想い出の東京教育大学
東京教育大学小史

(A Short History of Tokyo University of Education)

(注)この「小史」は、「教育大学新聞」の毎年の「受験生特集号」の大学紹介の記事をベースに、一部加筆して再構成したものです。


師範学校の誕生

 維新の余塵残る明治5年4月、文部省から「小学校教師教導場ヲ建立スルノ伺」が正院に提出され、これにもとづき同年5月29日、湯島の旧昌平黌跡に日本最初の官立学校として「師範学校」が開設された(初代校長諸葛信澄)。生徒募集の結果、300人余りの志願者から54名の合格者が同年8月入学した。アメリカ人のスコット(Marion McCarrell Scott)が大学南校から教師に招かれ、アメリカの師範学校そのままの授業を開始した。当時教官はスコット1人、授業科目も「教育之法」の1科目であった。明治7年、明治天皇参観の際、スコットは「国家の富強に赴くはこの学校をもって嚆矢と為すべし」と述べている。

 明治6年7月にはじめての卒業生10名を出したが、それだけでは到底圧倒的な需要を満たすことはできなかった。そこで大阪、仙台、広島などに新たに師範学校が設けられ、同時に本学は「東京師範学校」と改称され、各地の師範学校の教師を養成するという性格をもってきた。明治8年には中学教員を養成する中学師範学科が新設された。親睦と修養を目的とする生徒寄合会も13年に生まれ「強迫教育について」「天賦の人権」など政治や教育を羽織り、はかまで盛んに論じ、また卒業生の親睦と教育の進歩を図ろうと同窓会「茗渓会」も15年に設立された。(注=「強迫教育」とは「Compulsory Education」の訳語で、今日の用語で「義務教育」のこと。)

 

高等師範学校の成立

 明治18年に本校監督となった森有礼は、盛んに校則の改革を行ない、本校を「教育の総本山」と称した。さらに初代文部大臣として明治19年に公布した一連の学校令により、国家主義的教育体制が確立されて行くが、その一つが師範学校令である。これにともない東京師範学校は中等学校の教員のみを養成する「高等師範学校」となり、他の師範学校は尋常師範学校となった。

 森の考えた師範教育は、埼玉県師範学校における彼の訓辞によれば、日本を二等国から一等国にまで高め、ついには「万国の冠」たらしめることを「日本男子の志」と考え、その原動力を「十中八九此師範学校の力」に期待し、高師を「教育の本山」と考えたのである。そして教員はまず「善良の人物」でなければならない、それには「従順」「友情」「威儀」の三気質を備えるよう教育されなければならない、と考えた。この三気質は師範学校令の「順良、信愛、威重」と同じものであり、これが「師範タイプ」の内容なのである。そしてこの3つの目的を達するためには「兵式体操」を「利用すべき一法」と考えた。後に森が出した「兵式体操に関する上奏案」には「厳粛ナル規律ヲ励行シテ、体育ノ発達ヲ致シ、学生ヲシテ武毅順良ノ中ニ感化セシメ、以テ忠君愛国ノ精神ヲ涵養シ艱難忍難ノ気力ヲ渙発セシメ他日人トナリ徴セラレテ兵トナルニ於テハ、其効果著シキモノアラン」と兵式体操の効能を考えていたのである。この兵式体操は本校ではすでに18年に森が監督に就任してまっさきに行なわれていたのである。

 19年8月には銃を肩にし剣を帯び、酷暑を冒して信甲駿相の山地を行軍した。陸軍省総務局制規課長陸軍歩兵大佐山川浩(元会津藩家老、その後少将)を校長とし、松井少尉を現役のまま体操教官とし、「教場外一切の事業を以て気質鍛錬の資に供し、就中寄宿舎及び体操に係わるものを以て、教場外最重の事業として之に充つべきなり」という文部省訓令のもとに寄宿舎生活から服装にいたるまで完全に軍隊化された。明治23年には教育勅語が発布され、高師は忠君愛国の国家主義教育を推進するかなめとしての役割を果たすことになった。

