エドワード・サイードさんの " a people " をどう翻訳するか?

「民族の問題」ー

4月8日午後2時半
気になったもうひとつの文章というのが、エドワード・サイードさんの最近の文章である。
サイードさんの最近の文章というのは、この4月4−10日のAl-Ahhram Weekly Online(No.580)に載った"Thinking ahead" After survival, what happens? /
Edward Said offers thoughts in a time of tragedy.
 という冷静だが悲愴感あふれる文章である。全文は原文で読まれたいし、やがてRUR55Outletで邦訳も出ると思うので、ここではその文章の末尾のみ引用させていただく。

<4) The most important lesson of all for us to understand about ourselves is manifest in the terrible tragedies of what Israel is now doing in the occupied territories. The fact is that we are a people and a society, and despite Israel's ferocious attack against the PA, our society still functions. We are a people because we have a functioning society which goes on -- and has gone on for the past 54 years -- despite every sort of abuse, every cruel turn of history, every misfortune we have suffered, every tragedy we have gone through as a people. Our greatest victory over Israel is that people like Sharon and his kind do not have the capacity to see that, and this is why they are doomed despite their great power and their awful, inhuman cruelty. We have surmounted the tragedies and memories of our past, whereas such Israelis as Sharon have not. He will go to his grave only as an Arab-killer, and a failed politician who brought more unrest and insecurity to his people. It must surely be the legacy of a leader that he should leave something behind upon which future generations will build. Sharon, Mofaz, and all the others associated with them in this bullying, sadistic campaign of death and carnage will have left nothing except gravestones. Negation breeds negation.
4)我々が我々自身について理解するべきすべての最も重要な授業は、占領地でイスラエルが今、しているひどい悲劇で明白です。実は我々は、人々a peopleと社会a societyだ、そして、イスラエルの恐ろしいPAに対する攻撃にもかかわらず、我々の社会はまだ生きています。我々は人々a peopleとしてー我々が経験したあらゆる罵り、あらゆるむごい歴史の転換、あらゆる不幸にもかかわらず--それが過去54年間続いたのです--生きて機能している社会を持っています、すなわち我々が人間として人々としてあらゆる悲劇を体験してきているいる、そういう人々であり社会なのです。シャロンと彼の同類が彼らの強国と彼らのひどい、無慈悲な虐待にもかかわらずそれとこれが彼らが運命をさだめられる理由であるのを見る能力がないように、イスラエルに対する我々の最もすばらしい勝利は、その人々です。我々は、我々の過去の悲劇と記憶を乗り越えました、ところが、シャロンのようなイスラエル人は、しませんでした。彼は、単により多くの不穏を持って来たアラブの-殺人者と失敗した政治家としての彼の墓と彼の人々への不安定に行くでしょう。彼が世代が建築するだろうどちらの未来で何かをあとにすることが指導者の遺産確かにであるに違いないです。シャロン、Mofaz、ごと、死と殺戮のこのいじめている、加虐的なキャンペーンで彼らに関係があるその他は、墓石を除いて何も残さないでしょう。否定は否定しか生み出しません。

As Palestinians, I think we can say that we left a vision and a society that has survived every attempt to kill it. And that is something. It is for the generation of my children and yours, to go on from there, critically, rationally, with hope and forbearance.
パレスチナ人として、私は、我々が我々がそれを殺すのをすべての試みから生き延びたヴィジョンと社会に遺せたと言うことができると思います。そして、それは何かです。それが私の子供、あなた方の子どもの世代のためにあります。そして、希望と忍耐をもって、批判的に、合理的に、その地点から前進するということを。
時間がないのデ、一部IBMの翻訳の王様を使いました。これは粗末な訳で時に意味不明瞭です。ご自分で辞書でも引きながら直してみてください。
ぜひ考えていただきたいのは、サイードさんがいう次の世代に遺産として遺した、受け継いでもらうべき a people と a society ということです。
私たちにある a people と a society とはなんでしょうか? そういうものが 私たちには 見つかっているでしょうか?


