万華鏡のようなものになっていますが、それは結果としてそうなったのであって、それが最初から求められたのではありません。材料と方法が必然的にそうなるように制作者に促したのです。ビルとビルに映る風景がもともと持っていたものが引き出されていると思います。もちろん私はこの風景を撮る際にはこのような結果を予測していません。むしろ、成り行きに任せて行き着くところに面白さを感じています。静止画としての、あるいは動画としての写真の持っている可能性とは全く違うものであるというところが面白い。 後述しますが、鉛筆素描などでやっていたことの延長であるということも、やっている本人にとって予測外の事であって、自分がいったい何をしているのか、ということを考える材料ともなっています。単位化された断片が再構築される時の、器としてのメディアは異なっていても脳内感覚のようなものは、基盤となるものとして私にとって重要なものです。そして、それはネットワークのいわゆる「内容」とされるものでなく、「ネットワーク」という存在そのものに繋がっているように思います。WEBというネット内での個々の内容でなく、それらが連鎖していて、そこでの成り行きがどこに人間の意識を連れて行くのか、百年単位で見届けたい、という希望があります。セザンヌのような汎神論的世界がこのような形で具体化されるとは十年前は全く予想していませんでした。 新橋あたりの風景のみならず、私の行動範囲、地方都市であれ、都心であれどんどん変化していくその規模と速度にはついていけない印象もありますが、人間の成す事として驚きをもって見ている状態は、案外自然を前にして感じる驚異とあまり変わりはないようにも思います。 |