Canvas2 〜茜色のパレット〜
 Another Story featured Mami Takeuchi
   『Canvas2〜ラベンダー色のスケッチブック〜』


■ Sketch1. 初夏

「あーーっ、もうっ! あの不良教師はっっ!!」
撫子学園の廊下をズンズン歩く。
目の前で談笑していた1年生たちがモーゼのお話よろしくどいてくれるけど、お礼を言ってる暇は無い。
とりあえず私が目指しているのは校舎の屋上。
この時期にあの先生がサボるとしたらあそこしかまず考えられない。
見つからなければまた捜すまで。
そして今日こそ最後まで部活に出てもらわなくちゃ。

ここは私立撫子学園。
芸術面に力を入れた名門校です。
特待生制度もあるだけあって、これまでも何人もの有名な画家を輩出してきました。
在学中に絵画の権威『桜花展』の入賞者を出したこともあるんですよ。
わたし、不肖竹内麻巳はその撫子学園で美術部部長を務めています。
今年は特に素敵な絵を描く特待生の女の子が入ってきて、美術部も盛り上がって…
いるはずなんですが。

「……やっぱりここにいた…」
呆れと怒りと、やるせなさとそれにちょっとだけ諦めのこもった溜息。
美術部の部長になってから何度溜息をついたことかもはや数える気すら起きない。
溜息の元凶は屋上のベンチの上でぐーすか寝ている。
まるで私の苦労なんて知らないみたいに。
「…先生、起きて下さいよ」
ベンチの上の教師を揺すってみる。
「…………ぐぅ」
…相変わらず手ごわい相手だ。反応すらしない。
あまりやりたくはないが仕方ない。
私は一気に息を吸い込む。ぴた。
寝こけている教師の顔を見据える。
「いい加減に起きなさいっ、美術教師上倉浩樹っっっ!!」
最大音量の怒声が校舎屋上に響く。
「は、はいっ」
あわてて先生が飛び起きる。…なんで直立不動になってるんですか?
しばらくして、ここが屋上だと認識したのか、きょろきょろ辺りを見回して、あたしの顔を確認する。
「……なんだ、竹内か…」
「『何だ、竹内か』じゃないです、先生」
ついでに言えば、人の顔を見て溜息をつかないでほしい。
「ゴールデンウィーク最終日にようやく部活に出てきたと思ったら、いきなりサボらないでくださいっ」
「あー、済まんな。どうにも陽気が良くて」
ベンチで寝ていて肩が凝ったのかパキポキ、首と肩を鳴らしている。
先生の言うとおり、世間はいま初夏真っ盛り。
お昼寝するにはちょうどいいでしょうけどね…
「それにしてもさっきの声は驚いた。教頭かと思ったぞ?」
「何なら教頭先生に言ってさしあげましょうか?」
「…………いや、いい…」
ゲンナリした顔で首を先生が振っている。
お説教ばかりされ続けても、全然直そうとしない先生が悪いのだけれど。
そもそも、私だって女の子なのに50歳越えた男の人の声と間違わないでほしい。
「で・し・た・ら美術室にどうぞ。せめて今日ぐらいちゃんと顧問の仕事をしてください」
「そうだな…そういや、そろそろコンクールだしな」
「はい、ですからちゃんと…」
「あー、分かった分かった。それじゃあ戻るか」
「………っ」
私の文句も何のその、スイスイ先生が歩いていく。
屋上から下りる階段の手前で先生が振り向く。
「どうした?」
「………いえ、なんでもないです」
気がついたら私の足が止まっていた。
後ろからついてくるものと思ってた先生には変に思われても仕方ない。
慌てて先生の傍まで駆け寄っていく。
不思議そうな表情で先生が聞いてくる。
「疲れてるんじゃないのか?」
「先生が疲れさせるようなまねをしなければ、疲れませんよ」
自分の声に棘があるのがはっきりと分かる。
図星、とばかりに先生も笑ってうなずく。
「はは…そうだな…でも、さ」
「はい?」
「竹内は笑ってる方がいいぞ?」
(ボンッ!!)
なななな…何をいきなりっ!!
普段なら滅多に…と言うか全然そんなこと言わないのにっ。
赤面してしどろもどろになる私をよそに先生の声が続く。
「絵は…楽しんで描きたいだろ、おまえもさ」
絵は…って…もしかして、私勘違いした?
…沸々と湧き上がってくるこの感情はやっぱり『怒り』だろう。
「…………先生」
(スチャ…)
私は手持ちのスケッチブックを両手で構えてゆっくりと振り下ろす。
(ドゴッ!!)
「ぐあっ」
「……………ふん、だ」
「いてて…いきなり教師を殴ることないだろ」
「変なこと言うからです」
乙女の心をもてあそんだ罰です、とは言わないけど。
「そうか? 別に変なこといったつもりは…」
納得してないのか、そんなことを呟きながら先生は階段を下りていく。
私はスケッチブックを持ち直して、ゆっくりとその後ろに付いていった。

わが美術部の最大の問題点、それはこの顧問、上倉先生だった。
私が撫子に入った年に教師として来たんだけど…その頃からサボり癖は全然変わらない。
去年、私が3年生の先輩から部長職を受け継いだときも先輩たちはただ一言
『後輩たちのためにも上倉先生をまともな教師にしてねっ!!』
涙ながらにそう言ったのを思い出す。
あれから数ヶ月、いまだに私は…この先生と格闘する日々を送っているのです。
それに…
『絵は…楽しんで描きたいだろ』
私には先生のこの言葉が少し信じられなかった。
多分、その言葉は真実だと思うし…それは今年入ってきたあの子を見ていればよく分かる。
なのに、それでも信じられないのは…上倉先生が絵を教えているとき、全然楽しそうじゃないから。
美術大学出だから私なんかより技術はしっかりもってるし、教えるときは結構まじめだし…
初めて会ったときに見た、『絵』に対しての真摯な姿勢は変わってない。
それなのに…上倉先生は授業中も、部活中もあまり楽しそうじゃない。
どうして、先生は楽しそうに教えてくれないんですか?
どうして…自分の絵を描かないんですか?
それとも……
…………本当に絵が嫌いなんですか?