なお、3月末からのイスラエル軍のラマラ侵攻については、「加藤哲郎のネチズン・カレッジ」内の「IMAGINE」にある<パレスチナ通信:ラマッラからの手紙>をぜひ読んでいただきたい。

イスラエル人側の目覚めとして、この4月6日(土)夜テルアビブで1万人の平和デモが行われた。「戦争を止めよ」」「流血は止めよ」「自治区から撤退せよ」というスローガンで。Coalition of Women for Peaceのウェブサイトを開かれるとよい。その写真が8ページ載っている。
5月11日には反戦・連帯のさらに大規模なデモが予定されている。欧米各地、アジアアフリカ各都市でも再占領と破壊・殺戮に抗議するデモが起こっている。


4月11日午後8時17分
前回(4月8日)取り上げたカイロのAl-Ahram Weekly Online4月4−10日号(No.580)掲載のエドワード・サイードさんの新稿 Thinking ahead の中の
重要なことばである " a people " と " a society "  ふたつのことばについて考えたことがある。

ひとまず、前者のことばにしぼってみたい。" a people " について。
人民と訳すか、民族と訳すか、人びとと訳すか。まず、民族は、ナショナリズムへの警戒、とくにそこではパレスチナ民族対イスラエル民族(頑ななシオニズム的民族主義を含む)という構図を改変するというよりまさに確立してしまうと思うので採用したくない。では、人民はどうか。加藤哲郎さんの論考にあるように、私たちの言葉の歴史をふりかえり、政治と「人民」という言葉の関係、その回転を跡付ける限り、容易にこの訳語を選ぶことはためらう。
サイードさん自身は、「民族」「ナショナリズム」というものの危なさについては「シオニズム」との対決でいやというほど骨身にしみておられると思う。
また、「人民」という言葉や政治概念にたよる、かたまる、かたよることの弱さについても、つねに批判的で理性的であろうとしてきたサイードさんは十分承知されていると思う。
そういうことで、仮に ほんの仮に あいまいなことばだが、「人びと」と置いてみたのである。しかし、おちつかない。そこで、「人民」ということばについて立派な思索をされ、これをA4版17ページ(ネット上)にまとめておられる加藤哲郎さんに質問してみることにした。

<加藤哲郎様           2002.4.10. 04:52
一つ質問です。
疑問は、次のSAIDさんの文章で出てきました " a people " です。 実は その次の " a society " 疑問です。
「人民」という訳が分かりやすいかとも思いますが、うっかり(あるいは何かひっかかるものがあってか)「人びと」と訳してしまいました。
そこで一晩寝て加藤さんの未読の論文を当然想い起こしました。そこで早朝起床して「グローバル・ネチズン・カレッジ」のサイトを開き、かの論文を印刷して読みました。
さて、SAIDさんが、明らかに " a nation " とは置かなかったことは、とても考えさせられます。
加藤さんは、かれのいう " a people " をどう解釈されますか。ぜひご意見をお聞かせ下さい。
吉田悟郎                     >

加藤さんからすぐ返信が届いた。

<吉田悟郎様            2002.4.10 09:59

「ブナ林」毎日読ませてもらっています。
なにしろ有田君によると、ワイドショーでは、
秘書疑惑からパレスチナになると途端に視聴率が下がるという国ですから。

(中略)

下記の「 we are a people and a society」、たしかにnationでも stateでもなく a people, a societyなのがポイントでしょうね。
nation stateを相対化したかった のでしょう。

ただし意味内容は、丸山真男が、チェコスロヴァキアのハンス・コーンから引いて使 うnation、つまり「過去における共通の栄光、
現在における共通の利益、将来に対する共通の使 命」をもつpeopleの集合のイメージ、あるいは、
私の「人民」論文で使った、高木八尺のAmerican peopleの使い方、nation形成の途上にあり
「独立宣言」で初めて「人民」と訳しうる「人々」に近いですね。

サイードとしては、第一のポイントでパレスチナの「多次元的」問題を指摘していますから、
nationやstateに収斂していくイメージを避けたかったのでし ょう。

その意味では、a peopleよりも、a societyに注目すべきだと思います。
we have a functioning society which goes on という国際政治の中で国民国家には なれない(敢えてならない)
が現に存在し機能し人々がくらしているautonomous societyに。

例の「世界経済フォーラムか、世界社会フォーラムか」に引きつけすぎかもしれませ んが、
「世界の社会運動の呼びかけ」の「社会的自律を実現する権利」とは、
このようなpeople、societyの存在を可能にするような「もう一つの世界」かもしれませんね。

加藤哲郎


4) The most important lesson of all for us to understand about ourselves is
manifest in the terrible tragedies of what Israel is now doingin the
occupied territories. The fact is that we are a people and asociety, and
despite Israel's ferocious attack against the PA, our society still
functions. We are a people because we have a functioning society which goes
on -- and has gone on for the past 54 years-- despite every sort of abuse,
every cruel turn of history, every misfortune we have suffered, every
tragedy we have gone through as a people.

