麻賀多神社」古代出雲文字発見 」    
出雲文字原本へ

麻賀多神社は延喜式巻九(神祇九 神名 上)下総国 十一座【大一座、小十座】印旛郡の一座 【小】 麻賀多神社と記されている。

延喜式:藤原時平・忠平が延喜(905年)に醍醐天皇の命によって編纂された律令の施行細目。神社名巻九(神祇九)には朝廷に把握されていた神社名が列挙されている。つまり10世紀当時既に著名だった神社であり、平成の現在まで確実に千年以上経ているということである。

   一

 ある日、何となく延喜式の神社名を一つ一つ眺めていた。1000年も前に朝廷によって認められていた神社である。
記載されている神社は1000年以上経た古社ということになる。例えば明治神宮は明治天皇を祀った神社だから、極めて新しいが、延喜式に載っている神社は確実に古い。

よし、それでは1000年前からある神社に行ってみよう!ということになった。
まずは、府中の自宅から近い三多摩にある式内社(延喜式に載っている神社を式内社という)から手始めに・・・。
多摩郡 八座:阿伎留神社・小野神社・布多天神社・阿豆佐味天神社・穴澤神社・大麻止乃豆       乃神社・虎柏神社・青渭神社

 阿伎留神社に関しては、秋川市があきるの市と改名されるもとになった名だ。この神社は不思議が多く、別の機会にふれたいと思う。
布多天神社はかつては多摩川のほとりにあったのだが、いつの頃か分からないが、大水害で流失してしまったので、現在の京王線調布駅北側に移ったとされている。虎柏神社は都営野川公園のそばにあり、古墳の跡地に作られているようだった。青渭神社は深大寺公園の都道の脇にあり、現在は新築されすっかりピカピカである。
大麻止乃豆乃神社は雑草が生い茂り、とても1000年の歴史を持つとは思えないほどに荒れ果てていた。
延喜式神社ツアーは阿伎留神社を除くと、さほと面白いものではなかったので、しばらく中断していた。
だが、ある本に千葉県の式内社「麻賀多神社」の紹介があったので、歴史民族博物館の見学ついでに寄ってみないかと、友人の左口を誘った。
「でも、首都高が混むから・・・」
あまり気乗りしないようだったが、とりあえず行ってみることとなり、二人で予定を立てようと、地図を開いてみて驚いた。地図には麻賀多神社が24もある。
「あれっ、どれが1000年前からある神社なんだろう?」
1000年の間に24に増えている。でも稲荷と八幡ほどではない。もちろんそれは明治政府が強引に改名させたからだが、麻賀多の場合は純粋な信仰による勧請によって増えたのだろう。
それにしても、一体どれが・・・・?
「ええい、それでは全部まわりましょう」
左口が言った。
望むところだ。


というわけで、仕事が休みの度に24社全部まわることになった。
 古墳の脇や農道沿いにひっそりと古びた社があるだけだったり、小さな祠と鳥居だけという、うっかりすると気がつかないで通り過ぎてしまうような所もある。
山裾にある麻賀多神社は霊気に満ち満ちていて、なんだか怖い感じもした。また、九州に本拠のある宗像神社があったり、雑木林の中に疱瘡神の石碑を発見したり、24社探索はなかなか面白い。
その詳細は次の機会に譲ることとして、式内社・麻賀多神社の本家争いをしていると見られる二社が残った。その一社にタイトルにある出雲文字古文献を発見したのである。


 出雲文字文書の残っていた麻賀多神社は江戸時代新田開発の行われた印旛沼の低地沿いにある道からほん少し高いハケ沿いにあり、付近は鬱蒼とした森である。地元の老人の話だと、かつてこの印旛沼がまだ広かった頃、鳥居は沼の水中にいくつもいくつも延々と屹立していたとのことだ。
本家争いのもう一社の麻賀多神社は境内に葺石造りの伝国造イツコリの小さな古墳があり、幼稚園を経営しており、掲示板には何故か奈良県の橿原神宮の写真が貼ってあった。

「麻賀多神社」はかつて平氏に荷担したため、国弊社の資格を剥奪され、それ以降一千年にわたって地元の人でさえ知る所ではなかったという。さて、このツアーの舞台となる成田市稜山一番地の古墳のないほうの麻賀多神社はほんの一五、六年前までは境内には落ち葉が溜まりに溜まり、とても人が入れるような所ではなく、夏は雑草が背丈ほど生い茂っていたそうである。
しかし、この神社に想いを寄せる当時六五才のF氏が、ある日を境にこつこつと掃除などをはじめ、参道も境内も、そして小さな社務所も復興し、現在は千年も眠りについていたとは思えないほど見違えるように整備されることとなった。そのF氏についてはA-3一枚だけの地元紙「田舎っぺ」が取材している。



 私が友人の左口と始めて訪れたのは、みぞれ混じりの寒い一九九五年二月の下旬だった。境内を駆け足で一周し、藪の中に鎌倉時代に流行した板碑が割られてうち捨てられてあるのを確認しただけで、あとは後日にと、みぞれに追われて早々に車に戻った。
そして車を開けようとポケットからキーを取り出したそのときである。背後から、「ご苦労様です」と声をかける人があった。
みぞれはだんだんと雪になり、境内は深々と寒さを増していた。
「ご見学でか?」
振り向くと年輩の方が、傘もささず頭を雪で白くしながら、何とか我々を引き留めようと不自然な笑みを浮かべて立っていた。
フィールドワークでは結構怖いことも経験している。もしその時一人だったら、私は適当にその方をあしらって直ぐに車に乗り込んだだろう。
だが、幸いなことに、この時は左口と一緒だったので、落ち着いて対応することができた。
話を聞くと、「よろしかったら、どうぞ社務所は暖かいのでお茶でもどうですか、ご見学でしたら、いろいろ話もありますが・・・・」ということだった。
「面白いかもしれない」左口は目でそう私に合図した。

 ところが、案内された暖かいはずの社務所は降り始めた雪ですっかり冷え込んでいる。
「今すぐ暖かくなりますから・・・」
とその方はなかなか点きそうにもない旧式の石油ストーブに火をつけ始めた。部屋の中はすぐに石油の臭いが充満した。
そして、コンロにやかんをかけて・・・・。
「あのお、少し待っていてくださいね。すぐ戻りますから」
まるでわれわれが去ってしまうことを恐れるかのような態度に見えた。そして社務所を出て行ってしまった。
呆気にとられたが。仕方ない。待つしかないだろうと、待っていたのだが、やかんがさかんに湯気を立てて暴れ出しても、まだ戻ってこない。しようがないので、勝手にやかんの火を止めて、待った。見ず知らずの人間を招いてそのままいなくなってしまう。東京では考えられないことだ。
結局30分後くらいたってから、薄い書類入れを抱えてその方は戻って来た。
「お待たせしました・・・」

しかし、江戸時代頃の延喜式の写しや日本書紀にある祭神の名前など、われわれが下調べしていたこと以上のことは話にはなく、退屈な内容だった。そろそろお暇をと思いだした。


ところがその思いは瞬時に吹き飛んだ。
「実はこれがこの神社に伝わっているんですがね、誰も読めなくて。もし、この文字をご存じでしたら、お教え頂けないでしょうか」
薄い書類入れから取り出されたコピーを見て、度肝を抜かれた。
五枚のコピー用紙に細かく記載されてあるのは神代文字だった。それも、かなりマイナーなものだ。
「未発見の神代文字!」我々はそのコピーを手渡されるときに思わず手が震えた。
「こ、このコピー、コピーか、かしてくれるんですか」
左口の声は上擦っていた。
「どうぞ、お持ちになってください」

以上がこの出雲文字資料を手に入れた経緯である。
しかし、この原文の筆跡はどう見てもペンか万年筆である。F氏はこの写本の原本はボロボロであり、手に取ると崩れてしまうほど古びたものだと言う。


 その後これを研究した所、原文は行が抜けていたり、書き直しも多々あるようで、太占(ふとまに)の数字の記入は写し間違いも多かった。

とりあえず、仕事半ばだがその内容をここに載せることにした。もし、フトマニやこの文書に対して何かご存じの方がおられたら、是非お教え頂きたい。
神籠は天津磐境トナトサに稚御産巣日神のまにまに


出雲文字「伊都許利文書」訳出
テキストは千葉県成田市稜山一番地「麻賀多神社」延喜式国幣社(祭神:稚産霊命)
氏子 藤崎氏所蔵と思われる全文出雲文字写本よリのコピー。
神名の漢字表記は主に古事記に従う。数字は原文の行数。

出雲文字「伊都許利文書」原本へ

第一頁

一  応神天皇二十年に、吾れこの國に到リて巡リ見るに、土いと悪しく  して穀
二  実るやと思ほいて、里の長を召して問はせ給うに、その神よリ、穀 実らざリしを
三  先に小碓(倭建命)、東の伏はぬ人共を言向け和平しに、居てまし の時、
四  海に浮かひて渡らむとし給う時に、その渡リの神、浪を起こして御 船たゆたいて
         え進まさリき、
五  ここに橘比売命に代わリて、海に入リ給わむとする時にもろの采女御共せむとて
六  共に海に入リ給へば、凪て御船え進みき、故れ名取船艫を集いてミマキヲマキタリ
七  シカトモ、ミマヲマキイツシテ、富といふ人、姫の御櫛をいて奉リしかは、夕日の日照る
八  所とて御塚造らしめ給ひき、そこよリ出てましてこの浦の名取船に御軍を乗せて、
九  渡らせ給ふときに、その船の遠く続きし川船のヲナカシと宣へける命の御船を
十  納めし山、船の形を成せリ、これを船塚と言ひき、命、陸に上がリて帰ヘリみ給う時に
一一 水鳥のさわに集へ居リしを看行はしに、旗に印あるがごとしと、宣 リ給ひてコワスヘラ
一二 大御神の御教えの御印とこそ、喜ほへつつ、松杉の生い茂リし山に登リてミチクラ
           山と
一三 宣リ給へ杉木の空に鏡を掛け伊勢の大神を降ろ神給ひき、故れこの鏡を崇め祀れは
一四 米、麦自れに実ると宣らしめ給ひて居てましき、故れ御教えのままに崇め祀リしに
一五 真に宣らせ給ふがことなリきと聞けリ、と言ひき、故れここに岩國魂と
一六 崇め祀リて大宮柱太しリ建てて、祝ひ祀リて天照稚蛭売大神と讃 ひ
一七 祀リしかは、奇すしきかな、平なるかな大みえつもちて、あまき天ふリあまきみつ
          わき居てしに
一八 やみつくたも日に継ぎに、いやましに開け、いやさわに実リしかば民喜ほいて
一九 大神をいと敬にひき、故、大御神の吾に教ひ給わく、空の木の下に玉あリ、掘リ得てて
二〇 稚産巣日神を祀れと教へ給ひき、故、夢の教えのままにして七つの玉を取リ得て
二一 合わせ祀リて勾玉の大神と祝ひ祀りしかは、天の真人等いやま しにまして、富齋らわし    めき
二二 故、ここに天皇のたなかの大御世は、天地日継ぎと共に、永久永遠に守リ給へて
二三 幸き國和広く、賢しき國渡平けく、五つ種の穀、豊かに豊富に、実らしめ、
二四 給へと、うみのこのつきつきに至リても、彌宜まおすことなせよ
二五 応神天皇二十七ワカコウラナカタツ命病に伏して病みこやせり、
二六 故れ、大神の見舞いに日は日の暮るる限り夜もすがら、病癒したまえ、治し給え
              
