私と科学教育史
                 −あとがきにかえて−


                       
  私は1948年4月から1989年3月まで41年間, ほとんど埼玉県浦和市内の中学校・高等学校の理科・化学の教師として勤めていた。1989年3月埼玉県立浦和高等学校を最後に,定年退職した後も同校で8年間特別講師・非常勤講師として化学を教えていた。そういう人間がどのようにして科学史と関わって来たか,そのことを書いておこうと思う。
 私は教師になって,直ぐ実験室と無縁になった化学屋は,科学史を研究す
しかない,と独りで決めていたこともあって,随分前から科学史に関心を持
っていたことは確かである。そして,それはだんだん理科教育史・化学教育
史とテーマを明確にしていったのだと思う。
 科学史に関する小さな論文は,東京理科大学の二部化学科に編入学したばかりの3年のとき,竹田政民教授の「高分子化学」のレポートとして,ベー
クライトの発明者「ベークランド」の伝記を書いたことがある。この原稿は
後に中学のクラス会誌(『合成会報』創刊号)に掲載された記憶があるが,
今手元にないのではっきりはしない。
 理科教育の歴史に関する仕事として, 最初にタッチしたのは,1958年10月
に『理科教室』が創刊されたとき, 編集委員となり, 「理科教育の回顧」欄
の担当者として, 執筆者・テーマの選定・原稿依頼などに当たったときであ
る。もちろん, 編集者・科学教育史の先輩である芳賀 穣さんたちの指導を
受けながらであるが, この仕事を何とかこなすことができるだけの勉強はそ
れまでにしていたのだろう。しかし, 原稿として書いたものは,最初の頃は
科学教育研究協議会(以下,科教教と略す)の研究運動史, つまり自分たち
の研究運動史に限られていた様である。そのものとして, 次のものがある。
  ・戦後化学教育の歩みと現状『理科教室』W-8(8月)
  ・化学教育研究十年のあゆみ『理科教室』Z-8(8月)

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  科学教育史の研究を本格的に始められる様になったのは, 私が1963年4月に埼玉県立工業高等学校に転任し,1966年・67年と毎週火曜日に, 研修で東京工業大学の田中 實研究室に行く, 時間的余裕を得る条件を獲得してからである。
  週16時間の授業時間は変わらずに, 毎週火曜日に大学へ通うのは, 楽しみでもあるが, 時間的にはたいへん忙しい生活であった。そして東京工業大学だからということもあって始めたのが, 「永海佐一郎と化学教育」の研究で
あった。永海佐一郎は私が東京工業大学附属工業専門部に在学中は, 教授在任中だったので, 姿は見たことはあるが,直接話したことは無かった。もっ
とも, 私たちの無機化学の講義は永海の従兄弟で, 弟子であった三島長太郎
から受けており, かれは正に小永海であったから, 何となくその伝説的な話
は耳に入っていた。
  しかし, 工大だからといって,その図書館に永海関係の文献が何でもある
かと云えばそういうことはない。そこで当時, 国立教育研究所(以下,国研
と略す)にいた板倉聖宣さんを頼って, 国研の図書館を大いに利用させても
らった。永海佐一郎の化学教科書などは, すべて国研の図書館のご厄介になった。それに板倉さん個人の蔵書も大いに利用させてもらった。朝, バスで
目黒駅から国研ヘ寄り, そこからまたバスで大岡山小学校へ,長い距離歩い
て工大へというコースを何度使ったことか。もちろん, 東京工大の図書館で
も, 書庫の4層・5層という上の部分には古い本があるので,科学史・科学
教育史の宝庫であった。私はここで永海の「定性分析法創案」を載せた『東
京工業大学学報』1の山積みを発見した。
   そうして取り敢えず, まとめたのが本書「X 永海佐一郎と化学教育」の
「1.永海佐一郎研究ノート」である。 この小論は, 田中實先生の「はじ
めに」をつけ連名で, 『科学史集刊』に掲載されたものである。
  ・田中實・三井澄雄「永海佐一郎研究ノート−日本理科教育史のために−」