加藤さんへの礼状をメールした。
<加藤哲郎様           2002.4.10  16:19
お忙しい中を 早速ご返事いただき有難うございました。あのあとピリンターを二回休ませ、いろいろ手立てをして、ようやく17ページの玉稿印刷できました。
すぐ一読しました。茅原崋山の『日本人民の歴史』(岩波)は敗戦直後たしかにお目にかかった本です。あらためて感服しました。

< サイードとしては、第一のポイントでパレスチナの「多次元的」問題を指摘していますから、
nationやstateに収斂していくイメージを避けたかったのでし ょう。

その意味では、a peopleよりも、a societyに注目すべきだと思います。
we have a functioning society which goes on という国際政治の中で国民国家には なれない(敢えてならない)
が現に存在し機能し人々がくらしているautonomous societyに。

例の「世界経済フォーラムか、世界社会フォーラムか」に引きつけすぎかもしれませ んが、
「世界の社会運動の呼びかけ」の「社会的自律を実現する権利」とは、
このようなpeople、societyの存在を可能にするような「もう一つの世界」かもしれませんね。>

a people そしてとくに a society についての見解、もやもやがだいぶ晴れてきた感じです。
とにかく 恐ろしい地獄 悲劇 を くぐり抜けて 進行中の 人びと と コミュニティ とを サイードさんは こう表現しました。
私たちには 簡単にわかったとか理解するとは いえない(いう資格のない) 重く 難しい ことば だと 思います。

さて、日本語訳は どうしたらよいでしょうか。
しばらく、安易に「民族」はもとより 「人民」とか 「社会」と 置き換えることを ためらいます。
少なくとも、加藤さんの「人民」についての論考は いっしょに サイードさんの使ったことば " a  people " と " a society " を考える際、必読参考文献におかねばならないでしょう。

こまったことに、私たちのことばの近代史では、「人民」ということばも 「民族」あるいは「国民」ということばも はたまた「社会」ということばも ずいぶん毒されてきた、毒してきた 汚されてきた、汚してきた ことを 認めざるを得ません。どのことばも 臭いにおいが 染み付いてしまっています。
いま、「市民」という ことばが 用いられてきていますが、どうでしょうか。

さて、先刻テレビの党首討論で、自由党の小沢一郎が 「自爆テロ」をあげ やはり「並みのテロ」と考えるかどうかを 首相に迫りました。
予想通り、小泉の答弁は、彼らの心には パレスチナ(そして 苦悩する世界)は ない という 悲しむべき日本の外交を はっきり示しました。

ほんとうに ご意見 ご教示 有難うございました。
くれぐれも お体お大事に。
吉田悟郎                         >

こういう加藤さんとのやりとりのあとで、ネットを見たら 中野真紀子さんの”RUR55OUTLET"にもうサイードさんの”THINKING AHEAD"の日本語訳が載っていた。『この先を考える』と表題を訳されている。
問題のことばは どう訳しているか。 a people を 思い切ってか 「民族」と わかりやすい訳を つけておられる。
私は、やはり 「民族」と置くのはおおいにひっかかる。これは 次回にも少しくわしく論じたい。(次回に続く)


4月12日午前10時半
サイードさんの最新の論考 " Thinking ahead " の中にある とても大事なことば " a people " をめぐって 生まれた疑問、それについての私の「もやもやした」まだ明確ではない「引っかかり」、『人民』ということばが私たちの近代史でどう使われてきたかを『民族』『国民』『階級』ということば(概念)との関連のなかで整理し論じてみたユニークな論考を書かれた加藤哲郎さんの意見、そして最後にRUR55を主宰されている中野真紀子さんの<" a people " = 「民族」 >と明快に訳された決断、以上三つの意見がそろった。

