―ソバの故郷、山丹交易、ナナイ、五葉松―
第一話 北方系ソバの故郷は バイカル湖のほとり
宮本常一さんの『日本文化の形成 講義2』(そしえて一九八一年)を読んでいると(p80-81) 、ひとつ面白い謎にぶっかった。ソバの故郷のひとつかもしれないバイカル湖地域という仮説とシベリア−沿海州−サハリン−北海道−東北−関東にまたがる北方文化圏(ナラ林帯あるいはブナ林帯)の意味である。
北見の常呂(ところ) の住居跡について、加藤晋平さんがいうには、発掘で土調べをしてみると、土のなかにソバの花粉が見つかっている.北の方では栽培植物としてのソバは、縄文期に植えられていた.北方の縄文期はずっと千何年まで下ってくる.北海道の北見を中心にして見られたアイヌ文化というのは非常に古い時期にソバの栽培を始めていたのではないか.ソバというのは野生ではなく、もう日本に来たときには栽培されるようになっていた。
中尾佐助さんはソバの原産地は中国雲南省というが、最近のシベリアについての考古学的・民族学的調査では、バイカル湖を中心に両側につながる森林地帯の北側にソバがすごいほど野生している。ソバの花で真っ白になる。栽培種の野生化したものだと考えられる。ソバベルトというものがある。それが北海道の北にまで来ているということになる。
宮本常一さんは、同じ箇所で[同書p82-86] 北海道のアイヌ文化というのは非常に原始的で遅れたものだというように考えられていたが、今から一五〇〇年以前には本州の農耕文化と比べて遜色があるどころではなく、非常にレベルの高い文化があったのではなかろうか、と注意している。
今の沿海州の辺り、黒龍江(アム-ル 河) の河口から南にかけて、かなり高い農耕文化を持っていた。アワを作りキビを作り、それからソバを作る。それの一端が北海道の北側へ、南側ではなくて北見のほうへ、天塩から北見にかけてずうっと出てくる。
どうしてかというと、あそこでは魚が非常にたくさん獲れた。魚が多いし、それから動物では熊が多い。かなりの程度早くから交易が発達したのではなかったか。その交易というのは、夏になって樹木が繁っている中を往復するということは難しいことだけれども、冬凍りつくと橇でいくらでも行ける。そこでトナカイの文化というものが考えられていいのではないか。例の大黒屋光大夫がカムチャッカへ流れついて、それからラックスマンに連れられてモスクワに行くが、冬になって土が凍るのを待って行く。当時は馬に引かせて非常に短期間でモスクワに着いている。ゲンダ−ヌさんのトナカイ遊牧の話もある。
また、普通知られている南方からの稲作の渡来論に対してシベリアを経由しての北方系の農耕の伝来論を宮本さんは力説しており、ほぼ次のように北方世界史を素描している。(同書p136-141,p142-148)
農耕において南方だけを注目するのではなく、もひとつ北方を重要視する必要があるのではないか。北方的なものにしても、シルクロ−ドを経由して黄河流域に農耕文化があり、それが朝鮮半島を経由して日本に入ってきたのではなかろうかと、そういう見方をしていたわけだが、それだけではなくて、それよりもうひとつ北にル―トがもうひとつあって、それがシベリアから満州に入ってくる文化になり、ひとつは黒龍江( アム-ル) 筋というか、沿海州まで来ている。その沿海州からず―っと海を渡って北海道、さらに東 北−関東へつながる文化になる。
シベリアではソバだけではなくて、黒龍江を過ぎてアワ、コムギの花粉が出てくる。アワも北方系のアワがある。四〇〇〇年ぐらい前からで、そのころに今の沿海州のあたりでアワやコムギを作っていた。オオムギの花粉が出るのは紀元前一〇〇〇年、今から三〇〇〇年ぐらい前なのだ。キビもそのころ作られている。そればかりでなく、今から二〇〇〇年ぐらい前の遺跡が沿海州まで広がっている。つまり、沿海州というのは、今から二〇〇〇年から三〇〇〇年ぐらい前には、農耕が非常に盛んだったといってよい。それからバイカル湖の東へ行くと、キビが作られている。やはり二〇〇〇年ぐらい前、漢の時代だ。ブリヤ―トの遺跡からは、キビとソバが出てくる。バイカル湖の東部からはソバが出ている。今から三〇〇〇年ぐらい前のものだ。同じバイカル湖の東部で、四〇〇〇年前の青銅器が出始めている。北方の文化というのは、我々が考えているよりははるかに高いものがある。