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とっておきの仏像たち

ここでは私の好きな仏像を、勝手に解釈して感想を述べています。
こんなことを考えながら観賞しているのよう!といった内容です。
所在地、及び辞書的な説明は、<解説>の項を見て下さいね!
とっておきの仏像たち・在庫はこちらからどうぞ

更新記録 2000.12.3 唐招提寺トルソー 2000.11.24 石位寺三尊石仏 1998.11.15 円成寺大日如来座像 蟹満寺釈迦如来座像 それ以前のもの

唐招提寺トルソー

 

大好きなものたち「ミレニアム奈良」付属2

「我がまとうは虚しさと完全なる充足。
この驕れる誇りを記憶せよ」

首周りを残して顔がない。
右首筋から後頭部にあたる部分に、裂けた木が空へと鋭角に突き出ているだけ。

両の手の先がない。
右手はひじから切断され、骨を抜き去った如き穴があく。
左は手首が階段状に割りとられている。

足先もまたない。
向こうずねから削り落とされ、あまりに無雑作に台上に置かれてある。

表情をあらわす総ての部分を失った、もはや廃品−−それが正確なこの像の描写だろう。
しかし、遺された体部は薄衣をふくらませてふくよかに呼吸し、そのまますべる様に裾へとすぼまる立ち姿はほのほのと揺れ、今まさに高貴な香りが燻りたつではないか。

これは、貴人の残留思念。

田を耕し魚貝を漁る(すなどる)者たちとは言葉すら通じなかったと言われる時代の、その中でもとりわけて誇り高き貴女(あてびと)の残影。
栄華を誇った貴族の婦人が、今もなお、その誉れを信じてこの地を歩いているのだ。

従うはずの供も消え、きらびやかな装具は褪せ、華やいだ裙裳は破れ、
その腕は失われ、踏み出す足は朽ち、
美しく装った顔すら既に毀(こぼ)たれてこの世に無いというのに、
気づくことを拒否している。
己を信じ、栄耀栄華を疑わず歩いている。
凛としていつまでもまっすぐに、涼やかに。
おそらく像が朽ち果て完全に風に帰るまで。

遠き人がこの世に遺した想いは、しかしその冒しがたいまでの驕栄ゆえに、馥郁と歩み続けて人をひれ伏させずにはおかない。

なぜ、これが仏なのだろう・・・。

祈りを発する前に、匂いやかに眼前をすり抜けて歩み去る姿に、決して我が手の届かぬ古(いにしえ)の誇りを見た。

 * * * 

榧(かや)製一木作りのこの破れ仏を、最初に「トルソー(イタリア語で首および四肢を欠く胴体だけの彫像。広辞苑より)」と呼んだのは誰だろう。ためしに古寺巡礼(和辻哲郎)、大和路・信濃路(堀辰雄)、大和古寺風物誌(亀井勝一郎)、大和古寺巡歴(町田甲一)など手元にある有名どころを探してみた。戦前に書かれた前三著にはトルソーという名称のみならず、この像そのものについて語られてはいない。講堂諸像の中では、ミレニアム奈良に書いた、現在新宝蔵に展示されている仏頭のほうが注目をあびていたようだ。西洋傾倒を感じさせる名称から明治時代くらいまで遡るのかと思っていたが、そうでもないのかもしれない。

平成元年に西の京を追加して講談社学術文庫から出た町田氏の著書に、
「もと、この講堂にならべられていた諸像・・・その中でも特に多くの人の注目を惹いていたのは・・・頭部と両腕を失っている如来形像とよばれている一木彫成像のトルソである」
とあるけれど、この著書が初出とするには新しすぎる気がする・・・ご存知の方、教えて頂けるとありがたい。

とにかく、西洋主義のその名称から予想されるのとは異なり、私には古き時代の豪華な誇りそのものに見えた。もしかしたらこの像を寄進した貴人のそれかもしれない。誇ることでしか存在を許されなかった栄華の極みを、その充足感、そして相反する虚しさとともに、今に伝えているかのようだった。

