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やまと歴史散歩 その7

深見地区 要石〜鹿島橋・仏導寺・イエナ〜
 〜じっくり版〜
文と写真と略図
内 藤 敏 男

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1 鹿島橋の架かる境川周辺
境川とブロック 小田急と相鉄がクロスする大和(やまと)駅から東に12〜3分も歩くと、珍しい橋がある。境川(さかいがわ)に架かる一方通行の「鹿島橋(かしまばし)」である。横浜市から西方の大和市へ越える車はいいが、東、横浜へ抜けるには下流の「境橋」へ回り道するしかない。
 この鹿島橋から境橋までが、訪ねにきた地域で、昔、要石(かなめいし)とか宮下(みやした)とか呼んでいる集落である。
 「なぜ、水音が高いのだろう」
橋に立つと、足下から強く瀬音が押し上がってくる。橋脚を覗(のぞ)くと流れが渦巻いている。立方体のセメントブロックが百数十も川底に沈んでいて、水流を堰(せ)いている。(写真1.2)ラグビー選手よろしく赤い背番号のブロックチームがスクラムを組んで、川水チームに抗している。一個一個、背の165、166、167と書かれて川水とブロックいる赤の背番号は、もう汗と汚れで薄れてはいるが・・・。瀬音は選手の雄叫(おたけ)びのように響いてくる。
 境川は、鹿島橋とすぐ上流の相鉄鉄橋を立て続けに潜っている。鉄橋付近で大きく「く」の字に急カーブを切っている。流れは曲がり目の堤にドンっと当たって巴(ともえ)に渦巻き、深みを増している。理由はすぐ分かった。下流、鹿島橋下で群立するブロックチームが堰いているからだ。ブロックに突き当たり、川水は、白く跳ね上がり、宙で互いにぶつかり、あらげざわめいて、下っていく。立ちのぼる川音は、長雨時に特有な響きなのだ。
境川と電車 赤いラインを、ピカピカのシルバーの車腹に巻いた相鉄電車が、高い金属音を跳ね上げて、境川を渡ってきた。(写真3)横浜からの車両は、橋を越えると、十両連結の胴体を上下にうねらせながらトンネルへ跳び込むように潜り、大和駅へと滑り込んでいく。
 線路の南側には平坦(へいたん)な地が広がり、奥に住宅が点在する。久しぶりに見る青空と地平を限るのは、背の高いケヤキ林。まだ葉を付けない黒い裸姿だ。その下には松杉の常緑樹が割り込み、その中程を刷毛(はけ)をはいたような薄紅色が彩りを添えている。訪ねた日は、桜花が盛りを過ぎようとしていた。
2 仏導寺・深見神社
仏導寺正面 散り敷く桜が寺へ登る石段(写真4)を飾っている。黒いシルエットの鐘撞堂(かねつきどう)に花びらが舞い寄っていく。春、桜で装い、仏導寺(ぶつどうじ)は1年のうちで一番華やいで見える仏導寺徳本念仏塔季節だ。
 寺伝によると、天文年間、1532年〜1555年ごろ、称念上人が開いたという仏導寺。大和市指定重要文化財4件が、この寺にはある。
  1.石段の右手、「南無(なむ)阿弥陀仏(あみだぶつ)」と刻まれた徳本念仏塔。(写真5)頭の尖(とが)った角柱の塔で、右側の文字からは、建立が文政元(1818)年であったことが分かる。前年は浄土宗の僧侶(そうりょ)・徳本行者が相模(さがみ)国を巡行して教導・遊化(ゆげ)した年だから、この時、信心を深めた近在(深見・鶴間・瀬谷ほか)の人々が造立したに違いない。碑面の味わいのある文字「南無阿弥陀仏」は、徳本上人独特の書体である。
2.境内に上がって右の梵鐘(ぼんしょう)は、大和市に残るのではもっとも古い元禄11(1698)年の鋳造。(写真6.7)鋳工は江戸に住む鋳物師(いもじ)・木村将監安継、同三郎兵衛安信。
仏導鐘楼 仏導寺梵鐘記銘 慶長の板碑(拡大)
慶長の板碑   仏導寺旗本坂本家墓
