チェチェン人のたたかい
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1月18日
今日取り上げたいことは、アフガニスタンの今度の事柄の先例みたいな感じのする北カフカスのチェチェンが体験している「対『テロ』撲滅戦争」のことなのだが、その前にイスラマバードの督永忠子さんの「緊急レポート」に寄せられた投書のことと督永さんの反論のことがどうしても気になるので、それを初めに取り上げたい。投書は例のような「ひどい」もので紹介する必要はないのだが、「緊急レポート」でアフガン報道の姿勢に対する極めて適切な批判を続ける督永さんに向かって「死ななきゃぁ直らないアホ」よばわりしている類のものである。反論の中で督永さんは次のように言われている。
<さらに、「世界の屑、もっとしっかりせい」と言われても……。貧しいけれど平和に暮していたアフガニスターンをこんなふうにしてしまったのは、大国であることに間違いがないし、パーキスターンにしても大国に振りまわされて他にとるべき道がなく、「シッカリされたら困る国が干渉するから、シッカリできない」のを解かるべきだろう。
アフガニスターンを含む西アジアの多くの国が干ばつになっているのも、大国に遠因があり、自然環境を破壊し難民を生み出したのは、豊かな生活を営んだ私達自身にも原因がある。>
そのとおりだと思う.。こんな投書にはめげず 督永さんの健筆ガ止まらないことを 多くの愛読者とともに心から祈りたい。
さて、上にあげた戦争の惨禍を描いたのは 北カフカスのチェチェン共和国の子どもである。
.(「日本カフカスクラブ」HPから。http://www.geocities.com/kafkasclub/)
一時、大国ロシアの極小国(日本の岩手県くらい)チェチェンに対する戦争は、日本・欧米のマスメディアをにぎわした問題だった。しかし、2001年9月11日以降は、米国の「対『テロ』撲滅戦争」の蔭に隠されて、パレスチナと同じく日本・欧米のマスメディアからは「忘れられた戦争」になっている。朝日1月8日号の「地球儀」モスクワ発・喜田尚記者の「忘れられたチェチェン」はそういう意味で見落とせない大事な記事である。
チェチェンの戦争は、勉強すればするほど、その後のーつまり今のアフガニスタンの事態に似ていることに、いまさらながら気づく。
21世紀は米国の基幹施設へのハイジャック三機自爆テロと米国ブッシュ政権の最貧国アフガニスタンへの「対『テロ』撲滅攻撃(これはどうみても対の「戦争」とはいえない)で始まったといわれている。ところが、2001年の前年、2000年にその前年の1999年9月の連続爆破事件(そのひとつ9月22日リャザンの公共住宅爆破未遂事件の奇怪さについては、田中宇さんの国際ニュース解説2000年月21日「チェチェン戦争が育てたプーチンの権力」をぜひ読まれるとよい.。 http://tanakanews.com/a0121russia.htm ) と同9月のチェチェンへのロシア軍の「対『テロ』撲滅攻撃」の開始という事態が、実は2001年9月以降の米国中心のテロと「報復」という事態を先取りしていたのである。つまり、21世紀のしょっぱなの2000年に「連続爆破テロ」と「対『テロ』撲滅・報復戦争」の連鎖作用は、アメリカとアフガニスタンの間ではなく、ロシアとチェチェンの間に、すでに始まっていたのである。