 明治26年嘉納治五郎が校長になり、それまでスポーツには冷淡だった本校に柔道を奨励し、しだいに他の運動も行なわれるようになり、29年には初めて運動会が開かれた。この頃、「高師か、一高か、蔵前か」と世にうたわれ、高専中の最難関とされていた。

 明治35年、広島にも高師が新設され、本校は「東京高等師範学校」と改称し、36年には今の大塚の地、松平大学頭(陸奥守山藩)の邸跡に校舎を移した。現在嘉納治五郎の銅像のある占春園はその邸の名園として名の高かったものである。移転した当時、夏目金之介、上田敏、平田禿木なども教授として名を連ねていた。桐の葉の徽章、襟章が定められたのもこの年だ。いままで学生はすべて官費でまかなわれていたが、明治37年に初めて自費生の入学が許された。44年にはそれまでの研究科の上に専攻科がおかれた。

 大正7年に大学令が公布されると、それに基づいて医専、高商、その他専門学校が続々大学に昇格したが、高師は教員養成の最高機関としての長い伝統と自負にもかかわらずひとり取り残された。

 このような状況の中にあって、卒業生、在校生の中から昇格運動が勃発した。校友会は「吾人はすでに忍ぶべきを忍び堪うべきを堪えたり。今や我らは起りて死力を尽して目的の貫徹に努むるのみ」と宣言し、教授会、茗渓会と連携し、「教育尊重、精神文化の宣揚」をスローガンに掲げ、宣揚歌を高唱し、「昇格か廃校か」の決意のもとに運動をつづけ、大正12年、3年間の波乱の後にようやく「大学」への昇格案が議会を通った。しかし折悪しく関東大震災が起こって大学開設は昭和4年まで延期された。

 

東京文理科大学の新設

 昭和4年4月「東京文理科大学」が新設され(初代学長三宅米吉、ただし同年中に急逝し大瀬甚太郎が二代学長となる)、高師はその事実上の付属となった。「国家ニ須要ナル学術ノ理論及ビ応用ヲ教授シソノ蘊奥ヲ攻研スル」とともに「人格ノ陶冶及ビ国家思想ノ涵養ニ留意スル」文理科大学は9学科15専攻をもつ学術研究の単科大学として出発した。昭和7年に高師の3年修了者にも大学進学が認められることになり、高師は文理大の予科化の傾向をたどった。この年に本学学位規定による最初の博士号が乙竹岩造教授(文博)に授与され、諸施設も付属臨海実験所が下田に、付属高原生物研究所が菅平に設置され、付属図書館と茗渓会館の新築がなり、教育相談部も設置され学術研究機関としての本学の体制がしだいに整った。

 一方、こうした文理科大学に不満をもつ高師や茗渓会は、フランスのエコール・ノルマルに範をとった師範大学に改編するようたびたび運動したが成功せず、新制大学に発展するとき再燃することになる。

 生徒寄合会から発足した校友会は大塚学友会となり、教育大学新聞の前身である大塚学友会会報が昭和5年に創刊され、昭和14年には文理科大学新聞となり、文化活動にも運動にもめざましく活躍したが、第二次大戦のうちに大塚学園報国会と改編させられ、学生一人一人の心のなかに人間の尊さにめざめる若人の苦悩をいだきながらも、隊組織に組み込まれていった。

 

東京教育大学の誕生

 戦争は日本を大きく変え、文理科大学もその例にもれることは許されなかった。

 昭和20年5月25日夜、空襲で焼夷弾の直撃を受け、本学は半分以上の校舎を焼失したが、W館図書館などが残ったので、かろうじて学問の水準を保った。(図書館の大時計が終始正午を指したまま停止していたのは空襲により故障したためであるが、その後閉学に至るまでついに修理されることはなかった。事情を知らない新入生はみな不思議に思ったものである。)その後深刻な校舎不足に悩みながらも、戦後の新しい文化と教育を確立するため、文理科大学を革新する機運が盛り上がり、文理大、高師の合併問題ももちあがってきた。