■ Sketch2. 夕焼け

夕日に染まる撫子学園の廊下。
ゴールデンウィークも終わって夕焼けも随分遅くやってくるようになった。
(コンコン…)
美術準備室の扉をたたく。
しばらくして扉の向こうから、ゆっくりと返事が来た。
「んん〜〜、鍵はかけてないからどうぞ…」
「失礼します」
お決まりの文句を言って扉を開ける。
準備室の中には上倉先生一人。
…でも、不良教師な先生が部活終了のこの時間まで残ってるほうが珍しい。
ちょっと毒付いてみたくてそんなことを言ってみた。
「悪かったな、今日は仕事が結構残ってたんだよ」
「ほっぺた…机の跡、付いてますよ?」
「へ…」
「オハヨウゴザイマス、と言ったほうが宜しいでしょうか?」
「好きにしてくれ…」
決まり悪そうにしている先生をよそに、私はいつものごとく溜息をつく。
つまり、この先生は6時限目が終わってから今の今までずっとここで寝ていたわけなんだ、と。
何で誰も気づかないんだろう…。
とりあえず、先生に紐綴じの冊子を手渡す。
「はい、今日の部日誌です。一応目を通してください」
「ああ、あとでな」
「今すぐ見てください」
先生の『あとでな』は一度としてアテになったことがないので、半ば強制的に冊子を開かせる。
「みんな毎日マジメに部活やってるんですから、先生も少しは真面目になってください」
半分口癖のようになってしまった台詞を繰り返す。
言い続けていればどうにかなるのかなぁ…ちょっと自信無いけど。

「んー…そろそろみんなコンクール用の作品、上がってきたか?」
「ええ、ほとんどは。…っと…そのことで少しお話があるんですが…いいですか?」
ここの所、ずっと気にかかっていたので、今日先生がいたら絶対に聞いてもらおうと思っていた。
いや…多分先生じゃないとどうにかならないのかもしれない。
「何だ、竹内が俺に相談なんて珍しいな」
「普段、そうしないのは先生がアテにならないからです」
「はは…そりゃそうだが…で、今度はアテになるのか?」
「鳳仙さんのことです」
「エリス?」
「はい」
「エリスがどうしたんだ?」
鳳仙エリスさん…今年の一年生にして撫子学園の絵画特待生。
まだ下の学校出たばかりなのに、スカウトされるだけあって…すごく絵が繊細で柔らかくて…多分ああいう子を天才って言うんだろうけど。
絵の腕もさることながら、金髪碧眼の彼女の容姿はとても綺麗で、入学一ヶ月ですでに学園内の人気者になっていた。
ただ…
「鳳仙さんのことを悪く言う人が部内に少しいて…多分そのせいだと思うんですが、あまり彼女の筆が進んでいません」
ある程度、絵の勉強をしている人なら彼女の凄さがすぐ分かる。
だからこそなのだろう、彼女に嫉妬する人が出てくる。
その理屈付けが…
「『身内のコネで撫子に入れた』か?」
「知ってたんですか」
まさに先生が今言ったことが問題になっているのである。
もちろん彼女の腕は確かだし、どうやら今年の3月終わりまで先生も、鳳仙さんがスカウトされたことを知らなかったんだからコネであるはずも無い。
春休みの部活中に、すご〜く複雑そうな顔をして鳳仙さんのことを私に言ってきたし。
「まぁ…確かに俺はあいつの兄貴分みたいなもんだけどさ…」
従兄妹で同居人で教師と生徒。
ここまで言ってしまえばただの兄貴分ではないと思うのだけれど(ちなみに鳳仙さん自身は“同居”ではなく“同棲”だと言ってる)。
「とにかく、そう言うことで、鳳仙さんも結構参ってるんです」
「たまには顧問らしく、どうにかしてください」
「……………」
上倉先生が私を見たまま、じっと考え込んでいる。
どうしたんだろう…。
先生にとっては妹みたいな鳳仙さんのことだから、即座に動き出すと思ったのに。

