台湾日本語世代への感謝状

 

1 日本の近代史を肯定的にとらえる台湾人

 

司馬遼太郎の言葉に共感  

「台湾に目覚めたのは小生一代の事件」と、文豪司馬遼太郎が感激をこめて書いた文章があります。「台湾紀行」に老台北として登場する蔡焜燦氏あての手紙の中です。文豪と一緒では申し訳ありませんが、この十数年間台湾と交流を持って来た私も、全く同じ思いを抱いています。 

 私が最初に台湾を訪れたのは、戦時中戦闘機づくりのため、志願してはるばる日本本土まで来ていた八千四百名の元台湾少年工の人たちとの、半世紀ぶりの再会のためでした。彼らの寄宿舎の舎監をしていた私の父は、その時すでに他界していましたので、私は私の長男と一緒に台湾を訪れました。一九九二年秋のことでした。

 それ以来、一〇年余にわたって、私は台湾との濃密な交流を重ねてきました。そして、いま最初に述べたような思いを抱くに至りました。その過程で私は、半世紀にわたり自国に対して抱いてきた私の歴史観が、根底から覆るのを実感しました。きっかけは、台湾を訪れたとき、台湾少年工の人たちから聞いた日本と日本人に対する考えでした。彼らの日本に対する評価が、ほとんど肯定的なものばかりだったのは、私の大きな驚きでした。それが、私の自国に対する歴史観を再検討する機会となりました。

 台湾の人々の日本に対する肯定的な評価には、大別して四つのタイプがあります。

 

日本人肯定論  

これは、日本人そのものを人間として肯定的に見る見方です。「日本人はうそをつかない、逆に中国人はうそばかりつく」、私はこの言葉を今も驚きとともに記憶しています。それは本書の著者である陳碧奎氏の言葉だったと思います。陳さんは、日本人がうそをつかない例として、神風特攻隊を持ち出されました。

 陳さんは、そのとき次のように説明してくれました。「特攻の発案者である関行夫大尉は、妻子ある身でありながら、「あとに続く者を信じ」て、率先敵艦に体当たりを敢行しました。そして、四千五百名もの若者が、あとに続きました。特攻命令を下し、「お前たちだけを死なせはしない」と言っていた大西滝次郎中将は、約束を守って敗戦後自ら命を絶ちました。こんなこと、中国人なら絶対にしないし、出来ません」。

日本人は命をかけても約束を守ると、陳さんは言いたかったのでしよう。私はびっくりしました。うそをつかない日本人ということは理解できますが、その例に特攻隊というのが意外だったのです。陳さんが特攻隊のことに詳しいのも驚きでした。恥ずかしいことですが、私はそのときまで、先の大戦で散華した特攻隊の数が四千五百人にも上ることを知りませんでした。

一方、確かに中国人は、うそをつくのが平気のようです。人命に関わる今回のSARS問題でも、国家の威信のためとは云え、重大な事実をうそで覆い隠そうとしました。

 台湾高座会台北区会長の宋定国さんは、台湾で教鞭をとっていた日本人の優しかった先生について、よく語ってくれます。

「私は早くして親を失い貧乏でした。小学校四年のとき、兄がもう学校へ行くのは止めて家の手伝いをしてくれといいました。それを受持ちの先生が必死に口説いてくれ、学業を続けることができました。先生はいつも自分の給料から私を支援してくれました。私が中学校まで進学できたのは、全く良い先生に恵まれたおかげです。私は日本で飛行機の整備に携わっているときも、兵役に就いているときも、先生への恩返しだと自分に言い聞かせ、常に全力を尽くしました」。

 日本人教師といえば、台湾の著名な実業家許文龍さんも、雑誌「正論」で次のように述べています。「戦争で日本が負けて、台湾の事情は変わりました。先生方には総督府から給料が出なくなりました。学校の倉庫には物資がまだいっぱいありましたから、先生方は給料の代わりに倉庫のものを売ることもできたのです。でも先生方は倉庫の物資に一切手をつけず、道端で自分たちの家財道具を売って生計を立てていました。日本人の潔さですね」。

  

日本の植民地政策への肯定論  

初めて台湾を訪れたとき、私に台湾を案内してくれたのは、台湾高座会台北区会の許錫福総幹事でした。台北市内で忠烈碑を案内されているとき、私は戦時中の苦労と過去の植民地施策を想い、「いろいろとご迷惑をおかけしました」とわびました。

すると許錫福さんは言下に、「あんた日本人は詫びる必要なんかありません。私たち台湾人は、日本の統治を50年、中華民国の統治を50年、統治される者として同じ時間を経験しました。いま両者を比較してみると、日本の統治時代の方が格段によいのです。教育、交通、産業、衛生、あらゆる面で日本時代の方が優れています。例えば鉄道、日本は50年のうちに全島に鉄道を張り巡らしたけれど、後から来た奴らはそれを50センチも伸ばしませんでした。その金をみんなニューヨークへ持っていってしまったのです」。植民地は悪いことと決めつけていた私には、これまた衝撃的な言葉でした。

 その後、多くの人から台湾における日本の植民地施策は、たいへん優れた成果をあげたという話を聞くことが出来ました。先に登場していただいた許文龍さんは「1945年における台湾の就学率は92%で世界に類例がない。四百年間オランダの植民地だったインドネシアの就学率は、当時わずか3%に過ぎなかった」と述べています。

 植民地論と言えば、常に日本の立場を肯定的に評価し、胸のすく理論構成でわれわれ日本人の立場を擁護してくれる黄文雄教授は、当初マルクス的な思考で植民地研究に入られたそうです。しかし日本の植民政策を客観的に検証していくうちに、逆に日本の台湾における施策を肯定する今日の立場に到着されたとお聞きしています。