                            以上原文一頁最終行まで

           
第二頁 

一  と禰宜まをせしかは、一夜夢のごとくして文書きたりき、覚めては見はにこの文なりき、
二  大神の御心持ちて、吾が手に書かせ教へ給へし文と喜びつつ文の教えの
三  ままにせしかば、奇すしきかな、病へ日々に癒えたりき、故ここをもちて民をも、さわに救へし
四  文そうみのこら、民多に救へよ この文八をも記すに天のまなかわ一に、西北
五  の宮を二に、西を三に、東北の宮を四に、南を五に、北を六に、西南
六  の宮を七に、東を八に、東南の宮を九に記しおくものそ、
七  天の御中主神は一を領きましと、生れす首長に 中原の御魂を分けたまへる
八  神なリき、高産巣日神は二を領きまして、生れ座す首長に上原の御魂を別け
九  給へる神なリき、高産巣日神は三を領きまして生れヰつる首長に高御産巣日神
十  にそふて、上原の御魂を別け給へる神なリき、タマル産巣日神は四を領きまして
一一 生れ座す首長に、天御中主神にそふて中原の御魂を別け給へる神なリき、稚蛭売神
一二 は五を領きまして生れ座す首長にの御魂を別け給へる神なリき、
          阿斯詞備比古遅神は
一三 六を領きまして生れ座す首長に、ソハハラノ御魂を別け給へる神なリき、神産巣日神は
一四 七を領きまして、生れます首長に中原の御魂を分け
一五 給へる神なリき、生産巣日神は八を領きまして、生れ座す首長にキモの御魂を別け
一六 給へる神なリき、足産巣日神は九を領きまして、生れ座す首長に生産巣日神と共に
一七 キモの御魂を別け給へる神なリき人々の生れヰつるは、この九の柱の大神の別け御魂    を
一八 賜リて生れ座すものにしあれば魂は大神よリの借リ物なリき、故れ九の柱の
一九 大神達と歳年九十月ごとにみ廻リまして人々に良事、禍事あるも のなリき
二〇 応神天皇二十余リ七歳年(二十七年)には、天御中主神一にみ廻リ還りまして八もをすへ知ろしめす歳年にしあれば
二一 この歳年生れます人々は大神の別け御魂を賜リて生れヰつるものなリき
二二 他八柱の神達もこの歳年は領き座す座すかたに還リ座すこと前にして須賀事なリき
二三 二十七歳年にワタル産巣日神、天の真中にみ廻リまして八もを統べしろすめす給へばこの歳年
二四 生れ座す首長は、この大神の別け御魂を賜はリて、生れヰつるものにしあれば、この大神の歳年
二五 九十月ことにみ廻リまして、迎う方を犯すことなかるべし、下なぞらいて知リぬべし一二三四五六七八九と月つきに
二六 廻るものなリき、九歳年廻リてまたもとに還リ廻リものなリき月つきのみ廻リさまは、応神天皇
二七 二十七歳年の十一月は、天御中主神一に還リます月なリき、下歳年になぞらひ知リぬべし

                                                          以上原文第ニ頁最終行まで


第三頁

一  高御産巣日神、和久産巣日神二柱の神は、阿斯詞備比古遅神の別け御魂を
二  賜リて、生れ座す人々を斎くしみ(慈しみ)給へき阿斯詞備比古遅神は生産巣巳神、足産巣日神
三  二柱の神たけの別け御魂を賜リて生れ座す人々を斎くしみ(慈しみ)給へき
四  生産巣日神、足産巣日神、この二柱の神は、稚蛭売神の別け御魂を賜リて
五  生れ座す人々を斎くしみ(慈しみ)給ひき稚蛭売神は天御中主神神産巣日神
六  タマル産巣日神、この三柱の神達の別け御魂を賜リて、生れ座す人々を慈しみ給ひき
七  この三柱の神達は、高御産巣日神、稚産巣日神この二柱の神達の
八  別け御魂を賜リて、生れ座す人々を慈しき給ひき、人々我を慈しみ給ふ
九  神達の歳年に稀れ月に稀れみ廻リまし形をもちてよろしとす、八十禍神のみ廻リまします様は
十  九歳年に廻るものなリき、下をナミよく廻るものなリき、応神天皇二十七歳年には
十一 六七八九一一九八五三、十七歳年には五に廻リてもとに還る廻ることなリき、月ごとの
十二 巡リさまは、この歳年の十一は六五四三二一九八七と巡るさまと下をやしことなリき
十三 大禍津日神のみ巡リは応神天皇二十七歳年には六に、二十八歳年と二十九歳年には
十四 四に、三十一歳年には八に、三十一歳年と三十二歳年には九に三十六歳年には五に、
十五 三十四歳年には七に、三十五歳年には七に、三十六歳年には三に、三十六歳年と三十八歳年には二に、
十六 二十九歳年には六に、巡るものなリき、、月ごとの巡リは応神天皇の二十七歳年と、
十七 この歳年の五月とおやし?(同じ)ことなリき、下歳年になぞらえて知リぬべし黄泉大神のみ巡リは四歳年に、
十八 一巡リめくるものなリき、この天皇の二十七歳年には二に、二十八歳年には七に
十九 二十九歳年には九に、三十歳年には四に、下前に還リて巡るものなリき大禍津日神
二十 大禍津日神、黄泉大神この三柱の神達のうち一柱にとも巡リますかたは墓?地掘リ
二一 ヰヲサメミヰクサに出で迎えよ、メトリ柱建て、末をなすことなかるべし、コリのかたを
二二 過ちて犯すときは、黄泉国よリ醜女おへ出でて諸々の禍をなすものなリき、
二三 また、疾いに伏して禍れる人、多にあるものなリき、、この八十禍  津日神、大禍津日神、黄泉大神
二四 この三柱の神達のうち一柱にてもみ巡リまして別け御魂の神歳年にマレ月にみ巡リ
二五 まして、迎う方は墓、土掘リミヰクサに出で迎え、柱建てよハヒメスヘ犯すことなかるべし、これらを犯すときは
二六 黄泉国よリ醜女追い到リて、疾いに伏し禍れる人多なりき、この禍を治さむとするときは
二七 神奈をヒノ神、オフナをヒノ神、伊豆能男神、伊豆能女ノ神こと四柱の神達のうち一柱にてもみ巡リまします
二八 かたにして、別け御魂の神のみ巡リましてもかわさるかたにして、別け御魂を慈ましみ給う神の在しますかたの
二九 神にナヒスミテ、そのしきませる、オフトコを越え来たリて、まきしくときは、これを伊邪那岐神は大神祗神とも
三〇 名付け給いき、また伊波礼彦の尊(神武天皇)は香具山の埴をとリて、天津地祇を祀リて

                                      以上原文第三頁最終行まで



第四頁

一  イミシ(蝦夷?)とも名付け給いき、また伊波礼彦の尊は香具山の埴をとリて天津地砥を祀リて
二  イミシ(蝦夷)共のカナミを、ときしことのもとなリき二五
三  五三四四二五三一五四一五三一七二一五一九五二八五一九五一八五九七五一六五九七五八六五七五五八四五
四  七五五六四五五二五六ウキコカタラワシヒスノ応神天皇四十四歳年には二にみ巡リまして応神天皇四歳年には六に巡リまして
五  三十五歳年には二に還リて巡るものなリき、月ごとのみ巡リは二十三歳年の一月には二にみ巡リまして
六  二十七歳年の十二月までの六十月に六にみ巡リますものなリき オフナをヒノ神も六十歳年に一巡リつつ
七  巡るものなリき、四十四歳年には一に巡リ四十四歳年に六に巡ること下のごとくなリき一八五二七四
八  一八三一七四九六三一五二九六一八五二七四一八三一七四九六三一五二九六一八五二七四一八三一七四九六
九  三一五三九六月ごとのみ巡リも六十月に月に一巡リつつ上のこと巡るものなリき応神天皇二十三歳年の
十  一月には一にみ巡リまして二十七歳年の十二月には六に巡るものなリき伊豆能男神は十二歳年に
十一 巡リつつ下のことナミヨク巡るものなリき 五七六三二八六四五八九八応神天皇二十三歳年には
十二 五にみ巡りまして三十四歳年には八に巡るものなリき月ごとの巡リさまは二
十三 歳年の一月に五に十三 み巡リまして十二月には八に巡るものなリき伊豆能女神は四歳年に一巡リつつ、下のこと巡るものなリき
十四 五八六三応神天皇二十三歳年には五に、二十六歳年には三に巡リ、二十七歳年には五に還リて
十五 巡るものなりき月ごとのみ巡リは二十三歳年の一月には五に四月には三に巡るものなリき
十六 これ稚大神の御心もちて、我が手に書かせし教え給へし文なリきコヲモホニニ十六歳年の四月よリ
一七 ウラナカタツをもちて民のために四に池を造らしむこと二所なリきこの歳年四に黄泉大神み巡リまして、月にも
一八 巡リます?テウラナカタツ(ワカコウラナカタツ?)は天皇十一歳年に生れませば、タマル産巣日神の別け御魂なリき
一九 二十六歳年、稚御産巣日神一にみ巡リませば、タマル産巣日神 は七にみ巡リまして四に向かふ歳年なリき歳年なリき
二〇 この二所の池造リ民のために黄泉大神の業なリき思い謀リて二十七歳年の三月に
二一 稚蛭売神四にみ巡リませば、池のほとりに勾玉の大神を齋き祀リ、またの池には
二二 猿田彦大神を祀リしに、疾ひ癒ひたリき、稚蛭売神は別け御魂を慈しみ給う神なればなリき
二三 この文をもちて、民も多に救え、池をも多に造らしめとモワサワヘなかリしものぞ、ヰい?カマフ?には
二四 五六八三この四所の内に皆そなえおくもの、外の四所には、直毘神四柱の神達の多に
二五 み巡リ給へばヨナト多にあるものなリきこのよくなぞらひて民をも多に救へしかし四七九??
二六 の四所へは黄泉大神のみ巡リましますかたにて、直毘神、稀に伊豆能女神のみ巡リ給はざれば、カマヘイ?
二七 応神天皇三十八歳年にの九月に記しおくものぞ
             
                  神籠は天津磐境トナトサに御産巣日神のまにまに

                                                                                      伊都許利



 まだ、不明な点も多く、きちんとした訳出にはなっていないが、これから整えていくつもりである。

 実はイツコリの原本は今はこの神社にはない。
この文書のコピーをF氏から頂いてから数ヶ月の後、ようやく稚拙ながらも訳出し、「読めましたよ!」と彼に電話をしたのだが、なんということか・・・・。
「あんなー、今なK研究所の先生たちが来ていてな」
「えっ、今ですか?その人たちが今そこにおられるのですか?」
私が電話をしたちょうどその時、K研究所の研究員が来ていると言う。
「あ、もう読めたから・・・・読んでもらったから・・・あの人たちはスラスラ読んだよ」
F氏は、
「ホムタノスメラミコト・・・・」と、どうやらカナにしてもらったものを電話口で読み上げ始めた。読めたことがよほど嬉しかったのだろう。
「フタトウマリ・・・ワレコノクニニイタリテ・・・・」
読み続ける。
確かにこの文章はなかなか磨きがかかっているので、読み上げても美しい。私も何度も声に出して読み上げたものだったが・・・。
そして、一区切りついた所で、
「いやあ、これはとんでもないクワセモノでな、偽書だった。こんなもの・・・」
F氏は偽書の意味を把握していないのだろう。Kという国史の重鎮の研究員にそう言われて、それを真に受けイツコリ文書に対する畏怖の念がすっかり消えてしまっている。
確かに、幕末この地は平田学派の鈴木重胤の影響下にあり、そういったことから彼等が捏造したという見方もできるが、捏造ということだと、ここに書いてある内容からするとかえって皇国史観に破綻を来すことになる。
K研究所が、「捏造だ」と言うことは彼等の思想にとってかえって不自然だ。

