり得ないことに、
30年前の花畑の匂いを嗅いだ。

陽を浴びて香り立つ花々の蜜の芳香。
限りなく光色に拡がる背丈いっぱいのさざめき。

けれどその溢れんばかりの幸せな香りは、
嗅いだと知覚した瞬間に、
既に二度目の記憶へと消えた。

そして思う。
30という数字を年数として、
我が手に包めるようになったのだと。

 

4.17

縄文時代の開始が一気に4500年遡るという発見がなされましたね。
ちょっと前の富本銭といい、教科書の書き換えが続きます(^^)
思えば高校までの授業で教わる歴史、特に古代史などは、そのほとんどがいわゆる「定説」であって、決してはっきり解明されている「事実」ではないのだと、大学に入ってはじめて知りましたっけ。
大学の史学科では、既に解明されている事実を一層詳しく教えてもらえるのだと、当然のように思っていた私に、
「歴史学は通説を疑うことから始まる」
と教えてくれたのは、どの先生でしたか(^^;、新発見が報道されるたびに懐かしく思い出します。
・・・そのせいで、人の言うことはとりあえず疑ってみるという、迷惑な性格になったような気もしますが(笑)。

 

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