エドワード・サイードさんの発言と著作については、早くから注目され彼の重要労作『オリエンタリズム』を共訳・監修した畏友板垣雄三さんに昨夜電話して、このことばについての意見、考えを質問した。風邪気味の模様なので早々で切り上げたが、板垣さんはきわめて重要な意見を述べられた。

<「人民」とは訳せないし、「人びと」でもないでしょう。>
<「民族」ということばにひっかかるならば、その「民族」という日本語を変えていけばいいのでは?>

これで、わたしの「ひっかかり」、まことに曖昧な疑問を含めて四人の意見がそろった。
そこで、わたしはこう考える。
サイードさんが大事な概念・ことばとして英語で語っている " a people " ということばは、「人びと」でもないし「人民」でもないし、ましてや「国民」でもない。一番わかりやすく明快な日本語訳は「民族」であろう。だが、なぜ「民族」とおきかえることに 「ひっかかる」のか、違和感をもつのか。

加藤さんが作業したように、『20世紀日本における「民族」概念の獲得と喪失』という思考と論述がいくつも必要なのである。さしあたり、ひとつの試行として仮に問題提起すれば、というとおおげさになる、いいなおして どういう「ひっかかり」かを少しく説明したい。

まず、サイードさん自身は、” Thinking ahead " のなかで、こう極めて大事なパレスチナ人とパレスチナ人の社会の特徴を簡潔に指摘する。(以下、RUR55の訳ー中野真紀子さんの訳かーによらせていただく)
<良かれ悪しかれ、パレスチナは単にアラブやイスラムの大義というだけのものではない。
相異なり矛盾しながらも交差する様様な諸世界にとっても重要性をもっている。
パレスチナの運動にかかわれば 必然的にこれらの多様な側面への認識も強まり、それらについて絶え間なく自己啓発することになる。

そのため、わたしたちには教養深く油断のない洗練された指導部と、それを支える民主的な支持が必要だ。
とりわけわたしたちには、マンデラが彼の闘争について倦むことなく唱えつづけたように、パレスチナがこの時代の大きな道義的主張の一つであるという自覚が必要だ。
従って、パレスチナはそのようなものとして扱わねばならない。貿易交渉や物々交換の対象などであってはならないし、出世の手段であってもならない。
正義を掲げてこそ、パレスチナ人は高い道徳的な位置を獲得・維持することができる。>

サイードさんは、こうも述べている。
<そのうえわたしたちは、ANC(アフリカ民族会議)が南アの白人たちに呼びかけたように、相互の尊重と一体化の政治の一環としてイスラエル人に直接呼びかけることの威力も理解していない。
共生が、イスラエルの排他主義と好戦的態度に対するわたしたちの回答だ。これは一方的に折れることではない。団結をつくり出すことであり、それによって排他主義や人種差別主義や原理主義を孤立させようとするものだ。>

そして、世界一巨大な帝国の相貌を示しつつあるアメリカ合衆国に対しても、こう述べている。
<その超大国を熟知し深い知識を獲得することなしには、政治的に機能し責任をとろうとしてもまったく無意味である。アメリカについて、その歴史、制度、潮流と奔流、政治と文化についての知識を備えること、そして何よりも完全に使いものになる言語力が不可欠なのだ。
…アメリカは一枚岩ではない。わたしたちの友人もいるし、これから友人になってくれそうな人々もいる。わたしたちの解放運動の一環として、合衆国におけるわたしたちのコミュニティと彼らの所属するコミュニティを開拓し、動員し、利用することは可能なのだ。それは南アフリカの人々が彼らの解放闘争において用いた戦術と同じものであり、アルジェリア人がフランスで行ったものとも同じである。計画と統制と調整。わたしたちは非暴力の政治を全く理解していない。>

一方、20世紀日本における「民族」ということば・概念の歴史は いったいどのようなものであったろうか。
「人民」ということば・概念については、ひとまず加藤哲郎さんの分析と論考がある。「国民」あるいは「民族」ということば・概念の歴史については在日の研究者の鋭い指摘と論考が数々想い起こされる。
「民族」ということば・概念は、これとは違う「国民」ということば・概念とともに、大変な「汚れ」と「毒」と「におい」が染み付いてしまっている。
私が属してきた歴史教育者の民間団体で全国的な組織を育ててきた「歴史教育者協議会」はかつて「民族の課題」を年次の全国大会の主題に掲げていたが、だいぶ前から「民族の課題」という旗印は掲げなくなっている。これは、夭折した親友鈴木亮さんがかねがね問題にしてきたことであり、いまでも会員の中には「民族の課題」は何処へいったのかを気にしつづけている人はおられると思う。