そして、おかしなこと、また不気味なことには、アメリカの先例のロシアの場合、先に紹介した「田中宇の国際ニュース解説」2001年1月21日での分析にあるように、疑わしいことが実に多いということがある。まず、2000年9月22−22日の爆破未遂事件の場合、連邦保安局長官が「爆弾は防犯訓練のため当局が仕掛けたもので、火薬のように見え袋詰の白い粉は砂糖だった」と発表した。訓練にしてはおかしな点が数々あったが、その翌日ロシア軍がチェチェン空爆を開始したから人々は合点がいった。マンションの連続爆破事件は、かつてKGBであった連邦保安局がロシア人の反チェチェン感情を煽るため仕組んだ可能性があるとの疑問が生まれた。
チェチェン人が爆弾犯人ならば、一般市民の公共住宅ではなく、軍や警察施設を狙いそうなものだ。もともと「チェチェン人はマフィア」という偏見を持つロシア人の反チェチェン感情を煽る目的から公共住宅を爆破陰謀の対象に選んだのではとも勘ぐられた。
連続爆破事件については どこからも犯行声明が出ていない.。チェチェン共和国政府は事件への関与を全面否定している。そして、犯人の手がかりも、しっかりしたものは見つからないままである。
気になることは、2001年の米国の場合も、これに非常に似ているということである。ましてや、アフガン人、タリバン、これは無関係であるし、アルカイダそしてオサマ・ビンラディンの場合も犯行声明はないし、今まで取りざたされている証拠類の不確実性は世界の公正な目から見てたぶんに疑問符がうたれていよう。
1999年から2000年にかけてのロシアの場合.1999年9月のチェチェン攻撃開始、その1ヶ月前までプーチンは連邦保安局長官だった。彼が首相になった直後に始めたチェチェン攻撃は、ロシア人の愛国心を高揚させた。プーチンへの支持率は急上昇し、1999年大晦日にエリツィン大統領が辞任しプ-チンはピンチヒッターとして大統領にまで上り詰める。2000年3月の大統領選挙では当選する。1999年9月の連続爆破事件(不確実な立証の上、チェチェン人テロリストの反行とされた)が、プ-チンを権力の座に押し上げるためにあったようなものだし, プ-チンの出身母体である連邦保安局の影が見え隠れしていることも否定できない。
では、あのゴタゴタの大統領選挙でようやく大統領の座につけたブッシュ政権の場合,2001年9月の同時多発テロの勃発は,「神風」か「パールハーバー」のような役割を果たさなかっただろうか。また、あまり前面に報道はされなかったが,オサマ・ビンラディンやアルカイダ、そしてタリバンでさえ それを育て
武力や資金力をもたせたのは実は米国当局であり、CIAでもあったという、あまりにも公然たる事実報道が思い起こされ比較されてくる。
(チェチェン問題 次回に続く)
1月19日
先日の「チェチェン学習 その一」で「日本カフカスクラブ」のHPを紹介したが、そのなかにあるWAR CHECHENYAのトピックスに「子どもの目を通して見たチェチェン戦争」というページがある。そのページの最初のところを引用させていただく。Human
Rights Watch 調査員 Peter Bouckaertさんがチェチェン人難民キャンプでの子どもたちと会い,子どもたちに描いてもらった絵とそのレポート「Through
Child's Eyes」の邦訳の冒頭部分である。
( http://www.geocities.com/kafkasclub/che/00news/000826-hrw.html )
<ロシア軍がチェチェンで最も激しい攻撃を展開していた間、私は同僚と共にイングーシに6ヶ月滞在、チェチェン難民数百人にインタビューを行ない、戦争中に行なわれた虐待についての文書をまとめていた。
そこで私たちが知ったことは衝撃的だった。
Alkhan-Yurt, Staropromyslovski
そして Aldiでのロシア軍による虐殺、無差別爆撃による民間人死亡者数の多さ、Chernokozovoなどの収容所(フィルターラーゲリ)における拷問やレイプ、チェチェン人兵士らが同じチェチェン人の生命の安全に対してしばしばあらわした完全な無視。