 世紀の大事業といわれる嘉南平野の灌漑事業、嘉南大圳を完成させ、台湾南部を一挙に豊かな穀倉地帯に変えた八田与一さんの業績は、今日でも多くの人の尊敬の的です。

 「治安も日本時代はたいへんよかった。戸締りなど必要なかった。しかし中国人がやって来てから泥棒が非常に増え、今日では至る所に盗難防止の鉄格子が張られている。ビルの五階まで鉄格子を張らなければならないのは悲しいことです」と嘆く人もいました。中国人のピッキング犯罪の激増に悩まされている日本人にとって、共鳴できる話です。

 

共に戦った大東亜戦争肯定論  

「私たちも戦争直後、大東亜戦争は民主主義とファッシズムの戦いだと教えらましたが、絶対に違います。この戦争を契機にしてアジアのほとんどの国は植民地から独立しました。そのどのケースでも、日本は大きな役割を果たしました。残念なのは、台湾だけそれに乗り遅れたことです」とは、台北を案内してくれた許錫福さんの言葉です。

 許さんは、アジア諸国独立に当たっての、私の知らない日本軍の役割を、実によく知っていました。インド独立の志士、チャンドラー・ボウス氏のこと、ボウス氏の指揮下にインド国民軍が結成され、インパール作戦が実行されたこと、敗戦後、そのインド国民軍をイギリスが反逆罪で起訴しようとすると、ガンジーやネールを指導者としてインド全土に反対の嵐が吹き荒れ、それがインド独立の導火線になったこと。新宿中村屋のインドカリーは、インド独立の志士を匿ったことへのお礼として、伝授されたものだという話まで台湾で聞かされました。自らの父祖の時代のことを、日本人でありながら、あまりに知らない自分が恥ずかしくなりました。

 

アジアのリーダーとしての日本への期待論  

これまで述べた三つの日本あるいは日本人肯定論は、すべて戦前の日本に対する評価ですが、ここで言われるのは、現在および将来の日本への期待であり、時には懸念の表明です。それは多くの台湾知識人や政財界の指導者から投げかけられるものです。

 台湾では、実に多くの人が、アジアのリーダーとしての日本の再登場に期待を持っています。このたび出版された李登輝前台湾総統の「武士道解題」などは、その最たるものでしょう。私は日本に対する愛情溢れんばかりのこの書物を、「日本の指導者よしっかりせよ」という、李登輝前総統の心からの叫びであると理解します。

「台湾人と日本精神」の著者で、「日本人よ、胸を張りなさい」と常に我々を激励してくれる前出の蔡焜燦氏、その蔡さんも、国際社会における日本のおどおどした姿勢に苛立ちを覚え、「何をやっているんだ」と、思わず怒りを口にすることがあるというのです。

そして、台湾日本語族の一人として、「どうか心に留めてください。“日本”はあなた方、現代の日本人だけのものではない。“元日本人”のものでもあることを」と今日の日本人に向かって訴えられます。これは、私の交流する元台湾少年工の人たちの、日本に抱く感情でもあります。台湾では驚くべき数の元日本人が、NHKの衛星放送を通じて、元祖国の動向を見守っているのです。
2 台湾人が日本の近代史を肯定的に見る理由

 

 成功しつつあった日本の台湾経営  

台湾人は何故日本の近代史を肯定的に見るのでしょうか。理由の一つは、指導者に人を得て、日本の台湾経営が比較的順調に行われていたこと、台湾住民が極めて順応性に富んでおり、協力して成果を上げていたことが考えられます。

 私たち戦後の日本人は、日本の台湾統治の成果を知りません。私も僅か十年前までは、全く知りませんでした。しかし台湾各地を旅行すると、我々の先輩たちの残した目を見張るような素晴らしい業績にたびたび出会います。特筆すべきは、台湾経営の基礎を創った第六代民生長官後藤新平の事績です。後藤長官の下には、各分野に一騎当千の人材が揃い、極めて積極的な国土経営が台湾で展開されました。

後藤新平には、明治維新の精神が脈々と流れており、新興国家日本の世界に向けたショウインドウとして、台湾経営を立派に行うという意気込みがありました。後藤新平の台湾経営は、今日で考えても極めて道理に適い先進的なものでした。彼がまず排除したのは、上から押さえつける官僚的なやり方でした。また官僚の腐敗行為も、徹底的に排除しました。汚職の疑いのある者をすべて日本本土へ送り返し、その数は一千名にも達しました。日本本土で食えないから台湾でひと稼ぎしようと出かけた人間は、みなこの網にかかり、送り返されてしまいました。

 後藤新平は、台湾経営に当たって、法律や規則による強制的な執行を避け、現地の実情に即した住民に受け入れられる方法をとりました。彼はその方法を、生物学的アプローチと言っていました。それは人間社会を、感情のある生き物として認識することから出発していました。好んで言ったのは、タイの目とヒラメの目の話です。

 

タイの目とヒラメの目

「ヒラメの目をタイの目に変えることは出来ない。タイの目はちゃんと両側についているが、ヒラメの目は頭の一方についている。ヒラメの目を、タイの目のように両方に付け替えることは出来ない。ヒラメの目が一方に二つついているのは、生物学的に必要だからである」。彼の言わんとするところは、実態をよく知るということ、実態に即したやり方でなければ、植民地経営は決してうまく行かないということでした。

 そのために、後藤は調査の重要性を主張し、台湾で土地調査、風俗調査を含む多くの大調査を行いました。まず優秀な人材を採用、緻密な調査の上に現地に即した計画を立てさせ、彼らに大幅な権限を与えて、台湾のためになる施策を実行したのです。

