世界史教科書と検定体験
9月28日
前世紀20世紀の70年代に体験した高校世界史教科書の検定体験を、 「報復武力行使」が いつ アフガンのどこで どういう形で 始まるのか が 気になる今日このごろ 思い出す。
その世界史教科書は 難産で ようやく 生まれたのだが、採択してくれる高校が 少なく あえなく コスト高ということで 発行停止 絶版になって 今は使われていないし、多分 若い高校教師はそういう世界史教科書があったことすらご存知ないだろう。実は珍しい 時代をいわば先取りした 早く生まれすぎた世界史教科書なのである。
この世界史教科書が生まれるまでの話を。ということになると 亡き畏友鈴木亮さんの好著「大きなうそと小さなうそー日本人の世界史認識ー」をどうしても思い出す。日本人の世界史認識という傍題には、さらに「人食うしごとをやめた年/アジア・アフリカが見えているか/文部省検定済教科書」という内容説明が表紙についている。ほるぷ出版で1984年に出版された本である。この内容説明の最後の「文部省検定済教科書」という第三章である。
この本の末尾に鈴木さんと並んでこの問題の教科書を一緒に作った大江一道さんの「解説」がある。この「解説」から一部引用させていただく。
<第三章は、ズバリ、教科書問題である。あえて不謹慎ないい方をすれば、いちばんおもしろい章である。歴史の教師でない一般読者なら、この章を最初に読まれるがよい。いわゆる家永裁判いらい、教科書問題について書かれた本は、最近までにかなりの数にのぼっている。が、どちらかといえば、肩いからせたタッチのものが多い。それはそれでよいのだが、教科書執筆者であり、文部省の検定の現場に「被告」としてたちあい、こんどはお国を相手に悪戦苦闘する鈴木さんの、ゆとりをもった、皮肉と風刺のきいた文章は、教科書ができるまでの、また、できあがった教科書の問題を、なるほどなっとく、と合点させてくれるであろう。・・・・四番めの、ある世界史教科書のできるまでの話(「わるい」教科書から「よい」教科書へ)は、ホントにあった話である。いつの日か、この話を、過去形で笑って読みながせる、今よりはるかにマシな時代がやってこないものか、と待ち侘びるのは、私だけではないだろう。その日がくるまでは、私たちは、やっぱり、いつまでも声をあげていかなければなるまいと思う。石も叫ばなければならない時代がきてしまっては、もう遅いのである。鈴木さんは叫ぶことがキライな人である。本書も、けっして叫んでいるのではない。・・・>
1974年7月18日に実教出版からこの教科書の話しがあった。第1回めの会合を開いたのが、74年の10月3日。それから延々と、研究会というか編集会議というか議論をつづけ、1冊の本にまとめて文部省に検定提出したのが77年の9月中旬である。それがみごとに不合格ということになって、それをまた再提出し、78年の2月に条件つき合格ということになる。検定調査官の話しでは、それもスレスレの合格だという。
スレスレ合格の教科書の寿命は四年間で尽きた。1978年、高校学習指導要領が変わったからだ。
そこで再挑戦。1982年5月、新しく作った高校世界史教科書を文部省に提出した。今度は、「スレスレ合格本」と「不合格本」とをベースにし、条件指示で不本意に修正させられた点は修正以前にもどすことを考え、あらたに想を練りながら、つくった。執筆者七人は、はじめから自己規制することをできるだけつつしんだ。もちろん、検定教科書として書く以上、規制はまぬがれない。5月に提出すれば、ふつうは、9月か10月には、判決がでる。10月になっても11月になっても音沙汰がない。そのあいだに、日本の文部省検定済の歴史教科書にたいする国際的批判がおこったのである。1982年の夏である。
その年の暮れ、1982年の12月になり、ようやく条件付合格の通知があった。指定された日、七人の執筆者と二人の編集者は、文部省に出かけた。