「先生?」
「竹内は…どうした方がいいと思う?」
「なっ…そ、そんなの簡単じゃないですか。先生がその生徒に注意…」
私は言葉を続けられなかった。
先生の目はすごく寂しそうな色をしていた。
それとも悲しい?
しばらくしてから先生が口を開いた。
「多分、それも一つの解決法だな。でも、さ…多分エリスにとってはあまり解決にならないんじゃないか?」
その部員たちにとってもな、と先生は付け加える。
「……どういうことです?」
私にはよく分からない。
鳳仙さんに迷惑をかけているのは問題の部員たちであって…
何でその人たちを注意しちゃいけないんですか?
「これからエリスがどれくらいか腕を伸ばして、あいつが好きなだけ絵を描けるようになって…そうだな、本物の絵描きになったとしても…」
「こういう事態はそれこそ何度も付きまとってくると思うんだ」
「たまたま今回は俺が傍にいて、それが口実になっているだけでさ」
「中傷する材料はいくらでもあるっていうことですか?」
「まぁ…そうだな。エリスもあれで結構バカやるし…結局は人間の中で生きていかなきゃいけないんだから」
結構バカやるし…そう言ったときの先生の顔はすごく優しそうだった。
まるで、そういう鳳仙さんが好きだと言うように。
「だからさ、少なくとも、今回はエリス自身の力で乗り越えなきゃいけないんだよ」
「………鳳仙さん自身の力…」
「あいつがここに来た頃の顔って覚えてるか?」
「えっと…」
「そうだな、絵を描いてるときのがいいか」
「それなら良く覚えてます。とても…とっても楽しそうな顔をして…」
「あいつのそういう顔を見てると、『わたしは絵が大好きです』って言ってるような感じがしないか?」
「ふふっ…そうですねっ」
4月初めの頃、他の一年生たちと一緒に絵を描き始めた時の彼女を思い出してみた。
あっという間にキャンバスの世界に入っちゃってすごく楽しそうにしていて…周りの子達よりもずっと輝いてたっけ。
「まだエリスは『絵が好き』っていう気持ちは忘れてないと思うけど…頭の中に雑音が入っちゃってるんだよな」
「…はい」
「だから、そんな雑音を気にしないで、絵を描くことに集中できるようにしていかないとな」
「エリスの今後のためにも、さ」
何だ…サボったりしてるけど、鳳仙さんのことはちゃんと見てるんじゃないの。
ちょっとズルイ気がする。
毎日毎日鳳仙さんと顔を合わせてるのに私なんかそこまで考えられなかったもの。
「先生は…本当に鳳仙さんのことが大切なんですね」
「ぶっ…何をいきなり」
うふふっ、真っ赤になって噴き出してる。
少し意地悪しちゃおうっと。

「だって、普通の学生のことだったらそこまで考えませんよ、絶対」
「い、いや、だからエリスのことは…実家の方からも…」
「本当ですか〜?」
「竹内…最近性格悪くなったか?」
「先生に鍛えられましたから、随分と悪くなったかもしれません」
「やれやれ…俺は教師としてそんな育て方をした覚えはないぞ?」
「さて、どうでしょう♪」
「あのな…」
ゲンナリした先生の顔を見てちょっとだけスッキリした。
あんまり苛めるのもかわいそうかな。
「つまり、先生は鳳仙さんが実力で周りを黙らせればいいと思ってるんですね?」
「…なんか、物騒な物言いだけど、そうだな…俺はその方がいいと思うよ」
「じゃあ、上倉先生、あとはお願いしますね」
「はっ?」
「鳳仙さん、今のまま放っておいても多分どうしようもないと思いますので、先生が後押しをしてあげて下さい」
「…しっかり者の美術部長に任せたら駄目か?」
「顧問の役目です」
「………了解」
あきらめた様に、降参のポーズを取る上倉先生。
「うふふ…それじゃあ用も済みましたので、これで帰りますね」
「ああ、気をつけてな」
「先生も二度寝しないでちゃんと帰ってくださいね。鳳仙さん待ってますから」
「今から寝るわけないだろ…って、エリスは関係ないだろうが」
「はいはい。明日はちゃんと出てくれますよね、か・み・く・ら先生?」
「善処する」
「なるべく期待しない方向でいます」
「あー、もういいからさっさと帰れっ」
「はい、それじゃあ失礼します」
先生が逆切れ気味になってきたのでさっさと退室する。
『暗いから本当に気をつけてなー』
準備室の扉の向こうから先生の声がしてくる。
廊下の窓の外を見るといつの間にか本当に真っ暗になっていた。
まったく…先生は意外なところで優しいんだから…。

そのあと、何日かして、鳳仙さんはすっかり前のように、とはいかないものの、気合が入ったように絵を描き始めた。
そして、6月初旬のコンクール。
鳳仙さんの絵は見事入選を取っていた。
彼女の喜んでいる顔もそうだけど…その隣で嬉しそうにしていた先生の顔がすごく印象的で…。
先生、あの時、鳳仙さんに何て言ったのかな…。
捻くれ者の先生のことだから回りくどい言い方になりそうだけど。
でも、先生が鳳仙さんのことを信じきっているのは私にも分かるから…。

鞄の中にあるスケッチブックを思い出した。
先生は覚えてないかもしれないけど…私には大切な思い出。
……上倉先生、いつかそんな鳳仙さんを見るような目、私にも向けてくれますか?