   『科学史集刊』4(東京工業大学科学史・技術史談話会,1966年7月)
  田中研究室に通っていた2年間は専ら永海佐一郎の研究に当たった。X章の「2.『(推理)中学化学教科書』の特徴」は, 1966年8月,科教教第13回
大会の問題別分科会「第1分科会 理科教育の目標・歴史」で報告したもの
であり, 『理科教室』に掲載された。
  ・「(推理)中学教科書』について」『理科教室』\-11(国土社, 1966年11月)
なお, 同上誌に載っている分科会のまとめによると, 報告の後の討論の中
で, 「現在の中学校の教科書では, 化学方程式から数量的な意味が完全に取りさられており, 色々な現象についての断片的知識が述べられているにすぎない。したがって, 永海佐一郎が指摘した欠陥は, 多くがそのまま残されて
おり, それが克服のために提案されたいくつかの方法も正しく評価され, 現
在に受けつがれ, 発展されていない」ことなどが明らかにされたとある。
  1967年もさらに「永海佐一郎と化学教育」の研究を進め,それをまとめた
のが「3.永海佐一郎と化学教科書」である。
  ・「永海佐一郎と化学教科書」『(東京工大)科学史集刊』5(東京工業
  大学科学史・技術史談話会,1967年12月)
  この論文では多くの人に会って聞き取り調査をした。週一回の研修日では中々うまくいかず,夏休みに集中して面談をした。前東北大学教授の加藤多喜雄先生には,草加の薬品会社に出張されたとき,ご無理を言って会っていただいたりした。その他,明治書院の鈴木覚一・坂本郵次両氏には,お話を聞かせていただいたり,資料を提供していただいたり大変お世話になった。
  なお,この論文を執筆していた当時は,「五種選定」の教科書がわかって
いなかったが,その後『理科教育資料 2 理科教科書史』の編集に際して,
私が官報から拾いだして明らかにしたので,その点を補足しておいた。

                     
  1968年3月で田中實先生は東京工大を定年退官することになっていた。そして定年後の職場として,和光大学に短期大学部がつくられる予定なのでその教授になることが内定されていた。1967年の夏休みごろに, 私にも短期大学部の「理科教材研究」の助教授として一緒に行かないかと言う話が持ち上がった。しかし, この話は結局和光大学に短期大学部ができなかったので御破算になったのだが, そのときの文部省の教授資格審査で, 私は教養の「化学」助教授可, 小学校の「理科教材研究」は助教授不可で, 講師可, 幼稚園の「自然」は不可ということになった。「理科教材研究」と「自然」は論文
に, 小学校理科や幼稚園自然に関するものがゼロなのだから, よくぞ「理科
教材研究」が講師可になったということで, 私としては満足だった。何しろ
一緒に審査に出した家庭科の講師予定者は, 横浜国立大学の現職の講師だったが不可になっていたからである。
  しかし,このあと中学校理科に限らず,小学校理科のことも, 機会があれ
ば遠慮しないで, 積極的に論文を執筆するようにしたのは, このことがあっ
たからであろう。次のような論文を執筆したのも,そのようなことの関連か
らだったのだろう。
  ・ソビエトの理科教育T−ソビエト初等学校の理科教育−『理科の教育』
    1968年1月号
  ・ソビエトの理科教育U−ソビエト中等学校の理科教育−『理科の教育』
    1968年2月号
  ・「自然科学諸分野の教育内容・物理学」「同・化学」『現代教育研究
   8 教科内容の構造』日本標準,1969年5月
  そしてまた,T章の「幼稚園〈自然〉指導の歴史」も, 依頼原稿ではある
が積極的に執筆を引き受けてまとめたものである。次の論文がそれである。
  ・「幼稚園における〈自然〉指導の歴史(1)-「博物理解」から「観察」まで-」
   『理科教室』(国土社, 1969年11月)
  ・「幼稚園における〈自然〉指導の歴史(2)-「観察」のころ-」『理科教室』
   (国土社,1970年2月号)