 ここはまたかなりの宗像神社の分布地域でもある。ご存じのように宗像族は海洋民だ。彼等が保持していたこの出雲文字が山陰・山陽から四国、そして当地現在の千葉県に伝わったと考えることは不自然でないと思う。
古語拾遺には、富の命が忌部を率いて四国から当地へ渡ったと記されている。それがいつの頃か定かではないが、私と佐口が出雲文字をこの地で発見したことから、出雲文字の出雲・四国・印旛という流れができた。それは四隅突出古墳の分布とも重なる。山陰・四国の阿波・・・そして千葉の安房という流れである。四隅突出墳は世田谷でも発掘されているが、世田谷は当時は富の命の影響下にあった地だろう。つまり当地は宗像の海洋民が連綿と移住してきていたのだろう。その海洋民ももともとは半島や大陸からの移住者と、この列島の人々の混在した部族だった。
忌部氏はアメノフトダマノミコトを祖とし、阿波・讃岐・紀伊・安房などに部民を持ち、朝廷の祭祀を司る部族だったとされているが、忌部氏を敢えて朝廷の祭祀係と決めつけるのも如何なものかと思う。記紀、古語拾遺という資料はこの列島の勝利者であるヤマト朝廷の反映だ。当時の部族を、全て朝廷の傘下にあったとする考え方はとても不自然で成り立たない。もともと忌部氏はヤマトに従属する部族ではなく、縄文の頃から権力に縛られず、海洋を駆け巡り高度な宗教的知識をもった宗像の一部族だったのではないだろうか。もちろん、後代はこの列島の支配者に従属せざるを得なくなってしまったのだが・・・。つまり宗像族は、天武天皇が自らが支配した範囲を国号として「日本」と定めるずっと以前から、環日本海からシナ海を縦横に駆け巡っていた民俗不詳の、つまりマージナルな倭人集団だった。「倭」と「日本」は重なる部分も多いが、そうでない部分の方が多い。例えば、魏志倭人伝は日本という国号ができる数百年前の倭人についての説明であり、日本人伝ではない。下って中世の和冦を見ても、それは明らかだ。

 さて、宗像神社の分布と忌部氏・・・・すると、忌部はインベ・・・・麻賀多神社のある印旛沼のインバとも重なる。
この文字について、吾郷清彦先生は古代和字総覧の341頁で記しているが、そもそも出雲文字によって記されたものがわずかしかない。このイツコリ文書はおそらくこの列島で最長の出雲文字資料だろう。

では、この文書が出雲文字で書かれた理由とは一体何だろう。また何を目的として書かれたものなのだろう。


     
伊都許利文書の考察

相互リンクの「瀬織津姫」への投稿分




伊都許利の冒頭は「ホムタノスメラミコト二十年に・・・」とある。書かれた時代は分からないが、時代を応神に設定している。それはおそらく4世紀から5世紀のことだろう。ちょうどその頃ユーラシア大陸の西端では、ローマ軍とケルト軍が戦っていた。結局ケルトはローマ軍に追われて分断され、東方へ逃れたケルトはスコットランドへ逃れ、西方へ追われたケルトは現在のスイス方面の山岳地帯へ逃れた。スコットランドへ逃れたケルトは、それまでストーン・ヘンジやブルーストーンなどの巨石文化を築いた先住民を駆逐したり、あるいは混血によって先住民の影を消し去ってしまった。
ローマを天津神の部族、ケルトを国津神の部族、そして巨石文化を築いていた人々を土蜘蛛と蔑まれた縄文人の部族と読み替えたらどうだろう。
奇しくもユーラシアの東端と西端は同時期に同様な事情だった。伊都許利の解明は、その特異な応神の時代にあるかもしれない。




稲荷山古墳は埼玉県行田市にある。鉄剣は昭和43年に発見された。銘の文中に出てくる「辛亥年」は471年と考えられている。また、「獲加多支鹵(ワカタケル・ワカタキロ)」は、雄略天皇のことだと考えられている。
応神の実年代を考えるとき、この鉄剣の銘にある年代は有力な手かがりだ。第21代天皇が雄略だとすると、その6代前の15代応神は471年をどのくらい遡ったあたりだろう。日本書紀の即位と退位から計算すると応神の即位は270年となり、退位が310年ということになるが、それはあくまでも書記編纂者の記述であり、もちろん正確ではあり得ない。雄略が実在した年代が鉄剣の銘の通りだとすると、雄略のその時代は半島では高句麗の長寿王が新羅、百済へ攻め込んでいた頃だ。当時のこの列島の状況は古墳から見ると、既に古墳の副葬品はそれまでの呪術的なものから、馬具等のものにがらりと変わってしまっている。その副葬品の変遷のポイントは5世紀初頭であり、応神の頃に沢山の渡来人が渡って来たという記紀の記述と一致する。また記紀の朝鮮出兵の記述から、応神は広開土王の頃400年前後のことだと考えられないだろうか。とするとこの列島の大王は約10年くらいで大王を交代していたことになるが、当時のこの列島の支配者たちはゆるやかな首長連合を築いていた時代であることを考えれば、約10年の在位は大王交代制と見れば、それほど不自然ではないだろう。
以上、伊都許利の背景年代をAD400年くらいに設定して、考えてみたいと思う。


 
前期古墳時代の当時はエミシの住むというイメージの強い関東以北も、吉備や畿内との密接な関連があったようだ。例えば、会津の堂ケ作山古墳の三角縁神獣鏡の同笵鏡が、なんと吉備の鶴山丸山古墳から出ている。5世紀頃、この列島は7世紀以降のような形ではない大きなまとまりをもっていたことが裏付けられる。
さて、伊都許利のこの地房総でも、4世紀から続々と古墳が営まれるようになる。卑弥呼の時代からわずか百数十年後のことだ。そして6世紀に入ると100メートル前後の大型前方後円墳が現れる。そして全国的に7世紀前半に古墳の造営が終焉を迎えるが、房総でも同時期以降には古墳が造営されなくなる。それはこれまで、この列島の各地の首長たちが築いていた同盟関係に変わって、強力な中央政権化が始まったことを告げている。
ということは、伊都許利の時代は畿内に本拠を置くヤマト政権の力は、まだ強大ではなかったのだろう。また、副葬品が呪術的なものから、騎馬民族風に切り替わってまだ間もなかった頃でもあろう。
だが、国造本紀には伊都許利は神八井耳命八世(神武の子)の孫となっており、既に房総の地が畿内の強力な支配下にあったかのような印象を受けるが、国造本紀の国造をずっと見ていくと、実に多彩な印象を受ける。伊都許利もだから国造本紀編纂の折り、無理に天皇氏の系譜に結びつけられたにすぎないのだろう。




 
応神の実年代をAD400年頃とする根拠は、古墳からの推測もあるが、中国の史書もこれを裏付けている。例えば、応神の実年代をAD300年前後とすると、それは魏史倭人伝の記述によると、女王卑弥呼の時代だ。また、宋書倭国伝に記されたいわゆる倭国王を名乗る倭の五王(賛・珍・済・興・武)について、これを応神から雄略までの七代のいずれかの大王とすることも、定説となっている。5人の倭国王を記紀のそれぞれのどの天皇に比定するかは、諸説あるが、ここで問題となるのは朝鮮半島とこの列島の関係である。大王たちは、いずれも百済・新羅・任那(4世紀から6世紀、南朝鮮に存在した国)秦韓・慕韓の六国の安東大将軍、倭国王であることを中国に認めさせようと必死になっていた。賛は421年と425年の二回にわたってアピールしている。そしてこのアピールの比重は朝鮮にあることは誰の目にも明らかである。地図に示せば南朝鮮と日本列島の沿岸部ということになる。つまりこの頃の倭韓連合体である倭国は、南朝鮮と運命共同体の関係にあった。その根拠が機内なのか、あるいは北九州、出雲、若狭湾あたりなのか分からないが、ともかく応神の時代はそうした時代だった。

 さて、この頃の当地は、常陸風土記や釈日本紀に残る逸文から物部氏の影響が強かったようである。香取神宮はもちろんのこと、千葉県に10社以上ある鳥見神社の祭神の全てが饒速日命である。饒速日命はご存じのように、「先代旧事本紀」には「天照国照彦天火明櫛玉饒速日」となっており、その名からいろいろな推測が立てられている。また日本書紀もニギハヤヒを物部氏の遠祖としている。が、古事記にはニギハヤヒが物部氏の遠祖とは記されていない。ニギハヤヒはまた鉄の神、鍛冶の神とも関連がある。先にここの掲示板にもあった高師小僧は印西地方では簡単に採集することができる。
また、当地には宗像神社も多く鎮座するが、印旛村は六合村と宗像村の合併によってできた村だし、宗像小学校など宗像の名がよく残っている。
朝鮮古代の状況、古語拾遺に登場するトミの命と物部氏・・・宗像神社が13社、麻賀多神社が24社とある当地に伝わる伊都許利文書を考えることは、この列島全体の縮図を表すに等しいかもしれない。




 さて、国造本紀に記入されている国造の名は新選姓氏録にも記入されていることもある。はて同一人物かと思わず調べたりしているうちに、伊都許利よりも2代前の成務天皇の頃、の常陸那珂の国造の名に出くわした。そうそう、この国造は常陸風土記に登場するあの悪魔野郎の名ではないか。先住民を土蜘蛛や国巣と蔑み、茨の棘で殺した黒坂の命と双璧を成す、あの騙し討ちによって先住民を焼き殺した悪名高い残虐非道な輩である・・・伊予の国造同祖とある・・・これは古語拾遺にある「天の富の命、さらによき所を求めて、阿波の忌部を分かちて、東土にいてゆき、麻、穀を植き」・・・ううん、阿波と伊予の違いか・・・この男は行方郡(五)に登場する建借間命である。
しかし、ここは堪えて伊都許利の神辺調査だったと思い直し、いやいやながら常陸風土記を開いてみる。そう、ここには応神の時代をほんの少し遡っただけの・・・おそらく応神の時代と時代の差はさほどない・・・時代が描写されているのではと・・・ただし、語り部の古老は建借間命は崇神天皇の命令で、としている。しかし、古老の語る天皇の名は風土記では誰でもいいのである。ヤマトタケルも倭武と表されて天皇となっているくらいである。ただ勿体をつけているだけだ。
となると、常陸風土記の語る時代は・・・そう、まさに伊都許利の時代のすぐ近辺ではないか。そう思って常陸風土記に目を通すと、なるほど伊都許利の時代が見えてくるような気がしてきた。筑波郡のあの有名な歌垣の様子「坂より東の男女は、春は花のさける時、秋は葉の紅葉する時、手に手を取り合って、食べ物や飲み物をもって終日楽しく遊び過ごす・・・」ハレの場でのフリーセックスかとも言われているあの筑波の歌垣も登場する。そして、この郡の最後には「艮は白壁の郡である」などと、方位を気にする風もある。ふむ、この頃すでに艮は悪い方角だという認識があったのか・・・つまりAD400年以降の後期に入ったばかりの古墳時代に、伊都許利に長々と述べられているあの太占の土壌は既にあったのである・・・ということになる。
 となると、伊都許利文書はまさしく応神の時代を反映している!