わたしの一応の結論は、こうである。RUR55(中野真紀子さんか)の<a people を「民族」と訳す>という判断に賛成する。
但し、その「民族」ということば・概念は、いままでのさまざまな「汚れ」や「毒」そして「臭み」を完全に取り除いたものでなくてはならない。
私は、1991年7月29日のソウル大学湖巌会館で開かれた「日韓歴史教育セミナー」(主題ー21世紀を志向する歴史教育)での基調報告で次のように述べた。(西川正雄編『自国史を越えた歴史教育』三省堂1992)

<(前掲書15−16ページ)そういう歴史と集合体験のなかで、私たちの政治・経済・社会・文化・生活すべての次元で 西欧近代流の国民国家的な枠が浸透し定着し継承されてきたのである。その枠は、差異性・個別性・異質性・他者性というようなものを排除し否定する、単位性・一元性・統合性・均質性・等質性・画一性・整合性をめざすというような第一の機能・特徴、多様多彩多元多層の関係性や複合性・両義性・多義性・曖昧性・混沌性・浮遊性・相互浸透性・周辺性などというようなものを否定し敵視し、体系性のみをめざすという第二の機能・特徴、そして無境界性というようなものに対立し、そういうものを抹殺しようとし、境界性をひたすら固めようとする第三の機能・特徴を有し、公私を問わず自らを他者をも巻き添えに囲い込もうとする<溝つき・掘割りつきの空間>をつくり固めるのを常とする第四の機能・特徴が加わる。いわば、デジタル性、タテ割り性ともいえる機能・特徴である(黒田寿郎編『共同体論の地平』三修社1990)。

 こういう枠組みを確立して西欧近代風の強国になれた文明勢力は、十字軍以来イスラームーアラブ世界から全世界(後の第三世界)に対して、きわめて凶暴な軍事的・破壊的・差別的性格をあらわにし、全世界にわたってきわめて抑圧的・階層的・序列的な構造をつくりあげた。これが西欧近代資本主義的世界秩序である。ハードなモノカルチャーのメタ文明の世界制覇といえよう(三木亘『世界史のなかのイスラム世界』東洋経済新報社『イスラム世界の人々』1所収)。
私たち日本・日本人もそういう文明を身につけ、そういう先輩の道をなぞった。さらに19世紀から20世紀にかけて、他国・他民族を植民地・属国にした世界帝国をつくれた欧米日近代強国の権力者が必要とし、国民に注入培養した帝国意識(大国意識・指導国意識・覇権国意識)といえる意識が、この国民国家的枠を加工し補強してきた(木畑洋一『支配の代償』東大出版会)。

帝国意識の中に含みこまれ、同時に帝国意識から派生し独走するものとして、自国ー自民族中心主義・人種主義(欧米人の反セム主義・反ユダヤ主義、日本人の朝鮮人・中国人差別を含む)・純血主義・家父長温情主義(パターナリズム・「皇民化」政策・「八紘一宇」イデオロギー)、好戦的愛国心(「売国奴・非国民」呼ばわり)、超国家主義、超民族主義、日本の場合のような「天皇陛下」に対する絶対的忠誠心、天皇制への懐疑・批判の封殺などがある。

今日、私たちのなかに生きている 曖昧な<日本人アイデンティティ>や<日本・日本人・日本史イデオロギー>は、まさにこういう国民国家的な枠や帝国意識の日本版にあたるものの分身である。・・・・・>

サイードさんのいう 大事なことば・概念である " a people " を 「民族」と訳した場合、わたしは今まで使われたような(わたしの上記論考にある赤字の個所で指摘し批判したようjな意味をいくらかでも残したことばとして使ってはならないのではあるまいか。そうではなく、赤字部分では従来は否定されてきたソフトなマルチカルチャー的な意味に「民族」ということば・概念をつくりかえて使わねばならないと思う。