最も直視しがたかったのは子供たちにのしかかる苦難だった。
彼らは生まれてから今までの人生の中でほとんど戦争しか知らないのだ。>
「チェチェン学習 そのニ」を記し始めるにあたって,私が気にしていることは,2001年9月の米国をめぐるテロとその報復としての「『テロ』撲滅戦争と全く同じことがすでに2000年9月にロシアとチェチェンの間に始まっていたこと,それに加えて2001年9月11日以降どうしても避けられない世界史的問題になっている 今のような<テロ撲滅戦争>というもの の合理性・有効性・倫理性というものは存在するのかどうか。テロの根源を認識し、その根源を絶つ対策を二の次にした今回のアフガン攻撃。これは最大の国家テロ大戦、最高の愚行・虚構ではあるまいか という疑問である。事態の進展の中で どうしてもそう考えざるを得なくなっていると思う。現在の世界史の進展そのものが そのことを教えているのではあるまいか、という疑問である。
朝日の喜田尚記者は,朝日1月8日の「地球儀」コラムのモスクワ発「忘れられたチェチェン」でこう述べている。
<今のチェチェンの姿は,長い間,国際社会の関心の外におかれたアフガニスタンを思い起こさせる。>と。
2001年の「9.11」以降,西側諸国はチェチェン問題に触れなくなった。日本のマスメディアも同様である。ひどい{国家テロ」をいまは公然と続けているとおまわれるプーチンのロシアは、1994年から1997年にかけての第一次チェチェン侵攻作戦のときは,西側を含めたマスコミが反戦報道を展開したこともあり,チェチェン政府との間に暫定的な和平を結び,撤退せざるを得なくなり,チェチェンに自治を許してしまったという苦い経験と 米国政府が湾岸戦争以降の戦争で行っている徹底しかつ狡猾な報道管制と に学んだ。1999年9月に開始され今も継続されている第二次チェチェン侵攻作戦では、攻撃開始前から徹底した報道管制に切り替え、マスコミの手綱を引き締めた。ロシアのマスコミは,ご多分に漏れず,大物政治家や財界人により支配されている。そこで,ロシアのマスメディアは
1999年9月のチェチェンへの第二次侵攻開始以来一貫して当局よりの報道姿勢をとっている。その上、西側諸国のメディアの姿勢も第一次侵攻の時とは変化したのである。
喜田記者はこう書いている。<コソボ紛争が懸案だったころは,チェチェンに侵攻したロシアをユーゴスラビアに重ね、「人道危機」を盾に政治解決を迫ったのに、自らが「テロとの対決」に傾いた今,チェチェンは「鬼門」になってしまったらしい。>と。
犯人が必ずしも明らかでなくても「あいつらの仕業」だと断定されル「テロ」の連続、そしてそれに対抗・報復する大規模な「掃討作戦」「対『テロ』撲滅戦争」という応酬。こういう「抵抗民族皆殺し」(そういうことが現実に可能かどうか?)までは終わらないのではないか、と憂慮されるような連鎖がパレスチナで、そしてチェチェンでいまこの瞬間にも続いている。子どもたちの絵にかかれているような悲惨が繰り返されている。パレスチナでチェチェンで、と書いたが,アフガニスタンでももちろん終わったわけではない。また、まだ私たちには見えない世界のどこかで同様な連鎖が始められ,繰り返されようとしている。
(チェチェン学習 その三は次回に)
★大事な医師中村哲さんとペシャワ-ル会の「アフガン復興」との取り組みと今日のアフガンの真実についてはぜひ「ペシャワ-ル会」のHPを読んでください。
http://www1m.mesh.ne.jp/~peshawar/
中村哲「アフガン復興一問一答」「第二期計画<緑の大地>」および中村哲「はびこる虚構の影で」は必読!