  幼稚園教育の歴史について,全然の無知なのだから,先ず文献を集めて勉強することから始めた。1969年7月現在で手に入れた文献は次のようなものだった。               
 倉橋惣三・新庄よし子共著『日本幼稚園史』フレーベル館,昭31再版。
 上 笙一郎・山崎朋子『日本の幼稚園』理論社, 1965年。
 津守真・久保いと・本田和子『幼稚園の歴史』厚生閣, 昭34。
 日本保育学会著『日本幼児保育史 第一巻』フレーベル館, 昭43。
 日本保育学会著『日本幼児保育史 第二巻』フレーベル館, 昭43。
 日本保育学会著『日本幼児保育史 第三巻』フレーベル館, 昭44。
  これらの文献を読んでも,「自然」指導の実際は中々つかめない。やはり,
当時の雑誌を見なければと思い, 『婦人と子ども』『幼児の教育』の出版社
フレーベル館に問い合わせたが, 保存されていない。しかし, お茶の水大学
図書館にあることがわかる。夏休みになって, 紹介状もなしにお茶の水大学
図書館に行って見せてもらうことを頼む。工業高校の先生が何故幼稚園のこ
とを調べるのか聞かれたが,幼稚園から大学迄の理科教育の歴史を勉強しているのだと言って許可してもらう。しかし, 今と違って当時はまだコピーが
普及していない時代だったので, 文献の引用個所は皆筆記しなければならな
い。大変な努力であった。それでも, 4日間ぐらい通って書庫内の閲覧室で
雑誌を調べた。
  論文は2回連載で完成したのだが,2回目は3カ月後の2月号に漸く間に
合わせた状況であった。それでも,その間に当時東京女高師附属幼稚園で,「観察」の指導に中心的に当たられていた清水光子さん(音羽幼稚園園長)
にお会いして「観察」のころの思い出話をきかせていただき,論文の内容を
ふくらませることができた。なお,『観察の実際』は執筆当時は, 現物を見
ていなかったが, その後手に入れたので, 今回「文献と注」のところで, 若
干補足しておいた。

                     
  「W 亀高徳平と化学教育」に載せた論文は,全て『埼玉県立浦和工業高
等学校紀要』に載せた,次の論文である。
  ・亀高徳平研究ノート(1)−亀高徳平と有機化学の研究−『埼玉県立浦和 工業高等学校紀要』1(1970年1月)
  ・亀高徳平研究ノート(2)−亀高徳平の4編の化学教育研究論文−『埼玉 県立浦和工業高等学校紀要』2(1970年12月)
  ・亀高徳平研究ノート(3)−亀高徳平著作目録−『埼玉県立浦和工業高等 学校紀要』4(1974年3月)
   「亀高徳平と化学教育」の研究は,東京工大に通っていた第二年目の1967年度から始めたようである。それは『東京科学博物館附属図書館所蔵 亀高文庫目録』(東京科学博物館, 昭11年5月)を科学博物館の井上さんから頂いた日付が1967年5月31日とあるからである。それも科学博物館に通いだした何回目かに頂いたものだと思うからである。もっとも,明治・大正・昭和を通じ, 中等化学教科書で最も普及した教科書の著者は亀高徳平だから, 「永海佐一郎と化学教育」に続いて「亀高徳平と化学教育」を取り上げることは
然なことだったのである。科学学博物館の図書館は, 事務室から入ったの
だと思うが, 何しろ迷路のようなところにあった。それでも, 亀高の文献が
沢山あるので何回か通って, 図書館のお世話になった。
  亀高の研究に限らず, 教科書の調査では王子の東書文庫に,大変お世話になっている。上野にしても, 王子にしても私の家から比較的近いところにあったので, もっぱらお世話になったのである。
  本書には「亀高徳平と化学教育」といっても, 彼の教科書のことには殆ど
触れていないが,それは別の論文の中で取り扱っているからである。
  ・日本における原子論的な中等化学教育の始まり『化学史研究』1 (1974年3月)
  ・明治の化学教科書(4)『理科教室』(新生出版,1978年10月号)」
  「…原子論的な中等化学教育の始まり」は, 亀高徳平著の化学教科書の研究というよりは, 亀高の教科書を材料とした研究なので, 本書には収載しな
かった。また, 「明治の化学教科書」は別にまとめたいと考えているので,