 後藤が最も重点を置いたのは、教育と環境衛生の改善でした。当時、台湾の教育と衛生状態は、日本本土の大都市の平均的な状況をはるかに凌ぐものでした。当時後藤の下には、新渡戸稲造など日本を代表する人材がたくさん集まっていました。八田与一氏の行った世紀の大事業、嘉南大圳の建設もその延長線上の事業でした。

 もちろん、こうした事業は現地の人たちの協力なくして出来ないことですが、順応性に富む台湾人はこれに積極的に協力し、成果をあげたのだと考えられます。

 

台湾を略奪の対象と考えた中国国民党

 台湾人が日本の近代史を評価肯定するようになった、もう一つの要因に、中国国民党による台湾統治の失敗があります。終戦のとき、私は十歳前後でしたが、台湾少年工の人たちが敗戦のショックから立ち直り、程なくして気持ちをたいへん高揚させていたのを憶えています。それは台湾が中華民国に属することになり、中華民国が戦勝国であるという事実に由来していました。小学校へ通う道すがら、「お前たちは敗戦国民だが、俺たちは戦勝国だ」ということを何回も聞かされました。

 ですから、私には彼らの帰国が、意気揚々としたものに見えました。しかし、祖国中国への光栄ある復帰を夢みて、台湾へ帰国した人たちを待っていたのは、予想外の事態でした。終戦とともに台湾へ乗り込んできた中国の兵隊と役人、それは「自由中国」という表現とは全く異質のものでした。すでに近代化を遂げていた台湾において、全く文明の恩典に浴したことのない中国兵が繰り広げた数々の奇行は、台湾人の嘲笑の的でした。例えば、水道の蛇口を壁にはめ込むだけで水が出ると思っていたり、デパートのエレべーターに感心して、一日中眺めていたりした行動です。しかし最初それらの奇行をあざ笑っていた台湾人は、台湾を略奪の対象としか考えていない中国人の罠に、いつの間にかはまっていたことに気づくのです。台湾は全くの無法地帯と化してしまいました。

 

 台湾人の職場を奪った中国人   

戦前は台北高等学校の教師で、戦後アメリカ領事館の駐在武官となったジョージ・カーが、その著「裏切られた台湾」において、次のように述べています。

 「日本人の退いた7千4百の警官のポストを満たすのに、陳儀長官は経験のある台湾人を昇格させるのではなく、経験の全然ない中国人を採用した。何千という新人が、名簿に登録された。すでに台湾統治の要職にある中国人の、係累に属する人間であった。ほとんどの警察官が、日本語はもちろん台湾語も話せなかった。またそのうちの何百人は、まだ十代の少年で、うまみのある仕事を求めるだけの若いあんちゃん連中だった。彼らは、公式の給与支給額より、賄賂や役得の見込みに関心をもっていた。日本人が辞め。空席になった警察の全ての職務がこうして満たされると、国民党政府は、大陸からやって来る中国人のため、さらに台湾人の首切りを開始した」。

 教育現場でも、同様なことが起こっていました。「日本人教員が去って、空席になったポストは、大陸から来た下層民で全て埋められた。彼らは取るに足らない存在だったので、汚職の出来るような職務にはつけなかった。当時すべての靴職人が台湾に逃げ込んだため、上海では靴の修理が出来なかった。そうした連中が教職についた」。

 状況を見かねて、台南市のある有名な医師が市議会に立候補し、中国人市長に次のような質問をしました。「私は市長のような福州出身の中国人を、三つの理由から尊敬しています。それは、貴方方のはさみを使いこなす能力、ナイフを使いこなす能力、バリカンを使いこなす能力です。(これは大多数の福州人が、洋服屋、コック、床屋であることを意味しています)。しかし私には、市長がなぜ現場の台湾人労働者を首にしてまで、役所にこれほど多くの福州人を採用するのか、全く理解できません」と。

 市議会は大騒ぎのうちに散会になった。市長が面子を失った話は、すぐ街中に広がり、暴徒化した福州からの移住者は、その医師を付け狙いはじめた。医師は間もなく、虐殺された。」

 

228事件の発生と監獄島と化した台湾  

中国人のこうした横暴に対し、台湾人の怒りは沸騰点に達していました。ジョージ、カーは更に書いています。「1947年2月27日夜、台北の公園で幼児二人を抱えた戦争未亡人がやみタバコを売っていた。それを見た中国人専売局員は、タバコだけでなく、彼女のなけなしのつり銭まで没収してしまった。抗議した群集の一人が殺された。

 翌2月28日、この事件に抗議した民衆に当局が銃撃を加えたため、台湾民衆の積もりに積もっていた不満は爆発、台北放送局を占拠した一隊は、全島民に蜂起を呼びかけた。各地で台湾人は勝利を収め、中国人を台湾から叩き出す寸前まで行った。しかし台湾人は、「2・28事件処理委員会」を設置し、むしろ政治改革を要求する道を選んだ。

 陳儀台湾省長官は、話合いの態度を見せつつ、密かに大陸の中央政府へ鎮圧軍の派兵を要請していた。3月8日、基隆に上陸した重装備の中国軍は、台湾全島で大虐殺を開始した。処理委員会に列したエリートがまず虐殺の対象になった。政府発表で2万8千人、実際には5万人以上が殺された。この事件を機に、台湾は長い戒厳令下の冬の時代に入った」。

 そして、この事件や台湾の冬の時代については、語ることさえ、長い間禁じられていました。ようやくこれが語られるようになったのは、李登輝時代になってからです。抑圧の時代を、辛苦のなかで生き抜いた柯旗化さんは、「台湾監獄島」で次のように述べています。   