1月20日
「チェチェン学習 その三」を始めたい。
チェチェンの国というと,英語で言う「コーカサス」つまり「カフカス」地域世界のいわば入り口にある半分平地,半分山岳地帯の国で日本でいうと岩手県ぐらいの広さ(アフガニスタンは日本の倍の広がり)の小国である.民族はイスラムのハナフィー学派のスンニー派ムスリムであるが、ペレストロイカ後メッカ・サウジアラビアとの関係が密になるにつれて,サウジのワッハービズムが流入し,若者や山地地帯にいわゆる「イスラム原理主義」的な考え方がひろがり,伝統的なスーフィズム信仰との間に摩擦や対立が生まれるようになった。
チェチェンの西隣のイングーシ人とははじめ一緒の国をつくっていたこともあり,非常に縁が深く似通ってもいる。
この地域を入り口とするカフカス地域世界は,古来 南方東方にペルシア-イランという大国,南方西方にやがてオスマン・トルコという帝国、そして北方にロシア帝国と、いわば三角関係の十字路にあたる重要な係争地域であった。
かつてはモンゴル人の「世界征服」を体験したこともあるのだが,18世紀以降はもっぱら北方のロシア帝国からの侵略を受け,チェチェン人はカフカス諸国・諸民族の先頭に立って、勇敢かつ頑強にロシア軍の侵攻に抵抗しつづけた。19世紀ロシアのトルストイの作品「カフカスの虜」はトルストイ自身の体験にも基づいたロシア軍のチェチェンとの戦いを背景にした名作である。
このトルストイの「カフカス(コーカサス)の虜」を現代ロシアのセルゲイ・ボドロフ監督が 現在の対チェチェン戦争に置き換えて 映画をつくった(1996年)。
1994年から1997年まで続いた第一次チェチェン侵攻作戦のとき,二年間10回にわたるチェチェン取材を試みたジャーナリスト林克明さんが、このボドロフ監督の映画「カフカスの虜」について適切かつ詳細な映画批評を残しているのでぜひ一度読まれるとよい。http://homepage2.nifty.com/oleg/prisoner_c.htm
この映画はビデオにも入っているから容易に見ることが出来る.。林克明さんの批評を読まれたら、ぜひ一見されたい。
チェチェン人の内側に入ることは出来てはいないが, ロシア文化人の良識を示すよい作品だと思う。
極限状況の人間関係.生と死が常に隣り合わせに存在する.人を助けたその人が別の人に殺される現実。村の長老(アフガニスタンと同じくチェチェン人の社会も氏族社会を残している)アブドゥルがロシア兵の捕虜ワーニャに引き金を引くが、わざとそらす。そして逃げるワーニャが,村を爆撃に行くロシア軍ヘリに向かって「行くな」と叫ぶ。最後のシーンである。自然光で撮影されたショットの清冽な美しい北カフカスの風土.アフガンと同じくこの世界の美しい原風景(5000メートル級の高峰がつらなる険しい山脈)が、 「文明」と「正義・自由」を僭称する野蛮な侵攻作戦 によって 無残にも破壊されつつあるのだ。
もちろん,このロシア映画を乗り越える チェチェン人自身の作品が やがて現れることを期待する。
ロシアの作家ソルジェニーツィンは その傑作『収容所群島』日本語版(新潮社)全六巻の最後の巻に、「諸民族の強制移住」という章がある.1937年以降,ソ連国家に反感を持ちそうな民族を丸ごと中央アジアのカザフスタンや極東シベリアの遠隔地に強制移住させるひどい政策がスターリンによって行われた.極東沿海州の朝鮮人やカスピ海北部のドイツ人などの移民がカザフスタンへ強制的に送られた.それこそ予告なしに寝込みを襲ってである。
強制移住地に送られた民族のほとんどは,敗戦とともに満州からシベリア・中央アジアに抑留された日本兵の集団とともに,スターリン政権の恐怖の下に「服従」と「従順に働く」心理が共通したようであるが、ただひとつ,対独協力の口実で中央アジアなどに強制移住させられたチェチェン人とイングーシ人だけは例外であったことを, ソルジェニーツィンはこう書いている。
彼らは個人としてではなく、民族全体として、「当局に取り入るとか,気に入るようなことは一切やらず、いつも胸を張って歩き、その敵意を隠そうともしなかった」。「あえて言えば,特別移住者の中で,チェチェン人たちだけが精神的に正真正銘の囚人だったのだ」と。、