技法としては後頭部と背面に内刳りを施した榧の一木彫り。
天平時代に頂点に達した写実主義を止揚し、デフォルメの中に芸術的表現を追究した作品だと、上記町田氏の著書では述べられる。
時代は和様化の始まった9世紀頃と、これは寺で購入した「天平の甍 唐招提寺」に書かれていた。
もと講堂に安置され、一時新宝蔵に移され、金堂の修復中の現在また講堂に戻されている。金堂修復が成った暁にはまた新宝蔵へ戻されるのだろうか、できれば講堂内で息づく姿を見て欲しいと思う。


<解説>

唐招提寺 トルソー

近鉄西の京駅より徒歩7分。
9世紀頃の作
榧製一木彫成像

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石位寺三尊石仏

 

大好きなものたち「ミレニアム奈良」付属1

ごめんなさい、あなたの声が未だ聴けない。
あなたの姿がまだ見えない。

かそけき彫り跡に見えたのは、やわらかな優しさと、
あなたの刻まれた石の肌の温かさだけ。

それでもあなたを好きだと言っていいのでしょうか。

必死であなたを見ようと焦る私にあなたが見せてくれたものは、
一瞬の境界の消滅、あなたに包まれる私の姿。

それからあなたが微笑みながら眺めていた、長い間の私たちの風景。

あなた自身の姿は、まどろみの中に隠してしまわれた。

もういちど、来ます。
必ず、あなたの姿を覚えに来ます。

 * * * 

どうしたことだろう、石という確たる素材に刻まれて、舐めんばかりの目前にありながら、この三尊石仏はゆらゆらと視界から逸れていつまでも姿が定まらない。見据えたくて目を凝らすうちに、やがてそのやわらかき灰色の肌が、私の両の耳元に温もりとともに展開しているのに気づく。見ているつもりが包み込まれていた。

瞬間、私と石仏の境界が消えた気がした。

だがすべてはまどろみの中。定かと言い切ることはできない。否、まどろみこそが、この石仏の持つ温かき非現実に最も近しいものかもしれない。

およそ石仏とは、町中だの山道だのに佇み、人々の生の祈りをせっせと叶えて暇がないもの。断ち切れずに寄せ来るおびただしい煩悩をまとって祈り続けているのが常。
けれどこの小さな御寺のおにぎり三尊は、もう何百年もの過去に人の願望を昇華する役目を果たし終え、以来まどろみの中でひたすら優しさを以て己が身を彫り続けていたかのよう。

もはや存在するかどうかも問題にならない程、かろやかでほのかな笑みをまとって小高いこの御堂から世の中を眺めおろす御姿は、春日をとらえて香り豊かに吹き過ぎる花の風にも似て・・・。

彼の三尊のまどろみにうずもれて、永遠の無為をさまよいたい誘惑に、ただ石という物質の持つ手触りだけが目覚めを促すのかもしれない。

 * * * 

砂岩で出来た一辺一メートルを越えるほどの巨大な三角おにぎりの中に、左右に合掌する菩薩立像を従え、中央に天蓋と光背を伴って台状のものに倚座する如来形が浮き彫りされたこの石仏は、白鳳時代のもの。セン仏や押し出し仏でよく見る図柄の半肉彫りの三尊像です。
伝えでは薬師三尊だそうですが、中肉中背でバランスのよい中尊は薬壺を持たずに両手を重ねています(親指を合わせない定印?)。
兵庫県の古法華寺のものと並んで日本最古の石仏だそうで、額田王の念持仏だったという伝えもあります。

初めてこのお寺に来てこの石仏の前の扉が開かれた時、たいして期待もしていなかった私はまさにアッと息を呑みました。巨大おにぎりというその形、石仏というその質感、しかしそこに刻まれているのはそれらに相反するような正統派の端正な白鳳仏の姿。
石で夢違観音が彫れますか?おにぎりの中に山田寺仏頭を入れますか? そんな疑問に躊躇なく「はい」と答えて更に彼らよりも突き抜けた高貴さを漂わせる三尊像。
自分の持っていた「石仏は素朴、金銅仏は重厚」というありきたりの観念が、パリンと砕けて散るのを感じました。