深見神社社号標碑3.左の墓地奥には、高さ90センチ大のおもむきある板碑がある。(写真8.9)「慶長三(1598)年二月十二日 称誉妙讃信女」の刻字の上に梵字が飾られている。
深見神社正面
4.本堂奥の墓地には、江戸幕府の旗本坂本家の墓三基が祀られている。(写真10)坂本氏とは、代々深見村を治めた領主。天正19(1591)年に深見村に入ったのは二代貞次で、中央の墓が三代貞吉、左がその夫人、右端が四代重安の弟貞俊と思われる。
 訪れた4月8日はお花祭り。釈深見神社なんじゃもんじゃ樹迦(しゃか)の誕生を祝う日で、本堂前では甘茶を奉仕していた。
 掌(たなごころ)に乗る大きさのお釈迦さまの像が、右人差し指を天に伸ばして立ち、甘茶の注ぎを受けていらっしゃる。四柱で支えられた天蓋(てんがい)を、ツバキなどの花がこんもりと蔽(おお)っていた。
 寺に南接して、古い社がある。「相模国十三座之内深見神社」という社号石標(写真11)の立つ深見神社(ふかみじんじゃ)である。(写真12.13)
 延喜式(えんぎしき)神名帳に名を連ねる古い神社なのだが、明治9(1876)年に仏導寺炎上の際貰(もら)い火(び)して焼け落ち、貴重な古文書類を失った。社伝を詳しく裏付けるものが少ない。
3 堰と用水
 仏導寺と深見神社の建つ崖(がけ)の高みを東へ降りると、境川まで平地が広がっている。ここ要石地区は今でこそ住宅地のように変わっているが、つい前までは田が広がっていた。一段高い丘の端に代々住まう青木稔さんは、境川を越えて水田を渡る涼しい「巽(たつみ)の風」を思い出すという。
 氏の話によると、そのころ用水は相鉄線鉄橋少し上流の堰(せき)から引いていた。堰からわずかな下り勾配(こうばい)でアゲボリ(揚げ堀)が設けられていた。アゲボリは、丘の縁にそって南へ南へと刻まれていた。全農家が利用する用水であるだけに、堀と堰の維持強化は農家にとって大切であった。取り決めた日取りに全村民総出でホリサライ(堀浚(さら)い)をし、秋にはセキバライ(堰払い)をして取水をやめ、また春になると堰造りするのが、村の年中行事だった。堰とは簡単な工作物で、橋構造のものに柱を数本川中に立て、これに板を添えて水を堰くのである。橋構造の工作物を常設するまでは、福田(ふくだ)など近くの村と同様に、土砂を俵に詰めて川中に投入したとか。取水口や堰の周辺はしっかりと堤を造り固めるのが要諦(ようてい)であるから、土砂や竹木を使った土木工事が基本であった。土砂は近くの崖を崩して採っていた。要石では、仏導寺の丘の東辺がこのドトリバ(土採り場)であった。
 大正8年だったとか、春、堰普請に取り掛かっていた。その最中にドトリバから骨、壷(つぼ)、甕(かめ)が多く掘り出されて、村中大騒ぎになったことがある。壼などは大和小学校に保管を依頼したというが、今は存否不明である。
 このアゲボリあとを南へたどると「かしま二号公園」に出る。南西の一隅に建つ「開発記念碑」が土地区画整理の苦心を伝えている。ここ一帯は相鉄が造成し、今では瀟洒(しょうしゃ)な住宅街となっている。昔からの集落では根道がくねくねと縫っているのに対し、新住宅地の街路は直交し田の字の街を造っている。十字路に立つと、かつての田園風景が重ね焼きのように見えてくる。
4 家の呼び名・イエナ
要石略図
 坂を西に少し上がると、古道が南北に走っている。南に辿(たど)ると、左右に昔からの家が大きく構えている。地元の方に伺うと、家の名(イエナ)が付いている家が多い。
 要石地区のイエナは、十八ほどである。その由来はいろいろである。明治大正期の家の仕事から名付けたものや、徳川時代に同じ名を称し続けた家名であったり、集落内の場所による呼び名もある。また主たる家との関係で裏や表に当たる家の場所からの呼び名もある。イエナを伝えによって解釈してみると、次の通りである。
イエナ イエナの解釈
サンゴクメ 三石目  命により幕府の用をおこなっていて、 扶持(ふち)米を三石もらっていた家