このチェチェン人こそが,1994−1997年、そしていま1999年から始まる第二次侵攻作戦でも米軍と同じくハイテク兵器で武装されたロシア軍をてこずらせているチェチェン人である。しかし,1999年からのチェチェン侵攻作戦は,敗北に終わった第一次の作戦の場合と違い,世界のジャーナリストをよせつけないような徹底した報道管制の下に潜行されつつあり、<民族浄化作戦>の危険を憂慮させている。「9.11」以降の「対『テロ』報復・撲滅作戦」こそ「正義」であるという欧米側の潮流が,プーチン政権のそういう対チェチェン侵攻作戦を容易にしている関係は,イスラエルのシャロン政権のパレスチナに対する「国家テロ」侵攻作戦が世界の目を隠れて強行されつつあることと同じである.「対『テロ』撲滅戦争」は、こういう世界大のひろがりをもってしまっているのである。
ロシア連邦からの分離・独立を求めて 北カフカスの小国チェチェン共和国は侵攻してきたロシア軍と1年8ヶ月 戦い抜き10万人の死者を出し,独立問題を5年間棚上げにするというロシア,チェチェン双方の合意のもと,一時終結した。
RADIO MOSCOW の平野進一郎さんの「モスクワ便り」40号によれば、<今,表向きほとんど西側の町に劣らないような,華やかさを見せるモスクワですが,一方でアフガンやチェチェン(18歳「徴兵」による「アマチュア」兵士がろくな訓練も受けずにチェチェンの戦線に多く駆り出されたという)などで負傷し,手や足を失ったいわゆる「傷痍軍人」の姿も至る所で見かけます。これに,外に出られない人々,チェルノブイリの元除染作業員などを加えると, この町だけでかなりの数の, 国の「犠牲者」がいることが容易に想像できます>。
また,第一次侵攻についてだが<圧倒的な軍事力を背景に、このまま行けば短期的にロシア軍が勝利を収めるのは,確実と見られますが,地元市民に深い憎悪を残した以上、長期的に見て、どうなるかは不透明です。経済的に大きな恩恵を与えるか, 圧政を敷くしか 安定を保つ道はないでしょうが、今のロシアにはどちらも困難です。 結果的に、これが(プーチン)新政権にとって非常に高くつくものであろうことは、今から予想できます>と。
参考資料:田中宇「真の囚人:負けないチェチェン人」 「チェチェンをめぐる絶望の三角関係」 「チェチェン戦争が育んだプ−チンの権力」いずれも2000年1月
1月21日
「チェチェン学習」を、アフガン侵攻作戦との親縁関係を探り、この二つが実は同根の「対『テロ』撲滅戦争」であることを考え、そういう「テロ撲滅戦争」の実態と意味、そういう戦争の世界史的問題性を把握しようと試みるという意図で始めてみた。これは、そういう「チェチェン学習」の始まりの試論に過ぎない。
この学習で当初から支えになり、刺激になったのはジャーナリスト林克明さんの現地取材の成果と林さんのチェチェンへの愛情と学習であった。また、日本カフカスクラブのホームページの豊富な内容である.ここに感謝したい。ただ残念なことは、ロシアの厳しい報道管制と西側中心の国際メディアの関心の弱まりからか、1999年以降、とくに2001年9−10月以降のチェチェンの真実がほとんど隠されてしまったことである。これは、アフガンをめぐる米国の報道管制とも明らかに連動している.私たちの眼・耳・鼻・舌・皮膚そして心と脳をいやがうえにも鋭く磨いていかなければならない「末世」に入っている。これは大本営発表と東部軍情報しかなかった戦時中と同じであると感じる。
今回の「チェチェン学習入門」を一応結ぶにあたって、も一度、日本カフカスクラブのHPから「子どもの目を通して見たチェチェン戦争」の一節を引用させていただく。
<これらの絵は難民キャンプに生活し、テントの中で授業を受けているチェチェンの子供たちが描いたものである。 子供たちは「自分がチェチェン戦争で見たもの」を描くように言われた。
子供たちの絵は、彼らに深いトラウマを与えた衝撃を、どんな言葉よりもよく表わしている。
彼らはグロズヌイの砲撃、路上での戦闘、死、混乱、破壊、そしてイングーシで始めた難民としての新しい生活を描 いた。
