| 「大山道(おおやまみち)」は、ただただ西に向かう道、太陽を追って歩く道である。 天保2(1831)年9月21、22日のことだった。渡辺崋山(1793〜1841・右肖像画)は鶴間宿(つるまじゅく)(現大和市下鶴間)から上草柳(かみそうやぎ)、そして厚木の宿(現厚木市)へと、西へ向かって旅をしていた。 たどった道は現国道246号線にほぼ近い「大山道」(矢倉沢往還と呼ばれた)道である。前項では、21日に下鶴間の「まんじゅう屋」で泊まり、翌日出立するまでを書いた。今回は旅籠(はたご)を出立して目的である「お銀さま」と再会するまでの足取りを追ってみる。 |
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| 1 お銀さまを尋ねる渡辺崋山の旅 | ||
| 「お銀さま」は、相州高座郡早川村(現綾瀬市)の人である。三州田原藩の第11代藩主三宅備前守康友(やすとも)の侍女となり、友信(とものぶ)を生んでいる。しかし友信を出産してほどなく実母が急逝。やむなく江戸藩邸を退いて故郷へ戻った。 12、13代藩主(兄・康和(やすかず)、康明(やすあき))を失うと、友信が藩主を継ぐ順となる。ところが第14代には姫路藩から養子を迎えなければならなかった。理由は田原藩は小藩で経済状態が悪く、富裕な他藩から藩主を入れるというのだ。友信は「巣鴨の老公」として退けられてしまう。 渡辺崋山は、友信公誕生のころから子守り役のように身辺に勤めてきた。とりわけ正統な藩主決定を主張した崋山には、藩主養子問題は痛恨の極みであった。そこで、不遇な「巣鴨の老公」の側用人となった崋山は、老公の生母お銀さまを捜し当てたかった。 天保2年の旅は、記録『厚木六勝図記』によると、「江戸藩邸に再び仕えるように説得して、丁重に迎えたい」藩主の意志を伝えるための旅であったとか。 大山道を行く崋山の旅は、いわば25年前に戻る慕情の旅でもあったろう。14歳のころ、崋山が輝き見た21歳のお銀さまを尋ねる旅であったから。 |
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| 2 下鶴間村まんじゅう屋を出立して | ||
| 天保2年9月22日朝、晴れていた。「まんじゅう屋」を出立した崋山とお供の梧庵(ごあん)は、大山道を西に向かった。 下鶴間村の大山道は、『新編相模国風土記稿』に道幅四間(7.2メートル)とあり、今も昔もほぼ同じ幅である。だが道の通う景観はどうであったろうか。 崋山が宿を求めてたどった長谷川彦八家からの坂道は、急勾配の泥道。鬱蒼と両側から覆いかぶさる樹木や藪の中を通う道であった。太陽の恵みを存分に受けて自由奔放に自然は生きていた。一方、人間とはひっそりと大自然に寄り添っているかのようであった。 今の鶴間駅の近くであったか、弟子の梧庵を連れた崋山は、「鶴間の原」で畑に精を出す農民に出合う。 尋ねると丁寧に桑の名「柘」「桑」や、養蚕によい種類を教えてくれる。 耕者懇に某々と教ふ。 桑ノ大葉ナルヲ作左衛門ト云。按スルニ、漢云、柘ナリ。細葉菱多キモノヲ村山トイフ。漢ニ云桑也。養蚕、桑ヲ上トシ、柘ヲ下トス。 |
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| 3 柴胡見に来よとや開く秋日傘 | 高木厚子 | |
| 花淡き柴胡へ汗の顔寄する | 高木厚子 | |
| この広い台地の「鶴間原」は柴胡(さいこ)が多く、「柴胡の原」とも呼ぶことと、晴れているので、箱根・足柄・長尾・丹沢・津久井の山々がいよいよ近くに見えると、書き留めている。 先年盛夏の日、招かれて柴胡の花を見に行ったことがある。中学校長だった柴田勧さん(大和市林間在住)の庭には、鉢植えが数百も並んで、珍しい草木で埋め尽くされていた。 「ごらん、これが柴胡」 ひょいと手にされた小鉢には、二尺もない丈の、スキッと直立した草があった。枝先に付けた、薄い黄ばんだ粟粒ほどの花群れがかわいい。身は細くやせてはいても思いを高く掲げた、清楚さを感じさせる野草。凛たる風情である。