それから再び逢えるまでに10年以上かかりました。二度目の邂逅はミレニアム奈良に書いたように予想外のものでしたが(笑)、最初に受けた感動が薄れるものではありません。
更に新たに千数百年前の石のレリーフなのに風化による経年変化を感じさせないことに気づきました。大切に大切に、伝えられてきたのでしょうね。
各像の足許を見て下さい、ぺたんと立っている足がふうわりと優しいです。
中尊の頬に宿るほのかな影も愛おしく、よく見ると口元と、向かって右脇侍の裳すそや下部のぴらぴらした装飾部分に朱があっけらかんと残っています。
面白いのは向かって左の脇侍の足許に水瓶らしきものが置いてあること、それがおじぎをしながらぴょこぴょこついて歩いているように見えること(笑)。

すべて、あるべきものがあるべき所にある姿です。
これ以上高貴な仏像は知りません。
同時にこれほど素朴で親しみやすいものも知りません。
そんな不思議な魅力をそなえた三尊です。

このお寺からは、長野の松代の清水寺(せいすいじ)さんへ、かつて観音像が贈られたそうで、10年前にそれを聞いて松代まで会いにいったことがあります。・・・無明にも、その時の記憶がほとんどないのですが、畑の続く中のごくさりげないお寺だったことだけは覚えています。

今回訪ねた折りのカギ当番のご主人が、大祖父さんから聞いた話として、白布でぐるぐる巻きにされた観音さまが大八車に乗せられて長野に旅だったのだ、と教えて下さいました。
何故長野へ?との問いに、ご主人は言いにくげに「村がお金に困っていた・・・ということはないとは思うけれど・・・」と、言葉を濁しながら教えて下さいました。

まさか奈良から長野までずっと大八車ということはないでしょうし、お金のからむことであったとしても何かわけがあったのでしょうから、調べればいろいろわかりそうな気がします。
けれど、村のため、白布で巻かれて大八車で長野へ売られて行った観音さまのお話、そのまま信じていたい気持ちになりました。

残された三尊石仏のほうは、高みに位置するこの御堂から、人間の賢さもおろかさも、同じ笑みで眺めおろして倦むことがありません。きっと、白布に巻かれた同僚の姿も、その眼に優しく記憶されているのでしょうね・・・。

それにしても、見る者の煩悩を払拭するのが仏像のひとつの役目だとしたら、この三尊像は最もそれに適しています。あまり人も訪れない山間で、村人に守られてただそこにある姿は、ごく自然で迷いも無理も無駄もなく、それがかえって人を驚愕させます。
おすすめの一体(^^)。


<解説>

石位寺三尊石仏

JR・近鉄桜井駅よりバスで忍阪まで15分、下車後徒歩5分。
白鳳時代作
大陸渡来かと謂われる青灰色砂岩質、高さ1.15m、幅1.5mの材に刻まれほぼ3pの厚肉彫り・・」(以上、パンフレットより)

☆拝観には申し込みが必要。連絡先は境内にも記載されているが、桜井市観光協会(電話07444−2−9111・桜井市役所内)に問い合わせて管理人さん(四軒が月交替で管理)を聞いておくとよい。

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円成寺大日如来座像 

 

大好きなものたち「奈良記」付属2

かけらほどの迷いもない精神・・・
最初にこの大日如来を見た時思った。

自然で肩の力の抜けた、やわらかな体躯。
それと相対するかのように、
一つの信に迷わぬ、確乎たる意志を秘めた強い容(かんばせ)。
若き一瞬の、信じる心の強さが陶然と現れた、涼しく美しい風貌。

「我が前にあるは一条の光。
決して拡散することなき月色の光。
照らすは惑いなき道。
正しき唯一の狭間よ」

高さ約一メートルの、ほどよい細身の座像、左手の人差し指を右手で包むように握る、智拳印という印を結ぶこの像は、密教における最高の根本仏、金剛界大日如来だ。大日が、如来でありながら髪を結い上げ宝冠や瓔珞などの宝飾品をつけるのは、この世の主、王の風格を表現しているかららしい。でも、ここの像から感じるのはむしろ清潔な若い香気。宝飾のすべては体に一体化し、決して自分を主張しすぎない。