「翌日も特務たちは休みなしに訊問を続けた。私はもう数十時間も寝ていなかったので意識が朦朧として天井がぐるぐる回り、地面もぐるぐる回って見えた。反応が鈍くなり、特務の声がとても遠く聞こえ、私の答えもとぎれがちであった。特務は私に、口述するからそのとおりに自白書を書けと命じて、口述を始めた。

 「私は緑島の感訓から帰って来た後、政府に対して怨恨を抱き、全島各地に組織を創って反乱を起こそうと考えていた」と。

 特務がそこまでいった時、私はハッとしてペンを置き、「私はそんなことをしていないから書けない」と言った。とたんに特務の一人が棍棒を手にとり、私の背中へ力任せに振り下ろした。激痛に、私は思わずうなった。棍棒は、何回も続けて振り下ろされた。」

清朝時代を知る台湾の年配者が、新しい中国統治に期待する若者に対し、「新しい者が来てみて、旧い者のよさがわかる」と言ったことが、不幸にも的中してしまったのです。                                  

3 自虐の罠にはまった日本人

 

終戦の日から始まった贖罪意識刷込み計画 

同じ日本人だった台湾日本語族が、日本の近代史を肯定しているのに、肝心の日本人の方は自分たちの父祖の時代を無惨に否定し、ことあるごとに近隣諸国へ謝罪しつづけています。特にそれは、一部政治家、マスコミ、教育界に著しい現象です。外国で謝罪して来たことを、己れの政治的得点であるかのように自慢げに報告した総理までいます。

 何ゆえにかくも大きな差が存在するのでしょうか。台湾から帰った私は、早速その原因を探ることにしました。その結果、私が辿り着いたのは、高等学校の一年先輩、江藤淳氏の「閉ざされた言語空間」という一冊の本でした。

 江藤氏はその書物の中で、戦後占領軍として日本に駐留した米軍が、日本人から日本精神なるものを骨抜きにするため、いかに用意周到な作戦計画をもち、それを確実に実行したかを調査し、詳細に報告しています。

 それは「ウオーギルドインフォメーションシステム」(戦争罪悪感刷込み計画)と言われるもので、全ての日本人に自ら行った戦争に対し罪悪感をもたせることを狙っていました。そのシステムは、東京軍事裁判と新聞の検閲という、二つの大きな柱から成り立っています。1945年8月15日、日本人は、だれもが戦争は終わったものと考えていましたが、しかしアメリカの方は、その日から日本精神と日本文化の殲滅戦を始めていたのです。

 

 東京裁判のカラクリ  

半世紀も経って、私は東京裁判がいかにデタラメなものであったかを知りました。私にも中立国などを全然入れず、勝者が敗者を裁くという方法に違和感はありましたが、しかしそれは国際的な良識のなかで適切に行われたものと考えていました。第二次世界大戦は、ファッシズムと民主勢力との戦いであったという前提も、残念ながらさして抵抗無く受け入れていました。なにしろ日本が同盟を組んだナチスドイツのユダヤ人大量虐殺計画のすさまじさを見せられると、いやでもそれを肯定しなければならない雰囲気がありました。

 でも、南京事件やバターン死の行進などが日本軍の残虐行為として大いに喧伝されてはいましたが、それでは東京や横浜への無差別爆撃はその範疇へ入らないのか、特に一瞬のうちにあらゆるものを焼き尽くしてしまった広島や長崎への原爆投下が、なぜ人道への罪に該当しないのか疑問に思ってはいました。

 東京裁判が非常にデタラメであったのを知ったのは、日本海軍の公式的な立場から、終始一貫この裁判を傍聴された富士信夫さんの著作を読んだり講演を聞いたりしてからです。戦争捕虜の裁判でのほとんどの検察側資料は、九割以上が反対尋問を全く受けなくてすむ文書であり、それがそのまま証拠として採用されたと聞いておどろきました。正常な裁判なら、そんな証拠はとうてい有効とは考えらません。また連合国側に都合の悪い証言や質問のときは、通訳をさせなかったり、ひどいときは電気を停めたのだそうです。

 「言論の自由の国」にあった厳しい検閲

また新聞雑誌やラジオはもちろん、短歌や俳句という趣味の刊行物に至るまで、実に綿密な検閲制度が張り巡らされていたことを聞いて、暗然とした気持ちになりました。検閲については、ほんとうに驚きました。終戦後、私たち日本人は、完全な言論の自由を与えられ、それを謳歌してきたと考えていたからです。私だけの思い過ごしではいけないので、私は自分の住む市の市長と教育長に聞いてみましたが、両者とも私と同意見でした。私たちが便利に使っているセロテープは、当時開封した信書を塞ぐのに使われたものとか。

 戦いの矛を収めるに当たって、日本はボッタム宣言を受託しました。確かボッタム宣言の第10項は、言論・表現の自由でした。それを強制したはずのアメリカが、その条項に反して密かに検閲をしていたとは、全く理解できないことです。

 しかし、勝岡寛次教授は、雑誌「祖国と青年」に、「抹殺された大東亜戦争」と題して、新聞や雑誌への生々しい検閲の証拠を、冷厳な事実として提示しています。すでに戦争の終わった国に対して、自由を標榜するアメリカが検閲をしていたことなど信じられないと、誰もが考えるでしょう。そのためアメリカ軍は、アメリカ国内に対してさえ、最後までそれを秘密にしていたのです。また日本語の新聞雑誌の検閲ですから、日本人の協力が必要でした。後年、革新市長になった人などを含め、約一万人の日本人がその検閲に協力していたとのことです。

 とにかく日本人は素直で順応しやすい民族で、相手の長所を見つけるのが上手く、それをすぐ自分のものにすることができる一方、過剰なほど反省好きです。そうした特性を遺憾なくアメリカに利用され、私たちはいつの間にか魂を抜かれていたのです。