同行の画家滝とも子さん、俳人高木厚子さんともども、話題は膨らんで、先生の縁先で楽しい一刻を過ごさせていただいた。その時、高木さんの詠まれた二句である。 『神中鉄道沿線案内図〈昭和2年〉』を見ると、「大和駅」と「相模大塚駅」の間に柴胡ノ原とある。柴胡の咲く野原として人の注目を浴びていた時代が長く続いたのだ。腰下くらいの丈の柴胡が、見渡す広野に一面に広がっているのを想像してみた、風に揺すられて黄色い花々が波寄せ波打ち返す、大山道はその原中を伸びていて、先には大山、富士が地平を画している、……それは幻の風景でしかない。今は野草として拝見することはない。 |
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| 4 水の牛王=水の窪(くぼ) | ||
| ほどなく大和市西端である。西鶴寺と大和斎場が林の中に建っている。このあたりが「水の牛王(ごおう)」の地、下鶴間村・上草柳村(両村現大和市)・栗原村(現座間市)の三村の境であったとか。 天保2年、渡辺崋山が当地を通行した年。この年に幕府はこの地の克明な調査を進めていた。 地誌調査報告書『新編相模国風土記稿』126巻の編纂には、天保元年から12年まで要している。その中の高座郡の項は、天保3年に完成したと思われる。記述している内容は崋山が見聞きした風物と符合するはずだが、風土記稿のページを繰ると、「水牛王」とは、 1.「三都乃古和宇」(みつのこわう)と読む。 2.下鶴間村では三の郷(ごう)をなまったのだという。 3.上草柳村では、熊野の牛王が流れ来たことがあってこう唱える。 と、記録している。 先年の旧暦9月22日、崋山が旅した日を選んで、有志者とともに綾瀬市のお銀さまの里まで歩いた。その時同行された山下武雄さん(大和市福田の郷土史家・故人)は、三か村の接していた場所に立って、 「三つの郷とも言うが、水の郷のほうが妥当な解釈だろうな。三か村のはずれで、上草柳から下草柳にかけて南へ流れる引地川の源流がここ。水の溜まる沼もあった。『水の窪』だからともいえる」 |
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| 5 大山道の今昔 | ||
明治14,15年測量、19,20年製版した迅速測図(近代的な測量地図第1号)を広げて見て、意外なことに気付く。大和市下鶴間・鶴林(かくりん)寺西の坂上の「まんじゅう屋」から小園の北端「赤坂」までの7キロは、左右にやや揺れるくらいで、直線に近い。大山道は南西を指すコンパスのように伸びている。これにそって作ったのが246号線だが、ただ大和市西端、「水の牛王」から、南にそれて曲がっていく。行く手には、第二次大戦時に広大な高座海軍工廠が設けられたためである。このブロックを取り巻くように、今の246号線はルートを描いている。 西鶴寺前の大山道をたどると、雑木林に入りそして大和厚木バイパスにとざされてしまう。迂回して再び大山道へ戻るしかない。 工廠跡の記念碑を見たり、戦闘機「雷電」を組み立てた工場跡地や銀翼を押して厚木飛行場へ送り出した広い通りを歩いたり、戦後苦労して掘削した大規模な畑地灌漑(かんがい)用水路跡の桜道を行く。 相鉄線「さがみ野駅」を左手に見て、「かしわ台駅」方向に進む。にぎやかな商店の建て込んだ交差点「大塚本町」に出る。 迅速測図を眺めると大山道がなぜここを通っているかが分かる。この大塚は、南の寺尾方面から刻む谷と北の目久尻(めくじり)川側の谷が攻め上がって来る、細い尾根の上に位置している。下鶴間村・上草柳村・栗原村の載る大きな台地を横断してきた大山道は、尾根沿いに高度を下げて大塚に至る。仮に大塚で目久尻川の谷に下りると、谷の屈曲に左右された悪路になる。そこでこれを嫌って尾根筋を渡り、南西に横断し切って国分(こくぶ)へ降り、相模川へ接近するのだ。 これ以外に大山に向かうのに便利な歩きやすいコースはない。農地を結ぶ生活の小道とは違って、遠くを結ぶ街道のコース取りにはそれなりの訳があることに気付かされる。 大塚はかつては大きな塚があった所。源頼朝時代に付近で激戦が交わされて、その戦死者を葬った塚だという。互いに戦火を交えた理由も、地形からうなずける。だがその墓標はいずこにもなく、塚の姿さえ今はない。 |
