世界史瞥見     Glimpses of World History
  

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                                                        「100人の村」誕生の謎(目良誠二郎

黒田美代子さんの労作で『商人たちの共和国』藤原
書店 1995年という本がある。シリアのアレッポにあ
る世界でも最古に属するスークの現地調査に基づ
いて書かれたもので、黒田さんの処女出版にあたる。
この本で、私ははじめてイスラーム世界の人々の生
き生きした生き様、彼らの共同体の活力をまざまざと
感じることができ、そこに生きる人々のおおらかさと
叡知に共振を覚え羨ましくも思った。まさに、黒田さん
がいうように、それは<先進世界といわれる場所で
の生活よりも、はるかに心なごみ、奥深いもの>であ
る。それは、なぜであろうか。<スーク、それはイスラ
ーム世界にみられる、伝統的な経済活動を行う市場
であり、そこは「定価」によらない「一物多価」の「交渉」
の世界である、という。エキゾチックな雰囲気の中に、
所狭しと小さな店々が雑多に集まる この市場の時間
と空間の構成は、西欧的・近代的な世界の市場とは全
く異質なものである。>
 『商人たちの共和国』の包装紙の文章を専ら引用さ
せてもらうことになり恐縮だが、< スークの人々の生き
ざまは、ミルフィオーリと呼ばれる硝子器を思い出させ
る。束ねた着色硝子を輪切にし組合わせ、融合するそ
の硝子器は、成形の過程において一々の部分は強い
熱気で玄妙に変形し、その非画一的な諸部分が集まっ
て、迫力ある美しさを醸し出す。「千の花」を意味するこ
の器の変形した細部は、個々の花それぞれの差異性
を見事に保証し、同時にそれらに炎のような生気を与
えているのである。>
イスラーム世界の特性、差異性を生かした社会と生活、
それがいかようなものであり、それが私たちにとってい
かなる意味をもつだろうか、こう いう問題を解き明かし
ているのが、黒田美代子さんの労作である
(画像説明  マグレブの古都 フエズ  石垣貞一氏描く)  随筆 世界史学とともに(同人社から転載)


2002年1月30日の「ブナ林便り」から
100人の小泉村
<こんにちは

 100人の小泉村、なんだか狭い村ですね。でも、このままでいいのか、というメッセー
ジが印象的です。
 100人の小泉村が成り立つなら、さまざまな地域で、国での村が考えらる・・・面白い
といえばおもしろい発想ですね。

 ふと、軽く遊んでみたくなりました。
 私には統計を駆使する力がありませんで、なかなか難しいんですけど。
 すぐ手元にあるごく単純に考え付くとしたら、こんなところになりますか。
 それよりもこの100人の村を出すにあたって、統計の使い方がいまいち分からないので
す。
 たんに100%換算の数字だと、つじつまが合わなくなる???
 小数点以下が生きてこないんですもの。
 生かそうとすると100人を越えてしまう。いっそうのこと1000人のほうが
分かり易いような。まあ、いいです。
 即興で思い立ったもの、いただいたメールのようにはいきませんが、ご笑納くださいませ。


 その100人の小泉村には、
 「日本」国籍を持つ人が、98人、その他が2人。
 2人は、韓国・朝鮮人、中国の人かもしれません。またブラジルの人フィリピンの人
かもしれません。ぺルー、アメリカ・・・いろいろと考えられるでしょう。
 「日本」国籍を持っている人の中にもアイデンティティは「日本」にあるとは限らないでしょう。
 この村の人びとは、彼らにどれだけ目を向けているのでしょうか。
 {「日本」に在住する外国人登録者数169万人‐総人口の1.33%}
 {登録外国人の国籍別割合‐韓国・朝鮮40.3、中国18.6、ブラジル14.2・・・}
 ・・・

 この村は他の村と交流なしに生きていくことはできません。
 100人を養うのに必要な穀類は10000kgほど必要です。しかし、ますます自作すること
が難しい状況におかれています。今やその27%しか自給できないのです。
 7300kgはほかの村から入ってきます。大地は荒廃してしまうでしょう。
 果実は49%、肉類は54%、魚介類は65%、その村でとれますが、残りはよそに頼っています。

 例えば、食糧を得ることにおいても、100人の小泉村はいろいろな村とつきあっています。

 アメリカ、オーストラリア、デンマーク、中国(以上は肉類の上位)、中国、アメリカ、ロシア、タイ、
韓国(以上は魚介類)、果実類は、アメリカ、中国、フィリピン、ブラジル・・・
 でも、この中にはモノカルチャーで苦しんでいる人びと、
生態系が破壊されているところがあることを知っておかなければならないでしょう。
 この村がつくらなくなって、食べ物が不足していくところがあるのをごぞんじですか。

 本来、この村はアメリカや村のエゴばかり考えてはいられないのです。
 アジアとの関係なしには生きてはいけないのです。
 アジア諸国に輸出額43%、輸入は55%たよっているのです。
 また、私たちの衣料、燃料、さまざなな製品をつくるのに必要な石油に至っては、
中東の地域から87%(総輸入量の)にのぼっているのです。

 人びとのつながりは、こういった物の流れだけにおさまるものではありません。
 人びとは、移動します、そしていろいろなところで生活をしています。
 それぞれの村は、またそれぞれの民族を抱えているでしょう。
 そして、それらの村もまた様々な言語が飛び交っている村となっているでしょう。
 私たちはそのすべての事情を知ることはできないけれど、それぞれの村人を尊重する一人一人でいたいですね。

 直接に出会うことがなくても、どこかでつながっている・・・
 わたしたちは、これらのつながりによって生かされているのだと思います。


 参考にした統計資料『2002 統計でみる日本』((財)日本統計協会 編、2001年10月発行)
            『世界の統計』(総務省統計局、2001年3月)

    2002年1月29日 (三王昌代試作)                                                           >



ここに転載する西川正雄さんの論稿は、新人物往来社2001年10月25日刊行の「別冊歴史読本」の「歴史教科書大論争」に掲載されたものである。西川正雄さんの許可を得て ここに転載する。

教科書改善のための国際的対話

 ―異なる歴史解釈を認めたうえでの民間の討論を

                                 西川 正雄

 「つくる会」の歴史教科書が文部科学省の検定に合格したことに対し、韓国・中国政府が日本政府に抗議し、「教科書問題」が一九八二年についで、またもや外交問題に発展した。そのこと自体については、他で論じられる筈なので、ここでは、次の点に論点を絞りたい。一)マスメディアでは、ヨーロッパにおいては「西ドイツ=ポーランド教科書会議」などがあったのに、アジアではそのようなものがなかった、という報道が一般的である。はたしてそうなのか。

二)アジア「共通の」教科書ができれば、争いもなくなり、ましてや教科書が外交問題になることもなくなるであろう、という意見が事ある度に主張されてきた。はたして、それは解決策になるのか。

研究成果としての事実認識と多様な歴史の見方 

 

歴史教科書は、生徒に、歴史に関するある標準的な知識と標準的な歴史の見方を提供するものである。その前提にあるのは、@ どのような歴史の見方に立とうとも、厳密な歴史研究の成果として、共通に認めることが出来る事実認識がある、しかし、A 歴史の見方は多様である、ということである。したがって、歴史研究の成果に基づかずに、自分の好みの歴史の見方を開陳してはならないが、他方、歴史の見方は多様であるから、歴史教科書はいくつもある方が好ましい。じっさい、日本には、歴史教科書がいろいろある。

歴史の見方は、極端に言えば、百人百様だが、じっさいには、いくつかの潮流に分けることができるだろう。それにしても、違いはどこから生じるのか。それは、たとえば、現状ををどう理解し、どのような将来像を描いているかによるだろう。経済不況を含めて、あまり希望が持てそうもない日本の現状を、平和と福祉とを求める方向で変えていこうとするのか、それとも軍事力を増強し、市場の自由競争を推進する方向で変えようとするのか、という違いが歴史の見方の違いを生じているのである。

もう一つは、国もしくは民族による歴史的体験の違いから生じる歴史の見方の違いである。一般的に、欧米・日本の帝国主義国家と、それによって植民地支配を受けた地域とでは、歴史の見方が異なる。支配した側が「文明」と「近代化」をもたらしたと考えるに対して、後者は「差別」と「屈辱」の体験であったと考えるからである。

端的に言って、朝鮮を植民地支配した「日本人」と、植民地支配を受けた「朝鮮人」とでは、歴史的体験がまるで違う。そこから歴史の見方にも違いが生じるのだ。たとえば、福沢諭吉は、「日本人」にとっては、日本に近代思想をもたらした傑出した存在と言えようが(日本においても反論はある)、朝鮮人には、「脱亜入欧」を説いた人物として批判の対象となる(韓国や中国にも諭吉を高く評価する議論がある)。

 東アジアにおける対話  見方の違いを克服する試み

ことほど左様に、歴史の見方は、一国内でも、国境を越えても、多様なのだ。そのように言った上で、国ないし民族による歴史の見方の違いに焦点を絞ってみよう。そのような違いを克服する試みは、冒頭で問題提起したように、アジアではなかったのか。決してそうではない。