■ Sketch3. 夏風

美術準備室の窓辺で一人溜息をつく女子学生。
少しは絵になりそうな光景かな、と思うんだけど…
『まったくもう…教師なんだから準備室の整理くらいしてほしいわね』
『あ、このパステルのケース、中身無いのに放置してるじゃないの』
私の口から出るのは愚痴ばかり。
夏休みも終わりに近づいて、撫子学園の文化祭、撫子祭も近づいてきた。
美術部ももちろん部員の作品展示を行うとともに、以前の入選作も出すことになっている。
そんなわけで、先日鳳仙さんに自分の絵を探してもらったのだけれど
『あの先生が他の人にも分かるように整理するわけないわよね…』
あちこち放置されたイーゼル、画材、数年前の作品、石膏像だの何だので準備室の中はごちゃごちゃ。
結局は上倉先生があっさり問題の絵を見つけたし。
そして、私はこの状況を放置するわけにも行かないので、相変わらずサボっている先生に代わって整理中。
(ケホケホ)
棚の奥にたまった埃やらでちょっとむせてしまう。
『うーん、一人でやろうと思ったの、失敗だったかしら』
責任感が特にあるつもりはないけど、やっぱり誰かに応援を頼むべきだったかもしれない。
準備室特有の夏の暑さもあって、ちょっとミスしたかなと思う。
……先生が普段からやってないからこういうことになるんだけどね。

「竹内部長ー、どうですか?」
「鳳仙さん。絵のほうはいいの?」
「ちょっと一段落、です。それよりもお兄ちゃんがいつもご迷惑おかけしてすみません…」
本当に済まなさそうな顔をして、鳳仙さんが謝っている。
「いいのよ、これも一応部長の仕事だし。鳳仙さんが気にすることじゃないから」
「でも…」
私の言葉にまだちょっと未練があるようで、相変わらず悲しそうな顔をしている。

ひょっこり、準備室に顔を出してきたのは一年生の鳳仙エリスさん。
5月の頃のゴタゴタや梅雨時のスランプもちょっとあったけど、いつも元気に楽しそうに…だけどとても真剣に絵を描いている。
誰が見てもとってもすばらしい絵を描くのだけれど、彼女に絵を教えたのは上倉先生。
でも、この娘の先生への接し方って師匠と弟子じゃなくて、やっぱり恋する乙女なのかな。
端から見てても分かるくらいなんだから、先生自身分かってるんだろうけど…
あんな風に素直で、まっすぐに気持ちを伝えられるんだから…ちょっとうらやましいと思う。

「うーん、それじゃあ…鳳仙さんにも手伝ってもらっていいかしら?」
このまま放っておいても落ち込んでいきそうなので、手伝ってもらうことにする。
鳳仙さんのこの責任の感じ方って、身内とかよりも…恋人とか夫婦とかそういうのだよね。
上倉先生に言ったら思いっきり否定されそうだけど。
「は、はいっ!」
「そんなに気合入れる必要ないわよ?」
「でも、お兄ちゃんのせいですから」
「それもそうだけど、でもね」
「どこをやればいいですか?」
既にやる気満々の鳳仙さん。
色々言うべきこともあったのだけれど、結局私は諦めた。
「…そうね、じゃあ…先生の机の上とその隣の戸棚、お願いできるかしら」
「はいっ…わぁ、なんだかすごいことになってますね」
鳳仙さんが見た先は、先生がこの間引っ張り出した一年生のクロッキーブックが山のようになっていた。
どうして先生がそんなもの出したのか分からないけど…片付けないのはどうしてかしら。
「あれ、これ私のクロッキー帳が一番上にある…」
「お兄ちゃん、何で私の見てたんだろ」
「鳳仙さん、独り言もいいけど、手は動かしてね?」
「あ、済みません…でも、どうしてだろ、って思っちゃて」
「そうね…」
会話はそこで途切れて、あとは黙々と作業を続ける。
鳳仙さんのクロッキーブックか…。
なんとなく分かる気がする。
授業で使うものの中は見たこと無いけど、部活で使うものは何度か見せてもらっている。
簡単なデッサンなのに、彼女らしさが出ていて引き込まれるような…そんな絵。
ああ、このデッサンをとった人は絵を描くのが好きなんだな、って思える楽しいクロッキーブック。
先生があのクロッキーブックを見ていたのだとしたら…

「あ、あと…もう…少し…」
「ん…?」
ちょっと苦しそうな声がする方を見てみると、背伸びした鳳仙さんが棚の一番上のキャンバスを指先で取ろうとしていた。
…って、そのまま指引っ掛けたら危な―――
「きゃあっ!!」
「ほっ、鳳仙さんっ!?」
(ガタガタゴタガタ…)
「鳳仙さんっ、大丈夫っ?」
沢山のキャンバスの山に潰された彼女を引っ張り出す。
「竹内ー、どうしたの?」
「あ、うん…多分平気。棚の上の物落としただけだから」
「そう、気をつけてね?」
「ええ」
物音を聞いて顔を覗かせた同級生を安心させてから、改めて鳳仙さんを見る。
「…痛いですー……」
「大丈夫かしら?」
「何とか…」
「あまり無理して高い所取ろうとしちゃ駄目よ」
「うー、あんなに乗っかってると思わなかったんですよー」
涙目で鳳仙さんが答えてくれる。
どうやらケガはしていないみたい。
床に散らばったキャンバスを見ると…十…四・五枚あるかな。
さすがにこの数だと重くなっちゃうわよね。
「……………」
「鳳仙さん?」
「………部長、この絵って…」
鳳仙さんの目は床に転がった絵の一枚に向けられていた。
釣られて私も見てみる。
「あ…」
「知ってるんですね。…その、もしかして……」
恐る恐る聞いてくる鳳仙さん。まぁ…気持ちは分かるけど。
「当たり。上倉先生のよ」
「わっ、やっぱり! …でも、お兄ちゃん最近ずっと描いてないのに…」
「そりゃそうよ、2年以上前の絵だもの」
「2年以上?」
「そう」
「へぇ…」
鳳仙さんの見つめる絵は、私にとっては随分と懐かしい絵だった。
初めて…この学園に入ってから初めて見た先生の絵だったから。