 何故、日本人はかくも素直に、贖罪体質に陥ってしまったのでしょうか。それは我々を占領したアメリカが、我々にない文明や政治制度を持っていたからとも考えられ、また何よりも我々をあの飢餓状態から救出してくれたからとも考えられます。ひもじさ、飢餓に直面していた日本人は、昨日までの敵国が白いパンを与えるのをよく理解できませんでした。敵に白いパンを与える、ただそれだけで当時の日本人は魂を抜かれてしまったのかも知れません。豪華な乗用車、軽快に走り回るジープ。それに、民主主義、言論の自由、多くの小作人を自作農に変えた農地改革もありました。

 そうしたものに目がくらんで、不公平な東京裁判も、受け入れてしまったのです。しかし台湾では事情が全く逆でした。やって来た方がひどくみすぼらしく、文化レベルも比較にならないほど低かったのです。そんな連中に台湾人はいやというほど痛めつけられました。ただ、弁明のチャンスも与えられず、名誉を失った父祖の時代の日本人のことを考えると、どちらが幸せであったかは、一概には言えません。

占領軍総司令官マッカーサー将軍も、日本国民の高い評価を受けていました。朝鮮戦争でトルーマンアメリカ大統領に解任された同元帥を、日本人は最大限の愛惜の情で送りました。当日の毎日新聞夕刊は、次のように報道していました。

 「ああマッカーサー元帥、日本を混迷と飢餓から救ってくれた元帥、元帥!その窓から、あおい麦が風にそよいでいるのを御覧になりましたか。今年もみのりは豊かでしょう。それはみな元帥の五年八ヶ月にわたる努力の賜であり、同時に日本国民の感謝のしるしでもあるのです。元帥! 日本はどうやら一人歩きが出来るようになりました。何とお礼を言っていいか。元帥! どうかおからだをお大事に」。当時高校生であった私は、そうした新聞報道を読んでいたせいか、「トルーマンのバカヤロウ」と叫んでいた記憶があります。

 

「日本は自衛のための戦争だった」と証言したマッカーサー 

解任されたマッカーサー元帥は、日本であまりにも賞賛されたせいか、「太平洋戦争は、日本にとって自衛のための戦争であった」とアメリカ議会で証言したというのです。

これは極めて重大なことです。マッカーサーは、連合国最高司令官として東京裁判を組織し、この戦争を侵略戦争と断罪させ、責任者を処罰させました。それが一転して自衛のための戦争だと宣誓をして証言するとは、当時の世界が急速に冷戦構造に再編されていた時期とはいえ、この矛盾は驚くべきことです。

私の疑問は、ここから始まります。マッカーサーが日本の戦いは自衛のための戦争であったとアメリカ議会で証言したとき、日本人はなぜそれを歓迎しなかったのでしょうか。情報が伝えられなかったのでしょうか。もう戦争への態度が固まってしまい、今さらそんなことを言われても困るとでも考えたのでしょうか。敵方の司令官でさえ、そう考える世界情勢なのに、なぜ日本人は勝者の立場をそのまま素直に受け入れ、今もなお受け入れ続けているのでしょうか。敗戦という現実に、動転してしまったのでしょうか。

 戦後半世紀経っても、なお自らを世界に向かって戦争加害者と卑下し、やたらと謝罪してまわる醜態、相手がそんなことで敬意を払うとでも考えるのであれば、とんでもない思い違いというものでしょう。おそらく贖罪感刷込み計画を思いついたアメリカも、その効果の大きさと永続性にびっくり仰天しているでしょう。

 贖罪意識から脱却するもう一つのチャンスは、占領が終り独立するときでした。もう占領軍はいないのだから、検閲を受けていた新聞もラジオも雑誌も、これまで自分たちが検閲を受け、心ならずも自由に表現できなかったことを国民に向かって告白すべきでした。正式にそれを表明したマスコミを、私は寡聞にして聞きません。それどころか、戦後の論調を、一貫して変えない大新聞さえあるのです。検閲をされているうちに、日本人はいつの間にか、お得意の自己規制を身につけ、検閲を必要としないまでに変身してしまったのでしょうか。

 一時期の大新聞による中国報道などを見ても、わが国のマスコミにそうした体質のあることは、容易に想像できます。戦時中、軍部に一番すりよったのは、マスコミと教育界という話ですが、その罪滅ぼしのために今度は180度姿勢を変えたのでしょう。180度姿勢を変えたのでは、ファシズムから民主主義に変わるのでなく、今度は左の全体主義に行き着いてしまったのでしょうか。戦後半世紀を経ても、アメリカ占領軍が刷り込んだ贖罪意識から脱け出せない日本人、これこそ今日の日本民族の最重要課題だと私は考えます。

4 日本人の自虐史観につけ込む中国

 

  戦後日本人が抱えていた二大コンプレックス  社会主義と贖罪意識

戦後の日本人は、二つのコンプレックスを抱えていました。一つは社会主義に対するコンプレックスであり、もう一つは戦後アメリカに刷り込まれて贖罪意識でした。社会主義を近未来の体制として幻想した日本のよい例が、左翼を革新という言葉に表したことによく表れています。次の時代は資本主義に変わって社会主義、保守に変わって革新の時代になる、日本社会にはそうした風潮が漫然と流れていたものです。多くの新聞論調もそれを暗示していました。

しかし、全世界を席捲する勢いだった社会主義も、急速に衰退に向かい、東欧や東ドイツにおける敗退、それに続くソ連邦の崩壊、中国の市場主義経済という名の資本主義化、地上の楽園と謳われた北朝鮮の地獄とも言える惨状を知って、多くの日本人は完全に社会主義離れをしてしまいました。いまや社会主義への幻想は日本に関する限り、ほとんど影をひそめつつあると言ってもよいでしょう。