これまた本書に収載しなかったのである。
  これらの研究では東書文庫の教科書をフルに利用させてもらった。ある夏
休みは毎日のように通い, 当時の林文庫長は遂に私が書庫に直接入ることを許されて, 研究に便をはかっていただいたくらいである。
  『埼玉県立浦和工業高等学校紀要』についても若干触れておこう。この紀
要は私の発案で発行される様になったのであるが,それは一つには私がいわゆる校務分掌で研究部を担当していたことがある。もう一つは埼玉県立で工業専門学校ができ,浦和工業高校が最有力の候補だという噂があった。私は他県の例でその際工業科の教師は論文など無くても,経験だけで助教授にれるが,普通科の教師は論文がないと,助教授になれないということを聞いていたので,普通科の教師の論文発表機関として考えたのである。だから,体裁も学校長のまえがきなどつけず,学術誌の様にしたのである。しかも,200 部印刷の予算のうち, 30部を別刷にして著者に謹呈するようにしたのである。国会図書館にも送っていたので, 後年大英博物館の図書館からバックナンバーの請求があったのには驚いた。この紀要のレベルの評価の一つと考えてよいのだろうか。

                         
   私の科学教育史研究の第二の大きな飛躍は,埼玉県の長期研修生として,国立教育研究所に1年間通うことができたことにあるだろう。しかも,1976年4月から1年間,埼玉県からは長期研修生としてだが,国立教育研究所では共同研究員として採用されたので,単なる長期研修生のような大部屋に押し込められているのではなく,専用の共同研究員の研究室もあり,研究費もつくので,気兼ねなく研究出来る条件が与えられたのである。ここで,板倉さんとの共同研究も行なうことができたのである。
  この1年間は,「日本における中等化学教育の内容と方法の歴史的研究」
というテーマを掲げ,主として旧制武蔵高等学校尋常科の理科教育を歴史的
に研究することができた。「Y 武蔵高校尋常科の理科教育」は,この時研究
してまとめた次の2本の論文からなるのである。
  ・和田八重造と理科教育『埼玉県立浦和工業高等学校紀要』6(1977年3 月)
  ・物理と化学を融合した理化教育の一つの試み『埼玉県立浦和工業高等 学校紀要』7(1978年3月)
   「和田八重造と理科教育」の研究に当たっては, 和田八重造の長男の和田重威さんや同夫人には, 和田の著書を色々とお貸し頂いた。また, 武蔵大学事務長矢代源司さんには『自然科学入門』の分冊を合本したものだとか, 巻紙に書かれた「回顧三十年」だとか貴重な資料を色々お貸し頂いた。大勢の方々の協力でここまでまとめさせて頂いたものである。ただただ,感謝であ
る。しかし,資料もコピーさせて頂いていたのだが, 1979年3月のわが家の
火事で全部焼失したのが残念である。そういうこともあって,その後の研究
の進展はないのは,大変申し訳ないことである。
  「物理と化学を融合した理化教育」の研究を進めるに当たっては, 玉虫文
一先生から直接『初歩理化教科書』などの文献をお借りしたこと, また和田
の時にもお名前をあげた矢代源司さんには, いろいろと資料をお貸し頂いた
ので,あまり他では述べられていないところまで,研究を進められたのだと
感謝で気持ちで一杯である。この二つの論文をまとめるとき, 何時も資料を
お借りするところでぶつかる人に, 広島大学の中川逢吉さんがいた。しかも
その上, 資料を借りたのに何もまとめないというお怒りの後伺って資料をお
借りするので,同じ手合いだろうと考えられてか大変困った思い出がある。
なお,私は1977年8月に開かれた日本科学教育学会第1回年会で,「武蔵
高等学校尋常科の理化教育について」という題で報告した。そのとき,初期
の話題が「オストワルトの影響を受けた」と言う私の報告に,その場に居合
わせた玉虫が「そんなことはない」と反論したことを奇妙に覚えている。しか
し,これは私の意見ではなく,玉虫自身が論文の中で,「話題の最初の二
十課に於て筆者は特に Ostwalt;Schule der Chemie の流儀を多分にとり入