鳳仙さんはまだ気づいてないけど、絵の裏に題名が描かれてある。
『入学式』
上倉先生が春休みにこの学園に赴任してきて、最初の仕事がこの絵だったらしい。
なんでも校内新聞に載せるとかで、理事長先生に描かされたとか。
絵の中で桜満開の校門を校舎に向かって女子学生が駆け抜けていく。
その年、新しく出来た『サギノミヤ』デザインの制服を着たおかっぱ頭の女の子。
普通の女の子なのに、初めてこの絵を見たとき、とても輝いて見えた。
それは多分…

「すごく…この女の子嬉しそうですねっ♪」
そう、今の鳳仙さんと同じ感想だった。
入学した喜びと同じくらいの不安、それに春の楽しさ…そんなものが一緒になった絵だと思った。
だから、絵の中の女の子がとても周りの風景と合っているような気がした。
「そうね、私もそう思ったわ」
「わぁ…やっぱりお兄ちゃん絵が嫌いになったわけじゃないんだ」
「…? でもこの絵、2年前ですよね?」
「ええ」
「やっぱり…何かあったのかな…最近描いてないみたいだし」
私があの絵を見て、入部を決めてからずっと先生のそばにいたけど、やっぱり自分の絵を描く様子は無かった。
本当に時々、授業で必要になったときに描くくらいで。
鳳仙さんの言うとおり、何かあったのかもしれないけど…私にはずっと分からないまま。
「それに…」
「ん、どうしたの鳳仙さん」
「この女の子って、どこかで…」
「そう? どこにでもいそうな普通の女の子だと思うけど…」
「そうなんですけど…お兄ちゃんが人物画を描くのってすごく珍しいんですよ?」
「やっぱり鳳仙さん、上倉先生のこと良く知ってるわね」
「もちろん、お兄ちゃんの一番弟子ですから♪」
心からそれを誇りに思っている笑顔。
今の先生を見ても、まったく動じないんだから本気で先生のこと好きなのね。
「それで…竹内部長…?」
「どうしたの、いきなり不安そうな顔して」
「この絵、持って帰っちゃ駄目…ですか?」
「………………」
鳳仙さんの言葉に私はすぐに答えることが出来なかった。
実は昔、同じ言葉を『描いた人』に言った学生がいるのよね…。
「その…ね、鳳仙さん、先生の従兄妹だから大丈夫かもしれないけど…無断で持ち出すのは、ね」
「うー、お兄ちゃんに言うと怒られるような気がするんです…」
「そのうち、先生もまた何かで絵を描くと思うから」
「はい…」
しょんぼりして残念そうな鳳仙さんを見て、ちょっと罪悪感が募る。
ごめんね…。
心の中で、鳳仙さんに謝る。
これは、私のわがまま。
私にとっては、思い出の中に仕舞い込んだ大切な絵だから…。
「そんな悲しい顔しないで、片付けちゃいましょ?」
「鳳仙さんが頑張れば、いつか先生も描くようになるかもしれないわよ」
「そうですね。ううん、絶対にそうしてみせますっ!!」
「それじゃあ、バリバリ片付けちゃいますね♪」
本当に、まっすぐで純粋な女の子だ。
そして私の知らない上倉先生をいっぱい知っている。
やっぱり、私は彼女がうらやましかった。
「あ、風…」
「いい風ですねー」
開けた窓から準備室を涼しい風が吹き抜ける。
この風が吹くと、夏ももうすぐ終わり。
私は鳳仙さんに見つからないように、そっと溜息をついた。

先生…あの絵、いつまで待てばいいんですか?

■ Sketch4. いつかの春

今も美術準備室においてある先生の絵を初めて見たのは2年以上前、入学式の朝だった。
教室で配られた校内新聞、フルカラーの一面、その半分を絵が飾っていた。
その年の春に決まったサギノミヤブランドの真新しい制服。
自分と同じ制服に身を包んだ女の子が桜の校門を走り抜けていく。
その女の子が、そのときの自分と同じ気持ちに見えて、すごく良い絵だと思った。
絵の良し悪しなんてさっぱり分からなかったけど…わたしにとってはただ純粋に『素敵な絵』だった。
二度目に同じ絵を見たのは、それから10日後。
放課後だった。