とくに一九八二年のいわゆる「国際批判」を受けて以後、日本のさまざまな集団が、韓国や中国の歴史研究者・教育者との意見交換を精力的に行ない始めて今日に至っている。

いわゆる「国際批判」について、念のために説明しておこう。それは、当時の日本の歴史教科書の場合、日本がアジアを「侵略」したと書くと文部省の検定によって修正を要求される、したがって「侵略」という表現とともに、日本がアジアを侵略した、という事柄自体が消されている、とアジア諸政府・国民が批判の声を挙げたことを指している。それに対して日本政府は、今回と同様に「内政干渉」であると反発したものの、アジア諸国との外交問題に発展するに及んで、批判された点を「政府の責任において是正する」という態度を表明して、抗議をかわしたのであった。

だが、政府が教科書の内容に介入すること自体が、多くの批判に晒されつづけていたのである。一九六五年に始まり、三〇年あまり続いた「家永訴訟」が提起したように、教育の主体は国家ではなく子どもにある、と考える人々によってである。教科書執筆者たちは、文部省の検定意見に譲歩していたことを反省し、改めて、いっそうよい教科書作りをめざそうとした。「社会科教科書執筆者懇談会」「教科書問題を考える市民の会」などが発足した。

やがて、金澤大学の藤沢法氏を中心とする「日韓歴史教科書研究会」、その経験を経て、君島和彦氏らが行っている東京学芸大学とソウル市立大学校との交流、上越教育大の二谷貞夫氏らが韓国の重鎮、李元淳(イ ウォンスン)教授と続けている企画など、アジア諸国、とくに韓国の同僚との対話の試みが多数始められた。その流れは、ついには、石渡延男氏を牽引力とする、日本の小・中・高校教師と、韓国晋州(チンジュ)の小・中・高校教師との交流にまで至っているのである。

そうした一連の努力のいちいちを紹介する紙幅はないので、筆者自身がその一員である「比較史・比較歴史教育研究会」の体験を中心に紹介させていただくことにする。この会が発足したのは、日本の歴史教科書に対する、いわゆる「国際批判」が巻き起こった一九八二年の末のことであり、東アジアにおける「対話」をめざした。そのさい、参考にしたのが、「西ドイツ=ポーランド教科書会議」であった。

  教科書改善をめざす一九世紀末から続いた努力

「西ドイツ=ポーランド教科書会議」とは、一九七二年にドイツ連邦共和国と、当時は社会主義政権のもとにあったポーランド人民共和国との間で始まり、五年後の一九七七年、両国教科書委員会が共同で、「地理・歴史教科書に関する勧告」をまとめあげたことで知られる。第二次世界大戦中に敵対し合った国の間でこのような「対話」がすでになされていたことは、東アジアでは、そうした「対話」がついぞなかったのだから、刺激的だった。                                    しかし、その紹介に移る前に、はっきり申し上げておきたいことがある。まず、このような「教科書改善」の試みは、突如として生じたのではなく、一九世紀末から、社会主義者や平和主義者が努力を重ねてきたからこその成果だということである。次に、こうした「対話」が実現したのは、歴史研究者・教育者の努力によってというよりは、政治家の動きによってであった。一九七〇年一二月、西ドイツ、社会民主党のヴィリ・ブラント政権の「東方政策」によって、ようやく西ドイツとポーランドとの外交関係が正常化し、その結果、両国の間の「教科書会議」も軌道に乗ることになったのである。

もう一つ述べておきたいのは、ドイツとポーランドの関係は、隣国として歴史的・文化的に近い一方、一八世紀末以来、第一次世界大戦後の一時期を除いて、ドイツは支配者であり、ポーランドは被支配者であったことである。 第二次世界大戦中、「総督府」が置かれたことを含め、ドイツ・ポーランド関係には、日本と朝鮮との関係と類似した点が多い。なればこそ、両国の「対話」は参考になると思われた。

西ドイツ・ポーランド教科書委員会は、そもそも、たとえば、コペルニクスはドイツ人かポーランド人か、という問題から議論しなければならなかった。それにもかかわらず、ともかくも意見が一致した論点二六項目から成る、前述の「勧告」に漕ぎ着けたのであった。だが、西ドイツでは、社会民主党が政権を握っている諸州はこれに賛成したが、キリスト教民主同盟が支配するバイエルンなどは、反対した。とくに、第二次世界大戦末期、東プロイセンから追い出されたドイツ人たちの間で、それが「勧告」において、いわば正当化されていることに対して、反発が生じた。

他方、当時の社会主義ポーランドの状況のもとでは、独ソ不可侵条約(ソ連邦崩壊後、その秘密議定書で、ヒトラーとスターリンの間でポーランド分割などが決められていたことが、史料的にも明らかになった)は議論のできないタブーであった。

このように、両国の「対話」は「政治がらみ」であり、納得し難い点がいくつもあった。それにも係わらず、われわれが、学んだのは、まず、「対話」をしている、ということだった。「事件にたいする判断がとくに対立してきたり、他方の認識がこれまであまりにも浅かった」ようなところから討論を始めた、という点である。そして、西ドイツで、この「対話」の中心となったのが、他の国々とも「対話」を進めていたブラウンシュヴァイクの「国際教科書研究所」であり、基本的に民間の仕事だ、ということであった。

その後、西ヨーロッパ一二か国の歴史家たちによる『ヨーロッパの歴史』が一九九二年に刊行された。それが日本語に訳されたとき、「ヨーロッパ共通教科書」なる、原書には無い副題が付されており、「共通教科書」さえできれば、という幻想が振りまかれる一助になった。この本は、決して「共通教科書」ではなく、あくまで副教材を提供しようとしているだけである。、それにしても、EU諸国民の相互理解をめざす意図はよいが、国による従来の対立点をぼかしたので、つまらない叙述になってしまった。しかも、東ヨーロッパはほとんど無視されている。

 安易な「共通教科書」より息の長い対話こそ

東アジアでの「対話」を望んだ「比較史・比較歴史教育研究会」のシンポジウムが実現したのは、一九八四年のことであった。じつは、そのころまで、日本の「左翼」の間では、社会主義中国に熱いまなざしを向けている一方で、韓国は独裁政権であるというイメージが強かった。われわれのシンポジウムに、韓国からの参加者を得たのは、当時としては、画期的なことであった。日本人民も同じく被害者である、という中国政府の立場に立つ中国からの参加者と異なり、韓国からの参加者は、「日帝」時代に関して、われわれを糾弾した。

一九八九年の第二回シンポジウムの折には、「天安門事件」の直後にもかかわらず、中国から参加者が駆けつけてくれたし、北朝鮮と韓国の歴史家が一堂に会する初めての機会ともなった。そのとき、北朝鮮の代表者たちは、中国政府と同様、日本人民も被害者だという主張だったのだが、韓国の人々が、われわれを苦しめたのは「普通の」日本人だった、と発言するに及んで、それに同調する気配を見せた。まことに、それが実感だったのであろう。

「普通の」日本人であるわれわれとして、どう応えたらよいのか。未だに抱えている問題である。しかし、第三、四回とシンポジウムを重ね、台湾やヴェトナムからも参加者を得るに至って、日本帝国主義の支配と犠牲者という二項対立の視点ではとらえきれない局面が浮かび上がってきた。「日帝」支配のもとで朝鮮や台湾で進んだ資本主義化の問題、日清戦争に関して、日本のみならず、中国の教科書も、朝鮮を無視していること、そして、韓国も、アメリカのヴェトナム侵略に加担したこと、等々。こうした議論を重ねていくうちに、お互いに歴史認識が深まり、徐々に人間同士としての信頼関係も育っていった。ただし、それによって、日本のアジア侵略・非人道的行為が相対化されるわけでは決してない。

問題は、教科書の表現、たとえば「侵略」か「進出」ではなく、侵略の実態を描くことの方が大切である。国民もしくは民族によって異なる歴史解釈があるのは当然で、それを俎上にのせて討論し、お互いの歴史認識を深めることで共通の土俵ができる。だが、アジア共通の歴史教科書など目指すべきではない。もし、そのようなものが、政府の承認のもとにできたら、新たな強力な検定基準になろうから。

社会主義ポーランドが崩壊した後も、ドイツとポーランドの歴史研究・教育者たちは「対話」を続けてきている。そこには「西ドイツ・ポーランド教科書会議」の遺産が生きているだけでなく、ごく最近「国際教科書研究所」から刊行された『20世紀のドイツとポーランド』には、「対話」の深まりが如実に示されている。このように、国境を越えて志を同じくする人たちによる「教材」の作成は有意義であろう。しかし、対話はあくまで民間で市民の立場から行なうべきだ。歴史教育はいかなる政治権力からも自由であるべきだから。自分の主張に近い立場の政府であったとしても、である。