<十四人の調査官のうち、歴史担当六人、審議会委員十九人、うち歴史七人、本書については調査員をさらに四名委嘱し、計三十七人が審査にあたった。
その結果、約九百の意見がついたが、本日伝えるものは、そのうちの四百二十四、修正意見が百三十四、改善意見が二百八十五。
その大半が軽微なもので、全体として得点は高く、高得点で条件付合格です。>
鈴木亮さんはこう書いている。<これは喜んでいいのか、悲しんでいいのか。逆転判決というか、一審有罪、二審で執行猶予、最高裁でついに無罪、とでもいうのだろうか。いや、無罪などはない。>
前説が長すぎたようだ。話をほしょって、アフガニスタン検定体験に飛ぼう。四年の寿命だった改訂前の最初の検定の時のことだ。その時の「指導書:」に載せてある座談会がある。そのなかで私はこう言っている。
<(石渡延男さんが「ともかく今までの教科書にない単語、地域、名前がたくさん並べられる。そうすると今までのものさしで世界史を教えていると混乱するのではないか。そのあたりはどうなんですか。」という。それを受けての発言である。)混乱するんじゃないかということは、すでに消極的で、傍観的に見ていると思うのです。実際に編集をやった者からいえば、非常に勉強になったし、まだまだ勉強になるものがこの教科書には書かれているのに、はっきり確認していないという感じさえするんです。
たとえば「アフガニスタンは・・・・・・イギリスの侵略を受けた。・・・・しかし、アフガン人はこれをいずれも撃退して独立を守った。」とある。ところが、やっぱり検定でものいいがついたので、こちらも再度調べてみた。そうしたら書いたとおりでいいんです。ところが、今までの東洋史、インド史のごく簡単な概説だと、(第一アフガン戦争・第二アフガン戦争後 保護国になったと書いてある。百科事典でもそうだ。ところが、アフガニスタン人の書いた「アフガニスタンの歴史」を見たら、「外交権はイギリスに抑えられた。しかし、それもやがて第一次世界大戦で完全に取り返した」と書いてある。外交権はイギリスが抑えたとは書いてあるけれども、保護国になったとは書いてない。>
わたしたちの世界史教科書は、70年代から80年代初めの段階で初めて北方ユーラシア、アフリカ、太平洋地域世界を含めて全地域世界の歴史を対等に扱い、大昔からとぎれなく その歴史的個性を尊重し、従来の西欧中心主義、西欧近代至上主義を脱却しようと試みた。そして、一貫して日本史を世界史の中で位置づけようとも試みたのである。世界史の主人公は欧米そして近代日本だけではなく、アフリカ世界も中南米世界も太平洋世界も西欧や何かと対等の世界史の主人公なのである。したがって、アフガニスタンもベトナムもインディオも ちゃんとした世界史の主人公なのである。
結局は圧縮されて<アフガニスタンも、中央アジアへの勢力浸透をめざすロシアと、インド支配の強化をはかるイギリスとの争いの場となり、イギリスの侵略をうけた(アフガン戦争、1836−42年、1875-79年、1915年)。>という簡単な文章になった背後にはこういうやりとりがあったのである。
ルドヤード・キプリングがイギリスとロシアという二大帝国主義国のアフガン争奪戦争を「グレート・ゲーム」と呼んだ。 1979-89年のソ連軍のアフガン介入と武力侵略とムジャヒディンとの戦いに敗れての撤退、そしてソ連の崩壊。 その後の内戦と飢餓と難民。 、そこへ今度のアメリカの「報復武力攻撃」の切迫と、アフガニスタンは「第二のグレート・ゲーム」に巻き込まれるのだろうか。msn ジャーナルの9月21日 デビッド・グレーンバーグさんの<アフガニスタンの罠ー「グレート・ゲーム」に手を出した大国たちの失敗に学ぶことー>は、わたしたちが教科書検定官とやりあった「保護国になったアフガニスタン」か「抵抗して独立を守り通したアフガニスタン」か という19-20世紀のアフガニスタンの歴史物語をうまく使った読み物である。