台座の一部から出た墨書銘によって、本像は鎌倉初期に活躍した有名な運慶の、うんと若い時代の作とわかった。源平の争乱直前の二十代の頃の作、現存最古の運慶作品・・・それよりも、この銘自体が運慶の署名で、制作者が作品に署名する日本最古の例なのだそうだ。これは私にとってとても重要なこと。

仏像でも、自分がとてもいいと思えるもののほとんどは奈良時代以前の作。それが何故か考えていて、ふと到達したある仮説。
「無名性」
そう、奈良時代以前の作品は、願主の名は残ったとしても、像を彫った者の名は消えている。時に造仏所の一員としてとか、たまたま記録されて、とか、そんな形で特定できることはあっても、自分の作であることを敢えて主張したりはしなかった。
それが平安時代に入ると仏師の中でも円派だの院派だのという派閥ができて、作風の違いを競ったりしはじめる。
そして運慶に至ってはじめて「私の作です」と署名をしたというのだ。(もちろんわかっているものでは、という意味)。

「ほとけ」が人智を越えたものである以上、それを表現する仏像に、何故「私が作った」と主張できようか。現代のある仏師が「木の中に既に仏がいる。それを掘り出すのが仏師である私。私が木から仏を作るわけではない」というようなことを書いていた。彫れぬ私でも、それが真実ではあるまいかと思う。
それなら作者名はほとけである。
奈良時代以前の作品は、はからずもこのことを実行していた。「無名性」こそが仏像の真実。
そして作風とは、ほとけが人の手を通して自らを刻ませる時、その人の精神が癖となって現れたもの。最初に作風があってそれを踏襲したり違えたりするものではない。

・・・と、そんな愚にも着かぬことを時々考えるのだが(^^;・・・。

のちに写実主義で名を馳せることになる運慶は、この大日像にはじめて「私が作った」と署名を入れたというのだ。新進気鋭時代の覚悟、誇り、高揚する精神・・・それらは、まさにこの像の作風となって、像に息づく命を与えている。
少年から青年に変わる一時期、己の正しいと信じたことを、無心、純粋に正しいと信じて疑わずにいられるほんの一時期・・・誰もが経験して、大方が記憶の闇に消失させてしまったあの時の、忘れられない姿なのだと思う、この大日は。


<解説>

円成寺大日如来座像

奈良市街から柳生行きバス約40分、忍辱山下車すぐ。
運慶作・安元二年完成(1176年)
木造・檜の寄せ木作り
玉眼使用の最古の一例

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蟹満寺釈迦如来座像 

 

大好きなものたち「奈良記」付属1

人気の少ない無人駅に降り立ち、板塀、土壁の家々の間を小さな立て札のみ追って訪ね訪ね歩くこと20分。民家とさほど変わらぬ佇まいでポンと視界に現れるのが蟹満寺。玉砂利のこざっぱりした境内の正面に、小さな本堂がある。庫裡にお願いすると300円だったかの拝観料で、本堂内に入れて頂ける。正面石段上で靴を脱ぎ、左へまわって小さな障子戸から中へ入る。お寺の方は、「戸は閉めておいて下さいね」とだけ言い残して庫裡へ戻られた。そのまま一気に仏と私だけの空間となる。

数えてはこなかったけれど、感覚としてはわずか10畳ほどの部屋に、丈六(座高で2メートル半くらい)の金銅座像が無雑作に置かれている。真言宗の寺であるが、鎮壇具なども簡素なのもので、正面は勿論、左右からも手を伸ばしてペンペンと叩ける位置にある。つまり仏像と接するのにこれほど好ましい空間は他にないのだ、私にとって。しかも人はいない。らっきー。