 応神天皇二十年に、吾れこの國に到リて巡リ見るに、土いと悪しくして穀実るやと思ほいて、里の長を召して問はせ給うに、その上よリ、穀実らざリしを

 第1行から第2行は当時のどういう状況を表しているのだろうか。「吾れこの国に至りて」・・・一体「吾れ」とは誰か?また、何故この地を「土いと悪しくして」と推定したのか。また、吾れが「召して問はせ給うに」の「里の長」とはどんな人物なのか?
(これまで第2行のソノカミをその神としていたが、左口よりその上ではないかとの指摘があった。なるほど神ではなく上とすべきであるので、訂正する)

 「吾れ」はこの文書の最後に伊都許利と署名があること、また、文脈上太占に登場するワカコウラナカタツ命でもないので、やはり伊都許利であるとしていいだろう。しかし風土記の解文(げぶみ)のような体裁ならば、伊都許利ではなく書記官のような第三者であることも考えられる。風土記の書き手は形式上は国司となっているが、実際は律令の官人である藤原宇合や高橋虫麿が候補にあげられている。
とは言え、「吾れ」を伊都許利と読むのが妥当だろう。
「ここは土が悪いようだが、穀物が実るだろうか、どうだろうか?」とまず、伊都許利は思った。そこで里の長を呼んで尋ねたところ「この地の上は穀物は駄目です」と長が答えた・・・・ここはそういう文意であろう。
「この地の上は・・・」とあることは、この地はまだ穀物ができるということだ。この地の上は、つまり上総のことか。古代の印旛は常陸の信太郡に接している下総で、平野が開けていて湿潤である。なるほど上総は海に囲まれ、山地が多いのだから当然かもしれない。
時代は倭の五王の賛の頃だろう。となるとAD420から430年くらいのこととなる。気候は結構寒かった江戸時代と同じくらいか、あるいはそれより寒冷だっただろう。現在の上総地方は黒潮暖流のため温暖な地とされているが、当時の海流は房総より離れていただろうから、海風が冷たかったのかもしれない。つまり、「吾れ」がこの地を穀物が実らない所だろう、と推察した理由は「吾れ」が航路でこの地へ到着したからだろう。冷たい海からの推察、ということだ。
 さて、「里の長」であるが、これは畿内のヤマト族がこの列島をゆるやかな同盟的支配から、さらにその支配力を強めていた時期であることを考え合わせると、国司と里の長のシチュエイションは、方や畿内から派遣された高官であり、方や帰順したエミシの族長であると見てよいだろう。
 八世紀の東北でのヤマト朝廷とエミシの攻防は、坂上田村麻呂や阿弖流為(アテルイ)や(母礼)モレが登場する高名な歴史的事実だが、実はそのような状況が、ここ印旛にも当然あったはずだ。そして、伊都許利の時代は、その攻防がヤマト側の勝利に終わったその直後か、その余韻が残る頃だっただろう。
では、そのような時代状況がなぜ、里の長を帰順したエミシの長とする根拠になるのか?
それは紙面の都合上次回にゆずるが、宝亀年間(AD780年頃)ヤマト朝廷から外従五位下という地方豪族クラスの姓(カバネ)をもらった正真正銘のエミシである伊治公砦麻呂(コレハリノキミアザマロ)という人物から推理してみたい。




 伊治公砦麻呂(コレハリノキミアザマロ)は時代が下って、宝亀九年AD778年の人物である。ヤマト朝廷はこの頃までも、北東北にて蝦夷の勢力を完全に削ぐには至っていなかった。政治力と軍事力を巧みに使い、蝦夷同士をうまく戦わせその間隙をついて支配下に収めていた時期だ。また蝦夷の側は鉄製品を、ヤマトの側は北方の昆布や動物の毛皮等を求めていたことから、お互い貿易の相手としての関係もあった。しかし、ヤマト側の策略もあるだろうが、蝦夷の族長たちはまとまってヤマト側と交渉することができなかった。蝦夷はまとまりがなく、それぞれの部族ごとが独立していた。これはちょうどアフガニスタンにおいて、アメリカが北部同盟を味方に付け、タリバン勢力を攻めた構図にそっくりである。
 そんな8世紀の政治情勢の中、伊治公砦麻呂の姓(カバネ)と外従五位下という位は、ヤマト朝廷から与えられたものである。では、なぜこのような国司クラスのものを与えられたかというと、実は対蝦夷戦での功績がもとになっている。
 蝦夷のアザマロが蝦夷を相手にして戦った功績?・・・なんだ、これ、仲間を・・・その通り、この構図は大国中国を相手になんとかお墨付きをもらおうと、やっきになって仲間同士戦う周辺諸国と同じだ。もし、紀元前の匈奴や月氏の騎馬民族が、一致団結していたら、中国が元になるずっと前から騎馬民族は中国に入っていただろう。歴史は繰り返すどころか、そのパターンはいつも同じだ。
しかし、ヤマト朝廷から姓と位を手に入れ、すっかりヤマト側の豪族となったアザマロの胸中は誰も知らなかった。突然いくつかの重要なヤマト側の柵(城)を撃滅し、坂上田村麻呂との大規模な戦闘にまで持ち込んだのである。
・・・と続日本紀は伝えている。
 伊都許利文書に登場する里の長を考える上で、アザマロという人物とその行動は大いに参考になると思う。つまり当地の5世紀は、北方の8世紀の頃のような状況だったのではないだろうか。まず、伊都許利は海上からこの地に到着した。それも一隻や二隻の船ではなく、相当数の船団だったと思う。この時、伊都許利は入植者を引き連れていた可能性がある。そして入植者の出身地は・・・・・宗像だ。そのために宗像神社が沢山分布するのだ。このパターンも実は江戸時代にある。幕府の命令で仕方なしに故郷を離れ、入植者として、遠く離れた新田開発地に強制移住させられた人々が、お金を出し合って故郷にあった神社を建てている。古墳時代も同様であった。ヤマト朝廷が敵対勢力である蝦夷や地方豪族を滅ぼした後、そこへ開発を前提とした農民の強制移住を行っていた。イスラエル建国とパレスチナ問題にも酷似している。イスラエルがパレスチナの地を奪った後、そこへ沢山の入植者を配したがそれと同じ構図である。
 伊都許利は里の長を呼びつけた・・・・。呼びつけられた長の祖父は、これまでのヤマト朝廷とこの列島の豪族たちが、その同盟のシンボルとして造営していた前方後円墳に葬られているかもしれない。本来、里の長は祖父と同様、このクニの首長となるべきだったのだが、ヤマト朝廷内の勢力図がこれまでとがらりと変わってしまってからは、つまり紀元前からこの列島に渡って住んでいた半島からの移住者たちは、とてつもなく強大な武力を持つ新たな専政権力に跪くより仕方がなかった。
 伊都許利着任は、つまり建借間命(タケカシマ・カシマ・鹿島・物部)の軍事力でこの地を平定し、伊都許利の経営力で富を・・・というヤマト朝廷のこの列島における戦略の一環とみてよいのではないだろうか。




 記紀における天皇とその取り巻きたちの政治・経済・軍事力を見ていると、英雄や民衆に対する政治姿勢に気をとられ、当時の民衆の状況を把握することを忘れてしまうことがある。ヤマトタケルの東漸、新しい文物の移入、天皇の善政・・・記紀は明らかに強大な武力を持って、この列島に遅れて移住してきた後発組の手になるものだ。
彼等は天皇の名のもとに「東の伏はぬ人共を言向け和平しに」・・・・・・黒坂命や建借間命が、土蜘蛛や国巣をまるで汚い動物を駆逐するように残虐極まりない方法で殺している。景行天皇条にはヤマトタケルの言葉として先住民を次のように記している。「かの東夷は、識性暴強、凌犯を宗となす。・・・ならびに相盗略す。・・・男女交居て、父子の別無し。・・・恩を受けては忘れ、怨を見ては必ず報ゆ。」
ヤマトタケルは九州では女装してクモソタケルを刺し殺すし、この列島の方々で破廉恥な軍事行動を起こした人物である。
 また、奴隷は魏志倭人伝では生口と呼ばれているが、古墳時代も当然奴隷制度の社会であった。そして律令の時代に入るや、奴隷は二度と奴隷身分から抜け出られない家畜的階層と規定されるようになった。国の財産としての公奴婢(くぬひ)、民間の所有する私奴婢(しぬひ)に分けられ、たとえ折檻等で殺しても口頭で検非違使に伝えるだけでよかった。その奴隷の大部分は蝦夷と土蜘蛛、国巣、佐伯と呼ばれる人々だっただろう。
われわれの殆ど大部分がそうした民衆出身だと言うのに・・・一般に歴史を見るに、こうした民衆の歴史的背景をなおざりにして、支配者や英雄に目が行きがちになる。
当時の奴婢や強制移住の対象となった人々、また防人にかり出された人々の胸中を推し量らねばならない。そうしたことが歴史に興味を持つ、市井にあるわれわれの仕事ではないだろうか。

 アフガニスタンのムジャヒディンがソ連軍をなぜ撤退に追い込むことができたのか。そして、今度はなぜタリバンがあっけなくアメリカにやられてしまったのか。答えは簡単である。当時はアメリカが後ろ盾となっており、CIAの軍事顧問派遣やスティンガー・ミサイルなど近代兵器を含む大量の武器を供与していたからである。タリバンには後ろ盾となる大国がついていなかったからである。
テレビや新聞・雑誌だけでこうした軍事的、経済的な面だけを見ていた我々は、アフガニスタンがタリバンの敗北で沈静化されるまで、難民たちの悲惨さには目が行かなかった。
歴史を見る際に、同様な誤りを我々は犯すことがある。
伊治公砦麻呂(コレハリノキミアザマロ)は、いったんアメリカの、いやヤマト朝廷の軍事力を利用して、蝦夷たちの中でいったん優位に立ったのだが、思い直してヤマト朝廷に反旗を翻している。だが、下総のこの地印旛では里の長は、ヤマト朝廷の圧倒的な軍事力の前に立ち上がる状況は閉ざされて久しかった。勿論アザマロのような勇気は、祖父の代に既に消失していた。ただただ新任の国造、伊都許利に仕えることだけで精一杯となっていた。

 


