・ 玉田泰太郎と到達目標・学習課題方式の授業 今日,これからビデオで見せる授業は,玉田泰太郎さんが1985年3月4日に,渋谷区立長 谷戸小学校の6年生に行なった授業「ばねの両端にはたらく力」である。私は玉田さんの 授業のようなすすめ方の授業を,このごろ少し長いが「到達目標・学習課題方式」の授業 と呼んでいる。なぜ,そう呼ぶのかは, この「理科教育論」の授業全体の中で理解できる と思うので, ここでは特に説明しないことにする。 (1) 私と「到達目標・学習課題方式」の授業との出会い さて,このような授業に私が始めて出会ったのは1976年11月のことだった。その年, 19 76年4月から,私は1年間埼玉県の長期研修生として国立教育研究所に通う機会を与えら れた。しかも,国研には普通の長期研修生としてではなく,共同研究員として採用された ので,共同研究員専用の部屋が与えられ,研究費も10万円つくという研究環境の中にいた のである。 私は「日本における中等化学教育の内容と方法の歴史的研究」という研究テーマの下, 具体的には武蔵高等学校尋常科の理科教育の内容と方法を明らかにする仕事に取り組んだ のである。この研究の調査は, 大体9月頃には一区切り終わった。あとは論文にまとめる だけである1)。また,私の中学校化学教育研究の決算書ともいうべき『化学指導ノート』 (むぎ書房,1977年2月発行)の出版の準備も6月頃から進め,矢張りこの頃で大体完了 した。 そこで,折角の機会だから授業を連続して見せてもらおうということで,同じ共同研究 員として研究所に来ていた松井吉之助さんと一緒に,週2回玉田さんの授業を見せてもら うことにしたのである。火曜日が5年生の「溶解」,金曜日が6年生の「三態変化」,ど ちらも午前中2時間続きの授業である。私の手帳の記録によると,11月2日(火)に最初に 授業を見に出かけたようだ。玉田さんの授業は,品川区立宮前小学校にいたとき見せても らって以来久し振りなので非常に興味を持って出かけた。 授業を見てびっくりしてしまった。何しろ授業のすすめ方,討論の仕方,ノートの取り 方,意見の内容,どれ一つとってもびっくりすることばかりだった。『理科授業の創造』 の座談会の中で,私は次のように述べている2)。 「さっきからみんなの話を聞いていて,一番はじめ授業を見て何を感心したのかなと思 っていたんですけどね。一番最初に見たときは,何か玉田さんが課題を出すと,生徒たち は何も言わないで(そういう約束になっているからだろうけど),自分の考えをさっさと 書く。そして討論して人の意見を聞いて,またさっさと書くわけですね。実践記録の中で 玉田さんは,一時間の授業は一時間だけでは成立しないことを強調して,教材の系統性と 子どもの認識が結びついてはじめて一時間の授業が成立するんだと言っていますが,そう いうことはぼくにとってはあたりまえだと思っているから,一時間の授業をどうやって作 るかということに興味があったんです。」 (2) 授業の進め方の定式化 私は,これこそ理科の授業だと考えた。私は玉田さんの授業を見て,その授業の進め方 を,定式化することを考えた。玉田さんはそのときはそのことに余り積極的でなかった。 これは今から考えると,玉田さんの授業はその背景に到達目標論があり,何をどう教える かという総体的なものだったからかもしれない。 ただ,当時私は私たちのサークル,科教協化学サークルでつくり出した「化学の基礎」 の授業の内容を,具体的に他の人たちに伝えるにはどうしたらよいか,真剣に考えている 最中だった。というのは,「化学の基礎」の考え方が他の人たちに理解してもらえず,ど うしたらうまく伝えることができるのか,悩んでいたからである。だから,玉田さんの授 業を見て,その授業の進め方を定式化することが,まず,頭に浮かんだのだろう。 玉田さんの授業は, まず「課題」を出し, それについて生徒たちに「自分の考え」を書 かせ, それを発表させ, 「討論」を組織し, 「ひとの意見を聞いて」を書かせた上で, 課 題に決着をつける「実験」を行ない, 「実験でわかったこと」を書かせる。つまり,課題 →自分の考え→討論→ひとの意見を聞いて→実験→実験でわかったこと,の順に授業を進 めるのである。私たちは,「化学の基礎」の授業プランを,授業の進め方をを上のように 定式化して,「授業ノート」を作り,発行した3)。 (3) 「到達目標・学習課題方式」の授業のスタート 玉田さんが,「到達目標・学習課題方式」の授業を行なうようになったのは何時からな のだろうか。玉田泰太郎『新・理科授業の創造』の「玉田泰太郎年譜」4)によると, 到達 目標研究委員会(日本標準)が発足したのは, 1975年4月5)とあるから,玉田泰太郎と到達 目標論との最初の出会いは,この時からそんなに離れていない時期だろう。 玉田さんが「到達目標」について, 最初に論じた本は『教科の到達目標と指導法の研究 ・理科編』6)である。この本の「Q 楽しくわかる授業をもとめて」には授業の様子が出 ているが,玉田さんが執筆者でないこともあって,それらの授業はとても「到達目標・学 習課題方式」の授業とはいえないもののように思われる。だからこの本の執筆の段階では 玉田さんもまだ,「到達目標・学習課題方式」の授業を完成はしていなかったのではない だろうか。もっとも,玉田さんの授業は,課題を出して子どもたちから意見を聞いて進め るというのは最初の頃からのようだが,この本を執筆している頃,つまり,1975年の初め ごろから, 「到達目標・学習課題方式」の授業を行ないだしたのではないだろうか。