尊顔は写真で見るより遙かに柔和で、無駄な力の抜けた体部にずしんと乗っている。その巨大な面部から胸までの、触れればボヨンと弾まんばかりの豊かな張りに比して、すらりとすぼまったウエストから結跏趺坐する脚部へかけては薄墨の流れのように静かで、むしろ西域の仏像たちのさりげなさを思わせる。

肘を折って胸前へあげた大筒の如き右腕の先には、親指と人差し指で輪を作り、残る三指を粘るように反り返らせて外向きに開く掌。
対して膝上に置かれた左手は、優しく暖かく、卵でも包み持つかの様に上向きに差し出される。殊にその中指の柔らかさは人の心を妙に捉えて離さない。

五指の間の水掻きがよく目立つこの像の結ぶ印は、変形の施無畏・与願印。通常の両の手のひらをただ外向きに開くものと異なり、右手が輪を作っているからだそうだ。この像に特徴的なものらしい。

そうしてその顔を眺めやれば、まずは首にしっかりとした三道、顎には半月弧の二重顎ラインがくっきりと刻みつけられている。無垢な赤子の如き唇はリップラインで隈取られ、喜怒哀楽の一切を阻む。苦虫をかみつぶした様に見える表情は、唇そのものではなく、その両角に寄せられたわずかな縦皺のせいだろう、飛鳥の安居院の釈迦如来を思い出した。あれの口元は後補だと言うけれど。
ちなみに鼻の穴は無い。
そして瞳。開くとも閉じるとも見えない眼は泣き袋が微妙に効いて、そのまま耳まで切れ込むかと思わせる長い目尻を自然なものに見せている。

じっと眺めていると目の輪郭がまろまろと溶け始める。無い鼻の穴から吐息が聞こえる。
・・・ああ、解った、眠っているのだ。思い切り無防備に。

「千の時は眠るが如し。
薄明をたゆとう午睡の夢に同じ」

朧に霞む時の間を、ゆらゆらとただ眠り来た。未だその存在の長き最初の一歩を記しただけ。これから己が身の在り続けるだろう果てしなき暗き時の予感の前で、千年がどれ程の意味を持つと言うのか。
八世紀に作られたというこの像は、まだ生まれたての眠りから覚めていないのだった。

* * *

この像には螺髪(髪のぶつぶつ)と白毫(眉間の水晶玉)がありません。お寺で買った「蟹満寺録」によれば、より人間に近くという意図で最初からそう作られたとか。・・・でも、ちょっと疑問(笑)。
右膝には10円玉くらいの穴が穿たれています。見れば金銅製には思えない。まるで大理石のようです。顔面にも、その他体躯にも、巨像なのに一気に鋳造されたために出来たという鋳損ない部分の補修跡が見られます。
衣の表現が極めて薄く、両肩と右脇腹の部分でそのひだがツルリと消えているのも印象的です。
なにより置かれている須弥壇が小さすぎて頭がつきそうなのが可哀想。仏像と同じ視線でよく見ると、梁が邪魔で目隠し状態になっちゃってるのがわかるでしょう(笑)。

パッと見、東大寺三月堂の不空羂索観音にその表情が似ていると思ったのは、四角い顎の線、高く反った眉稜と細い目、無愛想なとんがり口などが似ているためでしょうか。

・・・えー、実は、「千の時は眠るが如し」なんてかっこよく書いてみましたが、授業中に机に突っ伏してスカスカ気持ちよく寝てしまい、とりあえずボーッと起きてみたものの、顔がすっかりむくんで腕や教科書の跡が赤くついちゃった人、てのを連想したのですぅー(=^^=)。わははー。だって本当に気持ちよさそうに寝ている顔なのだものー。


<解説>

蟹満寺釈迦如来座像

JR奈良線棚倉駅から徒歩20分、または近鉄三山木駅からタクシー10分の、蟹満寺所蔵
天平時代作(8世紀)・・・ただし、白鳳時代作との説もあり、結論が出ていない。また当初からこの寺にあったものか、付近の大寺からの移座かなど、不明な点が多い。
金銅製

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