(コンコン…)
恐る恐る、美術準備室の扉を左手で叩く。
「ん…どうぞー」
中から男の人の声がする。
三時間目に受けた授業の先生の声だ。
「えっと…」
初めての部屋に入るときは妙に緊張する。
「1年3組、竹内麻巳、入りますっ」
特にこの部屋のように絵の具の臭いに満ちた所は。
絵の具って、こんな臭いするんだ…油絵なのかな。
「そんなにカチコチになる必要無いって」
「は、はいっ」
「はは…ガッチガチだな」
必要以上に固くなる私を、目の前の若い美術教師が笑っていた。
「俺も新米教師、お前も新入生、同じ一年生だ。だから気にする必要ないさ」
「……はい」
ちょっと困った顔をしながら優しく微笑んでくれる。
そんな様子を見て、私も少しだけ力が抜けた。
「で、何だったかな。えっと…3組だからスケッチブックか」
「あ、はい」
「悪かったな。ようやく午後に届いたんだ。最初の授業には間に合うように頼んだんだけどなー」
そう言って、私の足元にあるダンボール箱を見やる。
『御影堂文具店』と印刷されたダンボールに走り書きで“スケブ32セット”と書かれてあった。
本当はさっきの授業中にみんなに渡されるものだったんだけど、入荷が遅れていたらしい。
どういうわけかクラス委員にされてしまった私が取りに来たんだけど…
「あ…これですね。それじゃあ…えっ!?」
「結構重いから気をつけてな。って、どうした」
私の目は段ボール箱の横に無造作に置いてあったキャンバスに釘付けになっていた。
「………どうした。まさか箱が壊れてたとか…って、何とも無いみたいだな」
完全に固まっている私の横に来て、先生がホッとしていた。
「一体どうしたんだ。まだ固まってるし」
訝しげに私の方を窺っている。まぁ…それが普通なんだけど。
ゆっくりと、右手でその絵を指差した。
「あの、この絵ってもしかして校内新聞の…」
「なるほどな。そっち見てたのか。…まぁ、そうだな」
「やっぱりっ!! でも、何でこの部屋に? もしかして先生が描いたんですかっ!?」
「あ、ああ…?」
隣にいた先生にわたしは一気にまくし立てた。
後ずさりする先生に構わずにどんどん続ける。
「そうですよね。美術教師ってやっぱりすごいんですねっ、こんな綺麗な絵を描くなんてっ!」
「ちょ、ちょっと待て…」
「わーっ、本物の絵を見られるなんて…わたし、あの新聞ちゃんと取っといてあるんですよっ。だってあんなに綺麗なんだもの」
「いいから落ち着けっ!!」
喋りっぱなしの私に先生の雷が落ちる。
「はいぃっ!」

先生の絵を見て思わず興奮していたらしい。
しばらくして、ようやく動悸が治まってきた。
「さて、少しは落ち着いたか…えっと…竹内、か」
「は、はい…何とか」
「そんなに興奮するもんかなぁ…この絵で」
先生の手にあのキャンバスが握られていた。
無造作にひらひら振っているのが、ちょっともったいないと思う。
「だって…さっきも言いましたけど…すごく綺麗だと思ったんですよ…?」
「ふーん…」
なんでだろう。
先生は自分が描いた絵なのに…まるでただのラクガキのように扱っている。
「私…絵のことさっぱり分かりませんけど…とってもいい絵だと思います…」
「まぁ…褒めてくれるのは嬉しいけどな」
「でもなぁ、俺にとっちゃ、理事長に描かされた絵だってだけだからなぁ…」
「描かされた…ですか?」
「ああ。俺は竹内たちより早く、学園に来てたんだけど、最初の仕事がこれだったんだよ」
「どういう流れだったのか知らないけど、理事長が代わって色々な節目だったんだ。この春は」
「だから、新入生が喜ぶような絵を描いてくれって、そんだけの注文」
「まったく…一体どうしろっていうんだかな」
呆れたような口調で言ってるのに、先生の顔は笑っていた。
もしかして、先生は結構この仕事、楽しんでたんじゃないのかな。
「でも、みんな喜んでましたよ。すっごく綺麗だって」
「真ん中の女の子が可愛いとか、桜がすごいとか…」
「ありがとう、と言っておくよ」
何だか、あまり嬉しそうじゃない。
どうしてなんだろう。
先生はどうしても自分の絵を悪く言いたいみたいに見える。
「先生は…その絵が嫌いなんですか?」
「いや、まぁ…そう言うわけじゃないんだけどな。ただ、俺より上手く描ける奴はいっぱいいるってことさ」
「それにもう必要とされてない絵だしな」
「じゃあ、この絵、貰っていいですかっ!?」
「はぁっ?」
「駄目ですか…? 無茶なこと言ってるのは分かりますけど」
「そうだなぁ。まぁ、考えとくよ」
「きっとですよっ」
残念、と溜息をつきつつも先生に念を押す。