今回の「教科書問題」に関する日本政府の対応は、東アジア諸国民の間で、これまでようやくにして育ててきた対話の芽すら潰す愚行でしかない。即効を期待して安易に「共通教科書」などをめざすのではなく、外交上の困難があればこそ、相互理解をめざして対話を続けることが、共生の未来を保証すると考える。

参考文献 

西川正雄(編)『自国史を越えた歴史教育』(三省堂1992)

比較史・比較歴史教育研究会(編)『黒船と日清戦争』(未来社1996)

近藤孝弘『ドイツ現代史と国際教科書改善』(名古屋大学出版会1993)

東京学芸大海外子女教育センター()『「ヨーロッパの歴史」を読む』(同センター1997)


2001年11月16日
 少しふるくなったようだが、2001年9月11日の事件が 日本の市民の家庭でどう受け止められたか、またひとりの女性院生がどう考えたか、の一資料としてここに採録しておきたい。筆者は SANO MASAYO さんである。


吉田悟郎先生へ

こんにちは

アメリカでの事件、戦後の国家間の交渉において演出されていた“和平への道”は、報復への報復を生むという、こんなところにいきついてしまうのでしょうか。「アメリカがこれまで関ってきた和平とか、紛争とか、制裁、圧力、軍事介入…。いったいどのような国・地域・人々に対して、どんなことをやってきたのだろう」ということが問題になりますし、上原専祿でも読み返してみたい、私は考えています。

今日の状況から考えれば、日本のアメリカ支援は避けられそうにありませんが、そうなると、爆撃を含めて直接的に自分の生命とかかわる問題になってきます。そういうとき、私はどういう行動をとることになるのでしょうか?逃げる?でもどこへ???そうなる前に活動しなければならないこともあるのでは?今、そんなことをが頭をよぎっています。

何らかのコメントをとは考えていたのですが、先のメールをいただいてみて、やはりわたしが周りの人とどのようなことを話ていたのかを書くのがいいのではないかと思い、今回は、おはずかしいのですが家族と話したこと、メールなどでやり取りしたことを紹介することにしました。

「あっ」、と息をのんでしばらく無言、4機ということで「えっ、何これ、やばい」でした。その時、テロではないかという言葉がテレビで流れていましたが、まさか旅客機だとは思わなかったです。

当初は、「あそこで働く人たちは膨大な数のはず、脱出できるだろうか」、「テロだったら、アメリカの情報局がつかんでいないわけはないはず、生活している人たち、旅行者、企業の人たちへの事前の情報はどうなっていたのだろう」ということを話ていて、「このビル崩れるんじゃないの」そういった私でしたが、両親は「アメリカのような技術の発達したところのしかも、世界貿易センターのようなつくりのものが崩壊するわけないよ」、「アメリカだからというのは変だよ」とのんきなことをいっていたのです。

実際、崩壊してからは、「アメリカは世界の警察国家と称する帝国になって地球のあちらこちらに出ている、歴史的に帝国は衰退に向かうから…。軍事や経済だけでなく文化面だって支配しようとしている現実だからなあ。“憎しアメリカ”と思う人は世界にたくさんいるよ」、「歴史は繰り返す…このまま報復合戦かも、そしたらここも?」。

次の日以降、「世界戦争になるかも、まずいことになった」…とはじまり、「日本のテレビは、どうして日本の企業関係しか話題にしないのだろうか、少なくとも貿易センタービルには、様々な国・地域の人が働いているはずだし、日本にもいろいろな出身の人がいるのに」、「推測的報道ばかりで、これじゃあ、イスラムすべてが悪のように捉えられてしまう」、「さらなる報復攻撃をねらって、イスラムVSアメリカの構造をより印象付けて、世界を巻き込もうという作戦に、アメリカ国家とメディアがぐるになっている」、「報復を双方が繰り返すなら、戦争で犠牲になる多数が一般人というところがみえていないのでは」、「報復しないとアメリカがまたやられてしまう」、「せめて報復に日本が参加しないようにするには?」、「アメリカの報復に参加しなければ、日本が今後やられた時に、アメリカが助けてくれないから、参加すべきななのではないか」、「でもそんなので死ぬのはごめんだし」、「政府は、そういうことを口実に、将来の憲法改悪と、徴兵制をねらっているのでは」、「お金を出していることでさえ、おおいに参戦しているという意識がない首相の判断や、一部の人たちの見解は非常に危険きわまりない」、「アメリカは多数派工作をして、多国籍軍をつくっていままでだって紛争などに介入してきている、そういう戦術のなかでリーダとなるやりかただ」、「国ではなくで、私たち一人一人でみれば、それが最も多数派なのに、連帯できないというか、つながっていけないというところには、やっぱり国家が?」というものでした。

また、「美国は報復すると言ってますが犠牲になるのは民衆です、利益や取り合いの歴史、宗教の歴史は止む事無く難しい問題です。難しい!」という50代の方、「世界がおかしくなっちゃっている、これから生きてける保証はないね」というものがメールに入りました。

家族や友達といろいろ話をしましたが、だいたい上述のようなもので、私が考えておきたいことと思って、書いたものは以下のようなものです。

戦後、アメリカはどのような戦争や紛争に絡んできたのだろうか、また、どのような理由で反アメリカが叫ばれてきたのだろうか、内実を考えればいたるところにあるのでしょうが、今は私が記憶している範囲で、思い当たるままに書いてみますが、それでもけっこうあるものです。

なお、もしかすると思い違いのものがあるかもしれませんし、抜けているものもたくさんあるかと思いますので、その点ご指摘くださればと思います。

【東アジアや東南アジアでは】サンフランシスコ講和条約、日米安全保障条約、日本各地の米軍基地に関する問題、朝鮮戦争、ベトナム戦争(ソンミ村の虐殺に象徴されるアメリカ軍のCSガス、ナパーム弾、枯葉剤の使用)、カンボジア内戦(爆撃 等)、インド洋の米ソ対立(基地の建設)…。【太平洋諸地域】ビキニ水爆実験をはじめとする核実験の問題…。【中東方面では】おもに第四次中東戦争、パレスチナ紛争、湾岸戦争、旧ユーゴスラビア内乱、シリアとアメリカの対立…。【アフリカでは】エリトリア戦争、ソマリア内戦、リベリア内戦、スーダン内戦、コンゴ動乱、モザンビーク内戦、アンゴラ内戦、ナミビア問題、西サハラ問題…。【南北アメリカ大陸方面では】キューバ危機、パナマ侵攻、ニカラグア内戦、エルサルバトル内戦、ハイチへの進駐…。【旧ソ連とは】冷戦という名の果て無き争い…。

そして、石油にかかわる問題、人権問題が絡んでの制裁(例えばナイジェリア)、インドに対する食料政策の問題、旧ソ連崩壊後のアメリカ経済の移入、さまざまな理由をつけて行われる経済制裁などなど。

また、国連が平和維持活動と称して介入した(している)ところはどこなのか、そこで展開されたことは、そこに生活する人々にとってはどううつるような性格のものなのだろうか、ということが気になりました。前者については調べてみることに、後者についてはなかなか資料が無いという現実があるので、今回はあまり触れられませんというか、私自身の勉強不足で、ああ、社会科を志ながらも私自身がこんなもんなんだと痛感させられた次第です。

国連平和維持活動‐各地における展開

名称

派遣場所

派遣期間

(中東)

 

 

国連(パレスチナ)休戦監視機構

エジプト、ヨルダン、レバノン、イスラエル等

1948.6.11〜現在

第一次国連緊急軍

スエズ運河・カシミール印・パキスタン国境

1956.111967.6.17

第二次国連緊急軍

スエズ運河地帯シナイ半島

1973.10.251979.7.24

国連レバノン監視団

レバンン・シリア国境

1958.6.1112.9

国連レバノン暫定軍

南部レバノン

1978.3.15〜現在

国連イエメン監視団

イエメン

1963.7.41964.9.4

国連兵力引離し監視団

シリアのゴラン高原

1974.6.3〜現在

国連イラン=イラク軍事監視団

イラン・イラク国境

1988.8.101991.2.28

国連イラク=クウェイト軍事監視団

イラク、クウェイト

1991.4.13〜現在

(アジア・太平洋)

 

 

国連インド=パキスタン軍事監視団

ジャム・カシミール・パキスタン国境

1949.1.24〜現在

国連インド=パキスタン監視団

カシミールとアラビア海の両国国境

1965.91966.3.22

国連西イリアン保安隊

西イリアン

1962.10.11963.4.30

国連アフガニスタン=パキスタン仲介ミッション

アフガニスタン・パキスタン国境

1988.5.151990.3.15

国連カンボジア先遣隊

国連カンボジア暫定統治機構

カンボジア

1991.11.91992.3.15

1992.3.151993.12.31

(アフリカ)

 

 

コンゴ国連軍

コンゴ(現ザイール)