だか ら, 1976年の11月に私たちに授業を公開したときが, 「到達目標・学習課題方式」の授業 の本格的なスタートだったといってもよいのではなのだろうか。そういう意味では, 私は 歴史的な授業を見せてもらったことになるのだ。 (4) 「到達目標・学習課題方式」の授業の発展 私たちが最初に見た「到達目標・学習課題方式」の授業の頃の実践をまとめた本が,玉 田さんの『理科授業の創造』だが, どうもこの本の中では「到達目標・学習課題方式」の 授業を,積極的な形では表現されていないようだ。それは玉田さんの「到達目標論」の段 階を指し示しているのかもしれない。 玉田さんはそのあと,1978年になって共同研究を組織し,『教科の到達目標と指導方法 の研究・理科編』の内容を発展させて,『授業ノート・物の三態変化』7)を作り,さらに それによる実践を行なって, 『温度と物−温度と物の体積・物の三態変化−』8)としてま とめている。この『温度と物』の「・〈物の三態変化〉授業記録」では,「到達目標・学 習課題方式」の授業の様子がハッキリと示されている。そのことから,『授業ノート・物 の三態変化』の作製とその実践の中で,玉田さんの「到達目標・学習課題方式」の授業は, 確実に発展していることがわかる。なお,玉田さんの共同研究は,引き続き1979年も行な われ,『授業ノート・気体』9)を作り,その実践を行なって『気体は物である』10)とし てまとめられている。 (5) 「到達目標論」の成立 このような「到達目標・学習課題方式」の授業の発展の背景には,玉田さんの「到達目 標論」の発展があったことは当然だろう。『教科の到達目標と指導方法の研究・理科編』 の中では,到達目標の定義すら明確でなく,教材構成の全体を「到達目標」と指している 場合すらあるように思えるのである。では,玉田さんの「到達目標論」は何時,現在のよ うな形になったといえるのだろうか。私は,1981年9月に発行された『小学校教科教育法 ・理科』11) ではないかと考えている。この本の中で,玉田さんの「到達目標論」は,現 在の形に近い形で,一応成立したと考えてよいのではないだろうか。 (6) 授業「ばねの両端にはたらく力」 多くの大学の先生は,退官を前にして最終講義を公開している。然し,小・中・高の先 生で,その最終授業を公開したという話は余り聞かない。これから見るビデオの授業「ば ねの両端にはたらく力」は,玉田さんが家庭の事情で定年より2年早く退職されるとき, 計画された最終授業の記録である。私も,この授業には参加した。 そういう意味で,この授業は「到達目標・学習課題方式」の授業の典型として,みなさ んに見てもらいたいのだ。私の「理科教育論」は,みなさんがこういう授業をできるよう になるために行なうといってもよいだろう。 [文献と注] 1) このときの研究をまとめた論文は, 次の2つである。なお, これらの論文は, 現在で は三井澄雄著『科学教育史研究ノート』(同時代社,1999)に収載されている。 @三井澄雄「和田八重造と理科教育」『埼玉県立浦和工業高等学校紀要』6(1977年3月) A三井澄雄「物理と化学を融合した理化教育の一つの試み−武蔵高等学校尋常科の理化 教育−」『埼玉県立浦和工業高等学校紀要』7(1978年3月) 2) 玉田泰太郎著『理科授業の創造』新生出版,1978。p.228。 3) 昭和52年度・53年度と, 2年間科学研究費補助金(奨励研究B)を受け, 次のものを発 行した。 @松井吉之助・三井澄雄他『授業ノート・化学の基礎(1)』松井吉之助,1978年3月。 A松井吉之助・三井澄雄他『授業ノート・化学の基礎(2)』松井吉之助,1979年3月。 4) 玉田泰太郎『新・理科授業の創造』新生出版,1997。pp.365〜368。 5) 「玉田泰太郎年譜のように, 到達目標委員会の発足が1975年4月だとすると, 印刷・ 発行の準備を考えると, 1年弱の時間でこれだけの内容の出版物を作ることができたの だろうか不思議である。また,同じく1976年4月に発行された『学力到達目標と指導方 法の研究・総論編』の坂元忠芳「P 到達目標と教育評価について」の最後に書いてあ るように,「本稿は,1974年12月に株式会社「日本標準」の"到達目標研究委員会"の研 究会で行なった講演に加筆したものである」という記述が正しいとすれば, 玉田の「年 譜」が誤りということになるのだろうか。両方正しいとすれば, 正式な委員会発足の前 に, 既に研究会は行なわれていたということも考えられる。だから, 玉田さんたちの理 科部会の研究会は正式な全体委員会発足よりも1年間位前から行なわれたと考える方が よいのかもしれない。 6) 到達目標研究委員会編『教科の到達目標と指導方法の研究・理科編』日本標準,1976 年4月。 7) 玉田泰太郎・中村啓次郎他『授業ノート・物の三態変化』玉田泰太郎,1979年1月。 8) 玉田泰太郎著『温度と物−温度と物の体積・物の三態変化−』新生出版,1980年7月。 9) 玉田泰太郎・中村啓次郎他『授業ノート・気体』玉田泰太郎,1980年2月。 10) 玉田泰太郎著『気体はものである−物質認識を深める授業−』日本書籍,1985年7月。 11) 真船和夫・長谷川純三・玉田泰太郎共著『小学校教科教育法・理科』日本標準,1981 年9月。 追記 玉田泰太郎さんは, 2001年6月,国立国際医療センターで食道癌の手術を受け, 鋭意療養中だったが,2002年4月2日夜, 亡くなられた。合掌。 (この小論は,立正大学における「理科教育論2003」の授業「T−2 理科の授業を考える」で学生 に配布したプリントの一部である。) |