先生はさっきのように呆れた顔で私を見ていた。
「なんでそんなにこの絵に拘るんだ。良い絵かもしれないけど、とりあえずただの絵だぞ?」
「私には描けないから、です」
「…そりゃ、俺だってそれなりに勉強して描いてるんだから…」
「はい、分かってます。だけど、今まで私、誰からも絵の描き方教わったこと無くて」
「ん、学校の授業ぐらいあるだろ」
「どの先生も、課題だけ出して後は『描け』でしたから…」
「上手い子はどんどん描けるようになるんですけど、私はいつまでたっても子供のラクガキのままでした」
「そうか…そりゃ、まずいこと聞いたな…」
多分、先生は子供の頃から絵が描ける人だったんだろう。
教えてくれる人もいたのかもしれない。
私の話を聞いて、気まずそうにしていた。
「図工の時間はいつも適当だったんです。でも、好きなことがあったから…あの頃は気にしませんでした」
気にしなかった、というよりはどうでもいいと思っていた。
絵なんか描ける人が好きに描いていればいい、と思ってたから。
「好きなこと?」
「バスケットボールです」
「へぇ…竹内はバスケができるのか」
「県大会で上の方まで行ったこともあるんですよ」
そりゃすごいな、と先生は感心したように頷いてくれた。
もしかして、先生バスケのこと結構知ってるのかな。
「ん? それじゃあ、こんな所でのんびりしてていいのか? 撫子でもバスケ部に入ってるんじゃないのか?」
慌てて先生が壁にかかっている時計を見る。
もうどこの部活も始まっている時間。
そういえば、隣の美術室からも声が聞こえてきた。
「バスケが好きならそれを頑張ればいいじゃないか。ここのバスケ部は強いって聞いたぞ?」
「もう、出来ませんから」
「何?」
先生が驚いていた。
多分、そのときの私はすごく悲しい笑い方をしていたんだと思う。
もう吹っ切ったと思ったのに…私は心の中でまだあきらめられていなかった。
「右腕の肘、痛めちゃったんです。お医者さんに二度とバスケはするな、って言われるくらいに」
そう言われた日、私は一晩中泣いた。
どこにこんなに涙があったんだろう、ってくらい泣いて…
冬の朝日が私の部屋に射し込んでくる頃…泣き止んだ。
「そんなに、酷いのか?」
「えっと…鞄ぐらいのものを持つのも、今はちょっと大変なんです」
そう言って、ちょっと右腕を上げてみた。
肘から上が小刻みに震えているのが多分、先生にも見えたんだろう。
納得したように、そっと私の腕を下ろさせた。
「お医者さんは、『そのうち生活する分には問題ない位にはなる』って言ってましたけど、バスケはどうしようもないですから」
「…全部納得してからしばらくして…どうして絵を描けるようになっておかなかったんだろう、って思ったんです」
ずっと、ずっとどうでもいいと思ってたのに、右腕が使えなくなってから後悔するなんて馬鹿だな。
そう思ったのが本当に、ついこの間のこと。
「そんなときに出会ったのが、先生の絵だったんです」
「ああ、こんな絵を描けたら良かったのにって」
だから、ここで先生の絵を見つけたとき…すごく欲しくなっちゃったんです。
「なるほどな…」

一言だけ呟いてから、上倉先生はしばらく何か考え込んでいた。
時々私の顔を見て、また目をつぶって…その繰り返し。
そして…
「あのさ…ちょっとだけ描いてみるか?」
「え…?」

■ Sketch5. スケッチブック

「もし、描きたいって気持ちがあればさ」
上倉先生の言い出したことが、最初は何のことだか分からなかった。
先生の穏やかな言葉に、私は目を白黒させるだけで。
「…えと、先生?」
「鉛筆持つくらいはできるよな?」
「は、はい」
「よし、じゃあちょっと待ってろ」
(ガサゴソガサゴソ…)
先生が机の横にあった鞄をいじくっている。
やがて、一冊のスケッチブックを引っ張り出した。
「ほら、コレやるよ」
「…?」
無造作に私に手渡す。
「俺の使い古しだけど、まだページ余ってるからいいだろ」
ちょっと大きめで紫色…ううん、ラベンダー色のスケッチブック。
ゆっくりと表紙をめくってみる。
「あ…」
撫子学園の校門。
まだ蕾のままの桜。
次のページをめくってみた。
上級生だろうか。新しい制服の女の子が描かれていた。
あの絵の女の子とは違う髪形だけど、雰囲気はどこか似ていた。
その次のページ。
美術室なのかな。イーゼルに向かって座っている人達。
どれも簡単なスケッチなのに…すごく生き生きとしていた。
「えっと…」
「そろそろ白いページが出てくるだろ。そこに好きな線を引いていいよ」
「ほら、こっち」
先生が机の前に私を座らせる。
「あんまり難しいこと、考えなくていいからさ」
「ほら、こうやって持って…」
そう言って私の右手に鉛筆を握らせる。
四本の指の腹に鉛筆を乗せて、親指で軽く抑える形。
「何だかこの持ち方…」
「これなら力要らないから多分大丈夫だろ」
「…はい」
「ゆっくりと線を引いてみ」
「………」
先生の言うとおり、鉛筆を動かしてみる。
途端に肘から先の腕がガクガクぶれて、線が蛇行していく。
「あ、あの…」
何だか、泣きたくなってきた。
私はたった一本の線すら描けないんだ。
「ちょっと違うかな。肩の力抜いてみ」
「は、はい」
ゆっくりと首から下の筋肉の力を抜いてみた。
「そうそう。それで…」
そっと先生が私の肘に手を添えて…
「肩の関節を回すようにして…そう、そんな感じ」
先生の手に動かされるようにして、私の腕が動いていく。
「あ…」
鉛筆の動いた後に、柔らかい曲線が描かれていた。
「きれいな線…」
「うん、上手く描けるじゃないか。竹内」
「え…と……先生?」
「どんなに上手い奴でもこっから始めるんだよ。絵って」
戸惑う私の顔を見ながら、先生はにっこり笑っていた。
もう分かったろ、という表情をしながら
「実は絵を描くのにあまり力は要らないんだ。最初は疲れるかもしれないけどな」
「もし…竹内がこのスケッチブックでもいいなら、好きなだけ線をまず描いてみるといいよ」
「人にもよるけど、多分すごく楽しくなるから」
「は、はいっ」
促されるまま、また鉛筆を動かしていく。
先生はまた肘に手を添えてくれていた。
「…………」
最初は短い線だったのが、次第に長い曲線になっていく。
だんだん思う方向に鉛筆が動いてくれるようになって…スケッチブックはいつの間にか真っ黒になっていた。
「あの…先生……」
「次のページも使っていいよ」
「…ちょっとだけ指の力の入れ方も変えてみ。少しだけでいいからな」
「はい…」
ページを開く。真っ白な画用紙が現れた。
さっきと同じようにゆっくりと…だけどちょっとだけ指を使って線を引いてみる。
だんだんと画用紙の上に濃淡のある画面が出来上がっていく。
先生は、じっと私の顔と手を見ながら待っていてくれた。
「大体真っ黒になったか?」
「はい。何だかすごいですね…今まで全然やったことないのに…思うような方向に鉛筆が動いていくんです」
「ああ。俺もそう思う。お前さんの性格なんだろうけど、鉛筆が生きてるような気がするよ」
「えへへ…褒められちゃいました」
やってることは簡単なことなのに、先生にこう言われるとすごく嬉しかった。
何より、あんなに嫌になっていた動かない右腕が思うように動いてくれるのが楽しかった。
「もう一枚、ページ使ってもいいですか?」
「ああ、好きなだけ使って構わないよ」
「はいっ」
「次はもうちょっと形のあるものにしてみるか?」
「…形、ですか?」
「そうだなぁ、例えば…」
そう言って先生は簡単な円の描き方を教えてくれた。
次は影のつけ方…たった鉛筆一本で本当のボールみたいな絵が出来上がって…
いつの間にか、スケッチブックには林檎なのか、梨なのか…
ちょっと分からないけど、果物のような絵が何個も出来ていた。
「何か食い物みたいだろ?」
「はい」
「実はさ、自然が作るものって丸っこい形のものが多いんだ」
「だから林檎に見えたりトマトに見えたりするのさ」
先生は、人間に一番近いのはやっぱり身近な自然だからだろうな、と付け加えていた。
「ちょっと工夫すると結構美味しそうに見えるぞ」
「先生、どうやるんですか?」
「よし来た。まずは…」