サイードさんが、<わたしたちは自分たちの過去の悲劇と記憶を克服しているが・・・>の深く重い意味。<結局のところ、私たちは一つの民族、一つの社会なのであり、…私たちが一つの民族である理由は、わたしたちにちゃんと機能している社会があり、一つの民族としてのわたしたちが経験してきたありとあらゆる嫌がらせ、歴史の残酷な回転、不運、悲劇にもかかわらず、その社会は(過去54年間続いてきたように)これからも続いていくからだ。イスラエルに対するわたしたちの最大の勝利は、シャロンや彼の同類たちにそれを認識する能力が欠けているということだ。・・・>

わたしたちの(民族としての課題>は、サイードさんやパレスチナ人の いま展開されている苦闘に学んで、わたしたちの<過去の悲劇と記憶の克服>であり、ソフトでマルチカルチャー的な 新しい<民族>に自分自らを つくりかえてゆく 課題に 取り組むことであろう。
そして、その最初の国民的予定が もうじき行われる KOREAーJAPAN主宰のワールド・サッカーではないだろうか。そこで、まずKOREAーJAPANの両国民がほんとに共存共生できるか、出来る可能性をみつけられるか、が試されるであろう。


4月12日午後9時

★PALESTINE CHRONICLE.COMのサイトに沢山のイスラエル軍のパレスチナ自治区への侵攻の写真が発表されています。各ページ数枚の写真が10ページ以上にわたって掲載されています。 http://palestinechronicle.com/index.php?topic=AT&page=1



サイードさんの使った " a people " ということば・概念について、「民族」と訳されたRUR55の中野真紀子さんに思い切ってメールを差し上げてみた。

<4月11日20:27発  中野真紀子 さま
突然メールを差し上げますご無礼、お許しください。
いつもRUR55愛読しております。ご奮闘ぶり感謝します。
私のささやかなHPで取り上げた問題、未完ですが何かのご参考に転送いたします。ご笑覧ください。
(中略)お元気で。RUR55のサイトのご隆盛を心から祈ります。
吉田悟郎 拝>

以上ののメールに、4月11日の「ブナ林便り」(1回目)のコピーを添えてお送りした。
さらに、4月12日の「ブナ林便り」(2回目)をコピーして次のようなメールを添えて中野さんに4月12日10:34発信でお送りした。

<中野真紀子 さま
昨夜お送りした私のメールさぞかしビックリされたことでしょう。お詫びします。今朝次のようにあの続きを書き発信しました。
結局、明快に「民族」と訳されたことが大いに刺激になり、勉強させていただきました。
RUR55の訳に感謝いたします。お礼まで。お騒がわせしました。
お元気で。吉田悟郎>

4月12日13:47発で中野さんからていねいなご返事を頂戴した。その趣旨はこのようなものである。
まず、私の「フォローアップ」をみとめていただき、

提言された問題は、こういう話題の翻訳をしているものには 永遠のジレンマとして残る部分を 
ついている。>
まったく、people, nation, society という中学でならうような基本的な言葉が、実のところは
サイードの翻訳にたずさわったその最初から、ずっと一番の悩みの種なのです。

なにしろ、彼が語ろうとしている「パレスチナ人」という存在はその定義そのものが結構むずかしく、
逆にそのことによって「民族」という言葉で一括りにすることのいかがわしさを露呈させる存在なのですから。
彼が英語のなかで特にある表現を用いているとき、その意図を読み取ることが第一の問題であるとすれば、
それを今度は日本語の文脈で誤解のないように適切な言葉で表現するというのが第二の問題です。>

私が論じていることは概ね後者にかかわることと思うが、<その部分については特に知識が狭いので(歴史的な経緯である種のニオイがついてしまうあたり)>、私の「民族」ということばについての「ひっかかり」の疑問は<参考になった>と謙遜して書かれていた。 
            

最後に、一面識もない方だがいつも愛読し多大の刺激を与えてくださっているエドワード・サイードさん、それに加藤哲郎さん、風邪を引かれているのに私のわがままな電話相談に応じてくださった板垣雄三さん、最後にとんだことで私の不意打ちにこころよく応じてくださった中野真紀子さん、みなさまに良い勉強の機会を与えてくださったことをお礼申し上げたい。

4月15日午前9時
畏友加藤哲郎さんの<グローバル・ネチズン・カレッジ>が<ブナ林便り>のサイードさんの" a people " 問題を取り上げてくださった。以下、その部分引用させていただく。