 23年2月、文理科大学から「我々の矜持した伝統も権威も今や崩落の危機にひんする」にはじまる「文理科大学宣言」が発表された。

 下村寅太郎教授の起草といわれるこの宣言は、大学の任務は「最高の知性を結集して諸学において開明せられたる所を国家社会の究極目的に綜合統一すること」であり「文理科大学は人文科学と自然科学との真の綜合大学たるの実を挙げ両者の内面的浸透を実現することによって、新しき時代が要請し新しき時代を教育するにたえる教養人としての教師を打出す」べきだと結んでいる。この宣言によって東京文理科大学と東京高等師範学校の合同問題にも大きな波紋が生じ、新しく東京教育大学が生まれるまでさまざまな紛争がうず巻いた。

 合同にあたって文理大側は、いままでの文理大をより充実させ、一般的教養を深めさせるとともに教職的教養をもつ、という「文理科大学案」を提出した。これに対して高師側は、教育に関する理論と実践の最高総合研究機関とし、主に教育者を養成する「教育大学案」を提示した。この2つの案が大学高師合同委員会において検討される一方、学生大会でも「文理大案」に似た「学芸大学案」を打ち出し、茗渓会も「教育大学案」を作成した。

 これらの案をもとにして新しい大学の構想が練られていたが、大学、高師の教授会の対立が激化し、具体案はなかなかまとまらなかった。このように問題が紛糾し長びいたので合同委員会は解散し、新たに新大学設置準備委員会が作られたが、これも大学と高師の対立により務台理作学長が辞任するとともに消滅した。その後も交渉がつづけられ、ようやく文理大、高師、東京農業教育専門学校、東京体育専門学校の4校合同の案が決まり、5学部129講座の「東京教育大学(仮称)」が文部省に申請された。

 しかし、校名にまつわる紛争は絶えず、「東京教育大学」を支持する高師、農専、体専側と、それでは教員養成のみが強調されて学術研究の面がおろそかにされるから他の名称にすべきだという文理大側とはたがいにゆずらず、そのうえ大学自治会も新大学の名称を「文理科大学」と固執し、ストライキも辞さない強硬な態度を示した。このような事態に文部省が「文教大学」の案を出すなどいろいろ妥協工作が行なわれたが成功しなかった。結局、高師側の運動が効を奏して、昭和24年6月1日、「東京教育大学」が設置されたが、文理大教授の大部分は教育大学への不参加を表明するにいたった。その紛争解決の目途も立たない時に初代学長として文部省社会教育局長柴沼直氏が就任し、紛争解決のために文理大教授の脱退派に「大学の運営は文理大の意見に従う」旨の約束を行ない、脱退派の教授福原麟太郎、石山脩平、藤岡由夫各氏をそれぞれ文、教育、理の各学部長とし、評議員を各学部予定教授から単記投票で選出させ、評議会では文理大教授が絶対多数を占めるようにお膳立てをすることにより、脱退声明組を翻意させることに成功した。それ以後、評議会が唯一の合議機関として全権を掌握し、大学の運営は文理大の意見に従って行なわれることになったので、新制大学は旧制文理科大学の支配下に置かれてしまった。このようななかで、24年7月、文教理農体の5学部38専攻をもつ総合大学へと発展した「東京教育大学」の第1回入学式が行なわれ、800名が入学した。

 一方、22年には教育基本法が制定され、「真理と平和を希求する人間の育成を期する」という根本理念が明示され、この精神にもとづいてさまざまな教育改革が行なわれた。24年の「教員養成は大学の学部で行なう」という開放的な教員養成制度もその一つであり、戦前の師範学校方式とはまったく異なる方向であった。

 

東京教育大学の発展

 発足当初の東京教育大学では、旧制大学の人事権がそのまま継承されたので、新制大学の人事権までも実質的に旧制大学の意のままに行なわれていた。しかし、これに対して新制大学の内部に速やかに新制学部の教授会を開くべしとする批判の声があがり、大学自治の中心はあくまで教授会であるとする文学部教授、助教授たちの集会の議決により、教授会設置を評議会に要請する提案が出された。この情勢を敏感に見て取った学長は先手を打って教授会設置を決定した。実に新制大学設置後、3年ぶりの27年4月であった。

