戦争と敗戦直後の荒廃は,私の青春時代であった。この時期に夭折した友人知己でいまも心に残る人を
あげれば,(旧制)成城高校新聞部生活を共に愉しんだ藤田浩が思い出される。彼は1948年6月23日滋
賀県草津療養所で享年29歳で夭折した。俳号 源五郎 といい、1942年以来『暖流』会員となっていた。
以下の文章は,俳人雑誌『暖流』誌が1948年8月号に「藤田源五郎君を悼む」という特集を組んだ時,投稿
を依頼され,執筆した原稿である。『成城学園時報』を編集していた私たちの新聞部生活が素描されている。
藤田浩と私
吉田悟郎
〇今年(1948年)三月三日夜の彼の葉書に、「駄句お笑ひ草まで」として次の数句がある。
校正室にて
ゲラを待つ朱筆やたらに落書戯画
ゲラを待つ青年の稚気阿弥陀する
ゲラ待つや滝沢のまね森のまね
ゲラ待つや彼おとなしく百合子読む
ゲラ待つや津田左右吉を論じ合う
激論の卓にゲラ刷りどっと来る
御成門にあった丸の内新聞社の二階の薄汚い校正室で,壁をへだてて鳴る鋳字機の騒音の中で,成城学園
時報という高校新聞を校正するグループが,私と彼とのまじわりの主な場所であった。
〇1938年四月,秘密の新聞部員だった成城高校二年生の私が, 新入部員部員として迎えたのが彼,岩波、上
たちだった。彼は,府立一中出の秀才らしく,明哲な思考力と豊かな教養とほどよくシニカルな性格との持主だっ
た。
〇文学青年だった彼は,私と並んで、どんな場末の古本屋でも、どんな場末の映画館でも見てあるくのがすき
だった。新聞部の伝統の中に社会科学への烈しい情熱はまだ伝えられており,新入部員の多くは、いろいろな
道をたどって脱皮していった。小学校から成城で送ってきた部員は、すらすらとこの脱皮を行ったが,彼は私と同
じく、阿部次郎,横光利一等の古い中学生的教養の中から脱出するのに苦しんだ例だった。
〇文甲の三年になる頃から、彼の文学青年から社会科学への最初の脱皮が行われたらしい。丁度この頃、彼は
志賀直哉論を書き,彼の残滓を示した。それから,皆が「志賀さん」と彼のことをからかうと彼はてれくさそうにいき
りたった。新聞部の中で一番緻密な考え方の彼は,一寸一寸じわじわと慎重に古い皮を脱いでいった。
読書調査のアンケート中の J...S.ミル が削られたり,「批判」が全部 「批評」に直されたりした低劣で息苦しい
環境の中で,( 三木清の引用をしたという理由で岩波が校長から徹底的に睨まれたりした) 最後まで砦を守った
彼や私たちの新聞部4も,1940年十月一一七号で廃刊となり,一ニ月一三日には解散を命ぜられた。
〇1941年春,東大経済学部に入った彼と私たち新聞部出身のグループは,独ソ開戦,極東にも戦争近し等の重苦
しい空気の中で,青山のS兄弟宅のサロン,新宿エルテル,学内喫茶室等で,低い声で議論をつづけ,未来への希望を
かためた。ことに、1941年夏,彼を含めた五人の仲間が北軽井沢の岩波別荘ですごした十二日ばかりの共同生活
の中で,反デューリング論の輪講, 『群盗』,『すばらしき合金』,『桜の園』,グルーバーの『北極の町』の本読み等を通
じて友情をかためあった。十一月には,彼以下六人は,戦争の近接を前に最後の旅行を共にした。沓掛ー小諸ー
野尾ー八ヶ岳裾野と,私たちの歌声と議論と歓声が動いていった。戦争は十二月に始まり、1942年六月に遂に彼は
鎌倉の聖テレジア療養所に入院した。私の現役入営の送別を兼ね九人のグループが入院中の彼を見舞った九月二
十六日が、ぎらぎらした夏の日の下で白絣の彼を見た最後だった。十月一日から私の索漠とした軍隊生活が始まり、
彼との文通も殆ど絶えたまま,敗戦の年まで生き延びえた。
〇1946年九月、ようやく草津療養所に移っていた彼との文通は再開された。あいかわらず殆ど直しのない、頭も行も
揃ったきれいな書体。
「病気になってから気が短くなったせいでしょう、街頭録音だとか放送討論会など聞いてゐると癪に障って腹が立つて
仕方がありません。当所でもクダラヌことを議論してゐると ついムキになってまくし立ててポカンとした関西のボン達を
煙りに巻いてゐます。政治,経済その他、わからぬことがあると小生のところに訊きますので肺の空洞には悪いとは思い
ながら、ついしゃべって了ひます。病気のために毎朝起きると今日一日しやべるまいとは思ふのですが、−−人間が小
さいのか多血なのか、とうていオブローモフにはなれそうにありません。」
「生きのびること ー これが目標,再起など到底不可能です。筆一管で何か役に立つ様になりたいとも思ひます。」
「夏つばめ翔けてよ今日は巴里祭
浴衣きて死ぬまで童貞かも知れず
柿の種 吐いてオブローモフめくよ」
〇「声は嗄れ長く喋舌レません。歌はゼンゼン歌へません。」
北軽井沢でも,信州から甲州への旅でも私たちがまだ知らなかったあの歌を彼は覚えて死んだだろうか?
〇彼の魂を自分の国の住民にしたがっている神父たちよ、あなたがたが命名した魂は形骸にすぎぬ。私たちグループの
いつも若々しい歩みは,藤田浩君の魂を私たちの「巴里祭」に招待するつもりだから。(1948.7.7.日本評論社員)
自分史略年譜