 アザマロの時代は8世紀後半である。その時代、ヤマト政権は吉備の大勢力を倒し、さらに天武に至って古志の国を三分割してその力を削ぎ、北九州から南東北までに至る強力な中央集権構造を構築していた。だがイツコリの時代はそれよりも300年も前だが、ここ下総の地は既にヤマト政権の専制に屈していた。今回は当地の民衆について考えてみたい。歴史を学ぶ上で政治や権力について知ることは重要だが、その時代における我々民衆の暮らしぶりや、心の置き所がどういったものであったかを知ることなしには、片手落ちとなってしまう。
 人々と国家の関係は670年に作られたという庚牛年籍、そして702年の大宝律令施行前までは、弥生・古墳時代からそうかわりがなかった。
半月状の広場を囲むようにして一辺が4、5メートルの竪穴式住居が4、5戸ひとかたまりとなり、そこで人々は生活を営んでいた。律令施行後は一里50戸という行政区画が定められたが、伊都許利の当時は自然村落、つまり川や山など地形に即した村が形成されていたようだ。偶然にも奈良の正倉院に下総国葛飾郡大島郷の租税台帳のもととなった計帳が残っており、その戸籍から当時の家族構成などが推定されている。当時の下総は山背や越前などと比べると、奴婢はあまり所有しておらず、非血縁の寄口(きこうと読む。律令制下、自由民の没落した者などで、個人または家族ぐるみ寄住者として他戸の戸籍に編入された者)の比率も少ないことがわかる。また、国家が民衆を把握する上で、都合のよい一夫一婦制もこの時点では強制されることもなく、妻問婚が主流であり、財産もあるいは長女に引き継がれていたかもしれない。実際に江戸時代以前までは女性が財産を相続している例が沢山あった。女性の長者(現代換算で数千億の財産保有者)や分限者(同数百億)も存在していた。男尊女卑につながる家父長制度がきっちりとするようになったのは、武士階級は別だが一般には江戸時代くらいからだろう。
 印旛地方は江戸時代に新田開発が大規模に行われたが、五世紀の当時からこの地では細々とだろうが米穀の生産も行われていた。もちろん米以外の穀物、麦・粟・黍(キビ)または稗・豆などはさかんに栽培されていたに違いない。
では、人々は当時地形に即した数十戸からなる竪穴式住居が一つの単位となった自然村落で、どのように生き、何を考えていたのだろう。サクラさんが紹介してくれた十社の宗像神社、また二四社の麻賀多神社、さらに疱瘡神の碑や、鎌倉時代の板碑・・・明治以前のこの地は・・・この列島のほとんどがそうであったように・・・現代に比べると宗教的記念物があふれかえっていた。
次回は伊都許利の時代の人々の生活ぶりや精神構造にもう少し近づいてみたい。


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 伊都許利の地の人々の思いや精神を語るには、どうしても当時の地理的、政治的背景が必要になってしまう。例えば、この地の宗像信仰について考えるには、半島の情勢、倭の五王と胸肩君の関係などについて知ることが必要となってくる。

 AD399年百済と倭が通じて新羅城を襲った。すると新羅は高句麗に援軍を要請し、翌年その援軍はすぐに新羅城から倭を退けた。さらに407年には高句麗の水軍が倭と百済の連合軍を大破した・・・・と広開土王碑文にある。倭、百済、高句麗、新羅の4国がおおいに争っていた時代である。卑弥呼の死後百数十年後のことだ。ここで重要なことは、騎馬民族である高句麗の水軍である。騎馬民族というと、直ぐに馬を連想するが、実は船団による戦いも得意であった。あの有名な元寇の役も元は大船団を率いて、この列島を襲っているし、北方でも同様に船による侵攻を行っていた。当然、騎馬民族は大挙してこの列島に押し寄せていることは確実である。古墳の副葬品に五世紀前から突然馬具が現れ、後年「牧」と呼ばれる牧場もどんどん設置されている。
そうした背景によって、伊都許利の地には宗像神社が現在でも十社もあるのだろう。どういうことかと言うと、倭の五王たちはヤマト政権の礎を築くために、半島から鉄のインゴットを大量に求めていた。また大陸、半島の文化や先進技術を積極的に受け入れていた。その道筋は半島→対馬→北九州、というものであったが、その象徴は半島→対馬→沖の島→大島→北九州であり、そこは宗像族の支配する海域である。当然大王たちは胸肩君との関係を良好にしておくか、あるいは完全に彼等を支配する必要があった。
そのためか海の正倉院と呼ばれる沖の島には、当時の北九州のどの古墳をも凌駕する宝物が溢れかえっていた。鏡の数も凄いが他にも驚くほどの宝物によって、国家規模の祭祀が行われていたのである。
あるいは宗像は伊都許利の時代のシリコンバレーという言い方もできるかもしれない。鉄生産技術、水稲生産技術、造船技術などこの列島で一番のテクノロジーを持つ地域だった。倭の大王は当然この地の人々、つまり宗像族を重用しただろう。
しかし、ここで断っておかねばならない事実がある。「宗像族」と呼称するが、これは人種や民族でくくった集団ではない。海の道の神々宗像三女神を信奉する出自が雑多な集団、ということである。縄文時代からこの列島には沢山の人々が移り住んできている。旧石器時代以降に区切っても、14000年くらい前にはアムール川流域から土器製造の技術を携えた人々が渡ってきて、この列島に縄文文化を花開かせたし、その後南方はベトナムやタイ、中国河南省から北方の騎馬民族、ツングース、アイヌ・・・・と枚挙に暇がないほどだ。それは現代のボスニアの状況に似ているかもしれない。人種、民族が同じでも信奉する宗教が違うと、お互いに異邦人と認識し合い、反目してしまう。
当時のこの列島に住む人々は、既に人種や民族というくくり方が全く通用しないほどに、人種混淆していた。例えば、新選姓氏録からどうあがいても、「万世一系、単一民族」なんて引き出せない。
この列島の部族集団の共通項は、信奉する対象によって区別するしかない、と断言できるかもしれない。
次回はそうした背景から、伊都許利の地の宗像神社と人々の精神や暮らしぶりを眺めてみたい。

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 この地の当時の人々の精神的背景は宗像ぬきには考えられない。地名も残っているし、宗像小学校まである。伊都許利の時代から1500年もの時を経ても、その影響が未だにある。一体それほどまでに、この地に大きな影響を与えた宗像とはどういうものなんだろう。あるいは麻賀多神社とも関係があるのだろうか。それとも、鹿島神宮や香取神宮は物部部族に近いが、敵対関係だったのか、それとも仲良しだったのか。古代の宗像部族と物部部族の関係はどのようなものだったのだろうか。
つまり、その3人の女神を祭神とする宗像について、少し紙幅を頂くことも必要だと思う。
宗像大社の説明については、 http://www.munakata-taisha.or.jp/ でご覧いただけるが、私は数年前に沖ノ島の沖津宮、大島の中津宮、田島の辺津宮の三柱の神々の地を訪問する機会に恵まれたので、その時の経験・感動を主にして、宗像大社を見ていきたい。
  かつてどの時代にも、どの地にも存在すらしなかった全く新しい神道を明治政府は構築し、人々に押しつけた。もちろん、現代もその延長上にある。神社に鏡なんて、教導職という明治政府の神祇の役人が各地の神社を回って、強引に祀らせたものだし、明治以前の神社で鏡を祀っていた所など、伊勢神宮くらいしか思い当たらない。また神社の大きな収入源となっている神前結婚式は大正天皇が始めてであり、それが昭和初期になって広まったもので、それ以前には神前結婚式なんてなかった。明治政府は徹底的に神ながらの道を改竄し、天皇を猫の子のようにヒョイと京都から江戸へ移した。公家の五百札になったお公家さんや当時の高官たちは天皇を「玉」(ギョク)と呼んでいた。君主をギョクと呼び捨てにするとは、と英国外交官の顰蹙をかったほどだ。明治政府の権力者たちは薩長の武力と経済力を手に入れ、天皇制がまるで古来からあったようにまんまと人々を騙した。過去の歴史に現在のような神道も天皇制も一度も存在していない。新たに作った皇室典範の起草もいい加減だったし、行幸と称して天皇をさんざん連れ回した。その行幸の模様は明治時代の読売新聞の前身の「日々新聞」を読むとよく分かる。また、現在の神社の名称は関東では八幡と稲荷が圧倒的に多いが、これもそれ以前の由緒やこの列島に住む人々が長い間大切にしてきた信仰を破壊し、できたてほやほやの神道を押しつけるために、神社名称を変えたからである。
 ここでは捏造された新造神道によるイメージではなく、もちろんプロトタイプの宗像に迫ってみたい。古代の人々はどのように宗像の海の道の三女神を崇敬していたかを考えることは、伊都許利の地にある宗像神社と当時の人々の精神的背景を知る上で重要なことだと思う。
 多少筆が走っているとお思いの方もおられるでしょうが、そうではなく、この列島に住む我々が縄文時代から大切にしてきた何かを思い出すためにも、必要な作業だと思う。



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 宗像旅行記の前に断っておかねばならないことがある。古墳についていろいろな本を読み進むにつれ、これまで副葬品の馬具関係のものが5世紀を境にして一挙に騎馬民族風に変わったというこれまでの一般的な見解は、どうやらそうでないと考える学者の方が多いことに気付いた。つまり100年ほどかけてゆっくりと変わっていったもので、崇神(ミマキイリヒコ)という騎馬民族の王が北九州にやってきて、応神の時代に東漸したという騎馬民族王朝説を説明できないようだ。ミマキが任那のミマで、キが城であるという説も、やはり当時の半島の政情からも、その呼称からも確かではないようだ。
つまり、この列島にはじめに強大な権力をもった王朝が、騎馬民族であるという江上さんの説と、そうではないとする説のどちらかであるという論議が多くなされているが、どうも実はそのどちらでもないと感じるようになった。しかしこれは邪馬台国連合が畿内か、九州かという論議と全然質が違う。また金達寿さんの説は、朝鮮語でほとんどを解釈して、全てこの列島は半島の借り物のような印象を受けるが、それは現代のこの列島に住む我々が使用する英語のような状況であったと思う。当時の沢山の言葉が朝鮮語に似ているからといって、全てをそのように解釈するのも、強引すぎると思う。例えばシビリアンコントロールとか、デスクトップとか、片仮名で表す言葉があるからと言って、英語圏の人々がこの列島を占領している証ではないように、朝鮮語が沢山入っているからと言って、この列島を騎馬民族が占領したわけではないだろう。
確かにこの列島には沢山の人々が旧石器以来綿々と渡ってきている。HLA研究等、遺伝子人類学はそれを裏付けている。HLAとは白血球の特定の染色体上に近接して並ぶ一群の遺伝子であり、著しい個人差が見られるもので、HLA遺伝子の組み合わせの分布から、人類学的研究の対象とされており、これによって日本人、韓国人、中国人を分析し、過去の移住ルートを推定できるものだ。研究者の結論をかいつまんでここに報告させて頂くと・・・・中国北部や朝鮮半島から、日本列島の中央部に到達する移住の影響が大きく、また畿内と関東の相違は大きく、畿内はより朝鮮に近いらしい。(東京大学・徳永勝士氏)
 騎馬民族がどっと来て、ヤマト朝廷を築いたということはないだろう。だが来ていないというものでもない。彼等はもちろん来ている。記紀にもその記述があるし、伊都許利の地からそう遠くない埼玉の日高には高麗神社だってあるし、コマなど朝鮮的名称・地名は沢山ある。つまり、来たとか来ないではなく、彼等は来ているのである。だが、彼等が圧倒的な武力で、この列島を根こそぎ奪ったという説にはやはりかなり無理があるようだ。延喜式の祭式の様子は、騎馬民族の影響を全く受けていないし、動物の血を飲む習慣や内臓の解剖学的知識もほとんどない。この列島の文化は、やはり種々雑多な人々が構築したものだろう。
弥生時代は、ずっと以前に移住して来た人々(東南アジア、縄文人やアイヌ人、北部中国、黒竜江付近)や、最近になって移住してきた人々(南朝鮮や北部・南部中国)の部族がそれぞれ携えてきた考え方や宗教の違いから、常に戦闘状況や臨戦状況にあった。殺戮の時代だったが、善し悪しは別としてヤマト政権がその強大な力を持つようになると、部族の違いは徐々に溶け合って、21世紀の現在では、葛城部族や物部部族など跡形もない。
世界の各地では、未だに部族同士が戦っている地方もあるのに、1500年前頃ヤマト朝廷が部族対立を解消したという見方もできる。もちろん、その方法や施策については問題があるが・・・。
明治政府の創作天皇制はとても賞味に耐えないが、かつてのヤマト朝廷の功罪をはきちんと評価したいものだ。