 これを機会として文学部教授会は、大学管理の民主的改革に着手した。その一つは教授会の人事選考の際の組織を「各学部で定める」こととして、助教授、専任講師にも参加の道を開いた。その後、29年に文学部教授会は教育二法反対を議決し、国会へ伝達するという大塚学園建設以来未曾有の事態を現出させた。27年、32年の警官の学内スパイ事件、32年の砂川闘争に関連した学生の誤認逮捕事件に対する抗議では、警視総監をして陳謝させた。

 31年には朝永振一郎教授が学長となり、教育大の一層の発展のために努力した。37年に三輪知雄教授が学長に選出されるまでの朝永学長の時代(任期4年と再任2年の2期6年)は後年「朝永時代」とも呼ばれ、この時期がいわば東京教育大学の黄金時代であった。

 35年の安保闘争の時期には、東大が全学連主流派の拠点校であったのに対し、教育大は反主流派の中心的存在であった。同年6月10日、全学連反主流派によってハガチー事件が起こされるが、この事件の捜査のため、同月13日深夜、学生自治会室に突如として警官隊が乱入した。これは大学責任者の立ち会いもない違法行為であり、学生、教授を含めて空前の抗議行動が起こされた。連日全学総決起大会が開かれ、教育大だけで2000人のデモが行われた。教授会、評議会は警視庁に抗議し、各大学、関係各方面に訴えた。また37年の大学管理法問題では、学生は全国に先がけて闘争を組み、評議会、各教授会は全国に「国家権力の大学支配に反対」をアピールして注目された。

 また、40年6月、日本史の家永三郎教授が教科書検定違憲訴訟を起こし、同年10月には物理学の朝永振一郎教授が湯川秀樹につづく日本人として2人目のノーベル賞を受賞して注目された。42年の最初の「建国記念の日」に際しては、大塚史学会を中心に反対運動が盛り上がり、折からの雪のなか、同盟登校が行われて注目された。また、この年春には経済学の美濃部亮吉教授が定年を待たずに退官して東京都知事選に立候補、東京に革新都政を実現し、54年の引退まで12年間にわたって東京都知事をつとめた。

 安保闘争後の学生運動の分裂の時期において、教育大の学生運動はセクト的に私物化された「全学連」の結成、再建などに反対し、自治会の共闘を積み重ねるなかから真の全学連を再建せよと主張し、各種の自称「全学連」には与しなかった。(一時期民青系自治会執行部が成立した際、民青系の「全学連」に加盟したことがあったが、のちに学生大会の動議で否認された。)

 

筑波移転をめぐる抗争 (参照)★東京教育大学の筑波移転問題 ★筑波移転問題関連史料 ★筑波移転問題関連新聞記事スクラップ集

 東京教育大学は、文学部、教育学部、理学部が文京区大塚に、農学部が目黒区駒場に、体育学部が渋谷区幡ヶ谷に、学生寮その他の施設が都内各所に散在するいわゆる「タコ足大学」であった。そのため、キャンパスの統合は長年の念願であり、評議会は37年自主移転の基本方針を決定し、八王子南部地区が候補にあげられたが、38年、地価高騰によりこれを断念した。その直後に文部省から学長に新都市計画の概要が知らされ、ここに筑波移転問題が発生することとなった。

 理学部出身の三輪知雄学長は筑波移転に積極的であったが、文学部では慎重論が強かった。41年10月、評議会の席上、学長と一部の評議員が、移転に慎重な文学部の代表を「罵倒」するというようなことも起こり、これに抗議して和歌森太郎教授が文学部長を辞任するというような事態も発生した。こうして筑波移転をめぐり推進派と文学部との対立が徐々に強まっていった。42年6月10日の評議会は、文学部の意向を無視して筑波を希望することを決定し、これを学長の意向表明として文部省に伝え、政府もこの意向を受けて教育大など36機関の移転計画を発表した。

 文学部はこれに対し「5学部一致の原則」に反すると抗議して撤回を要求したが、推進派の決意も固く、以後は文学部の意向は無視したまま、着々と移転推進を図っていくことになる。