1960.7.151964.6.30

国連アンゴラ検証団

アンゴラ

1989.1.31991.5.30

1991.5.301995.2.8

1995.2.81997.6.30

国連ナミビア独立支援グループ

ナミビア

1989.4.11990.3.21

国連西サハラ住民投票監視団

西サハラ

1991.9.6〜現在

国連ソマリア活動

ソマリア

1992.7.231993.5.3

1993.5.41995.3.2

国連モザンビーク活動

モザンビーク

1993.2.91995.1

国連ウガンダ=ルワンダ監視団

ウガンダ

1993.6.221994.9.30

国連リベリア監視団

リベリア

1993.9.221997.9.30

国連ルワンダ支援団

ルワンダ

1993.10.51996.3.8

国連オアズ地帯監視団

オアズ地帯

1994.5.41994.6.13

(旧ソ連地域、ヨーロッパなど)

 

 

国連キプロス平和維持軍

キプロス

1964.3.13〜現在

国連保護軍

 

国連信頼回復活動

国連プレブラカ監視団

国連ボスニア・ヘルツェゴビナ・ミッション

国連予防展開軍

クロアチア、ボスニア、ヘルツェゴビナ、マケドニア

 

1992.3.161995.12.20

 

1995.31996.1.15

1996.2.1〜現在

1996.2.6〜現在

 

1995.31999.2

国連グルジア監視団

グルジア

1993.9.10〜現在

国連タジキスタン監視団

タジキスタン

1994.12.16〜現在

(アメリカ大陸)

 

 

ドミニカ国連事務総長代表使節団

ドミニカ

1965.5.141966.10.22

国連中米監視団

コスタリカ、エル・サルバドル、グアテマラ、ホンジュラス、ニカラグア

1989.12.31992.1.17

国連エルサルバドル監視団

エル・サルバドル

1991.7.261995.4.30

国連ハイチ使節団

国連ハイチ支援団

ハイチ

1993.9.81996.6.30

1996.7.11997.7.31

(其の他の国連軍・多国籍軍)

 

 

朝鮮国連軍事司令部

 

1950.7.25

湾岸多国籍軍

 

1991.1.171991.4.11

松井愈 編『戦争と平和の事典』(高文研、1995年)、横田洋三 編『国連による平和と安全の維持』(国際書院、2000年)を参考に筆者作成)。期間及び名称は後者による。前者の解説によると外務省文書では「軍」を「隊」としているという。

これら国連活動はアメリカと密接に関っているはずであり、あちらこちらで人々による反米運動が起きていることもふと、そうなんだよなあというようなデータです。ここでは強制的にアメリカ流に解決しようとされているので、かえって事態を悪化させていることが明かにされている、旧ユーゴ、パレスチナ、レバノン、ソマリア、アンゴラ、ゴラン、イラン・イラク、カンボジア、タジキスタン、湾岸戦争など他にもたくさんあるはずですし、報道されることが少ない、本来いいわけない!?というところから、「大国」のための平和がその土地の人々に残す問題もおきざりにされていることをもう1度捉えなおしていく必要があると思います。

もちろん、これらに対抗するものとして起きてもよい事件とはいうつもりはありません。戦争で被害を受けるのは一般市民なのです、そう人類一人一人なんです。武力衝突はダメ、言葉があるでしょう、そうじゃないと果て無き争いで地球が終わってしまいます。

と同時に考えられなければならないのが、アメリカの傘下にある日本の行動でしょう。もちろん反対運動をしてがんばっている人々もたくさんいます、しかし現実には、××制裁や国連関係のものには日本も追随してセットで行っているのですから。PKO法案以降、自衛隊はペルシャ湾へ海掃廷を派遣し(1991.49)機雷の除去や米軍への給油を実施し、カンボジアPKO1992.91993.9)巡回活動も実施し、ルワンダには「難民救援」を口実にしたザイールへ派遣しており(1994.912)それは国連決議に基づくPKOではなく機関銃を携帯した単独行動を行っています。…今回だって危ない。

他方、例えば現在、アフリカに生きる人々の生活の中にある問題、その原因、自己実現を求める活動に対して、私自身があまりに目を向けてこなかったことに気がつく。そこに生きる人々にとって、まさに生活の中にある問題として独立や解放を、時には武力をつかって抵抗したたかっているものと、そうではなくて国家が統治するために武力をも用いていどんでくるものと、どう考えていけばいいのか。

私は自分が“武力をもって”たたかうことは考えるつもりはないし、また、泥沼の紛争を望んでいる人々は少ないはず。個人的な関心からみれが、東チモールの独立運動もあれば、スールーのモロ分離独立運動のようにイスラムが絡んでいるものもありますが…。

と、とりあえずこんなところにしておきます。


 2001年6月13日
 上越教育大学の大学院生で二谷貞夫さんの指導を受けている三王昌代さんという若い女性がいる。彼女が調査・文献の探索と解読・
東アジア歴史像の試行を試みているテーマは興味あるものである。

 中国山東省徳州に蘇禄(スールー)東王の墳墓が残されている。この墳墓には,永楽15年(1417)にスールーから妻子および従者340
余人を引き連れて北京に来朝したという、権蘇禄東国巴都葛叭答刺が祭られている。彼らは27日間北京にとどまり,明の成祖からの歓待を
受けたという。しかし、その帰途において東王が亡くなってしまった。そこで永楽帝から”恭定”という名を授けられ、碑文が書かれるなどの
待遇を受けたといわれる。以後,東王の子孫らがこの地にとどまり、今日の21代目にいたるまで徳州で墓守を続けている。

 私はたまたま,渋谷の国際交流基金アセアン文化センターで開催されたフィリピン映画祭でフィリピン・中国合作映画 ”HARI SA HARL 
 LAHI SA LAHI ( King and Emperor ) " を1991年の夏に見ていた。拙著『世界史学講義』上巻の158〜163頁に<ブナ林便り/スルタン
と皇帝ースールー王国の世界史的な意味ー>という文章がその時の産物である。また,大きな世界史学習の宿題としては東アジアの「イスラーム
化」という未解明の問題がある。東南アジアを含めて、とくに巨大な「中国」・モンゴル・朝鮮・ロシア極東、そして日本の「イスラーム化」の実態と
意味、これはまだ世界史研究の課題として各国で市民権を得ているとはいえまい。これからの重要な未解明課題であろう。

 そういうことがあって,二谷先生の指導下の院生 三王昌代さんがスールー東王と永楽帝の出会いの問題に取り組もうということを聞いた時は
嬉しかった。二谷さんのきもいりもあって,中国の歴史教学研究会や徳州の研究者から頂戴していた文献はすべて三王さんに利用してもらうこと
にした。
 そういう経過で、2001年に入ると,三王昌代さんの十五世紀スールー東王の明の永楽帝の宮廷への「朝貢」とスールー東王の死をめぐる修士
論文が完成した。副産物として仕上げられた『中国山東省徳州市 蘇禄(スールー)東王墓を訪れて』(三王さんの1999年の訪問記と東王の末裔
とのインタビューからな李,貴重な写真が盛られている)を 6月9日の比較史の研究会の時,頂戴した。これも 是非紹介したい面白く貴重なルポ
である。

 今回は その三王さんが、この修士論文作成準備のため北京に留学したときの体験、多様な民族をはじめて実感した驚きと開眼を記録した文章
をメールで送っていただいたので、ここ「世界史瞥見」に適当と考え,掲載させていただく。前書きの書簡部分も参考のため掲載させていただく

吉田悟郎先生へ

こんにちは

先生の発信されるHPやさまざまな論考を読ませていただき、また先日(6.9)の比較史の会の例会に参加させていただきました。これまでに近隣諸国などとの交流をすすめられてこられた比較史の会の皆様をはじめ多くの方々がおられてこそ、今の例えば歴史教科書の問題や歴史教育に関する対話が成り立っていることに個々の、或いは一つ一つの交流の積み重ねの大切さを感じさせられました。

ところで、先日下里先生の後日談のなかの件について何かあれば…というお話がありました。私も“共通”の歴史教科書はめざすべきではないと考える意見に賛成で、教材の交流というのは“すごい”と思いました。中国でのいくつかの経験からそう考えるところが大きいので、以下にいくつかを記します。

中国北京に留学していた19999月〜20007月の間に私は多くの人に出会いました。特に、朝鮮族の人、満族の人、内蒙古の人、ウイグル自治区に住む人、イスラム教徒の人、…等などと出会って、歴史や教育の話をすることができ、その人たちの“中国の歴史教科書”について異見や日本の歴史教科書の内容を話してみるという貴重な機会がありました。

あくまでも独断と偏見に基づいたもので、大勢の見方ではありません。その点をご理解いただいて、留学中かきおきしていたものがありますので、ご覧いただければと思います。

 

民族などの問題もいろいろ

19999月〜20007月の記録

北京にて

はじめに

中国の歴史の教科書、ニュースなどでしばしばいわれる“自古以来、中国…”。つまり、古来より中国は一国で…という意味なのですが、中国に生活していると、一国の中国と保持しようと「56民族一致団結、国家の発展」などとさかんに宣揚している政府と、公ではないけれど、実は独立したいという民族の間を垣間見る機会にであいます。

私が出会った人はいろいろな人々がいますが、この度は民族の着目したものを集めてみました。

 