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伊都許利の一時中断・・・沖ノ島紀行

 伊都許利についてやっているうちに、とうとう千葉県から北九州宗像まで来てしまった。幸いなことに私は、沖津宮(沖ノ島)中津宮(大島)辺津宮(玄界町)へ伺ったことがある。ここに小説風に旅行記を記してみたい。少し長くなるかもしれないが、テーマが変わったわけでも、伊都許利から離れるわけでもない。
「ガリア戦記」「十字軍の遠征」「ストーン・ヘンジやブルーストーン」「縄文時代にずいぶんとポピュラーであったストーンサークル」「雄略天皇と吉備」「物部と大伴」・・・・
考えてみれば、伊都許利から出発するとテーマは山ほどある・・・・・・。


 「沖ノ島だよ!」
大島から数時間、チャーターした漁船の狭い船室でうとうとしていた私はその声に飛び起きた。デッキに出ると既に漁船は小さな港直前まで来ており、幾度となく雑誌や写真で見てきた、あの「沖ノ島」が目前にあった。
波は穏やかで、船は静かに着岸した。
岸壁のコンクリート沿いに歩き始めると、先に下船した人たちが素っ裸になって、次々と海に入っている姿が目に入った。禊とは言え、大の男たちがそれこそ一糸まとわず、五月のまだ冷たい海へ次々と入っていくのである。

上陸後直ぐに禊をしなければならないほど神聖な地であることを、十分に意識していたが、その光景はやはり異様に映った。
友人の神主さんと共に海に入った。
海の水は、十二月の禊ぎの水よりも冷たく感じた。しかし入ってみると、さきほど異様に感じたこの禊の行為がいとも自然な行為に思え、すがすがしい気分と、自分自身の内に何かが満ちてくるのがよく理解できた。
御神水をかぶり、再び服を身につけると膝が軽くなっていることに気付いた。
そして、浜辺から一気に上がる登山道のような急峻な参道をのぼり、二柱目の神さびた鳥居をくぐった。
やがて参道は突然平坦になり、4、50メートル先に圧倒されるような巨大な岩のそのすぐ下に鎮座する小さな本殿(沖津宮)が木々の間から見えた。穴のあくほど眺めた写真の実物である。私の頭の中で、岩上祭祀、岩陰祭祀、露天祭祀などの沖ノ島祭祀の変遷の語がぱたぱたと音をたてて巡った。知識だったその語が、今、目の前にある!
ある白山神社で、太占に使う天津金木の実物をそこの神主さんに見せて頂いた時、大祓の祝詞に出てくる天津金木が、「ああ、これだったのか」と絶句したが、今度は沖ノ島で、ここを訪れた古代の人がしたように、その岩に手を触れ、その大岩に足をかけて登れるのである・・・・そう思った時、私の頭を駆け巡っていた語句がぱたっと止まった。ここへ来たからには、もう語句や解説、知識はいらない。見て、触れれば私は古代の人々と同じように感ずることができるはずだ。知性や理性、知識ではなく、私の中で感性の部分が強く働きだした。
 山道のような狭い参道から沖津宮の手前にある5、6坪ほどの整地された場所に降りてみると、(露天三号遺跡)そこは直ぐに垂直の崖で遮られるかたちになっており、その土留めの石の隙間に、ふくらみをもった壺の胴の部分のかけらがはさまっていた。櫛ではいたような筋が入っている土灰色のもので、薄手であることから高温で焼いた須恵器であろう。
          
 * 露天三号遺跡
一号遺跡と同時代と推定され、九世紀前半以降の祭祀跡。出土品に滑石製品、土器、菅玉などがあるが豪華なものは全く見あたらない。沖ノ島祭祀終焉の遺跡と考えられ、以降沖ノ島では現代に至るまで、古式に則った祭祀は行われていない。


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 本殿の周辺に、大祭を待つ人たち漁船から下りた全員の20人ほどが集まり来ていた。このお祭りはなんと、明治38年バルチック艦隊が5月26日対馬ルートで上海に現れ、翌27日日本連合艦隊がこれを撃破したことに因むものだそうである。よって、この日一般人に上陸を許可し、共にこれを祝うという・・・・・呆気にとられるような、このことには目をつぶって私は知人による助力でここに来たのだ。もちろん、このことを知ってはいた。沖ノ島へ行ける、と知人から誘いがかかった時、そんなことはどうでもよかった。こんな機会など、そうそうあるものではない。この大祭以外、一般人をほとんど上陸させない。現在の沖ノ島はバルチック艦隊を破ったこの日の数時間だけしか、一般人をうけいれない。この機会、この日を逃しては、私のような者が沖ノ島に足を踏み入れることなど、絶対にない。もし、宗像の関係者の方がこれを読んだら「だから、変なのは入れるんじゃなかった!」と嘆くかもしれない。・・・・「すいませんが、この私の旅行記は絶対に口外しないようにして下さい。これは、ここだけの話です」・・・と一応私は小声で言っておく。よろしくお願い致します。
 というのは、私は始めから、この大祭には全く興味がなかった。このツアーは私物の持ち込み、自由行動が禁じられていたし、ライター、煙草の持ち込みも禁じられていた。もちろん、島のものは何一つ持って出てはならないことは当然のことだった。上陸して、急な参道を登って本殿の前で大祭に参加して帰る、それだけのものだった。ただ、御神水を持って帰ることは許されていた。
だが、私のその時の気分は説明できないほどに高揚していた。「おれは、沖ノ島にいる!」もう息も止まりそうに嬉しかった。

・・・・・ここまで書いてみて、困った。さて、私の行動をここに書いても構わないのだろうか。結果から言うと、これはまずいだろう。実は私は沖津宮現地大祭には参加せず、当地の神主さんの祝詞を一言も聞くことなく、この島を駆け巡ったのだ。

 大祭は10時から・・・・時計を見ると9時半になっていない。12時までに戻ってくれば、バレない。2時間半もある。出かけてみよう・・・・何かあるはずだ。何か感じ取れるはずだ。明治政府のこさえた創作神道で、沖ノ島を理解できるはずがない。ここはそんな矮小な地ではない。数千年にわたる大聖地なのだ。本や写真で紹介されていることは、この地で国家的規模の大祭祀が行われ続けたこと、大量の鏡や、国宝などの宝物があったこと、それだけである。また、三人の女神の地なのに、なんと現在に至るまで女人禁制となっている。なるほど、創作神道なんだなーと考えてみるが、これはどうしても不自然だと思う。記紀には凄い女性が沢山登場する。応神天皇のおっかさんなんて、とんでもなく凄まじい豪女だ。記紀では皇后となっているが、どっちみち記紀は八世紀の近代に男性優位の思想のもとに作られたものだ。神功は天皇だったかもしれない。漢風謚号で神の名のつく天皇は、神武と崇神、応神の3人しかいないのに、なんと神功皇后にも神の字がついている。古代、女性の地位は高かったはずである。なのに沖ノ島は女人禁制、これだから創作神道は困る。
 私は祭りに参加する人たちの最後尾についた。そして、そろそろと消えようと、薮の中へ入りかけた。その時友人の神主さんが、振り返って私を見たので、ウィンクをして「行ってきます」と声に出さず言った。彼は微笑んで「行ってらっしゃい!」と目で言った。
少し登った所で下を見ると、そろそろ大祭の用意がなされ、参加者が全員本殿の前にきちんと並んでいるのが見えた。そして、もう少し登るともうそこはジャングル同然だった。亜熱帯の島、そんな感じがする。大岩に足をかけ、蔦を握ってどんどん登った。けもの道さえない。無闇に登れば迷う危険すらあるが、そこは鍛えてある。そこここの枝を折って、目印を付けておいた。
結果的に私は調査の済んでいる東側の一号遺跡から八号遺跡を通り越し、西の方向の柏崎の鼻と名付けられた小さな岬へ向かって登って行ったことになる。
大岩が連なった間には木々が根をはり、枝からは何本も何本も蔦が垂れ下がっている。ギャーギャーという鳥の声と、動物なのだろうか下草を分ける音が聞こえ、ジャングルにいるような錯覚に陥った。植生は樫や椿のように葉がてらてらと光る照葉樹が多く、縄文時代中期の関東もこんなだっただろうな、なんだか懐かしく思った。
 




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大岩があるのは、発表されている遺跡だけではなく、そのずっと上のほうにも重なるように連なっている。それはそれは荘厳な雰囲気だった。
しばし岩に見とれていたが、意を決してその大岩を迂回してさらに登ってみた。すると、石組みしてある高さ30センチ、幅5メートル奥行き2メートルほどの段があり、その前に整地した七、八坪ほどの平らな場所があった。
だがここには草や木が生えていない。作業中か、あるいは作業が終了してまだ間もないために、草の一本も生えていないのかと思ったが、そうでもない。それなら経験ですぐに分かる。まるで除草剤を撒いたかのように草が生えていないのである。さらに段の左側には、段に上がるための30センチほどの五段の石段が作られており、この平らな場所が祭壇のように感じられた。石組みと石段、山の斜面に平らな整地、明らかに人工的なものだ。草や木が生えないのは、何かの力が働いているからかもしれない。
回りにある木が張り出した枝などで、日光が遮られ物理的には明るくはないが、雰囲気は生き生きとした柔和さと気品が満ちあふれ、とても明るい雰囲気を感じる。それでいて華やかさまで感じる。
ところが、私が感じたそれは、この場所が醸し出す雰囲気ではなく視線だった。複数の視線だった。もちろん、ここにいるのは私一人であり、誰もついてきていないことは確認している。どの方向から私を見ているのか分からないが、とにかく若い女性の複数の視線だった。「ああ、三女神、だから複数なのか」そんな風な感じだ。田心姫神が沖津宮で、湍津姫神は中津宮、市杵島姫は辺津宮となっているが、それじゃあ、まるで駐在する役人のようだ。そうではなく、どの宗像神社にも女神は三柱ずつ居られる。
また、女人禁制の島、お言いわずの島、海の正倉院、国家的祭祀・・・どれもこの島を言い表していない。ここはそんなもんじゃない。別格だ。当然「日露戦争戦勝おまつり」なんてバカなことをやるには勿体ない所だ。そんなことをする宗像大社の関係者は明らかに勘違いしている。だいたいこの列島の神々はヤマト朝廷の天皇とも本来は関係ない。神たちはその経歴と縁起を捏造、改竄されてお困りになっていると思う。瀬織津姫も、大祓みたいなひどい祝詞に閉じこめられているが、本来はあんなみっともない祝詞に登場するような神ではないはずだ。
  