 教育大の学生運動は、安保闘争以後、主として構改派(旧全学連反主流派の中心部分が構造改革論の立場をとり、36年に共産党の影響から離脱したもの)によって指導されてきており、筑波問題が登場した際、学生自治会は、移転反対はラッダイト運動(ラッダイト運動とは産業革命期の機械破壊運動のことで、ここでは社会進歩に反対する反動的な運動という趣旨)であるとして「反対論に反対」の立場をとり、ただし非民主的な決定には反対するとして全学的な討論の場の保障を要求していた。構改派としては、移転問題を契機として、学生も運営に参加するような形での大幅な大学改革を実現したいと考えていたわけである。(構改派は学生を大学の主要な構成員であるとして、単なる受益者とは考えておらず、学生の大学運営への参加は制度的にも保障されるべきものと考えていた。当時掲げられていたスローガンに「大学を平和と社会進歩の砦に」というのがあるが、その趣旨は理解できよう。)そのため、学長選挙への学生の参加を要求したりしていたわけだが、そのような要求は実現しないまま、一方的に推進を図る当局のやり方に一般学生の不信感がつのり、40年には文・理両学部において最初から反対論を唱えてきた民青系に執行部が移動するような事態が生じ、構改派も筑波問題を契機とする「構造改革」を断念して白紙撤回要求へと転換した。構改派の考える「大学改革」というようなものは、最初から一種の「幻想」であったのかもしれない。(当時の構改派学生自治会執行部には、教官は結局はすべて筑波移転に賛同するであろうという情勢判断があったと見られ、文学部教授会の反対論の強さを見誤っていたと思われる。また、筑波に研究者と学生が共存共栄する理想郷のようなものを思い描いており、のちに顕わとなる推進派の凶暴性にも気づかず、推進派とは「同床異夢」の関係にあったとも言えよう。)

 42年に入ると、評議会の文学部の意向を無視した運営について、抗議の意味で波状的に学生のストライキが行なわれるようになった。しかし学長以下推進派のやり方に変化はなく、翌43年には三輪光雄が新学長に就任するも状況は変わらず、学生は決定の白紙撤回を求めて、本館封鎖、大塚地区封鎖などの闘争を行なった。この過程において民青系から構改系に再び運動の主導権が移行し、文学部学生自治会を基礎に形成された文学部自治会闘争委員会(文自闘)は他学部学生と協力して全学闘争委員会(全学闘)を結成し、闘争を指導した。その後、43年12月には、44年度の文・教・理・農4学部の入試を中止することが決定され、これに対し三輪学長が紛争の責任をとるとして辞任したあと、44年2月末、宮島龍興学長代行が機動隊を大塚構内に導入して学生を排除し、その後は機動隊を常駐させて学生を入構させないロックアウト体制に入った。ロックアウトは「大学占拠」を基軸として運動を構築してきた全学闘争委員会にとっては大きな打撃となり、集会をするにも中央大学、法政大学、山手教会など学外施設を借りざるをえない亡命生活状態になった。全学闘争委員会は何度か「大塚奪還闘争」を試みたが、機動隊が占拠するキャンパスを実際に「奪還」することは困難で、闘争のたびに多数の逮捕者を出すことにもなった。(全学闘の集計では被逮捕者数は累計110余名にのぼる。)9月17日の全国全共闘連合初の統一行動である「教育大奪還闘争」も、さしたる成果をあげることなく終わり、45年に入ると、それまで筑波闘争をリードしてきた全学闘争委員会内部に、それまでの総括と今後の方針をめぐって分裂と混乱が起き、指導的機能を喪失して自滅してしまった。(全学闘争委員会の自滅後は、民青系執行部が成立して闘争の収束が図られた。)ロックアウトは「教育大学新聞」にも打撃であった。大塚の部室が使えなくなったため、「教育大学新聞」は編集長の下宿などを部室がわりに使いながら細々と発行されていた。ろくに会員も集まらなくなった状態で、新聞の定期刊行をつづけた当時の編集部の根性は見上げたものだと思われる。