紀元前二〇〇〇年の南には、そんな文化はない。そういう高い文化の中心はバイカル湖の東部の辺りではなかろうか。スキタイ文化というのは農耕文化だった。狩猟文化ではない。それが黒龍江、アム―ル流域に進出してきた。これらの文化を持った民族はどんな民族だったかというと、ツング―スだと見てよい。北方ツング―ス、つまり満州族だ。その西に遊牧をこととする匈奴だとか鮮卑だとかの先祖がいて、それが次第に東に移動を始めた。だいたい西部シベリアの平原地帯、ステップにいたものだろう。それが東に移動し始めると、それにつれて、農耕文化を持ったツング―スが東へ移動し、さらに南へ移動したと見てよいのではなかろうか。
それでは、それが日本へどんなかたちで伝わったのだろうか。縄文の前期・中期ぐらいには、そういう文化が北海道へはすでに伝わっていたのではなかろうか。それまでは日本で猪と鹿の区別がついていない。岩などに刻みこんでいる線画を見ると、大半の動物が角のあるように見えるが、普通の鹿だとみな角が枝が開いているように描かれるのに、枝の開かない、耳と見ても差し支えないような動物が無数に描かれている。ひょっとしたら、鹿ではなく猪ではなかろうか。これが縄文晩期になると、はっきりと猪になってくる。それが猪だとわかるのは、北方では猪の土偶がたくさん出てくる。猪というのは南の方に多かったと思うかもしれぬが、そうではなくて、北の方に 多かったのだ。北方で猪の土偶がたくさん出てくる。人間の子供が死んでそれを埋めると、そのそばに猪の子が埋められていることが非常に多いのだそうだ。自分の子供に乳を飲ませるが猪にも乳を飲ませる。そうすると子供が丈夫に育つという。関東から北の方での猪の落とし穴は二〇〇〇を超え、猪の土偶地帯と重なる。猪を飼っていた。
シベリア−沿海州を経由して、多分間宮海峡を通って北海道へ入ってきた北方系の農耕(および作物)というものを考えざるを得なくなる。北見の常呂(ところ) の町だけで住居址が一万五〇〇〇ぐらいあるのだという。長い歴史のなかでそれだけあったという。それにしてもひとつの町でそれだけの遺跡があるというのは、かりに一〇〇〇年なり一〇〇〇年で割ってみても相当な家数になる。すると、それは狩猟だけで生活がなりたつだろうかいうことになってくるわけだ。常呂だけではないのだから、あの辺りばあっと町があって、遺跡、住居址だらけということになってくる。動物を捕って食うだけでは生活できないだろうと思う。これから先の北海道文化の見直しというのは、非常に大きな問題を提供してくるのではなかろうかということがわかってきた。そうすると、縄文文化というものをもう一遍見直しする必要がある。
ソバは日本に野生していなかったかとみんなに聞いてみたが、ダメだという。野生のソバはない。けれどもソバというのは、開墾したとき、土が肥えていないうちにまいても、ちゃんと良い実ができる。そうすると、そこら辺に火をつけて焼いて、あとへパ―ッとソバをまいておけば、もうそのまま実が獲れる。いわゆる半栽培ができるわけだ。そして大いに食糧を供給することができる。
加藤晋平さんに、日本でソバの花粉が出ている所を教えてもらいたいというと、岩手県にある縄文晩期の大洞窟遺跡からソバの花粉が出ているという。関東ではこれも縄文晩期の真福寺遺跡からソバの花粉が出ている。津軽の古墳からも出している。非常に奇妙なことは、東北地方で弥生時代の遺跡からソバの花粉が出ているのは二か所くらいしかない。すると、稲作が発達するにつれ、一応ソバは止まったのではないかという感じさえする。北海道の場合には、擦文文化、すなわち奈良時代から平安時代へつながる文化だが、そのころまでソバの花粉が出てくる。そして、それらが北海道では全般にわたっていることがわかるのは、まず天塩、豊富、天塩の河口から千歳、その辺にかけてずうっとあるのだが、北海道では全面的に縄文晩期まで、あるいは奈良−平安ぐらいまで、ソバは盛んに作られていたのではなかろうか。それから本州のほうがだんだん稲作になって、そのときに北海道ではずうっとソバが主食だった時期があったようだ、というのが 加藤晋平さんの話だった。