カサヤ 笠(かさ)を造っていた家 後に販売だけをしていたという
アブラヤ 油屋 菜種を絞って油を採る商(あきな)いの家
トーフヤ 豆腐の製造販売する家
ナカムラ・ナカヤ 集落の中心地にある家
セド 本家(キヘーサマ)の裏の位置にある家
ムケー 本家の向かい(ムケー)にある家
メー 本家の前(マエ)にある家
オキ 本家から遠く離れた家
ゴロベーサマ 先代から使われてきた名
セーべーサマ 先代から使われてきた名
キヘーサマ 先代から使われてきた名
デンベーサマ 先代から使われてきた名
テンダイ 天台? 天代? 台地の上の家 名主
シンタク 新宅  分家 別家
ミセ 雑貨屋(食料衣料品など)
 富沢美晴さんは、今も電話を受けるとき、「セーべーサマだよ」とイエナで応答することがある。「サマ」もイエナの名称であるので、自分を「セーべーサマ」と表現するのだが・・・と、苦笑される。
5 今、境橋 昔、番田橋
 要石地区の南端は主要地方道横浜・厚木線付近である。この地方道が境川を境橋で越している。
 昭和9年、不況続きの世の中だった。だから厚木街道沿いに県道を工事するとは、有り難かった。当地区の農民たちはこぞって参加した。路盤を掘削したりトロッコを押して土砂運搬したり、土木仕事に取り組んだ。境橋も架橋した。施工が終わると、県道近くのシャカンドー(釈迦堂)跡で祝いの席が設けられたと、記憶する人もいる。
 境川には、それまでは小さな「番田(ばんだ)」橋が架かっていた。「橋のたもとに幕府の巡査に当たる者が住んでいて番をしたので、番田と名付けたのだ」と、テンダイの青木利光さんはいわれる。
 「番田」には、深見村の領主に納める米蔵が数棟建っていたという。この蔵の前庭で年貢米を「斗(と)立(だ)て」をし、俵詰めして蔵の奥に積み上げたものだ。年貢米1俵とは、3斗5升入りであったが、実際は2升を上乗せして3斗7升を俵に詰めるのだった。この2升を加えることを「斗立てをする」といった。深見村の名主・組頭・百姓代の村役3人が立ち会う、農民にとっても米1粒たりとも疎(おろそ)かにできない厳正な業務であった。
 番田とは、江戸移送の前の年貢を収納管理し、蔵の警護と村の平安を維持するのが役割であったのだろう。
6 テンダイ坂と半鐘
テンダイ坂 番田のあった橋のたもとから昔の道を辿って坂を上ると、急傾斜の崖にそって道は続く。テンダイ坂という。(写真14)
 テンダイ坂の上部に林がある。その奥の、天にでも上がる位置に豪壮な名主の舘(やかた)が建っていた。このテンダイから境川を臨むと、北から南へ水田が広がり、番田橋近くに番田の米蔵が見えたに相違ない。
 今、テンダイ坂の下の四辻に、2階造りの小屋が建っている。軒下に赤灯が下がり、鎧戸(よろいど)には「大和市消防の半鐘塔消防団第三分団三班」とある。裏に10メートルはある櫓(やぐら)が屹立(きつりつ)し、先端には半鐘が下がる。 (写真15.16)長雨のやっと上がったこの日、気温は昇り、鳥も樹木も万物が春の余情の最中に浸っている。そして現代の「番田」の半鐘も、中空でゆらりと、春機嫌の風情ではある。
半鐘 小さな辻風(つじかぜ)がテンダイ坂を上っていく。テンダイの屋敷から路(みち)へ差し出た桜木から散る花びらが、つむじに巻かれて揚がっていく。ヒヨドリがキーッキーーッと鋭く啼(な)き、桜が散る。デーデーボッボー。遠くの、くぐもり声はヤマバト。これにも和して、花が舞う。
 春は、この街を、いま、通り過ぎようとしている。
 集落・要石は、時代の襞(ひだ)を重ねて静まっている。深い時の流れが刻み込んできた美しい襞は、まるで境川の流れとあらがう石の群れの姿でもある。鹿島橋下の、春の瀬音が聴(き)こえてくる。
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