 次回は、自分が浮かび上がってしまうのではないかと思うほどの超空間のことについてお話する予定である。

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沖ノ島の古代の祭壇と思われる平坦地の背後には、大岩が聳え立っていた。ここも何号と名付けられた有名な発掘現場と同様、緻密な計画のもとに行われた現場なのだろうが、一般には紹介されていないみたいだ。
その聳え立つ大岩だが、左右は絶壁と足の踏み込み場もない密林である。いわゆる屏風岩となっており、行き止まりとなっている。時間があれば、あるいはロープなどの装備があればよいのだが、時間も限られているし道具もない。闇雲に草木の中をうろつくだけである。しかし、うろつくのも大変だった。
この島はネズミ、トカゲ、オオミズナギドリ、ハト、ウミウが代表的な動物であり、毒蛇や害獣はなく至って平和な島なのだが、ヤモヒルには困った。チクッとする痛みにジーパンをまくってみると、3センチから5センチくらいのヒルが左右の足に5、6匹づつからみついているのだ。ひっぱって取るとまずいので、100円ライターですね毛とともに焙って取った。また、オオミズナギドリは土を掘って巣を構えるのだが、どうやら一回使うと放棄するらしくて、その巣跡が以外と多く、まるで落とし穴のようになっている。深さ30センチで1メートルくらいの穴である。放棄されているので、その上には草が生え、見かけはまったく分からない。踏み込むまで気がつかない。なんどもなんども足をとられた。はじめ靴の中に土が入る度に、脱いで振るっていたが、面倒くさいのでそのまま歩くことにした。ヒルも後で一遍に片づけることにした。
 さて、悪戦苦闘していた甲斐があった。なんと、祭壇の場所から海側にかけてなんとか行けそうな道が見つかった。一見ケモノ道のようだが、この島には大型動物はいない。調査に伴う道だろうか。いずれにせよ、最近人が通ったような形跡は全くなかった。
そして屏風岩の裏手に回ると、再び大岩が連なっている。その前にはボロボロになった青いビニール・シートが丸めて置いてあり、ここもやはりかつて調査の対象になっていたのだろう。
その大岩には割れ目があり、高さ3メートルくらいの大岩と大岩の間から日が射していた。密林の湿った空気の中、まるで後光のように筋を伴って日の光が斜めにスーッと射している。苔生した岩、空を覆い隠す木々、密生した草、玄界灘にひっそりと浮かぶ神聖な孤島の最大の舞台が・・・・おお、なんという荘厳な雰囲気なのか。私は吸い込まれるようにその大岩の割れ目に近づいた。

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大岩の隙間は身体を横にしなくては通れないほど狭い。通りながら上を見上げると、巨岩の圧迫感が怖いほどだ。5メートルほど横向きのまま・・・・通り抜けた。すると・・・覆い被さるような三方の岩に囲まれたその中心に、縦横3メートルほどのテーブルのように平たい岩があり、そこにはるかに高い照葉樹の巨木の梢からこぼれ落ちる日の光が、天女の羽衣のように、ゆっくりとおりていた。
そのテーブル状の3メートル四方の岩は舞台のようで、解放された一角からは密生した原生林を見下ろすことができる。少しためらったが、私はその舞台のようなぶ厚い岩に立ってみた。すると軽い目眩がし、そのまま空中へふわふわと飛翔できそうな錯覚にとらわれた。無重力、無時間のような場だ。明るく、クリアーで不思議なことにうるさい鳥たちの声も聞こえなかったように思う。ずっとここにいれば、浮き世の塵濁にまみれる平凡な私でさえも、死体を残さずに昇天するという仙人の尸解(しかい)の術を使えるのではないか・・・そうだ、ずっとここに居てこのまま行こう!・・・しかし、どこへ?・・・いや、こんな卑小な人間が舞い上がったとしても、どうせ気がゆるみ、せっかく舞い上がっても途中で空中からこの岩に叩きつけられるだけだろう。久米の仙人でさえ、女性の太股が目に入った瞬間に落下している。目を閉じているのか、開けているのか定かではなかったが、とにかく目を開けた。だが依然音が無く、世間と隔絶した場であった。が、孤立した感はない。慈愛に満ち、宇宙との一体感があった。おそらく宇宙飛行士の感じに似たものだっただろう。個としての自分は溶けてなくなってしまうが、自分を見失うことはなかった。大きく手を上に上げると、頭頂にあるというサハスラーラ・チャクラに何かが流れ込んでいるような気がした。ははー、数千年にわたるヨーガが実見したという霊的器官はやはりあるのかなー・・・イダーとピンガラが脊髄を中心にしてぐるぐると巡っている様も分かるような気がした。冬の海に入ったり、山々を徘徊するよりもずっとピュアーな感覚がここにはある。
こここそ、現在の沖ノ島のメインだ。おそらくは国宝による祭祀場所もここのように素晴らしい空間だったのだろうが、既に常人には分からないほどにその験力は落ちてしまったのだろう。同行した人々のなかには沖縄のノロもいて、彼は「オマツリ」が始まるまでの間、鏡が数十枚奉納されていた大岩の上に結跏趺坐して瞑想していた。きっと彼は何かを得ていただろう。しかし、能力は彼に比べるほどもない私でも、ここでは彼と同様の何かを見ることができたと思う。
神道と名付けられた「カンナガラの道」は、明治政府によって改竄変質させられたが、それもまだたった百数十年のことでしかない。変質させられたということは、また元の形に戻る可能性もあるということだ。経営の経験も人を指導することも学んだことがないサラリーマンに会社の経営、人の指導ができるわけがないように、明治政府が構築した神道も神と人を繋ぐ仕事は無理だろう。宗教としての神道・・・・いや大体宗教という日本語が駄目だ。宗教という言葉は宗派の教えみたいな所からきているものだろうから、融通無碍な宗教の概念を表すことのできない言葉だ。そういう意味では、宗教は英語ではリリジョン(religion)だが、こちらの方がずっとその概念を表すにふさわしい。religionはもともとギリシャ語のレリゲア(religare)に由来するもので、「(神と人を)つなぎ直す」あるいは「注意深く観察すること」からきている。
 さて、沖ノ島には全島このようなスポットが沢山あり、そのために神々しいのだろう。宝物が多数発見されたから神々しいのではない。当時のこの列島の人々は半島や大陸との中継点として、この島を齋奉っていた。胸肩君が君臨する宗像の部族は、ヤマト朝廷をも巻き込むほどの祭祀を持っていた。ここからはるか遠方にある下総の地に、千五百年後の今日に至るまで、三女神の影響が色濃く見えることは、この列島の人々が如何に彼女らに強い思慕をもっていたかを物語っている。国宝や国家的祭祀、ヤマト朝廷などという平板な言葉では言い表すことのできない宗像は、近い未来には、いや千年の先かもしれないが、必ずやかつて人々が持っていた三女神にたいする思慕を伴う美しい神話が復活するだろう。


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沖ノ島旧社務所前からは、早期の縄文土器である曾畑式土器が出土している。曾畑式土器の作り手は海民であり、能登半島や屋久島などからも出土している。宗像の部族は悠久の時から船を自在に操って、この列島の島々だけでなく、半島や大陸を縦横に駆け巡っていた。三女神の信仰はその頃からあったかもしれない。航海の無事を祈るだけでなく、そこここに住み着いた彼等の守護神だったのだろう。そうしたことから宗像神社が下総の地に13社もあるのは、如何に彼等の行動力と好奇心が強いものだったかを物語るものでもある。となると古語拾遺にある、忌部の阿波から安房への集団移住は宗像の部族であり、あるいは伊都許利が大船団を率いてやって来たことを表しているのかもしれない。すると富の命は伊都許利か?富はどっちみち名前ではない。富は単なる美称にすぎないことから、本来は富の〇〇とあったものを意図的に斎部廣成が自己主張の一環として隠したのかもしれない。
5世紀前後は記紀や古墳の状況からみると、ヤマト朝廷(当時は倭韓連合体)が徐々にその力を蓄えていた頃だが、海を縦横無尽に駆け巡り、半島や大陸の文化を摂取していた宗像の部族の力を借りることなしには、その勢力を拡大することはできなかっただろう。沖ノ島祭祀は倭と宗像部族共同の祭祀だっただろうから、お互いに相当緊密な関係だったはずだ。記紀には海に関する伝承が多くあるが、それは当然海民のものだ。曾畑式土器を持った縄文の民は、半島とこの列島の激動期に対抗措置としてまとまり、そのまま宗像の部族となったのだろう。
仁徳天皇を代表とする河内王朝は倭から半島へのルートを確保する為に、積極的にそうした宗像の部族と友好を深めていただろう。仁徳天皇の妻の一人は髪長媛だ。媛は日向の諸県出身だから、倭の国ではなく隼人部族かあるいは宗像部族かもしれない。当時の倭の重要な同盟国は吉備と紀伊が定説だが、どこの部族にも海民信仰を持つ宗像部族が入り込んでいた可能性は高い。播磨王朝も半島との貿易のために、宗像部族の手を借りないわけにはいかなかっただろうし、越前王朝も同様だろう。大量の鉄のインゴットを運べるのは航海に長けた宗像部族をおいてはなかっただろう。現在宗像神社はこの列島に六千三百余社と数えられている。なにしろ縄文の時代からこの列島の内外を知り尽くしている部族だ。その足跡がこの列島の隅々にまで残っていることは、当然のことだろう。ちなみに曾畑式土器を携えた部族は、インドネシアからスンダ列島を経て、ポリネシアへ拡散したり、南米大陸まで渡っているという説がある。その足跡はラピタ土器としてネシア地方という広大な太平洋の島々に広く分布している。


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オオミズナギドリの巣跡に足をとられ、ヒルに血を吸われ、顔にはクモの巣がはりつき、身体中傷だらけになりながらも、この島を探索できたことはこの列島の歴史を垣間見る良いきっかけとなっている。
「神庭」・・・これは日本書紀に壇所とある語句である。神の庭は神を降ろしてその託宣を聞く神聖な場所のことだ。沖ノ島に見た壇のある平らな場所が、神庭のプロトタイプだが、辺津宮(現在の大社)にもほとんど同じ形の高宮祭場と呼ばれる所がある。ここは宗像大神降臨の地と伝えられ、石組みで30センチほど高くした壇から、さらにもう一段高くした平らな場所で、ただ砂利を敷いただけの簡素なものである。広さは十坪ほどのがらんとした場である。奥手左隅に何の木か分からないが、高さ4メートルほどの、幹の細い木が枝を張り出している。周りは木々が深く、葉の影さえも青い中、この空間が凛としてある。
この列島では沖ノ島祭祀もそうだが、もともと神を祀り、神を下ろす場所には社殿などなかった。また、神庭の古代の概念は現代とは著しくかけ離れたものだった。紀に面白い逸話があるので、ご紹介しておこう。
「雄略天皇九年春二月の甲子の朔に・・・凡河内直香賜(おおしこうちのあたいかたぶ)と釆女とを遣わして、胸方神を祀らしめたまふ。香賜(かたぶ)、既に壇所(かむにわ)に至りて、将に事行はむとするに至りて、その釆女を姦す。」
これは、天皇が香賜を追い落とすための口実として書かれたものだが、この記述は実に興味深い。船霊様に男女の契りを見せて喜んでもらうという神祀りが民俗学で紹介されているが、あるいはそうしたものを想起させる。考えてみれば神社では今も踊りや舞を神に奉納しているが、古代の神々はそうしたことを娯楽として求めていたのかもしれない。
また、神の庭といえどもそこは現代風な神聖さにはなかった。高取正男著「神道の成立」には「その前庭は神祭をおこなう場所であったのはいまさら指摘するまでもない。そのような所で桓武天皇が鷹に餌を与えたというのであるから、この時代には鷹の餌にするような犬や野鳥の生肉は、べつに神事の障りになるとは考えられていなかったとみるほかない」
とあり、明治政府の考案した神道は仏教と切り離す目的があったにもかかわらず、その禁忌をそのまま取り入れてもいる。
つまり、かつての神庭とは神に対する饗応や、神懸かりの場ではあったが、それは現代から見ると異様にも思われる祭祀が執り行われていた。だが、それこそ明治維新前のこの列島に脈々と流れるカンナガラの道を思い起こす貴重な資料と言える。
厳かな社殿の階段の正面に鏡が祀ってあり、突き出した棚にお守りなどを販売し、結婚式場を控えた今日の神社は、この列島の歴史上一度も存在したことのない新しいものだ。(前にも述べたが神前結婚式が流行りだしたのは昭和の初期からで、それ以前にはそのような結婚式はなかった)
現代の神社には社殿の前の広場はあるが、よりしろも神庭もない。そのことは神社に最も重要な何かが欠けたままの外観だけの、ただの形骸であることを自ら表していることになる。しかし、神社には沢山の人々が素朴な願いをかけにやってきている。このままの形骸化した神社の形態はそうした人々を裏切っていることになる。
明治政府が神道と天皇制を復古させたように見えるがそれはただの改竄だ。権力を握った明治政府が自らの権力を強固にするために、当時人の噂に上ることもなく京都で静かに暮らしていた天皇を引きずり出し、天皇制という幻想を人々に押しつけ、神道をねじ曲げた。それは原子爆弾を落とされ、絨毯爆撃されて驚くほどの国民を殺し、恐ろしいほどのトラウマを残す結果を生むまで続いた。
悲しいかな、滑稽なほどに恐ろしい天皇制の残滓は、象徴天皇という形で今も続いている。