 だが、日本人のもつもう一つのコンプレックス、自国の行った戦争への贖罪意識は、依然として多くの国民の心に根強く残っています。自国の歴史を謙虚に反省するのは、ある程度必要ですが、程度によったものです。特に政治家、マスコミ、教育界に贖罪意識の強いのがわが国の問題点です。それが、深刻な影響を与えています。 

 一番の問題は、お隣の中国や韓国が、日本の国論の不一致という間隙をついて、脅しをかけてくることです。靖国問題や旧植民地時代の評価について、閣僚や政治家が何か発言をすると、一部の日本のマスコミがまるで蜂の巣をつついたように騒ぎ、相手国にご注進に及び、肝心の日本国民がまだその発言を知らないうちに、中国や韓国の怒り狂った反応を報道するという、何とも異様な事態を私たちは何度も経験しています。

不用意な発言をして、そのたびに取り消しをする政治家の不勉強も責められますが、どこの国の新聞かと問いたくなるようなマスコミの態度も見苦しい限りです。私は靖国問題は、日本民族から国家に対する防衛意識を失わせるための、巧妙に仕掛けてきた罠ではないかと思います。いかに国家や民族に殉じて死んでも、国家や民族がその死に対して敬意を払わないのであれば、国に殉じる人は当然いなくなるからです。

 

国内の不満を日本に向けさせる中国の国内事情

なぜ、中国が日本人の贖罪意識につけこんで横柄な態度をとるのでしょうか。私はそうせざるをえない事情が中国側にあるのだと思います。中国は共産主義をタテマエにした国、労働者と農民の国のはずです。少なくとも彼らはそう称しているし、憲法にも謳われています。しかし、実態は全く違うのです。特にケ小平が改革開放路線を正式に採択し実施するようになってから、中国は全く変わってしまいました。今や中国は中国共産党特権階級の国なのです。

 社会主義から市場主義経済へ移行する過程で、中国共産党の指導部は、権力を公然と金に換えるという独裁政権でなくては実行できない方法を採用しました。国有企業は株式会社化されましたが、その株式は共産党の権力者とその身内や仲間に配分されました。その過程で汚職や腐敗は限りなく進行しています。中国共産党大会の重要テーマに、腐敗防止が常に掲げられていることは、この問題の深刻さを逆に裏づけています。

何清漣という新進気鋭の中国のエコノミストの「現代中国の落とし穴」という本は、この間の事情を詳しく述べています。体制腐敗の段階は常に、個人の腐敗、組織の腐敗、制度的な腐敗へと段階を追って進むのですが、現代中国の腐敗はその全てを含みつつ、すでに制度的な腐敗まで行きついているのです。民衆の不満は、地球のマグマのようにいつ噴出するか予想できないのです。

 共産主義国家を標榜し、労働者と農民の国といいながら人口の圧倒的多数を占めるこれら労働者農民はその繁栄の外側に置かれています。貧富の差を解消するはずの共産党独裁政権下で、貧富の差がますます拡大しているのです。当然不満はたまります。その不満の捌け口が反日なのです。今日、社会主義の名にふさわしい国家を建設できない共産党政権の政権基盤は、半世紀以上昔の抗日戦争の勝利にしか求められないのです。日本という国が、極悪非道であればあるほどその価値が上がると考えているのです。そのためか最近、過去の戦争による死傷者の数が、年を経る毎にうなぎのぼりに増えています。戦後の大躍進時代や文化大革命時代に発生した大量の犠牲者まで、それに含めているのでしょうか。

 私のたまに顔を出す倫理実践団体の誓いに、「今日一日、人の悪を言わず、己れの善を言わず、喜んで進んで働きます」という言葉がありますが、中国に限らず共産主義者の言動には、全くその逆が多いと私は常に感じています。

 国内の政策の失敗を外に求めるのは、独裁政権の常套手段ですが、そのために人口十二億以上の人々に反日思想を植え込まれたのでは、日本人はまったものではありません。日本といえば戦時中の虐殺だけを教え、戦後日本の平和と繁栄、ODAによる中国への貢献については、中国の教科書でほとんど触れないというのですから、中国には他国の教科書について文句を言う資格など全くないのです。 

 

目を覆いたくなる政治家の勉強不足

日本の政治家や外交官は、その点悲しくなるほど弱腰で、彼らに共通するのは、自国の歴史に対する目を覆いたくなるような知識の欠如と情報の不足です。最近中国との関係で話題になった日本の外務大臣の、自国に対する歴史認識は、おそらく彼らが大学受験したころのレベルを出ていないのです。学校で日教組の先生に教わった自虐的歴史観を一歩出ることなく、自国も知らず他国も知らず、国や民族を代表して交渉するのですから、したたかな中国の政治家や外交官にひとたまりもなくやられてしまうのです。

 例えば、中国がよく話題にする南京事件、六週間のうちにどうして30万人もの人を殺すことができるのですか。原子爆弾でもあれば可能かもしれませんが、とうてい人間業では不可能です。アホウドリでもあるまいし、あのしたたかな中国人が、静かに死の順番を待っていたとは到底考えられません。30万もの人を殺すのは尋常な手段ではできないのです。そのとき、中国の軍隊はどうしていたのですか。みんな逃げてしまったのですか。中国軍の名誉の問題はないのですか。敗北したのは国民党、勝利したのは共産党、虐殺したのは日本軍という中国共産党の描く単純な図式では、すぐ歴史の評価に耐えられなくなってしまうでしょう。事実、台湾では南京で日本軍による暴行が全然無かったとは言えないが、その相当部分は国民党の敗残兵の仕業のはずだという意見が根強くあります。戦後の台湾の実体験がそれを言わせるのです。日本国内における最近の中国人による凶悪犯罪の急激な増加は、そうした推定を補強する材料です。