あっという間に時間が過ぎていった。
私の隣にはずっと先生がいてくれて…
スケッチブックには、簡単だけど色々な絵が描かれていた。
「んー、そろそろ下校時間か。そういや部活サボっちまったな」
私の顔を見て、先生がいたずらっぽい顔していた。
「あ…済みません」
先生の言葉に慌てて私は謝った。
もう二時間近く、先生に迷惑をかけていたことになる。
「気にするなって。それよりも…楽しかったろ?」
「はいっ」
今までの…どんな図工の、美術の時間よりも楽しかった。
一つ一つの線を描いていく。ただそれだけのことがすごく嬉しくて。
「それで、だ。竹内、部活…決まってなかったんだよな」
「はい…」
本当はバスケットがやりたかったけど…撫子に入る直前に怪我をして諦めた。
だから、今は帰宅部のままでいこうと思っていた。
「…だったら美術部でいいんじゃないか?」
「え…だって、ここの美術部って名門なんですよね」
絵の素人の私だって、学校案内で読んで知っていることだ。
「確かにそう言われてるけどな。去年は麻生画伯で、今年は美咲画伯が出てるし…って、これは分からないか」
「ちょっと画家さんの名前までは…」
「でも、イチから始める奴も結構いるらしいぞ。苦労してみたいだけど」
「やっぱり大変なんですよね」
「まぁ…大丈夫だろ。ウチの部員は構いたがりが多いから嫌だって言っても色々教えてくれるはずだ」
だから、初心者でも大丈夫、と先生は笑っていた。
「先生は教えてくれないんですか?」
「ん…。そうだなぁ、気が向けばな」
「結構、不良教師なんですね」
あれだけ教えてもらっといて、私は身勝手なことを言っていた。
でも、私の言葉はどうやら図星だったらしい。
痛いところを突かれたような顔をしていた。
「あー、俺のことはどうでもいいんだよ。要はさっきみたいに何か描く気があればどうにかなるさ。技術はその後」
「先生のあの絵みたいなのも描けるようになりますか?」
「…あれを目標にするのはやめた方がいいよ」
「何でです? あんなに立派な絵なのに」
「俺の絵はともかくだ。上手くはなると思うよ、お前さんなら」
「そ、そうですか?」
上手くなる、と言われて嫌な気はしない。たとえお世辞でも。
「ああ、多分な」
「多分じゃ保証になってないですよっ、先生!!」
「ははは」
「もう…」
呆れた人だ。
でも、何でだろう。この先生の言葉は妙に信じられた。
「分かりました。先輩たちには迷惑かけちゃうかもしれませんけど、美術部に入ります」
「そうか」
私の言葉に先生はにっこりと笑ってくれた。
「でも、先生。ちゃんと責任もって指導はしてくださいね?」
「分からないところあったら絶対聞きに来ますから」
「あまりアテにはしない方がいいぞ」
「大丈夫です。無理矢理にでも教えさせますから」
そりゃ参ったな、と苦笑いで先生は返してくれた。
「よろしくお願いします、上倉先生♪」
「ああ」

あれから…
私は優しい先輩たちのおかげで、何とか人に見せられる絵を少しずつ…本当に少しずつだけど描けるようになった。
出来上がるたびに、真っ先に先生に見せに行った。
家まで追いかけたこともあったかな。
先生のサボリ癖はあの頃から変わらない。
それでも先生は、私の絵を見る度に、何か一つアドバイスをくれた。
少し困ったような…でもやっぱり少し嬉しそうな顔で。
先生のアドバイスを貰って、また真っ白なキャンバスに向かう。
私の撫子での生活はそんな楽しい時間の繰り返しだった。

でも…先生はいつまでたってもあの絵を私にくれることはなかった。
そして、私が撫子にいられるのもあと半年になっていった。
ゆっくりと…撫子学園にも冬が近づいていた。


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