チェチェンでは、ロシア軍戦闘機が組織的にグロズヌイを瓦礫へと変えている間、何千人もの子供たちが何ヶ月間も凍てつく暗い地下室に身を寄せていた。そこには水も電気も食料もなく、ただ絶え間ない爆音が響いてくるだけ。
状況は国境を越えたイングーシの難民キャンプでも何ら変わりはない。
子供たちの多くは、冬の間中厳しい寒さに苦しみ、チェチェンへと爆撃に向かう戦闘機が頭上を飛んでいく音を聞いて泣き出す。>
2001年12月20日発信のアムネスティ国際事務局からの<チェチェン共和国における二人の女性の失踪・拷問の恐れ>についての緊急行動要請が、aml 26051に2002年1月16日転送メールとして載っていた.私の「チェチェン学習入門」を試みるきっかけになった情報である。
それにこうある。<チェチェンでは、虐殺と性暴力が続いています。しかし、「世界に見捨てられた場所」になってしまいました。かつては、ロシア軍の蛮行を西側諸国が批判していました(それ自体が偽善的ではありますが)。いまでは、「テロリストを退治する」といえば、批判されません.お互いさまですから。中国軍も、ウイグル人居住地域で「テロリストへの掃討作戦」を続けています。みんな ”お互いさま” ということです。そしてニュースにもなりません>という前置きがあって、アムネスティからの資料とロシア宛ての要請文見本が載っている。
<事件は2001年11月9日早朝4時頃起きた.チェチェン共和国のSerzhen-Yurt村の民家に覆面をしたロシア兵たちが押し入り、45歳の女性と21歳の女性を連れ去った.アムネスティ国際事務局は、上記女性(二人ともそれぞれチェチェン語の名前は原資料には書いてある)が殺害される恐れがある、と危惧している。拘束されているとしたら拷問・虐待・レイプの恐れがある。>
「背景説明」としてこうある。<チェチェンでは、ロシア兵に拉致され多くの市民が失踪している.抵抗者や同調者と関係があると見なされると、家族や娘が狙われる.失踪者の遺体は、何処かに埋められていたり、共同墓地に埋められてあったりする.その多くは拷問・レイプなどの痕跡があり、無残な姿になり果てている。
アムネスティ国際事務局は、ロシア軍内の施設において、男女を問わず多数の失踪者が、レイプされたり、ハンマーや棍棒で殴られたり、電気ショック・催涙ガスなどを使われ、数限りない蛮行を受けているという情報をつかんでいる>。
ロシア軍のチェチェン共和国への第二次侵攻作戦は1999年9月に始まり、昨年2001年11月マスハドフ大統領側とロシアの代表者との和平会談が武装解除交渉で暗礁に乗り上げ中断された、とタス通信が今年の1月15日発表した。
第二次侵攻が開始された翌年の2000年2月27日から3月5日まで来日したロシアのNGO「オメガ」の代表とチェチェンのNGO「チェチェン母親協会の代表が、こもごもまたもや戦火に悩むチェチェンの実態について語ったところを、林克明さんが『世界』2000年5月号に「チェチェンに何が起こったか」という文章で報告している。その一部を紹介したい。
<第一次の戦争で戦った殆どの男は、かつてロシア人と学び働き、ソ連社会も知っていた.多くは結婚し、子どももいる.仕事や遊びなど、様様な人生経験をしたうえで、自らの意思で戦うことを決めたのだ。しかし、若年層は、物心ついたころから独立宣言以降の騒乱と戦争しか知らない。彼らがこのまま戦いつづけるのは心配だ>。
<今大切なのは、チェチェン人が地球上から消滅するのを防ぐことです。しかし、チェチェン全土が、スターリン時代のような巨大なラーゲリ(強制収容所)と化してしまいました>。
<ロシア軍は村の中に入ると、まず略奪します.抵抗すれば銃殺し、顔が気に入らないという程度の理由で連行していきます。(前の戦争)では、その対象になったのは主に成人男性でした。ところが今回は、10歳以上の男の子、14歳以上の女性はみな逮捕の対象になります>。
<このモズドクから生還できた人を私は知りません.収容所で生き残った人の証言では、爪を剥ぐ、逆さ吊り、電気ショック、針を突き刺す、高圧ランプで体を焼くなどの拷問が行われています>。いま、キューバの米軍グァンタナモ基地へ連行された アフガンで捕虜になった人々のことが 思い起こされ、気になる。