 ロックアウト下の7月4日、評議会はマスタープラン委員会から提出された「筑波における新大学のビジョン」を評議会原案として採択し、24日には筑波移転を最終決定する。この筑波新大学は文部省の筑波新大学創設準備調査会が計画を練っており、本学が移転を決定したからといって本学の案が採用されるというものではなく、いわば大学が身売りを決定したようなものだが、その基本的方向は学長、副学長などに権力を集中し、大学をピラミッド型の中央集権的官僚制の組織に再編成するものであった。つまり移転問題は当初は「東京教育大学」の場所的移転の問題として発生したが、結果的には「東京教育大学」を解体し、「筑波新大学」を創設するという「内容移転」になったわけである。(他大学の全共闘運動の一部で「大学解体」なるスローガンが叫ばれていたが、本学の場合は権力と一体となった大学当局が自ら「大学解体=再編成」を行なおうとしたものであるわけだ。)10月14日、文学部はロックアウト下の検問体制下で授業を再開する。45年、宮島龍興学長代行は学長となり、1年余りに及んだロックアウトも同年4月には解除されるが、この間ストライキとロックアウトで2年近くのあいだ正常な授業が行なわれず、44年度の入学試験も、文学部、教育学部、理学部、農学部の4学部で中止される事態となった。43年から44年にかけては、全国各地の学園で学園闘争が高揚し、全国全共闘連合なども作られたりしたわけだが、教育大の筑波移転をめぐる紛争は、それがきわめて長期にわたったという点で他に例を見ないものであり、この間、大半の学生が留年することとなり(特に文学部学生の場合は2年間の留年は普通であった)、また相当多数の学生が大学に見切りをつけ中途退学する道を選んでいる。研究者志望だったという倫理学の池田理代子氏も留年・中退しているが、彼女の場合、「ベルサイユのばら」で高名な漫画家となったから、結果的にはそれが良かったのかもしれない。筑波闘争に参加したことを誇りに思っているようでもある。

 部外者が作成したサイトのなかには、教育大の移転問題をめぐる紛争のなかで、団交やつるし上げがあったなどと書いているものもあるが、これは他大学の紛争の例から見て、多分そうであったに違いないという憶測にもとづくものであろう。団交の実現は全学闘の要求ではあったが、実際のところ長期に及ぶ紛争のなかで、ただの一度も団交など行なわれず、したがってつるし上げなどもなかった。団交がなかった紛争というのも、他に例を見ないものであるかもしれないが、そうなったのも、大学執行部=推進派が一貫して話し合い拒否の姿勢を貫いたからである。(各学部の教授、学生による学部集会や、推進派教授に対し「団交」を要求した集会などはあったが、大学執行部が当事者となったものではないから、本来の団交とは言えないだろう。)もっとも、団交や話し合いがあったとしても、移転推進と移転決定白紙撤回では水と油で妥協の余地があったとは思えないから、推進派の立場からすれば「話し合い拒否」は自明のことであったかもしれない。

 移転推進派の最大の実力者は、理学部物理学科の福田信之教授であると言われていたが、彼はある雑誌の座談会で、紛争解決の原則は(1)話し合いはしない、(2)妥協はしない、(3)遠慮なく機動隊を使うことだと、得意げに述べている。事態はすべて彼の「3原則」通りに進行したと言え、福田教授こそは筑波大学建学の最大の功労者であったと言えるであろう。(彼は三輪知雄、宮島龍興につづいて筑波大学の第三代学長になる。)福田教授は反対派の学生をつかまえて、「お前はレーニンを読んでるか、俺は全部読んでるぞ」などとからかっていたそうだが、どうもこの福田3原則にはレーニン主義の影響が感じられる。レーニンのプロレタリア独裁論にならって推進派独裁をやっているかのようである。

 