北海道というのは、意外なほど農耕が盛んだったのではないか。というのは、[『松浦武四郎日記』を見よ]加藤晋平さんの指摘によると、ヒエ、アワ、ソバなど、その外側では、タバコ、カボチャ、ゴショイモ、シソ、トウガラシ、ナス、センダイカブ…、かなりの作物を作っていることがわかる。カブも作っている。しかも、カブだけ作らないで、カブとアワを混ぜて種をまいている。非常に作物の種類が多い。このなかには日本の本土のほうから種子が行ったものもあるが、たとえばセンダイカブとかタバコやトウガラシとかいうものは、むしろシベリアから入ってきた。つまり沿海州を経由して入ってきたものではなかろうか。今では沿海州というところは、ずっとレベルが落ちてしまったけれども、かつてはそこに理想的な、一時は非常に栄えた農耕文化があったのではなかろうか、そう見られる。
沿海州と北海道とが深い関係にあったということは、日本のほうの歴史でいえば、ちゃんと明らかであった。蝦夷征伐のときにミシハセ(粛慎)まで行ったとある。沿海州である。『続日本紀』(元正天皇養老二年八月条)を読むと、渡嶋(北海道南部)の蝦夷が馬一〇〇〇頭を朝廷に献上したという記事がある。ほかの地方とはケタが違う。それだけの馬を今の北海道南部のアイヌが飼って持っていたのだ。野馬の放牧ではなかったかと思われる。
日本という国は、北の方は開けていないという考えを、我々は見事に強く持っていた。そこで、エビスの国というのはほんとに開けていないと見ていた。ところが、実は決して南の方の稲作文化に劣らないような文化が、少なくとも稲作の起きてくるまでのあいだ、栄えていたということがわかってきた。そしてそれは関東まで及んでいた。関東の文化の中には、北方的な色彩というものが非常に強いのだと、これから先、関東文化を見ていく場合の、ひとつの大事な視点になってくるのではなかろうか。
これは南の照葉林文化に対して北方の落葉林文化、すなわちナラ林文化あるいはブナ林文化という広がりでもある。
宮本常一さんの『日本文化の形成 講義2』は、一九八〇年に語られたものである。その後、一九九二年青森県の三内丸山遺跡の発掘が始められ、宮本の北方史のイメ―ジを裏づけるような事実がいろいろあらわれきたと思う。
最近、一九九七年六月二十一日TBS テレビの<世界・不思議発見/古代縄文王国の謎>という三内丸山遺跡を主題にした番組をたまたま見ていたら、最後の質問に,この遺跡から発見されたアサ[加藤晋平説では繊維としての麻と幻覚を起こさせる麻薬としての麻]やゴボウなどは北方渡来のものであるが、もうひとつ今でも常食されている食べ物で北方渡来のものがある.それは何だろうか? という問が出ていた。答えは、ソバである。もちろんそれは麺類のソバではなかろうし、ソバの花粉だろうが、ここではソバが北方渡来、つまり沿海州−シベリアから来たものであることが公認された知識として登場しているのである。 [註:岡田康博・小山修三編『縄文鼎談/三内丸山の世界』山川出版社一九九六年を見ると、八六頁に岡田談として「ほかに栽培植物では、ヒョウタンやゴボウ、アカザ、マメなどが出ています。それと、ソバは花粉が出るのですが、種子がほとんど出ず、殻もみつかっていないんです。」石毛直道さん談としてニガソバつまりダッタンソバだろうとし「もしソバを食べていたら、ソバゴメとしての粒食でしょう。カラをはずして煮てしまうのです。」一三六−三七頁には佐藤洋一郎さん談として「ヒエの種があまり出てこない。これは栽培の可能性があったことになる。もし野生だったら、種がうじゃうじゃ出てきますよ。…種がないというのは、[栽培のため種がまかれて]種が消費されているということなんですね。…[ソバについても]栽培化が進んでいたんでしょう。」とある。]
ゴボウといえば、野菜.野菜といえば青葉高さんの『野菜/在来品種の系譜』(ものと人間の文化史 43 法政大学出版局一九八一年)は、生活科の教材が一杯つまった宝庫である。この本を開くと、たとえば東日本のカブはシベリア原産の北方渡来の作物であることややはり北方渡来のものとしてはオオムギ、コムギ、ダイズ、シベリア−キュウリ、ゴボウ、それにネギなどがあげられている。わが国の野菜はほとんど全部が外国から渡来したもので、日本原産の野菜といえば、フキ、セリ、ミツバぐらいなものしかない (p 309)とあるのだが、だとすれば野菜の系譜は世界史と日本史をバラバラにとらえていたのでは理解できないことになろう。