 

 自分たちの父祖を信じ主張すべきは主張しよう。

戦前、私は南京近郊で中国人の子供たちに囲まれ、にこやかに微笑む伯父の写真を見たことがあります。子供たちもみな微笑んでいました。もし南京で大虐殺が行われていたら、いくら子供でも日本の兵隊と微笑んで写真を撮ることなど考えられません。私の伯父は、極めて温厚篤実な人で、それこそ無益な殺生などできる人間ではありません。当時の私の周辺にはみなそのような人ばかりでした。

 簡単に謝罪をする日本の政治家の周囲には、無辜の人民を30万人も虐殺する殺人マシンのような人間がいるのでしょうか。心当たりでもあるのでしょうか。それでなければ、軽々に国家を代表して謝罪などしてほしくないと思います。自分はあるいは自分の身内はそうしたことをしないが、だれか悪いことをしたはずだ。俺は関係ないが他人は関係しているはずでは、あまりに無責任です。村山富市元総理に、ぜひ聞いてみたいものです。

 半世紀もたつと、軍国主義者は悪、人民は無罪という図式は通用しなくなりました。だから中国人は現在、日本人をそうは区別せず日本人全体に贖罪を求めているそうです。そうでないと、半世紀以上たった今日、責任を取る人はもういないからです。

 私たちが考えなければならないのは、中国が中国共産党の国家であり、中国軍は真の意味の国軍ではなく、中国共産党の軍隊であり、中国の教科書は中国共産党の政治教育を目的としていることです。天安門事件に見られるように、中国の軍隊は中国共産党政権が危なくなれば、平気で人民を虐殺することができますし、事実そうしました。

台湾の蔡焜燦氏も言われていますが、中国は軟土深耕の国柄で、弱みをこちらが見せればますますそこへ付け込んできます。日本人のよくやる良識的な対応など、相手を付け上がらせるだけです。

私はかって、市議会の議長をしているとき、共産党の議員から執拗に攻撃をされたことがありました。穏便に済まそうとすればするほど、相手は手ごわくなりました。そこで覚悟を決め反撃に出ました。共産党というのは、攻撃は得意ですが守りにはきわめて弱いのです。彼らはその後、何も言わなくなりました。中国に対し、日本の政治家も大胆に主張すべきは主張し、批判すべきは堂々と批判すべきです。 

 5 台湾日本語世代への感謝状

 

私を変えた台湾

私は当初、元台湾少年工の人々とのお付合いは、父親の遣り残した仕事の後始末ぐらいに軽く考えていました。しかし最近になって、これは私にとって予想外に大きな仕事になるような予感がしてきました。文豪司馬遼太郎は、「台湾に目覚めたことは、私の人生にとって事件となった」と述べていますが、私もそのスケールこそ違え、司馬遼太郎さんと同じ思いをもつに至りました。台湾は、それほど私を惹き付けるところです。

 私の台湾に対する目を開かせてくれたのは、私が「腹違いの兄」とも考える多くの元台湾少年工の人たちでした。彼らから実に多くのことを学びました。次に私を惹きつけたのは、故人となられた呉建堂さんとその門人たちの台湾万葉集でした。

日本人も中国人も忘れたる 仁義礼智信台湾にあり

万葉に返れの信念ゆるぎなし 国籍などに関わりのなく

吾子は今手術受け居り父われは 医師にしあれど全身振ふ 

 

 台湾の人々の優れた短歌を詠んで私も還暦を過ぎてから短歌を習うことにしました。また、陳絢暉さんを会長とする日本語研究グループの質の高い活動にも教えられました。

それに加えて、蔡焜燦、許文龍、楊基銓、周英明、黄文雄、金美齢、黄昭堂、張超英、林健良など台湾人論客の日本に対する高い評価と筋の通った論説が、台湾と日本の問題へ新しい視点を与えてくれました。

それは、私が忘れかけていた日本精神や日本文化を再認識させてくれました。同時に第二次世界大戦の連合国が、民主主義国家だったという虚像を、見事に打ち砕いてくれました。日本にとっての台湾の重要性、台湾と表裏の関係にある中国の現状と問題点も知ることができました。

 

 知日の決定版「武士道解題」

 そういう時期に、李登輝前台湾総統の手になる「武士道解題」が日本で出版されました。台北李登輝友の会蔡焜燦会長から贈呈を受け、私は一気に読了し、もう一度ゆっくり読み直しました。素晴らしい本でした。「台湾人は、日本統治時代に学んだ武士道精神で、戦後の難局を乗り切り、今日の台湾を築いた」と李登輝さんは言います。それは、私が十年前に台湾少年工の皆さんから聞いた、「私たちは大和魂があったから、戦後の血の弾圧時代を乗り越えられたのだ」という証言とまったく一致するものでした。

「武士道解題」は、淡々とした簡潔な文章で、深い内容を実にわかりやすく述べています。知識の広さ、哲学書から小説まで、ものすごい読書量に圧倒されてしまいます。そうした知識と数多くの体験を基にした深い考察。これこそ、今日の最高峰をゆく日本精神論と言えるでしょう。李登輝さんを哲人政治家と呼ぶ意味がよくわかります。

 

 「戦後、台湾に戻ってからも、新渡戸先生をはじめとする日本の大先達たちが、いかに真剣かつ真摯に台湾の経済的自立のために献身的な努力を捧げてくださっていたかが痛いほどよくわかり、本当に日本文化のもとで基本的な教育や教養を受けてきてよかったなあと、しみじみ思い返したものです。特に、新渡戸先生が「武士道」の中で強く強調している、「信」や「義」や「仁」といった徳目は、その後私が台湾の総統となって「新・台湾人」を率いて国造りを推し進めていくうえでの、またとない大きな心の支えとなりました。」

