「邪まな者は退くがよい」
観る者を包み込む眼差し、その心中を見つめる瞳を持つ仏像は数多あれど、この広目天の視線には、それに触れようとする者を横へはねのけて顧みない強靱な独特の力を感じる。
時や次元、そんな抽象的な物では一切ない、確かにそこにあるはずの何かをじっと見つめている眼、喩えれば、遼々たる草原の彼方に雪を頂いた山脈の姿を探すかの様な、実に実に遠い目だ。
けれど草原は遙かに広く、探す山の白さは永遠に遠いので、いつの間にか時を、空間を、ひたと見つめざるを得なくなった・・・広目天の、眼を細め眉を寄せた表情からは、そんなことを感じる。
この人の目には、きっと地球は丸くない、あくまでも、どこまでも平らなのだ、見つめ続ける限り。仏像と向かい合ったとき、水平な広がりを感じるのは、この広目天のみかもしれない。
邪な者は退くがよい・・・けれどいつかあなたの視線に入り込むことが出来ますか?
瞳に黒曜石をはめ込まれた等身大のこの像は、仏法の守護神として甲冑を着込み、邪鬼の上に静かに乗っています。下ろした右手に筆を、肘から折った左手には巻物を持って、広目天である証をたてています。ただしこの両手首から先と持ち物は明治時代の後補。
同じ様に目を細めて静かな表情で佇むのは、右手に高く塔を捧げ持つ多聞天。表情は似ているのに、どうしてかこちらはただの不機嫌なおぢさん然としています(爆)。他の二体、持国天と増長天は、まん丸く見開いた目を憤らせています。
この仏像たちが安置されている戒壇院は、東大寺境内の西の端。院とは寺内のある地域のことを言うので、正確には戒壇堂に安置されているということになるようです。でも、一般的には戒壇院の四天王像と呼ばれています。
ここは修学旅行生や団体さんでごったがえしている大仏殿周辺と異なり、いつ訪ねても人気が少なくシンと静まり返った気持ちのよい寺域です。それでもいつだったか数十人の団体さんとはち合わせたことがありました。「しまった、時間をずらそうか・・・」、しかし、その懸念は全くの杞憂、ここまで来る方々は、団体さんでも特に仏像などかお好きな方々のようで、狭い堂内に数十人が入っているにもかかわらず、声一つしません。皆真剣に仏像と対峙しているのです。これにはちょっと感動しました。しかも中にはなんどもなんども四体をまわる方、私以上にしっかりと広目天に張り付いて離れない方などもいて、なんだか嬉しい気持ちになりました(=^^=)。
仏像、ただ見るだけではその魅力は半分伝わればいいところ。せいぜい美術作品としての魅力を感じる程度でしょう、それだってすごいことではありますが。やはり対話が出来てはじめて、その魅力の全容に近づけるのでは?と思っています。美術作品としての完成度の高さは、その対話をさまたげないための最低条件、あるいはその入口みたいなものなのかもしれません。形のどこかに破綻があると、気がそがれて集中できないという経験を幾度もしていますから。
私が気に入った仏像の前で立ち止まり、動かなくなり、そしてやがては何度も訪れることとなるのは、美しいもの、好きなものを見ることの果てに、どれだけ充実した対話が出来るか、それを確かめたいからなのです。それは旅でも人でも同じこと。
そうそう、10年ほど以前までは、須弥壇上に上がって、ほぼ等身大のこの四天王像と同じ目線で鑑賞できたはずです。何を見つめて1300年近い年月を越えてきたのか、ほんのわずか知ることが出来たようで嬉しかったのを覚えています。
その後、いたずらをする人が出てきたためか、壇上には上がれなくなり、四隅に警報装置のセンサーがつけられてしまいました、切ないことです。・・・今もそのままなのでしょうか・・・。
<解説>
東大寺戒壇院四天王立像のうち、広目天像
所蔵 東大寺戒壇堂
740年頃作
塑造(塑土、いわゆる粘土を使ったもの。わら縄などを巻き付けた心木に粘土を何層か重ねてつけて造形し、乾燥させる。細かい造形がしやすい代わりに、重く、崩れやすいなどの欠点もあったため、天平時代に流行したあとは廃れてしまった)
なお戒壇院とは、天平時代に渡来した有名な唐僧鑑真が、大仏殿前で聖武天皇(その頃は既に上皇)らに戒律を授けた時の式場と言える戒壇を、翌年現在地に移転したもの。当時作られた戒壇は、他に下野の薬師寺、筑前の観世音寺にあり、東大寺のものとあわせて三戒壇と呼ばれている。戒律を重んじていた当時、受戒の場である戒壇は、とても重要な意味を持っていた。
ちなみに東大寺の戒壇院、こじんまりとした堂内の中央には、不釣り合いなほどの面積を占めて基壇が設けられています。これが戒壇だと思うのですが、実はよく知らないです(^^;。壇の中央には多宝塔と愛染明王、鑑真和上像が安置され、その四隅に四天王像が安置されています。
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