生活科のなかでよく作物を実際に栽培してみる授業例が出てくるが、そういう実践のなかで子供の目を早くから日常的に広い世界に開かせる対象がゴロゴロ転がっていることになる。北方大陸からやってきた栽培作物についての最新の研究成果としては、山田悟郎・椿坂恭代両氏の「大陸から伝播した栽培植物」があり、参考文献も便利である[『「北の歴史・文化交流研究事業」研究報告』 北海道開拓記念館一九九五年.所収]。ソバの原産地については、いろいろ出ているいわゆる<ソバの本>では、ソバの原産地を諸説無差別にそれほどの吟味もせず羅列してすませているものが多く、不満である。例の新宿の日清食品本社ビルの三階にあるFOODEUMの図書館でも当たってみたが、雲南説、シベリア−バイカル説どちらが有力なのか、まだまだ謎は解けない。新島繁さんの『蕎麦史考』錦正社一九七五年を一例として要約しておくと、まず食用にする普通種の原産地は、寒帯地域を除く東アジアの北部、特にアム―ル河(黒龍江)の上流沿岸・満州・ダウリア・バイカル湖にわたる地域である.とし、次にドゥ−カンドルの説を経て、中尾佐助さんの雲南・北サハリン・西南ヒマラヤ説、山本重太郎さんの雲南−ブ―タン・ネパ―ル説、佐々木高明さんの雲南高地部説などを列挙している。私は、中国西南部雲南省、そしてバイカル−アム―ル−沿海州を含む北方アジア−シベリアの二つを筆頭にした多元説をとる。ソバの歴史を探っていく過程で、シベリア−バイカルの民話を調べていくと、斉藤君子さんの『シベリア民話の旅』平凡社一九九三年で、蕎麦の起源という民話に出会った(p
152-153)。
南シベリアではすでに紀元前に農業がはじまっている。農業の起源が古いことはショル(バイカル西方 の民族の儀礼からもうかがい知ることができ、蕎の穂や蕎粉、あるいは蕎で作った料理がどの儀礼にも欠 かせないものとして顔を出す。一例を挙げれば、春祭りでは山や川や森の霊に蕎で作った飲み物を与える 。祖先を供養する祭りのときには墓の上で蕎粉を焼いて、その煙で悪霊を追い払い、そこにいる人々の体 内に入りこまないようにした。蕎麦と麻の実を煎って作るアルバという民族料理も有名だ。
この蕎麦を人間がどのようにして手に入れたのか、その由来をショル族は次のように言い伝える。
・ソバの由来・
コ―ブィ―氏族の祖先の一人でテビル−キリシャ(鉄の弓弦)という人のへそから蕎麦の穂が出てきた 。この穂からはじめて、コ―ブィ―氏族の人びとが蕎麦の実を収穫し、ムラス川の上流に住む隣人たちにもこれを分け与えた。それと同時に、火を切り出す方法も教えた。それまでは獣の肉もゆり根も生で食べていたのだ。
蕎麦の栽培と火の獲得が結合して語り伝えられてきたことは、蕎麦が焼き畑耕作によって作られることと無関係ではないだろう。
さきにあげたテレビの<世界・不思議発見>の場合でも、三内丸山遺跡で暮していた縄文人が食していたソバは麺類のソバだとスタッフたちは勘違いしているらしいが、黒柳徹子さんがいう「オソバ」だっただろうか。そうではなくて慶長年間(一五九六―一六一五)に蕎麦切りが現われるまで、ソバ粒食の時代はかなり長く続いたのである。ロシア−東欧のス―プ仕立てのソバ−カユも粒食の一種である。映画『コルチャック先生』で自由になったら一番に食べたいものにコルチャック先生が挙げたのが、<キイチゴとソバの実のオカユ>(字幕)だった。オカユつまりカ―シャという。加藤九祚さんのアム―ル紀行日誌(『ユ―ラシア野帳』恒文社一九八九年)を読んでいると、よくソバの穀粒を煮たものにカンヅメ肉の汁をかけたものとか肉などをとりあわせた食事、それにムシソバというのが出てくる。二谷貞夫さんがウラジオスト―クのキオスクでこのソバの実をパックで売っているのを見つけ、早速購入して店頭でこのパックを手にしているところのスナップを撮っていたら怪しまれ咎められたという。この写真は貴重なものとして頂戴した。わが国では徳島県のソバ米が戦前から知られており、山形県の修験の山として知られる麻耶山山麓一帯に伝わる「むきソバ」の法は、今は酒田の名物となり、この缶詰(梅田の「むき蕎麦」)も二谷貞夫さんに送っていただき、有難く賞味した。
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