東京教育大学の消滅

 48年9月には「筑波大学法」が国会で成立し、同10月1日、筑波移転の推進役であった三輪知雄元学長を初代学長として筑波大学が開学する。この年は東京教育大学としての最後の学部学生が入学した年であり(文・理・体の場合。教・農は49年)、東京教育大学新聞会が会としての機能を停止して廃刊された年でもあった。一方49年には最後の東京教育大学の学長として教育学部の大山信郎が就任した。52年3月30日、筑波移転に抵抗し続けた文学部は最後の教授会を開き、翌31日定員は消滅、全国有数を誇った文学部教授陣は各地の大学へと散っていった。(つまり、東京教育大学文学部の伝統は、筑波大学には引き継がれていない。)教育学部、農学部は1年延命したが、53年3月31日をもって閉学した。

 大学の閉学を前に、東京教育大学新聞会OB会は「東京教育大学新聞縮刷版刊行会」を組織して「文理科大学新聞・教育大学新聞 縮刷版 1946-1973」を刊行し、大きな反響を呼んだ。

 「教育大学新聞」は東京教育大学終末期の5年間にはすでに存在しなかったが、昭和5年の「大塚学友会会報」、14年の「文理科大学新聞」以来の学生新聞の伝統は、筑波大学には継承されなかった。なぜなら筑波大学当局は「大学新聞」と名のつくものは学生には発行させないとし、大学当局自ら「筑波大学新聞」を刊行することにしたからだ。つまり独立した編集権を持つ新聞を認めず、単なる広報紙にしたわけである。(新聞とはいかなるものか、理解していないと言えよう。)ただし、東京教育大学新聞会OBで、筑波大学の教官になった者が、昔の経験を買われて「筑波大学新聞」の編集にあたったというから、その意味では少しばかりの継承関係があるといえる。しかし実際には教官ばかりでは大学新聞の編集など出来るはずもなく、学生アルバイトをやとったようだが、そのアルバイト学生が独立して刊行し始めたのが現在の「筑波学生新聞」だということである。当然当局非公認の団体ということである。(*「筑波学生新聞」は2007年5月号を発行してから、休刊状態となっている。同新聞と本会とは直接的には何の関係もないが、以前同新聞のメンバーが「教育大学新聞」の先輩に会ってみたいと接触してきたことはある。)

 東京教育大学の閉学と筑波大学の新設は、何かにつけて政府の文教政策に異論を唱えてきた東京教育大学の抹殺をはかったものだという説を唱えるアメリカ人の教育研究者がいる。「政府がとった処置の一つが東京教育大学の閉鎖であった。この大学は、日本の高等教育の指導的機関の一つであっただけでなく、その教授陣には、日本の最も急進的な知識人が含まれていた。この大学の閉鎖後、そのなかの穏健なスタッフは、新しく設けられた国立筑波大学に就職していった」(カミングス「ニッポンの学校」)。それが自覚的な目的であったかどうかは定かでないが、筑波大学は、東京教育大学の教員を無条件で採用したものではなく、そこでは単に反対派を排除したばかりではなく、筑波での採用を希望した者に対しても一種のレッドパージのようなことが行われており、結果論的にはそのように見えなくもない。戦後の東京教育大学は、制度上は教員養成大学ではなかったが、戦前からの伝統で「教育の総本山」を自認し、大量の教員を生みだすとともに教授陣は大量の教科書を執筆し、なおかつ政府の反動的な文教政策には大学をあげて率先して異論を唱えてきたからだ。政府にとっては邪魔となった国立大学であったかもしれない。推進派の巨頭で筑波大学第三代学長となる福田信之教授(1994年11月27日没、74歳)も晩年こそ統一教会や勝共連合に肩入れしていたが、若い頃は原水禁運動に取り組むなどの活動をしたこともある「民主的」な物理学者であったりしたわけである。(彼の「転向」の理由は知る由もないが、亡くなる前に自伝を残してほしかったと思う。なお、いくら何でも「筑波大学=統一教会系」という評判は芳しくないので、福田教授引退後の筑波大学は福田色の払拭に努めているようである。)現実に東京教育大学の閉学以後は、政府の文教政策に異論を唱えるような大学は存在しなくなり、教育行政に対する良識の歯止めが失われ、今や、彼らの思い通りに学校教育は破壊されつつある。




東京教育大学新聞会OB会