・内モンゴルの満族の人

まず、私が気づいたのは、大学の殆どの中国語の先生方が「中国は一国、56民族がいて、それが一つの中国を構成している。独立は考えられない」ということを授業の中で説明するなかで、ただ一人、フフホトの満族出身の先生は、「モンゴルは1920年、30年に分断された。本来モンゴルは一つの国のはず。北京に来て感じたことはやはりモンゴルと中国の文化はぜんぜん違う」と説明していました。満族だと北京での就職などに不利になるため、それを隠して生きていく人も多いそうです。

そして、「内モンゴルでは、小学校授業から北京語を教えられる、入試北京語でかかれたテストで受けなければならない。小学校では十人いたけれど、中学に進学できた(した)のは7人、高校で5人になり、大学に進学したのは、この先生一人だった」そうです。なぜかというと、家ではそれぞれの文化・歴史を教える、学校では“中国の歴史”を学ぶ、というなかで学校に行きたくなくなる人もいる、また、北京語で書かれたテストに受験を失敗してしまって断念する、の大まかに分けて二つのある」と説明してくれました。今心配していることは、「北京語の浸透で、言葉が廃れていくこと、大学でさえ1ヶ所だけしかない、そして満語とか次の世代に文化が伝わらない、内モンゴルも“発展”と“伝統”のハザマにあります。最近になって文化を残そうという動きもある…」という話でした。ちなみにこの先生は、フフホトの人です。

 

・内モンゴル出身の先生

故宮図書館で知り合った内モンゴル出身でモンゴルを研究する先生は、上記のような危惧もさることながら、周りを見ながら、はっきり「中国人ではない、内モンゴルは今は無理だけで、いつかは独立する…という希望を持っている。」といっていました。

更に、教育のことについてたずねると、その状況や日本での教育に期待することについては、「中国で出版されている教科書には、モンゴルの歴史はほとんど出てこない。教科書は人民教育出版社のものとほぼ同じようなものだ。せめて日本で教える時は、中国史として中国を教えるのではなく、○○時代の△△の地域には□□の文化があって、□□を生かして◇◇の生活をし…というような歴史の授業をしてほしい」という話をされました。

対日感情の面でもだいぶ違うところがあるといわれ、「文化交流を中心にやってきた部分や、侵略はいつもどこかで起こっている、中国が日本に侵略されたのは事実だが、中国内部での大きな問題は語られない。平和を考える時は今日ある国を単位として理解されるべきではない」というところからきているという話をされていました。また、自分たちの言葉を大事にしていて、普段は共通語を話さない、というのも印象的です。

 

・チベットの例

ところで、もう一つ。52日に歴史博物館に行き、チベット族の展示をみてきました。東京でも開催されたようですが。長い布に人類の起源から、チベット族の歴史、宗教、天文学、数学、科学などが絵巻物のようなスタイルで描かれています。(ここ数年の間に製作されたものです)。その際、チベット族の方がわざわざ歴史の部分について解説してくれました。彼等は、やはりチベットは独立した一つの国というように考えているようです。文字の違い、文化の違い、起源の違いなどを説明してくれました。歴史の授業で、日本で紹介してほしいことは、「自分たちの地域の歴史―中国はを主語にせず、地域、或いは民族それぞれを主語にしてほしい」という内容の話があったと思います。また、彼等は音楽をとても重視しています。ちなみに、ダライ・ラマのことも説明してくれたのですが、ちょっと私には聞き取れませんでした。

 

・ウイグル自治区では…

ウイグル自治区にいった人の話によると「少数民族は許可された場所以外で食堂や商店を開くことができない」そうです。彼女がある小さな食堂に入ったときのこと、暗くなっても電気をつけないので、なぜか聞いたそうです。主人は、「ここは不法とされていて、公安から電気を止められている。…。」彼女が独立したいかどうかということについて尋ねたところ、彼は「独立したいに決まっている。独立していないから、こうして電気を止められたりする。自分たちの経済発展ができない。」ということを話したそうです。そうしたら、周りにいた客が、「そんな話はしないでくれ、でていってくれ、公安がくる。そうしたらみんなつかまる。」とおいだされてしまったそうです。続いて彼等も散らばっていってしまったそうです。

このような話を聞くと、中国の民族政策は、公安の圧力によってなりたっているという側面がように感じますが、今、ニュースで盛んに言われている“開発”にも呑みこまれているというかなんというか。けれど、当地の先住民にとってどうなのか、特にウイグル自治区の場合は私自身が訪問したのではないので、なんともいえません。ただ一つ言えるとすれば、独立願う人々と政府のいう“古来よりの中国”とは考え方に大きな違いがあるということでしょうか。地域にとっては、“西部開発”によって便利になる、という立場をとる人と、中国政府による経済振興による圧力と両方の見方があるようです。もちろん後者の立場は公にはでてきませんが、北京の一地域にあるウイグル族の人たちが集まって生活する地域や出稼ぎに北京にきている人の話では、こういう話を聴くことができるということです。他のウイグル自治区から来たは、西部開発によって経済は発展、便利だけど、政府が言っているほどではないし、問題は報道されないなど、一留学生との個人的な話として話してくれたのだと思います。

そして私が故宮で知り合った新疆大学の院生は、この地域の人々は「ロシア語と英語と北京語を勉強する」といっていました。ロシアとの関わりが強いので、必要なのだといっていました。

 

朝鮮族の人

書市でアルバイトで北京よりもう少し北方からきていた朝鮮族の人に会いました。朝鮮族の人は、ハングルと北京語と英語は必ず勉強するといわれ、最近は日本語を勉強する若者が増えてきたという。ラジオ放送で勉強する人がほとんどで、それはこれからの経済のためといっていた。歴史は、やはり「自分たちと中国の歴史との両方をやる」というお話でした。北朝鮮との関係も複雑なところがあるが、彼は今、韓国の方に興味を持っているといい、そういう若い人も増えているという。

 

・歴史教育に携わる回族であるという先生

「日本の先生は、例えば人民教育出版社の教科書がよくなっているとほめるが、回族の私からみれば、まったくよくなっていない」という言葉が印象的です。「。回族の歴史は明かに無視されており、差別もある。それが今日の中国政府のやり方である」とおっしゃっていました。しかし、そういうふうに考えていても公言できない人々もたくさんいるし、そう考えない人もたくさんいるといわれていました。

鄭成功の授業を教科書と違う視点、例えば親の出身地や台湾との関係、海賊的な要素で教えたら、差し止められたというので、とても憤慨されていた…。

 

おわりに

このように実際 人とあって、思いを語り合うと様々な事実がでてきます。こういう状況に直接接するまでは、56(それ以上の)民族がいる“中国”という立場をとるという理解をしていたけれど、今はちょっとどう理解していいのか私自身分からなくなりました。すくなくとも一人一人が考えていくということが大事ということがベースです。私の知らないことばかりだったので新鮮というほどで、本当におはずかしい話なのですが、一方で実に多様な生活、人々の歴史があるということを思い知らされました。スタンダードをつくるとかそういう話にはなれないと思います。一つ一つ交流していくことでしかないんだろうと思いますし、それは個々、サークルなどそれはいろいろなスタンスがあるかと思います。長い年月をかけてようやく少しずつ様々な人々の思いと触れることができる…そしてそれぞれを認識しあっていく、それがいいんじゃあないでしょうか。

敬具

                                               2001年6月12日                        三王昌代


                                

 2001年6月6日
 5月の「世界史瞥見」は,少し肩のこる話が続いた。もちろんこれはまだまだ続くことである。そこで今日はすこしく趣向を変えて,想像力が
生み出した世界,<空想の世界>についてお話したい。丸善の雑誌『学鐙』の1981年3月号に頼まれて執筆掲載された私の書評がある。
題して「A・マンゲル&G・ガダルーピ共著 想像世界地名辞典」である。{ THE DICTIONARY OF IMAGINARY PLACES By Alberto
Manguel and Gianni Guadalupi , illustrated by Graham Greenfield . 1980. 416 pages. 450 iillus. Collier Macmillan, GBR. )

これは、百枚もの案内地図と百五十葉の絵葉書風な線描画もついた想像世界への旅行案内であり、そういう世界を創造した原典である
文学作品への手引でもある。

 Bの部でパスカヴィル館を開いてみよう。
「イングランド、ダートムアにある館。パスカヴィル家先祖伝来の館。グリンペンの小村に近く、プリンスタウン大監獄から十四哩。大探偵家
シャーロック・ホームズとジョン・H・ワトスン博士は,一八八八年九月二十五日から十月二十日の間、この館を訪れ,十八世紀の古伝説に基
づき、館周辺の荒涼たる泥沢地を徘徊する巨大な犬の問題を解決した。現在、パスカヴィル館は文化財保護団体の管理下にあると思わ
れる。」 ( アーサー・コナン・ドイル卿 『パスカヴィル家の犬』ロンドン,一九〇二年 ) とある。
 一読、原典への興味をそそる。しかも,森と砂利道に囲まれ、砦めいた二つの塔を覗かせた陰鬱なパスカヴィル館の写真風な挿絵も載って
いる。

