リトル・チュン(1999・香港)

元題 「細路祥」 「Little Cheung」
監督 陳果(フルーツ・チャン)
脚本 陳果
製作 Nice Top Independent Ltd.(香港)
    NHK(日本放送協会)
撮影 林華全(ラム・ワーチュン)
美術 黄海光(クリス・ウォン)
音楽 林華全、朱慶祥(チェ・ヒンチョン)
主演 ユイ・ユエミン、マク・ワイファン、ゲイリー・ライ

00年 ロカルノ国際映画祭銀豹賞受賞
00年  香港金像奨7部門ノミネート

配給 ユーロスペース  東光徳間  117分

私はこの映画の根底にあるのは、香港という今は中国の一部となってしまった土地に対する愛情であるように思える。本当はこんなこと書きたくないんだけど、私はチュン少年のひたむきな生き方と、監督の香港という”祖国”への愛に感動し涙を禁じえなかった。いよいよフルーツ・チャン監督の香港返還3部作の3作目である。ここまでくると、さすがにインディーズ色はなりをひそめ、存在感ある作品に仕上がっている。しかし、前作からの役者の使いまわしもあり、スタッフもほぼ三作通じて監督のファミリーが支えている、思わず頬が緩んでしまうのが主人公のチュン少年である。そして、本当に香港にいそうなバアちゃん、「花火降る夏」で退役軍人の一人として出演した父ちゃん・・・。この作品に出てくる登場人物は、まったく飾りのない、香港下町(いわゆるモンコックと呼ばれる猥雑な場所)を生き抜いている、ありのままの姿に映る。3部作の中では、最もエンターテイメント性に溢れていて作品として最もクオリティが高い。それを裏付けるかのように、ロカルノ国際映画祭でグランプリを獲得している。また、この作品により、フルーツ・チャン監督の作品の幅は、前二作で見せた一種の前衛的、型破りで今までの香港映画に見られないスタイルを踏襲しつつ、明らかに誰にでも受け入れられるオールレンジな作品も手がけることができることの証明にもなった。

”お金は一つの夢 一つの理想”

冒頭のモノローグのセリフでこうを言うチュン少年は、一筋縄ではいかないコドモである。すでに9歳で「この世は金だ」と妙にスレてしまったチュン少年は、社会という世間に溶け込む手っ取り早い方法は貨幣制度の末端に取り付くことだと確信した。出前にでかけ、いっちょまえにチップを受け取るチュンのたくましさは、香港人のそれの源泉である。「リトル・チュン」には、香港下町の素顔が見れる。街並み、うさんくさい大人、娼婦、チンピラ、フィリピーナ、そして大陸からの不法就労者だ。だが、チュンにとっての世界とは、そのうさんくさい大人やチンピラからいかに多くのチップをもぎ取るかである。それは制限の多い不法就労者の娘ファンも同じであり、二人にとってこの世のどんなことより大切なことなのだ。

ファンはチュンより1つか2つ歳が上なのだろうか。ファンの生きる路地裏の生活は、道以上に入り組んでいて、出口の見えないほの暗い世界である。常に当局からの目から逃れ、世捨て人のように生きていかねばならず、かといって働かなければ食べてもいけない、だが賃金は足元を見られてかろうじて食いつなげていける程度。彼らがおびえるのは、警察につかまり、大陸に強制送還されること。江南地域の貧困は北部のそれrと比較しても変わらないほどどん底であるが、香港という夢の島へ近いということが、彼らの望みとなった。作品中でも、しばしば目を覆いたくなるようなシーンにでくわすが、チュン少年にとっての中国は遠い場所であり、ファンにとっての中国は振り返ってはならない禁断の場所である。その二人の立場が如実に表れているのが、二人にとっての一番楽しいとき、二人して出前の仕事でチップを分けているときのとあるシーンである。

返還を目前にして、二人(&チビスケも)は、香港島の中環を前にして少し早いカウントダウンを始める。二人して「あれがビクトリアピークだ、あれが中国銀行だ」と詮索を始めるのだが、ファンがおもむろに「江度民主席が来て香港が返還される、そうしたらあれはみんな私たちのものになる」と誇らしげに言うのだ。チュンはその意味がおぼろげながら分かっているのだが、やっきになって「香港は僕らのものだ!」と反論する。子供の会話レベルで、すでに国際間の政治が介入しているのは、その国の社会が成熟しているがゆえか、それとも混乱期にあるかだ。

この映画を彩る登場人物、また香港には欠かせぬ存在にフィリピーナがいる。香港とフィリピンは距離が近いこともあって、移民も多い。チュンの家は「堅記食堂」という食堂を経営しているのだが、そこのお手伝い&家政婦としてフィリピーナのアーミが雇われている。実は、このアーミが作品の中で唯一第三者的立場にいて、香港が返還されるさまを実に客観的に、つまり外国人の目として捕らえている。「香港人はクレイジーよ!」と祖国の知り合いに電話するアーミ、故郷の夫が女を作ったことに悔し泣きするアーミ・・・と、こちらの表情も面白い。街の日陰で、同じような境遇のフィリピーナが集ってダベるシーンがあるが、実際香港の昼下がりになるとフィリピーナたちは示し合わせたかのように店の前やガード下に堂々と筵や風呂敷を広げて、優雅にメシを食っているのだ。ラストシーン近く、フィリピンに帰ったアーミが返還後の香港に再び訪れる。人ごみの中にアーミを見つけるチュン。実に感動的なシーンである。

作品のほとんどはチュン少年の見る香港である。少年の見る香港は大人にとっての香港ではなく、彼ら少年の眼が捕らえる、純真無垢なありのままの街並み。この街の雑多な出来事、それは頑固な父親の経営する定食屋、足の悪く昔話の好きなバアちゃん、街角に立つ派手な格好の娼婦、顔見知りの警察官、お得意先の桶屋のじいさん、にっくきデビット、優しいアーミ、ブラザーチュンの死去、昔役者だったホイおじさん、ファンとの短くも楽しい時間、まだ見知らぬ兄、たまごっち、そして香港返還・・・全てを少年のわかりやすいメカニズムが解読していく。

だが、現実は少年の成長を待たない。少年の背中を押しながら時間は流れていく。1997年7月。香港は中国と一つになった。ブラザー・チュンがいなくなり、ばあちゃんもいなくなり、アーミがいなくなり、そしてファンもいなくなった。現実が少年の世界を壊す。チュンは少年時代に別れを告げる。ちょっと大きめな自転車を力いっぱい漕いで。

実はフルーツ・チャン監督の香港返還作品はまだ続いている。今年のベルリン国際映画祭に出品された「ドリアンドリアン」も香港帰りの大陸の娼婦を描いている。今回は香港人ではなく大陸人を描くということもあって、一連の返還のテーマからは外れるが、監督の香港への思慕は尽きぬままだ。日本公開は10月とのこと。今、私が一番楽しみにしている作品である。

最後に。
「メイド・イン・ホンコン」に出ているチャウ、ペン、ロンが、「リトル・チュン」のエキストラに出ている。「メイド・イン・ホンコン」を見た人ならば気付く。3人は香港返還を無事に超えられずに、それぞれ不遇の死を遂げたが、「リトル・チュン」の世界では、返還後も3人仲良く街を歩いている。そんな遊び心も忘れないチャン監督が好きだ。そして、タンポン攻撃は圧巻の一言に尽きる。もう、腹をかかえて笑うべし。こういうシモネタは万国共通の笑いの元だろう。
(01/07/08)