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| 6 道祖神・庚申塔の道 | ||
| 街道であったしるし、道祖神(どうそじん)を見付けながら歩く。「かしわ台駅」手前の踏み切りを北へ越えた三角辻に一体を拝見する。さらに進んだ先に、246号線に向かって立つ小さな石像の群れも見付けた。古道を探索していると、オートバイに乗った白ヘルメットの人が、話し掛けてきた。珍しい庚申(こうしん)塔があると、国道を離れた草深い小径に案内してくれた。側面に『西 あつぎ 大山 東 江戸 道』と刻んである。近くは赤土の滑りがちな峠で、いかにも江戸時代の大山道 画家の滝とも子さんが小さな石像を前に画筆を走らせ、古文書会の仁平厚さん(故人)と当麻稔さんは風化した文字を読み取ろうと身をこごめる。郷土史家の山下武雄さん(故人)は遠くに目を放って歴史を追憶する。数年前の秋だった。そんなグループ行の情景を、野仏を前に思い起こす。 『游相(ゆうそう)日記』の筆者渡辺崋山の足取りを確かめようと、何遍も歩いた。この2月、独りで歩いた日は上天気であったが、寒さがとりわけ厳しかった。歩いても歩いても西の山並みは遠く、くっきりと地平に張り付いていた。重なるように雪の富士が大山の肩に載っていた。まるで山に向かって歩き続ける感じであった。大塚を過ぎ、柏ヶ谷に入る。気付くと富士は姿を消していた。大山が大きくはだかって富士を隠しているのだ。 歩く季節は違っても、いつも山に魅せられて引き寄せられるように南西に急ぎ、やがて分岐点「赤坂」(右写真)へ出るのだった。 |
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| 7 お銀さまを尋ねて | ||
| 崋山は道中二度、お銀さまの消息を尋ねている。 1.最初に聞いたのは、大塚の近く。お銀さまの父早川村の幾右衛門は酒に酔って川に落ちて死んだこと、娘は小園村の百姓清蔵に嫁いでいて、「朝夕の煙細う立つばかり」「お殿様のいたり給う所」ではない、と言う。 2.柏ヶ谷の翁(おきな)からは、幾右衛門は酒好き、80歳で健在であること、娘4人のうちの長女は、江戸に出て宮仕えして、花を飾り錦を着て帰ってきたこと。母を亡くし隣村小園の由緒ある旧家の嫁になる。両家とも「いと貧しく世は渡れどいとまめたちたる」暮らしと聞く。 赤坂で左南方へ大山道を逸(そ)れて、いよいよお銀さまの住んでいた小園村へ向かう。 誠によはなれたる片いなかにて都の空もおもひ出られて、何となう物かなしく、たた、木くさの香ひたかく、冷気人をうつ。かくしつつゆくほとに、鶏犬の声、遥に聞え、めしたく煙、麦搗音、都にめつらかなるここちして又よろこはしう、なりにたり。先いそかれてはしり行。 崋山の文章は、これまでの記録文体からがらりと変わり、中世の物語風な香りを漂わせている。 昼を回ってようよう赤坂に至った遅足の崋山の足取りを追う者も、お銀さまに逢(あ)うべく先を急いだ。 古東海道といわれている竹藪に続く道を探り、高見から南の村落を見下ろす子の社に至る。 村落よき程に隔て、里の童むらかりあそへり。はしりよりて幾右衛門家はいつこそ、清蔵か家はいつこそと問へは、幾右衛門よりは清蔵か家こそ、近けれとことふ。されハその家おしえよと、銭くれて導とす。道の傍に地蔵堂あり。 崋山のスケッチ通りに延命地蔵堂を見付けることが出来る(バス停「小園団地入口」)。明治期までお堂は寺子屋として近くの児童教育に使われていたという。寛政11(1799)年に第1代寺子屋師匠金子文績は没しているので、崋山が通りかかった日にも、2代目か3代目が教えていたことだろう。付近には門弟が建てた筆子墓がある。 この地蔵堂から清蔵の家まではごく近かった。子どもが先を駆けて、崋山は後を追ったという。 |