れた」といっていることなのだが。

                      
  国立教育研究所の共同研究員を私は一年で終わったが,一緒に共同研究員になった松井吉之助さん(当時,新宿区立戸塚第一中学校)は,さらにもう一年共同研究員を続けることになった。そこで私も毎週火曜日の午後,研究協力者として国研に通えるようにした。そうして始まったのが,板倉聖宣さ
んを研究代表者とする,三人の共同研究「明治期における理化教育の成立過程の研究−明治期刊行の物理・化学書の悉皆調査による」であった。
  私は板倉さんに指導されながら,まず,『国立国会図書館所蔵明治期図書
刊行目録』の化学の部分をコピーして,「明治期化学書図書目録」を作成し
たり,次には「中学校検定教科書表」という,戦前の旧制中学校の検定化学
教科書の誰のどの教科書が,どう変わっていったか,方眼紙を10枚以上張り
合わせた表に克明にまとめたりした。これらの基礎作業の上に, 始めて「悉
皆調査」が可能であり, 「悉皆調査」の重要性を理解できたといえる。そし
て, この板倉さん達との共同研究の一部としてまとめることができたのが
「明治の化学教科書」である。そして, この連載中の哀しい思い出は私の理
科教育史・科学教育史の指導者であった田中實先生との永久のお別れであった。
  ・明治の化学教科書(1)〜(5)『理科教室』(新生出版,1978年7月号〜11月号)

                      
  「U 『小学化学書』をめぐって」は,「明治の教科書」に続いての私の
『小学化学書』についての研究である。私は,当時科教協化学サークルの仲
間とともに,『小学化学書』の原書である,Roscoe:Science Primers;Chemi-
stry を国会図書館から借りだしてコビーし, 全員で現代語訳に取り組み,
その現代的意義を明らかにしようとしていた。ちょうどそのとき原稿依頼が
あったので, その成果を「『小学化学書』とその周辺」という題名で,長期
間執筆する予定を立て,写真資料なども取りそろえた。ところが,4回連載
したところで,不幸にもわが家が全焼したため執筆を中止せざるを得なかっ
たのである。4回の最後に次のように「休載の弁」が載っている。
     「『小学化学書』とその周辺」も,ようやく序論が終わり,いよいよ
   本論である『小学化学書』の研究に入る段階になって,休載せざるを得
   ないことになってしまいました。
    実は3月9日早朝,自宅が火災にあい,明治の化学教育史をはじめと
   する資料をことごとく焼失してしまったのです。そこで編集部にお願い
   して,この連載を一時休載させていただくことにしました。
    現在,まだ住居が安定していない状況ですので,いずれおちつきまし
   たら,ふたたび連載を復活したいものだと考えています。
  連載は結局復活しなかったし, その後もこの研究を発展させていない。
U章はその4回の連載を,順序を変えるなど,若干手を入れてまとめたものである。
  ・『小学化学書』とその周辺@〜C『理科の研究』(大日本図書,1979年
   1月号〜4月号)

                      
   わが家の火災による,科学教育史などの資料の焼失によるショックは結構大きく,私はそこから中々立ち上がることはできなかった。そして1年間は
仮住まいということもあって,科学教育史の研究になかなか取り組めなかっ
た。板倉聖宣さんを始めとする多くの方々が,文献の提供など強力に援助し
て励ましていただけたこと,本当に心から有り難かった。また,田中實先生
の蔵書の中の科学教育史に関するものは,私が頂けることになったりしたの
で,1年後にできた6畳の書庫はどんどん一杯になっていった。そして,1
年後に発行された『埼玉の自然科学教育』2に,化学教育史に関する論文を
載せるまでに立ち直ることができたのである。
  ・塩化ナトリウムの化学式はNaClか, ClNaか『埼玉の自然科学教育』
   2(1979年7月)
  一方,板倉さんたちとの共同研究は発展し, さらに長谷川純三(当時, 練