<警察は、往来でチェチェン人を逮捕し、あらかじめ用意してある麻薬や武器をポケットにねじ込み、犯罪をでっちあげています。とくにモスクワではひどく、このような不当逮捕は1千件に及んでいます>。
<戦争がはじまって最初の二ヶ月で三度逮捕されました.彼らは朝の4時ごろにやってくる。私の知り合いの成人男子で逮捕を免れた人は一人もいません>。
最後に、チェチェンにうちこんでいる林克明さんが、映画『コーカサスの虜』のパンフレットに書いた文章で述べていることを紹介したい。
<・・・私はチェチェン戦争を通して、一般のロシア人の心に帝国意識が根強くはびこっており、植民地支配の反省などしていないということを痛感したからだ。
映画の監督たるボドロフについて言えば、帝国意識から完全に解放されていないと私は思った。というよりも、どうしていいか分からないという彼自身の迷いを感じたのである.その迷いが、おそらく私に違和感と歯がゆさのようなものを感じさせたのかもしれない.・・・・実は、今の私のテーマのひとつが、帝国意識の克服、言い換えれば「帝国の臣民の意識変革」である.・・・・・さらに言えば、地球を支配する欧米世界とそれ以外の価値観や文化をもつ世界との対立を解消するために、帝国すなわち欧米市民の意識変革が必要だと思う。
かつて「世界は周辺から変わる」と書いた人がいた。たとえばチェチェンの戦争もその一例かもしれない。ただ、本当に変革しようとすれば中心を変えなければならないと思うようになった。つまり、チェチェンを含むカフカス問題は、実はチェチェンの問題ではなく、ロシア人の問題なのだ。ロシア人の意識を変えない限り、カフカス問題は解決できないということである。>
林克明さんの言うことに私も同感する。そして、林さんもそう考えていると思うが.「帝国意識の克服」「帝国の臣民として意識変革」「植民地保有者意識の克服」という課題は、そのまま戦後の私たちの課題であった。この<ブナ林便り>という発信基地を立ち上げたトップページの文章にあるように戦後 世界史教師になったときから自覚しつづけた課題であった。そして、それは半世紀以上を過ぎた今日、お互いにすでに解決済みの課題などとはとても言い得ないのが実情であろう。そういう自分たちのことを棚に上げて、「欧米市民」は とは、本当はとてもいえそうもない。
しかし、チェチェン問題が実はロシア問題であるということは真実であると思う。そして、また同様に、パレスチナ問題が 実はイスラエル+アメリカ問題であり、アフガニスタン問題が 実はアメリカ問題である、ということも真実であろう。
参考資料:「日本カフカスクラブ」のホームページの中に収められている諸文章。主だったものを挙げれば次のとおりである。
林克明:チェチェンの指導者二名とのインタヴュー。「報道されないチェチェン戦争の裏側」。/寺沢潤世:「消滅しかけている美しい魂-グルジアに逃れたチェチェン難民」/常岡浩介:「チェチェンの情報戦争」「殉教を求めて今日も戦士たちが国境を越えてチェチェンへの向かう」
やはり、上記のHPのなかにある「チェチェン戦争・トピックス」としての三篇:「子どもたちが心に負った傷を癒すために」「チェチェンに何が起こったのか」「子どもの目を通して見たチェチェン戦争」
林克明:「おとぎ話のようであり妙にリアリズムのある映画」−岩波ホール『コーカサスの虜』パンフレットから
7月16日
15) ヴァガボンド・ジャーナリスト常岡浩介さんのサイト発見。ムスリム名シャミル、クルド名シェルコをもつ。知らずしてグルジア・パンキシ渓谷やチェチェンのことでは彼の見聞のおかげをだいぶ蒙った。このサイトの REPORTAGE ページに 「それ行け」テロリスト!」「テロリストの正体」「戦場ジャーナリストたちのグルジア観光」の写真は面白い。多分、この写真に写っている戦士たちは 米軍特殊部隊の訓練を受けるグルジア治安部隊が到来する前に パンキシ渓谷からは立ち退いていることだろう。 ではどこへ? 参考::「グルジア・パンキシ渓谷とグリーンベレー」 「チェチェン人のたたかい」
7月18日
3) チェチェン・ゲリラ、ロシア各地で活動。 参考: 「チェチェン人のたたかい」