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「武陵」とは、伝説の地武陵桃源郷のこと。妖(あや)しい洞穴を潜ると、目を見張る世界が広がっていた、先代の子孫たちが現世とは関係なく幸せに暮らしている風情であったという。この世を離れた桃源郷のような村里で、崋山はお銀さまと再会する。 25年の歳月は長い、共に容貌を変えてはいるが、しかし次第に確かめあって互いを認めるのにそう時間は掛からなかった。 |
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| お銀と申せし事もありやといえは、又、おとろきたる体にて、むかし江都にありし時ハ、左もよひし事あり。さあれハ君は麹町よりや入来り玉ふやと。はしめにかはりたる面にて、まつ奥の方ニ入玉えとハいえと、皆板敷にて畳なし。花筵持出て引き、これに坐を設け、さてかしらなる手拭を取すつれハ、まかうへくもあらぬ其人なり。たたなみたにむせひて、たかひに問答うる事もなくて時移す。
やがて子どもを紹介すると、昼飯となる。蕎麦かき二椀、酒三盞、どぶ酒、吸い物、豆腐、卵、梅干し一箸、粟餅壱ツ。 その人よろこひのあまり、何かなと工夫して、かくはもてなしくるなり。 子どもの使いが走ったのか、実父の幾右衛門が隣村の早川村からやってくる。 幾右衛門来、年七十八。強壮なる翁なり。又、行すへ、こし方の物かたりに、なみた落る事折々なり。我身の上を語りてはなき、都の空を思ひてはなく、たたけふといふけふ、仏とや云ん、神とや云ん。かかる御人の草の庵に御尋候はとて、むかしかたりに時移りて、日西にかたふく。かくあらんも農業のさまたけやとて、行すえの事なと、うけ引て立出づ。長子清吉、馬引き出てのり玉へといふ。断てかちより行。頭陀と笈とを助けられ、村堺迄、うからやから皆出ておくる。村の人々もきも打つふし、皆門に出立て見送る。又、武陵の真堺を見ることしと、すすろに思ふ。 日が傾くころになった。村はずれの小園橋まで、知らせに驚いた村人が皆、身分の高い武士を見送ろうと並んだ。 そして、崋山たちは5キロ先の厚木へ向かった。 |
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| 8 お銀さまの墓「皈元聞外全修大姉」 | ||
| 延命地蔵堂前のバス停から一つ先「新橋」まで足を伸ばし、お銀さまの墓(下写真)を訪ねた。目久尻川に近い小高い丘に、婚家の一族たちの墓石が草地を囲んで並んでいる。その中に、墓はある。田原藩主三宅康友の寵愛を受けたお銀さまの墓石がちんまりと座っていた。 墓前には竹筒とガラスの小さな空きビンがある。中にだれが挿したか野の草が揺れて、冷たい墓石の上には8,9枚の銭が丁寧に置かれている。 |
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| 9 渡辺崋山と大山道を歩く | ||
| 歩くということは、水平に場所移動するとともに、垂直に歴史をたどることでもある。 今回の散歩では、江戸末期の人間・渡辺崋山の感情の高ぶりを覚え、妙に突き動かされるものを感じた。崋山が旅したのは、画家としての道を放棄せざるをえなくなったころで、海外諸勢力に対する知識を得てほどなく大事に着手していく、そのわずかな平穏な年月のころであった。幕政批判を問われて囚われ、蟄居の内に自決するのは、「游相の旅」の、たった10年後なのだ。 帰り道、地蔵堂を拝見する。金網越しに寝釈迦(しゃか)像が右腹を下に寝ていらっしゃる。見詰めていて気付いた。釈迦入滅の姿で、頭を北に横たわり西空を望んでいるスタイルなのだ。凝視した後、地蔵堂から振り返ると、寝釈迦像は、まさに日が没しようとしている西に面しているのを知った。その西の山並みに見えるものを感じ、山道を駆け上がった。するとやはり、大山の左に大きな富士があった。 人々が救いを求めて大山に詣でる道、富士に参詣する道が、「大山道」であった。 そして常にこの両山が歩む「大山道」の前に聳えていたのだった。 |
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