2002/4/15 ★ 本HP更新作業中に到着したJMM(Japan Mail Media)の冷泉彰彦さん「from 911/USAレポート」最新版「次の季節に」に、印象的な一節が引かれています。曰く、「自爆は避けられぬ死をいさぎよく飾ることであり、憤怒の感情を解放することである」と。イスラエルとパレスチナを見て、なるほどと頷いていてはいけません。この冷泉さんの引用、実は大岡昇平『レイテ戦記』からです。60年ほど前の日本には、国家から強制された「自爆」=国家テロがあったのです。その頃地球には、イスラエルという国などありませんでした。「世界の警察官」アメリカは、パウエル国務長官を調停に派遣しましたが、停戦させることはできません。9.11と同じ、自爆テロと報復攻撃の悪循環が、凝縮して再現されています。エドワード・サイードがカイロの『Al-Ahram Weekly Online』に寄せた緊急論考「Thinking ahead」は、早速中野真紀子さんHP『RUR55』「この先を考える」として翻訳され、その原文の一節 "we are a people and a society"の訳語をめぐって、吉田悟郎さん「ブナ林便り」が、板垣雄三さんと訳者中野さんと私加藤に質問しての「民族」と「人民」をめぐる歴史的熟考を、特集しています。もっとも、パレスチナが話題にのぼるのは、インターネット上ばかり。日本のマス・メディアの関心は、アフガン復興会議以降、とっくに戦争終結モードです。

上記の<ブナ林便り>での " a people "問題について伊集院立さんから次のようなメールが届いた。

<2002年4月14日

 今晩のNHKテレビ番組の情報ありがとうございました。

サイードの論考にかんするpeopleやnation やsocietyの問題、興味深く拝読しました。
こうした言葉の辞書的意味をさぐることから、どれほど実態が理解できるかとの反論もあるかと思いますが、念のため手許の辞書にあたってみました。
OEDではpeopleについてコミュニティ、tribe、race、などのメンバー=Folk、place(場所)、concource(広場?)、宗派などに属するひとびと、優位者・指導者に属するひとびと、普通の人々などと、詳しい説明がありました。

ドイツ語のVolkについてグリムの辞書を開いてみました。まず、Volkはスラヴ系のPlukuとかかわり戦闘者集団をさす。(因にPlukuかVolkがどちらが先か分かりませんが、Peupleともともとは同じ言葉のように思われます)
指導者のもとにきずなをもつ少数のひとびとの集団、ある家Hausgemein-schaftに属する人々。Hausはドイツ語では血族的なつながりのある集団だけではなく、たとえばim Hausといえば職場の建物や空間的な身内の場という意味もありますから、Hausは「社」とか「座」とか訳してもいい場合があると思います。職能的な集団のひとびと、例えばSchmidvolkのように鍛冶屋さんたちの集団、地域に集まる、すんでいる、あるいは存在しているひとびとなどと、約33ページにわたってVolkがもつ言葉のニュアンスを含めた詳しい説明があります。

フランス語は調べられなかったのですが、二宮さんがassociationをむすびあう形という視点から考えておられることに興味を持っています。associerはひとびとがほかの人々ととかかわっている、結びあいの関係にはいるということだと思いますが、ほぼ英語のassoiciateと同じだと思います。
Said氏の"our society still functions"という"functions"もひとびとがまだおたがいにかかわっているassociateしているという意味ではないかと愚考しました。
その点では加藤哲郎氏がpeopleやnation以上にsocietyに重点をおかれようとする考え方に共感をおぼえました。
岸本美緒さんが中国の家が気のつながりによってなりたっているということを述べておられますが(山川『中国史』)、
この「気」とは宋代の「理気」の「気」にかかわることなのでしょうか。つまり「存在」によってつながっているというのでしょうか。

日本語での「族」ということばはもともとは中国からの概念でしょうし、NationやPeopleなどの訳語には少し中国での言葉の意味を考える必要があるように思いました。「族」は血縁という血によるむすびつきをさすような説明があります(藤堂『大漢和字典』)もう少し詳しく諸橋さんのものを調べてみます。
二宮さんがassociationを「結びあう形」と訳された時はあるいはそのあたりを考えられたのでしょうか? 「きずな」の「き」は「気」で「きずな」は「気の綱」なのでしょうか?『国語大事典』を調べてみます。
調べることばかりふえてしまいました。> 伊集院立さん