 想像(イマジネーション)といえば,コロンの航海に始まり,十六世紀のスペイン人は、不死の泉,女勇者アマゾンの国,シボラの七つの都,黄金
国キビラを想像して,アメリカを奥へ奥へと踏み込んでいく。想像力が歴史をつくった例である。また,想像は,現実からの逃避や 完成を夢見
る幻想(ファンタジー)とは限れない。

 ガリバー旅行記から, カフカ, そして現代のラテンアメリカ文学まで, 想像力は、一時代,一社会で絶対視された認識をひっくり返し,相対化さ
せ,さらに広く 深く,そして 遠く先を見る,すぐれてアクチュアルな認識を 生み出している。

 著者 アルベルト・マンゲル は、一九四八年 ブエノス・アイレス生まれ,共著者 ジャンニ・ガダルーピは,一九四三年,ロンバルジアの小都
市生まれ,同世代に属し,ともに想像豊かな 興味ある 近現代文学をスペイン語に, 或いはイタリア語に翻訳紹介, 比較を試みている。
二人が 奇蹟のアンソロジーを編んでいた一九七七年の冬, この辞典のアイデアが湧いた。

 シャングリラ,オズ,ルリタニア 等は,すぐ頭に浮かんだが,ひとつ訪ねてみたい想像上の世界,国, 都市, 村, 島、土地 等を リストアップし
て, 小ペデカを つくってみよう ということになる。探検家や年代記作者の記録を扱うのと 同様に慎重に、原典には手を加えず、ただ地名辞典
風 旅行案内の 型に合わせるだけの 編集にとどめる。体裁は, 実際の世界への旅が まだ興奮と冒険に満ちていた十九世紀の地名辞典
(ガゼッティ)を型どる。 場所は、実際に行けそうな場所ならば, 空中, 地底、海中,, ミクロ, マクロ の世界を問わず, 一方、天国, 地獄、この
地球以外の異星および未来世界の場所は除く。

 二年以上の間, 著者たちは, 候補に上げた二千箇所を検討し、一ニ〇〇箇所に絞った。 原点の作者は, 希羅の古典,神話伝説,騎士物語、
等の作者不明のものを別に、四四二人余, 主として西欧およびアメリカ、とくに英仏米の文学者,芸術家,思想家 であるが,ドストエフスキー、
シチェドリン,アン・スキイ等,ロシア・東欧のものもあるし,若干は、中東・インド、中国のものもある。

 作品は,詩,小説,戯曲,歌(ジョン・レノン等) を含み,そこに描かれた想像上の不思議な場所について 要領よく、その場所の位置、そこへ
の経路,地理,歴史,住民の慣習,言語,特徴等が、 ペデカ風に、地名辞典(ガゼッティ)流に 記してある。

「円環の廃墟の国」を 引くと、「恐らくゼンダ語がギリシア語に汚されていない、カスピ海南端に注ぐ川口にあるが, 位置不詳。島に小丘あり、茨
多き潅木か竹葦が泥岸を覆う土地の特色は、石虎,石馬をいただく、かつて社であった焼け落ちた円環の廃墟である。ここで一人の人間が夢み、
そこに幻の人間を生みだすことができる・・・・・」 と案内がはじまり, 円環の廃墟の写真風な線描画も載っている。

 ボルヘスの『円環の廃墟』(『伝奇集』第一部 八岐の園,一九四一年)への招待である。

 夢みる人は 夢のなかで 一つの宇宙を 分泌する。 眼あき盲者には見えない、多岐多様な世界が, 想像力によって作り出されてきている。
これが 見えるのと 見えないのと, これを 知っているのと 知っていないのとで、 人間としての愉しさ,豊かさにも 大変なちがいがある。
この辞典は, そのことをよく教えてくれる。

 地名項目が特に豊富なのは,古くは ホメロス、大プリニウス,千夜一夜物語,ラブレー、バニヤン,ポー,ウイリアム・モリス,ジュール・ヴェルヌ、
それに ユートピアもの だが、何といっても,トールキンのミドル・アース、C・S・ルイスのナルニア国、バローズのペルシダー、ターザンの国、アー
シュラ・K・ル・グインのアースシー,ロイド,アリグザンダーのプリディン,L・F・ボームのオズの国 が地図も入れて たっぷり頁を使って説明して
あり、これらのものを読むときの必携になっている。

 しかし、もっと興味があるのは、カフカの城や流刑地,オクラホマ自然劇場,ボルヘスの不死の人の都,バベルの図書館、ガルシア・マルケスの
百年の孤独のマコンド村 が項目となり くわしく説明されていることだ。イタロ・カルヴィーノの「見えない都市」からも アグラウラ以下二十都市が
選ばれ、これは含蓄のあるコントである原文が 殆どそのまま うまく 形を変えて収められていて、よい読み物になっていることだ。

 著者は,前書きに まだ不完全な辞典ゆえ,読者が欠けている地名,文献を補充してほしい,読者が著者に、旅行者が記録者に変わる ことが
願いだ と書いている。
 早速,私は,泉鏡花から数箇所, 安部公房の『密会』の病院,大江健三郎の『同時代ゲーム』の村を 付け加えようと 思う


 2001年5月11日、畏友で比較史の会の盟友でもある西川正雄さんからのメールで次のような誘いをされた。
「それにしても,新聞記者たちも,政治家たちも,東アジアで<対話>の努力があることに全く気付いていないままに、
勝手なことを言っているのに腹が立ちます。<比較史>や二谷・君島君らの努力・藤沢氏の試みなど、それぞれ
微妙に立場が異なるにせよ,実績です。そのことに、たとえば『朝日』の<投書欄>か<論壇>で注意を喚起して
頂けませんか。小生には,目下、その余裕がありませんので。もっとも、かつて試みたときは,無視されました。」

 わたしも同感であったが、こと『朝日』にとなると,簡単に決心はつかなかった。いろいろな雑念がある。
しかし、それで落ち着いてはおれなかった。そこで、まず枚数などは気にせず、またどこにどう発表するかは別に
して、つぎのような文章をつくってみた。同時に,上越教育大の二谷貞夫さんにメールして,なが年 二谷さん、そして
いま盛岡大学に行かれた加藤章さんらが努力されてきた日韓・日中・日露などいわゆる環日本海諸国の
歴史家・歴史教育者との対話の概略とその意味をメールの質問でうかがっている。このご返事がやがて届くはず
である。その上でこの文章を拡大補充するか,二谷さんのご報告を掲載するかは未定である。
 とにかく未発表の文章を,ネット上の、しかも<世界史瞥見>のページで公開する。第四回東アジア歴史教育シン
ポジウムの内容と意味の部分では,西川正雄さんの「アジアの同僚との歴史教育に関する対話ー「帝国主義の時代」
をめぐってー」(民主教育研究所編『季刊 人間と教育』25号,旬報社2000年3月)におおく拠っている。

 <世界史瞥見>をどう書いてゆくか、まだはっきりした成案はない、といったほうが正直だろう。しかし,こういう形で
もう滑り出した。もちろん、これも現実の世界史である、わたし、そしてわたしたち、いまの日本、いまの日本の社会、
そして東アジアのなかにあって、東アジアの一員にはなっていない日本、それに気付いていないわたしたち日本人
というもの、そこから見た世界史そのものである,と思うから次のような文章を<世界史瞥見>の最初に置いたので
ある。日本はまだアジアにあってアジアではない。そういう世界史の現在のなかでの東アジアにおける対話の試み
なのである。(2001年5月17日記)