馬区立石神井中学校)さん, 永田英治(当時, 東京都立大学大学院生, 現宮城
教育大学教授)さんたちを含めて理科教育史研究会をつくり, 定例的に研究
会を持てる迄になった。そして, その研究会を母体として, 編集発行したの
が『理科教育史資料』全6巻(とうほう, 1986〜87年)である。 私はそのう
ち, 次の2巻に共編著者として参加している。
  ・『理科教育史資料 2 理科教科書史』[共編著](とうほう, 1986年10月)
  ・『理科教育史資料 5 理科教材史・』[共編著](とうほう, 1987年2月)
  私は,この「理科教材史」編集の勢いをかって,長い間懸案になっていた
『化学教育入門』を完成して出版することができたのである。
  ・『化学教育入門−教材の基礎と授業の方法』(新生出版,1987年8月)

                    
  私は大日本図書の中学校理科教科書の著者を,随分長いことやっている。大日本図書は,明治23(1980)年創立の会社なので, 1990年がその創立100年の年に当り, 百年史が編纂された。しかし, その出版は遅れて1992年に発行された。
  ・矢作勝美編著『大日本図書百年史』(大日本図書,1991年4月)
  私は,当時出されていた,大日本図書のPR誌『理科の研究』編集部から「理科教科書の百年」の執筆を依頼された。そこで, 小・中学校の理科教科書の歴史を, 「明治・大正」「昭和」の2回に分けて執筆したのである。
  ・理科教科書の百年−明治〜大正−『理科の研究』1990年3月号
  ・理科教科書の百年−昭和−『理科の研究』1990年4月号
  そして,大日本図書の百年記念事業として『理科教育事典』が発行される
ことになったとき,「わが国の理科教育の歴史」の1章として,此の「理科教科
書の百年」をもとに,旧制中学校の低学年の理科教科書のも含めるなど
大幅に増補して「理科教科書のあゆみ」を完成した。
  ・理科教科書のあゆみ@〜K『理科教育事典[教育理論編]』(大日本図
   書,1991年3月)
  「V 理科教科書の歴史」の「1.初等理科教科書のあゆみ」がこれで,
『理科教育事典』では編集の都合上,「わが国の理科教育の歴史」の中に囲
み記事として所々に入れるようにしたが,本書では編集し直して,3節にま
とめた。
  なお,「2.岡 現次郎と理科教育」は, 大日本図書教育研究室の 紀要85
01号として出された『岡 現次郎と理科教育』に書いた同名の論文「岡 現次
郎と理科教育」に「文献と注」をつけて, 『埼玉の自然科学教育』に載せた
ものである。なお, この中の「理科教育中央委員会」関係の資料は, 大変貴
重なものであり, それらは全て江本漾子さんから提供されたものであること
を付記し, 感謝申し上げる。
  紀要編集にあたり, 「岡 現次郎 著作目録」などは松井吉之助さんと協力
して完成した。本書に収載するにあたり, 若干手を入れたがまだまだ不完
全なものである。しかし, 後から来る研究者に役立てばと考え, あえて不完
全を知りながら収載することにした。
  また, 「岡 現次郎と理科教育」の原稿は, 私がはじめてワープロで打っ
た原稿である。OASYS100FUを求めたのだが, 当時はまだワープロの値段が高く, 軽自動車が一台買える値段であった。当時はちょうど『理科教育史資
料』の編集中で,編集会議に原稿を提出するといろいろな修正意見が出るの
で,それを直して次週の編集会議に間に合わせるには,とても手書きで書き
直していたのでは間に合わず,泣きの涙で購入したのである。
  「岡 現次郎と理科教育」を「V 理科教科書の歴史」に入れたのは,岡
の仕事は,小・中学校の教科書・指導要領の編集である,と考えたからであ
る。かれが何をしたのか,詳しくは本文を見て欲しい。
  本稿は,拙著『科学教育史ノート』(同時代社,1999年4月。2,500円)の「後書きに変えて」として書いたもの(一部をカット)なので,随所に,「本書」ということばが出て来るが,それは『科学教育史研究ノート』のことであるとお読みいただきたい。
理科教育史研究室
私と科学教育史