 そのような意味では、私ばかりでなく、古き良き日の輝かしき日本の「伝統」に触れることのできた世代は、大なり小なり、「台湾の今日あるは日本のおかげ」と感謝しているのです。「伝統」とは、それほどまでに大切なものであり、何千年の星霜を経ようとも絶対に色褪せないものです。」 武士道解題 P19

 日本に与えられる、これ以上のほめ言葉があるでしょうか。

 

なぜ今、日本と台湾で武士道なのか。

李登輝さんは、「本書の中で、私は繰り返し「いま、なぜ武士道か」という問題を、日本および日本人に対してだけでなく、私自身に対しても問いかけています。それは、このような危急存亡の秋にこそ一人一人の社会の成員が「生き方の心得」とも言うべきものを再認識し再点検しなければならない、と固く信じているからにほかなりません。この大命題を自他ともに厳しく問い詰めなければ、とても国家や国民の未来は見えてこない、と確信しているからです。」と述べられています。

本書で李登輝さんは、今日の日本の指導者に対し、「日本の指導者や、しっかりせよ」と心から叫んでいるのではないでしょうか。李登輝さんは、その生涯を通じて武士道精神を貫かれてきました。二度にわたる人生の危機の時代、戦後の狂乱の時期と大中国を相手に一歩も引かない闘いの時期には、特に武士道精神を必要とされたようです。

その意味で、武士道精神で実際に難局を乗り切った李登輝さんの呼びかけは、日本の指導者に大いに参考になるでしょうし、その言葉はたいへん重いものを含んでいます。

最近、私は改革解放後の中国の経済状態を知り、暗然たる気持ちにさせられました。そのやり方が、第二次大戦後の中国国民党による台湾収奪の経過と、きわめて似通っていたからでした。そこには、公私の区別のない、中国人特有の経済行動が共通して見られます。この精神的な腐敗のほうが、目に見えないだけSARSよりも、たちが悪いのです。日本人も台湾人も、市場を求めて中国大陸へ行くのはよいが、利のみ求めて義を忘れた行動をとると、国家社会にとんでもない病原菌を持ち込むことになります。李登輝さんの心配も、そのへんにあるのではと、私は睨んでいます。

 

台湾を知らずに日本の近代は語れない

 司馬遼太郎をして、「台湾に目覚めたことは、私の人生にとって事件となった」と言わしめたのは何だろうと、ぼんやりと考えていた私の眼に、西尾幹二教授が大著「国民の歴史」で、司馬遼太郎の歴史観を述べた文章が飛び込んできました。

「司馬遼太郎は明治維新を近代革命とみなし、日露戦争を祖国防衛戦争ととらえ、日本人が素朴に国を信じた時代のあったことを絵解きした。けれども、明治に対する高い評価とあまりに著しいコントラストをなすのは、昭和の否定である。昭和初期から敗戦までの十数年は、「別国の感があり、別の民族だった」とし、この間を「長い日本史のなかで、特に非連続な時代」とみなしている」。

 歴史に全く素人の私が、こんな推測をするのはたいへん僭越ですが、司馬遼太郎は明治維新の精神とその成果が台湾で脈々と息づいていたことを、発見したのではないでしょうか。台湾での体験は、司馬遼太郎にとって、歴史観を修正するほどの事件ではなかったのかと考えたのです。司馬という文豪であろうと、戦後の贖罪意識刷込み計画と全く無縁とは考えられませんし、一方台湾についてもそれほど深い知識があったとは考えられません。

歴史小説の文豪といわれる人にとって、「人生の事件」といえるものが、それ以外にあるでしょうか。台湾は歴史小説の分野で文豪と呼ばれる人の歴史観さえ変えてしまう要素を持ってします。台湾を知らずして、日本の近代を語ることはできないのです。

 

 日本精神復活のためのプロジェクトX  

 元台湾少年工の方々の強い要望を受けて、私たちはここ数年間にわたり、彼らが夢にまで見た中等学校卒業の免状を得る運動を続けてきました。その結果は、必ずしも満足のいくものではありませんが、来る2003年10月20日に台湾から元少年工の人々を招き、神奈川県座間市の市民会館で、六十年ぶりの修了式を開催する運びとなりました。

思い起こせば、当初この運動の提案者であった台湾高座会新竹区会の李保松氏が、卒業証明書の中に絶対入れてほしいと強く望んだ言葉があります。それは、「正にその責と業を終えたり」という言葉でした。

 彼は当時十五歳の少年でしたが、配属された霞ヶ浦の航空隊では、敵にやられた戦闘機修理のため、幾晩も徹夜をしながら、がんばり抜きました。老境に入ったいま、望むのはただ一言、日本政府からの「あなたは立派にその責任を果たした」という言葉だけです。

 十五歳の少年が抱いていた烈々たる責任感、これこそ当時の日本精神が育て上げ、今日もなお台湾日本語世代の人々の心の中に息づいているものなのです。私たち日本人は、こうした人々の熱き心に、どのように応えるべきでしょうか。

 それには、李登輝総統も言われるように、日本を再び仁義礼智信の国として再興することです。NHKの好評番組に、プロジェクトXがあります。日本の各分野の人たちが、戦後、種々の障害を苦しみながら、最後にそれを乗り越え目的を達する苦闘のドキュメンタリーです。今こそ私たちは、日本精神再興のプロジェクトXに本腰で取組まなくてはならない時です。それに成功することこそ、李登輝さんをはじめとする台湾日本語世代への期待に応えることであり、台湾日本語世代への最高の感謝状になると思うのです。

 

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