東アジアの対話は静かに始まっている

                            吉田悟郎

 テッサ・モーリス鈴木さんは朝日新聞の四月五日号の<地球時代の歴史
教科書>に次のように述べている。
 <国境を越える新しいメディアへのアクセスが相対的に自由となった現
在、「自国」の国境線にのみ閉じこもる歴史観は、もはやその有効性が認
められていない。それが一九八〇年代前期からの歴史教育における世界
的趨勢だった。〔中略)もはや「自国史」と「他国史」の間に明瞭な境界を求
める歴史観は意味をなさないとする見解が,歴史学での世界的大勢であろ
う。好例は,ヨーロッパにおける共通の歴史教育資料作成の努力だ。>
 日本の歴史教育にとっても,一九八〇年代前期はひとつの画期であった。
一九八〇年のブカレストで開かれた第十五回国際歴史学会議の歴史教育
分科会は東西の代表が参集した大会議であった。この時、広島史学研究
会・歴史科学協議会・歴史教育者協議会の三学会は協同して「日本におけ
る歴史教育と教科書の問題」という報告を作り,高橋?一氏が報告すること
になった。しかし,ドクターストップがかかり,私が代役を勤め、長文の報告書
を要約して報告した。この会議には南北韓が初めて参加したが、後にわかっ
たことだが、韓国の李元淳氏は次のように日本の報告を受けとめた。
 「国家権力により歴史教育が不当な干渉を受けていることを報告し,世界の
理解と支援を期待するとの発表であった。−−その発表に接し,私は感銘を受
けた。日本国内の教育問題を国家権力による国民の自由の侵害問題として
普遍化し世界的な問題とする日本学者の認識と、彼らが連帯闘争を訴えるこ
とに感銘を受けた。かつまた,日本での家永教科書裁判問題の深刻性をもう
一度感じ,深く関心をもつ契機となった。」(李元淳『韓国から見た日本の歴史
教育』青木書店一九九四)
 この時,私の脳裏には初めて参加された隣国の韓国の歴史家の方々に聞い
ていただきたい気持ちがあったのだが,意外な共振が李元淳氏との間に成立し
たわけである。
 一九八三年に実現した第一回日米歴史家会議の歴史教育部会(未来社『自
国史と世界史』一九八五)を組織し準備する過程で,私たちは小さな研究会,「比
較史・比較歴史教育研究会」を一九八二年十二月に発足させた。歴史教育を
めぐって東アジアでの対話を実現していこうというのが目標であった。そこでは、
はじめから憲法前文にある「自国のことのみに専念して他国のことを無視しては
ならない」という理念がみんなの胸に刻まれていた。そこで掲げられたのが<自国
史と世界史>という旗印である。意味するところは,テッサ・モーリス鈴木さんが
述べている歴史教育の世界的趨勢、そして歴史学での世界的大勢を日本でも
主体的・自主的に担っていこうとする自覚であった。
 そこで世界史というのは,巷間流布しているような「外国史」ではない、また「西
洋史プラス東洋史」とか「西欧近代中心のいわゆる人類史」でもない。旧文部省
的世界史がまさにこの「外国史的世界史」であった。
 一九八二年という年は,日本の歴史教科書に対する近隣アジア諸国の「国際
批判」が噴出し、その刺激を受けて「社会科教科書執筆者懇談会」「教科書問題
を考える市民の会」などが発足した年でもある。
 比較史の会(以下略してこういう)は、少数の歴史教師・歴史家が集まった会で
規約も会則もない国籍・性別・学歴・地位など問題にしない自由闊達な小さな会で
ある。一九八四年八月に手弁当と有志のささやかなカンパで第一回東アジア歴史
教育シンポジウムを開き、はじめて中国・韓国の歴史家を招いて有意義な東アジア
の歴史教育対話を始めることに成功した(ほるぷ出版『共同討議 日本・中国・韓国
ー自国史と世界史ー』一九八五)。第二回のシンポジウムは五年おいた一九八九年
夏、北朝鮮の歴史家の参加も得られ,南北朝鮮の歴史家たちが一堂に会するという
初めての機会が実現した。中国の歴史教育者,韓国の歴史家・歴史教育者との交流
は,その後 中国・韓国側から招かれて北京や瀋陽,ソウル(三省堂・西川正雄編『自
国史を超えた歴史教育』一九九二)で,対話を続けるというように発展した。韓国・中国
の歴史家・歴史教育者との間に、基本的に,私たちと志は同じであり,建前ではなく本音
で語り合える人間関係も育っていった。
 第三回目は,一九九四年夏,今度はヴェトナム・台湾からも歴史家を招くことができ、
アメリカ合州国認識と日清戦争について多角的にまた掘り下げて対話しあうことに成
功した(未来社『黒船と日清戦争ー歴史認識をめぐる対話』一九九六)。
 ある小学校教師は,「日本と清,朝鮮農民軍と日本軍が戦った三国間の戦争としてとら
えなければならない」ということに気付き,自分の日清戦争理解に朝鮮そして台湾が落
ちていたことを悟り、「やる気と問題意識を持たせてくれたシンポジウムでした」と語った。
 比較史の会と同時期に東アジアにおける歴史教育対話の試みは,上越教育大学での
加藤章氏・二谷貞夫氏,金沢大学の藤原法映氏,東京学芸大学の君島和彦氏,坂井俊樹
氏,広島大学の原田環氏らの試みといろいろ行われ、また継続している。(朝日新聞四月
六日号に君島和彦<地球時代の歴史教科書>下)。
 いずれも志は同じであるが、それぞれの立場に微妙な違いがある。私ども比較史の会は
十年以上にわたる討論で,試行錯誤を経つつ次第に抱くに至った考え方をもつ。それは、

(一)教科書の文言に事柄を矮小化すべきでなく、むしろ
(ニ)国民もしくは民族によって異なる歴史解釈を俎上にのぼせて討論し,お互いの歴史認識
を深めることが大切である。
(三)アジア共通の歴史教科書の作成など目指すべきでない。
(四)対話は、あくまで民間で行うべきだ。いかなる政府であれ,歴史教育は政治権力から
自由であるべきだから。
(五)そうした問題意識を示す標語が「自国史と世界史」である。

 翻訳されている『ヨーロッパの歴史』は別に共通の歴史教科書でもないのにそうであるかの
ように宣伝され,<アジア共通の歴史教科書づくり>などというスローガンがいとも安易に叫ばれ
またあまり事情を知らない人をたぶらかしている。相互にそれぞれの歴史認識の盲点や偏向を
気付かせ開眼させるような埋もれた歴史資料や歴史教材を出し合い選びあい,相互に歴史資料
集や歴史教材集を作成する努力を積み重ねることは賛成だが,安易に共通の歴史教科書の
作成など考える前に,相互にやらなければならない大切なことが沢山あるはずである。 

 第四回目の東アジア歴史教育シンポジウムは,一九九九年十二月,「帝国主義の
時代の理解をめぐってー自国史と世界史ー」の主題で開かれた。中国ー台湾,韓国,ヴェ
トナム・日本からの報告に加えて,日本に留学中のドイツとアメリカ合州国の研究者が
コメンテーターとして加わった。私たちは,<アジア中心主義>の立場などとっていない。
 前三回の対話を通じて明らかになったことは,支配した側の日本人と支配された側の
アジア諸国民との間には,歴史の見方に大きな隔たりがあることであった。日本人は,「侵
略者」「加害者」として糾弾される。だが,対話が重ねられるにつれ、東アジアでなぜ日本
だけが支配者となれて他が支配されることになったのか、その問題を冷静に分析してみ
ようという雰囲気ができてきた。そこで,第四回目の対話を組織,準備した比較史の会が
考えた方向は,支配と被支配が重層的かつ多様に展開した実態に迫ろうということである。
 このシンポジウムは,実に多様なかつ豊富な問題,宿題を提起し、ニ十一世紀への灯火
を掲げるような成果を生み出したと思う。いずれ、新しい論考を多数加えて未来社から年内
には出版される予定である。
 そこでは,「加害者」日本と「被害者」近隣アジア諸国という「二項対立」の発想を超え
て、それぞれの事情をもっときめ細かく冷静に分析する姿勢がはっきり現れ始めた。
台湾やヴェトナムからの歴史家の発言で,中国や韓国にも「加害者」の側面があることも
示された。欧米列強の圧力により「近代化」を迫られた東アジア諸国民の歴史を多面的に
かつ連関的に論じ合う時期が訪れたという感慨であった。これは,日本の「侵略」や「加害」
を相対化するというようなことではない。政治的イデオロギーや偏ったナショナリズムを相
対化しようとする東アジア諸地域における新たなる胎動,発想が生まれているのである。
なぜ日本が侵略者や支配者となり、アジア諸国民が占領され支配されることになったの
か。別の選択肢はなかったのか。だが、それが選ばれず現実の道が選ばれたのはなぜな
のか。それをつぶさに,できれば学習者自身に調べさせ考えさせるのが歴史教育の責任
であろうし、それを助け支えるのが歴史研究の役割であろう。別の選択肢は,過去におい
ては選ばれなかった運命にあったが、それは次代の国民の未来にこそ生かされるべき
道である。別の選択肢は、未来に向けてこそ意味をもつ。 

 ニ〇〇〇年一月,ストックホルムで欧米諸国のハイレベルの代表たちが参集し,ホロコー
ストをめぐる国際フォーラムを催し,ストックホルム宣言を決め発表している。いまなおホロコ
ーストの事実を否定し過去を忘れさせ歪めようとする人々がいる。欧米諸国民はホロコー
ストの事実を集団的な記憶として忘れず、この文明の基礎に挑戦した邪悪なる考えと行為
を諸国民に記憶させ教育し調査を継続しなければならない。そういう責任を私たちは担って
いる。そういう負託を果たすことを誓約する。そういう趣旨の宣言である。この過去についての
集団的記憶というと、これを東アジアにもってくるとどういうことになるのか。
もし,東アジアの諸国民の代表がソウルか南京にでも集まって過去の記憶の克服について
宣言を出すようなことになったら,と、想像すると、憂慮と感慨が胸中に去来する。
(ニ〇〇一年五月十六日)
<比較史の会>ページの「ストックホルム宣言」試訳を参照されたい。