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沖ノ島の神庭も辺津宮の神庭も、沖縄の御獄(うたき)に酷似している。私は御獄を訪れたことがないので、岡谷公二さん(跡見学園・仏文学)が芸術新潮に書いたものをここに引用して、その雰囲気を味わって頂こう。御獄は男性立ち入り禁止である。
「昭和36年・・・波照間島の御獄だった。御獄についてまるで無知だった私は、散歩の途中たまたま入りこんでしまったのである。その大きな森は、遠くから見ただけでも尋常の森ではないことがわかった。ガジュマルやアコウ、クバ、ヤラブなどが密生していて、人が踏み込むのをかたくなに拒んでいるかに見えたが、道らしい箇所があって、中に入ってみると、森のさなかに白砂を敷いた広場があり、泉が湧いていて、瀬戸の香炉が一つぽつんと置いてあった。そこはまぎれもなく聖地だった。海が近く、潮風が木々を騒がせ、明るい光が海の方角からさしこんできていた。そこにいた30分近くの間に、私は、神社や寺や教会ではかって経験したことのない、なにかを感じた。・・・三宅島で、式内社志里太宜神社に比定される椎取神社を訪れたが・・・森の中にはほとんど社殿らしきものはなく、その神秘感は恐怖をおぼえるほどのものだった。・・・日本の神は、目には見えない。そしてその聖地には、元来は樹木や岩以外のもは何もない。」
現在の沖ノ島はあろうことか、女人禁制となっている。これも明治政府が両部神道の女性蔑視をそのまま踏襲したことと、男系天皇制の影響ということになろうか。宗像大社は早急にこのバカげた禁制を改めるべきだ。もともとここは御獄と同様の場所だった。倭姫も神宮皇后も女性である。また、倭姫は飯野の高宮という所で四年間齋奉っている。高宮はやはり御獄のような聖なる地なのだろう。


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 宗像のイメージは沖縄の御獄(うたき)・・・これはしかしあくまでも親和的民衆的オカルティズムな面であり、権力としての宗教の素顔とは大分違う。そこをはき違えると古代・中世を見失うことになるので、ここに令制下における奴婢(どれい)の状況を少し述べておきたい。
卑弥呼の時代に生口と呼ばれていた奴隷の呼称は、以後ヤッコから賤奴、奴婢と変遷しており、奴婢(ぬひ)の呼称は令制になってからのようである。古事記の神武天皇巻にみられる賤奴等の名称は、古事記が奈良時代の語句を使用していることから、このような所でも、その成立がこれまで考えられいたよりもずっと後代の作であることが立正されるものでもある。最近の研究では古事記の成立期は10世紀を遡れないとの見解が主流を占めているようだ。
さて、ここでは東大寺という強大な権力を有する寺に贈与された逃亡奴婢の追求について「律令国家と賤民・吉川弘文館・神野清一著」から少し引いておきたい。東大寺はご存じのように国分寺の総元締めだが、強大な権力を有し奴隷を所有していた。天平勝宝2年(750年)、東大寺は寄進された逃亡奴婢を捕らえるべく行動に出ている。しかし総数61名への奴婢追求は、結局良民に溶け込んでいた13名を捕らえるに至っただけだった。令制の崩壊の原因はこうした農民・奴婢の浮逃によるものだったが、ここにもその兆候が現れていることになる。
ここには捕縛された13名の名を敢えて挙げておきたい。歴史的好奇心のほとんどは権力者、支配者、上流階級等の名だけを挙げるのが通例なので、21世紀の今日にこうした機会に名を記すことは意味のあることだと思う。出身地・名の順である。
山背国久世郡・豊足、同紀伊郡・千吉、同・真枝足女、不詳・刀自女、右京四条・倉人、同・大奈万呂、山背国久世郡・三嶋女、同紀伊郡・奈為女、同久世郡・刀自女、摂津国嶋上郡・飯刀自女 、右京・黒刀自女、同奈為女の男(息子)・布佐麻呂、山背国乙訓郡・薮原・・・・以上が記録に残る奴婢の名である。東大寺は寺舎人や寺奴を駆り立てて、これら13名を捕らえ、寺の奴隷として所有した。
女性7名、男性6名で何と読むのか分からないが、刀自女の名が3名ある。当時は奴婢の平凡な名だったのだろう。 また奈為女は息子と共に捕まり、東大寺に連行されて、以来母子共に奴婢として永遠に使役されたのだろう。
また冠位十二階は奴隷階級を最下等に位置づけ、結局黒色の衣服以外身に付けてはならぬというp衣(そうい)とも重なることになる。これはもちろん最上級の天皇の白色に対比するものという意味もあった。
奈良時代以降江戸時代まで、寺社は国家と変わりない権力を有していた。明治政府に愛玩された新しい神道も、戦前この限りではなく、国家のアイデンティテーを代表する一つの機関であったと言えよう。現在の神社本庁もその延長線にあるもので、庶民にとって親しむべき機関では毛頭ない。宗教には親和的民衆的オカルティズムの面と、国家に追従ないしは国家そのものという相反する二つの面があり、それをきちんと把握しなければならない。私の宗像紀行は主に前者の立場である。ここを明確にしておきたいがため、今回は奴婢について少し記すこととした。


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当時の奴婢たちのやりきれなさをさらに記したい。刀自は古語辞典では「女性の称・人に仕えて家事を司る女性」などがある。つまり刀自女という名は「小間使いの女」ほどの意味の一般名詞であり、可是麻呂が東大寺に寄進した婢である彼女には固有名詞はなかったということになる。ただ「使役の女」という一般名詞的呼び方がされていただけだった。つまり「オイ・コラ」の類がそのまま呼び名となっていたのだろう。ために7人のうち3人もの同名があるのだろう。
 そもそも東大寺・国分寺は妻の光明子の進言による聖武天皇の宗教的事業とされているが、実際はやっとできたばかりの日本国を、仏教という外来文化引を錦の旗にした豪族たちに対する政治的な引き締め政策であった。律令制度における奴婢関連の政策においては、天平勝宝元年に朝廷は諸国の豪族が有していた奴婢を買い集め、それを東大寺、薬師寺・国分寺等に施入している。これは聖武天皇を願主とする仏教興隆事業に、諸国の豪族を巻き込むことがねらいであった。
さくらさんの「房総の不思議な話、珍しい話」からの松蟲姫の書き込みがあったが、この聖武天皇の時代に稲主売と古麻佐売の二人の奴婢が、天平勝宝三年に東大寺から下総へ逃亡し捕らえられた記録がある。「何故、逃亡したのか」との問いに、「法華寺に従ひて逃げ放たれたり」と答えている。あるいはこうした信心深い哀れな婢の話が長く伝えられている間に、松蟲姫の話へと変化していったのかもしれない。
また、らい病あるいは疱瘡とあるが、当地の宗像神社付近の雑木林の中に苔生し、欠けている疱瘡神の碑を確認している。(これはフィールド・ワークの七つ道具のうちの、ナイフとタワシのおかげで読めたものだ。ナイフで苔を削ぎ落とし、たわしでシャッシャッとやると、なんとか読めることが多い。)
天皇、英雄の伝説の多くは、実は「語り」を庶民が想いを馳せて語り継いでいる間にそうした天皇、英雄の名が付会されてしまうことが多い。ヤマトタケル伝説はその最たるものだろう。

私の筆は下総の地から玄界灘の沖ノ島、さらに天平の時代とさまよっているが、それは出雲文字によってしるされた伊都許利文書が要求しているからかもしれない。ここのサクラさんの瀬織津姫に書き記したことは、いつかきちんとまとめてみたいと思うようになってきた。


23

 「伊都許利」に戻る前にこのへんで宗像紀行を終わらせよう。
正味たったの数時間であったが、大岩と鬱蒼たる照葉樹林の中で過ごした私にはその数時間がまるで何日もの滞在のように感じられた。この島のもっている明るく生き生きとした雰囲気や、壇所(かむにわ)で感じた複数の女性の視線から立ち去りがたかったが、どうしようもない。後ろ髪引かれる思いで、5月28日午後、大祭は終了となり再び船上に戻った。
玄界灘は来る時とは違って、空は鉛色となり波高く、船酔いのため全く動けなくなる人もいたほどだった。しかし、幸い私は沖ノ島の感動にポワーとしていたために、船酔いは全くなかった。
そして、3、4時間の後、船は沖ノ島への中継点となる大島へ着岸し、大祭参加者は明日の船を待つために民宿へ戻った。
大島は人口1300人、周囲15キロメートルの9割の人が漁業を営む島だ。
翌日民宿から港へ向かう途中、エビス、ヒルコ、サルタヒコの神社が目に付いた。おそらくそうした祭神がこちらではポピュラーなのだろうが、関東に住む私にとっては驚きだった。関東では稲荷や八幡や天皇や古代の大豪族に由来する大神社がメインであり、土着の神々は隅に追いやられている。明治政府の一村一社の方針で、廃絶撤去されたサルタヒコ神社の碑を稲荷神社の片隅や、また境内社として、路傍の神として見るくらいである。どうやら明治政府は距離の面からも、当地の風土からも玄界灘にある大島には手を付けられなかったと思われる。また家々の表札にも気を配ったのだが、やはり占部、阿比留姓も多くあった。阿比留姓は、神代文字のアヒル文字のアヒルであり、平田篤胤はアヒル文字を天児屋根命の後、対馬国卜部阿比留氏に伝わったものとしている。教派神道の一部では神代文字を神聖視している所もあり、重要な祝詞にこの文字を使っている。また神代文字は伊勢神宮文庫にも大量に存在するそうである。

その翌日、九州宗像大社辺津宮参拝となった。辺津宮は威厳に満ちた素晴らしい建築物であるが、もはや私には仰々しいそんな上物にはすっかり興味が薄れていた。



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