5月26日
西川正雄さんからの5月11日のメールに答えて,5月16日に前掲のような<東アジアの対話は静かに始まっている>という朝日新聞『私の視点』への投稿原稿を認めてみた。その投稿原稿について,西川さんの批評はこうであった。

「原稿案、拝受いたしました。いかにも吉田さんらしい文章だと思いました。でも、『朝日』に載るべき文章としては難しすぎます。
小生が目下,一応気になるのは,政治家はもとよりジャーナリストも、アジアでの「対話」の蓄積に全く気付いていないことです。「つくる会」の教科書に批判的な人々の間には,韓国・中国政府の「再修正要求」に日本政府が応じるべきだと考える向きが多い中で、われわれはそうではない見解を取っている少数派でしょう。しかし,『朝日』5月14日の「私の視点」に載った坂本多加雄氏の主張に対抗できるのは われわれの立場しかないと思います。さらにお考え頂ければ幸いです。
李元淳さんからお手紙があったことと存じます。当然ながらとても憂慮されているので、(いつもながら)即効力はなくても,何か発言しなくてはなりますまい。」
韓国の李元淳さんからのお手紙は、わたしも5月17日に拝受していた。このホームページでは<ブナ林便り>のページで紹介してあるからそちらを御覧いただきたい。。また,上越の二谷貞夫さんからのメールで,中国教育学会歴史教学研究会のアッピールも知らされた。<ブナ林便り>を是非参照されたい

西川さんの言う坂本多加雄氏(新しい歴史教科書をつくる会理事,学習院大学教授・日本政治思想史)の「私の視点」への投稿は,「歴史教科書,要求に応じれば禍根残す」という標題の文章で,韓国政府の日本の歴史教科書再修正要求に応じるべきではないという政府,担当の文部科学相に対する進言である。
韓国政府の要請は,「要は自分たちが書いてほしいように書いてないという指摘である。日本人も韓国の教科書を見れば違和感を覚えるかもしれないが,教科書は互いに認め合うことで,両国関係はうまくいくのではないか。」「しかし,問題の本質は,日韓の歴史記述の相違にあるのではない。そもそも,一国の教科書はどのように作られるべきかという原則の問題である。今回,日本が再修正要求に従えば、次回以降も韓国政府は立場上,同様の措置にでるであろう。」「韓国政府による<検定>が今後慣例化すれば,日本国民の多くは,阿諛追従するか,反発を強めるか、いずれにしても心底から隣国に親愛を抱くことはむずかしくなろう。」

私は,坂本氏の文章を何度も読んだが,まず,韓国政府の修正要請というのを,韓国国民あるいは勧告の歴史家とはいわず、 終始 国家 政府の 修正要請と 強調しようとしている 書き方 が 気になった。次に,遠山大臣の発言に関して 事実誤認ということが やはり気にはなるのだろうが,「事実の上で間違いに関しては」といいなおし、供給本において修正する制度(これは扶桑社を通じてすでに手早く ずる賢く 部分修正を申し出ていると報道されているが)
をあげ, それに則って文部科学省の責任で対処する と答えるべきだなどと 誘導し, さらに 念押しのように たとえ 事実誤認ととるのが 日本ー世界に一応調子を合わせなければならないー政府の責任だとしても 「たとえ<事実誤認>であれ」「韓国の要請に実質的に応じる形で問題を処理したいと考えているならば、それは今後に大きな禍根を残すであろう。」と 政府・政治家・マスコミを おどしているような 筆致が 大変気になった。
見出しにも 麗々しく また厚顔にも そのおどしめいた文句があげられているのを 眼にすると、これが ちゃんとした 政治思想研究者が吐ける言葉だろうかと思った。まるで どすのきいた 連中の脅迫を思わせられた。「長期的な領国間の関係を配慮した賢明な対処」など 今の政府に望めるはずがないことは先刻ご承知のことであろう。

あまりひどい文章なので、 腹立ち紛れに 次のような文章をものした。西川さんにもメールで読んでもらった。今度は「難しすぎる」という批評は帰ってこなかった。そこで この文章を 5月20日日曜日の朝,,一等郵便局まで行き 速達便で朝日新聞社へ送った。そして,次の日から「私の視点」欄に載るだろうか注意し続けた。しかし 5月26日土曜日に至るまで,「私の視点」には私の投稿は載らなかった。やはり採用されなかったのである。朝日新聞の編集部が、わたしの投稿を無視しようとされまいと、わたしの坂本多加雄氏の所論に対する反論は公開すべきものであろう。少数の人々であっても,ぜひ読んで頂きたい。
今は<犬の遠吠え>か<ゴマメの歯軋り>と 軽視されようと、 この時期 こういう発言が この狭い日本の中にあったということは 残しておきたい。




東アジアで始まっている歴史教育をめぐる対話を壊してはならぬ
              −坂本多加雄氏の所論に質すー

                    比較史・比較歴史教育研究会代表
                                   吉田悟郎

 坂本さん。 一面識もないものですが先日の貴方の主張について感
ずるところあり、若干の疑問と所感を申し上げます。
 なぜ,貴方の主張には貴方がたの作られた教科書の立場と内容に
ついての積極的な正当性あるいは教育的な意味についての主張は
されておられないのですか。それはもうわかりきったこと、それ
だけの余裕が紙面にはないということでしょうか。それが実は一番大事
なことと思いますが。次に,貴方は韓国の政府のことばかりいわれてい
ますが,一九六〇年以来隣国の歴史家が日本の歴史教育の盲点と
偏りを憂え,,一九七六年以降例えば李元淳氏(ソウル大名誉教授)は来日
の度毎に講演・講義・発表・討論を重ねて日本の歴史家・教育者に真摯
に語りかけ,一方日本の研究者・教育者を招き,問題を指摘し率直な討議
を試みられてきたことなどご存じないのでしょうか。また、韓国ばか
りか,中国・台湾や北朝鮮,ヴェトナム,ロシア極東の歴史家・教育者との
間とも交流が始められ,歴史教育や相互の歴史教科書の問題をめぐ
り忌憚なく批判しあう,相互の歴史観・歴史教科書の偏りや欠陥も真
剣に論じ合う、そういう努力が、上越教育大の加藤章(現盛岡大)・二谷
貞夫両氏,金沢大の藤沢法映氏,東京学芸大の君島和彦・坂井俊樹両
氏,広島大の原田環氏,筑波大教育系の方々、そして私たち比較史・比
較歴史教育研究会などによって、とくに一九八〇年の初め以来積み重
ねられてきたこと。こういう研究者・教育者の努力によって,皇国史観・
戦後の狭い自国・自民族中心主義を脱けでて,憲法前文にあるように
「自国のことのみに専念して他国のことを無視してはならない」という
理念で、戦後の新たなる世界・アジアとくに東アジアのなかで信頼され尊
敬される日本国・日本国民として必要な歴史教科書をつくり,さらに充実
改善してゆく営々たる努力がようやく実を結んできたこと。,国際的にも,また
太平洋をめぐる諸国民からも評価を受ける日本の歴史教科書がうまれつ
つあったという、そういう客観的な事実をどう貴方はみておられるのでしょ
うか。これは巷間いわれるような自虐史観とか東京裁判史観とか言われ
るようなものではない。自虐的な歴史観や東京裁判史観にたぶらかされ
るような戦後のおとなや青少年はいないし育ってもいない。そう国民をバ
カにしないでいただきたい。
 一九八〇年以来東アジアにおける歴史学・歴史教育そして歴史教科
書をめぐる対話は、ヨーロッパとは異なる難しい条件に屈せず,誠実に真
剣に積み重ねられてきた。自国・自民族だけにはこだわらない、東アジア
諸国諸民族の自立と共生を支えるような歴史教科書叙述の肯定的な流
れと実績を,一挙に崩そうとする軽挙妄動は、それこそ国益を侵します。
これは、日本国民のみならず東アジア諸国民の共存と希望を傷つけるもの
と憂慮せざるをえません。あまりにも政治的なイデオロギーや偏った旧式
なナショナリズムを、自立と共生の東アジアへの未来をになう青少年の教
育現場におしつける、もちこむというようなことは、いかなる詭弁によろうと
も許されることではありません。
 坂本さん。 貴方と意見が形だけは一致する点は,歴史教育・歴史教科書
は、いかなる(どこの)政府からも自由でなければならないという一点だけ
です。私たち比較史・比較歴史教育研究会は、一九八二年以来十年以
上の試行錯誤の上、そのこととあわせて、「対話はあくまでも民間で」と
「共通の歴史教科書の作成など目指すべきではない」と考えております。
しかし、おそらく貴方方と違う重要な点はもうひとつあります。
教科書を読み扱う教育現場こそが大切です。.どの教科書を選ぶかは,今の
教育委員会などではなく教育現場,教師の一人一人が選ぶ権利,、どう扱うか
の権利をもっているのが当然のこと,世界で普通のこと、常識的なことだと思
います。そういう点でも教科書を強権や金の力で教師.生徒に上から押し付け
るようなことがあってはならないと思いますが、,如何ですか。

<ブナ林便り>ページの5月26日以前の項目を参照されたい。

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