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やまと歴史散歩 その6

深見地区坊ノ窪
 〜じっくり版〜
文と写真と略図
内 藤 敏 男

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1 岩船地蔵
 ナムアミダブツ・ナムアミダブツ・ナムアミダブツ……。尽きることのない念仏の坊ノ窪情景唱和が、聞こえてくる。朝の斜光線に染まった地蔵堂からである。
 ナムアミダブツ ナムアミダブツ
 ナムアミダブツ ナムアミダブツ
 ナ・ア・ダ・ツの唱名の度に金属の小さな鉦(かね)の音。14、5人の念仏講の人々が唱えるナ・ア・ダ・ツの声が次第に強調されて、昂揚(こうよう)していく。この日は、新調した幟(のぼり)を納めて地蔵尊を開くので拝見してはと言伝(ことづ)てがあり、ここ大和市深見地区坊ノ窪(くぼ)「岩船地蔵尊」へやってきたのだった。
 開け放たれたお堂には、人の丈(たけ)ほどある地蔵尊(写真3)が赤い頭巾(ずきん)と衣装をまといすっくと立っていて、耳を澄まして念仏を聴いておられる。
岩船地蔵堂祀り1 岩船地蔵堂本像 岩船地蔵堂祀り2
 堂右手の石塔「堅牢地神(けんろうじしん)」(写真5)には、「風雨順持 五穀来熟」「弘化三年丙午八月社日」「講中中深見村」と彫ってある。岩船地蔵堂横石碑1846年に農作物の豊作を願って土地の神を祀(まつ)った石碑で、当地を「中深見村」とも呼んでいたのだ。
 お堂前の道はつい30年も前までは土砂交じりで、数十本の大ケヤキが路傍(ろぼう)に立ち並んでいて、往来する者は少なく、出会っても30軒ほどの集落の顔見知りばかりであったとか。だから念仏講では、通りに筵(むしろ)を延べて念仏を唱えたし、その場で飲食を楽しんだという。
 堂の道際に「奉納岩船地蔵尊平成九年三月吉日念仏講中」と白布に大書した幟がひるがえり、その先端でサカキの枝葉が揺れている。堂内の岩船地蔵は、刻まれた文字から、享保9(1724)年8月に深見村の念仏講中が造ったことが分かる。
岩船地蔵とは、享保年間のものが大部分で、短期間に広がった珍しい地蔵である。その流行した理由は、時の第八代将軍徳川吉宗が岩船地蔵の生まれ変わりの人とされたからで、将軍にあやかった岩船地蔵信仰が大流行した。この村でも「流行神(はやりがみ)」「岩船地蔵」を勧請(かんじょう)し、坊ノ窪にお堂を建てた。流行の波は享和の末には衰え、流行神の姿は薄れていった。しかし当地では「流行」には終わらさなかった。深見村坊ノ窪では念仏講中を組み、地蔵を念仏の本尊として代々継ぎ続けてきたのだ。
 勧請当時、先人たちは岩船地蔵信仰の霊場(栃木県岩船山高勝寺)をどんな思いで訪ねたのだろうか。
2 深見地区坊ノ窪
 小田急江ノ島線と相模鉄道の交差する大和(やまと)駅から東に歩くと、どうしても境川に突き当たる。深見4集落略図
 境川は北から南に流れて、相模湾に注ぐ川である。川は大和市側では崖(がけ)下をくねり、対岸の横浜市瀬谷区の方は平坦(へいたん)な地形を広々とみせている。図の左方は丘陵の上面で、右端の境川へかけて、集落が二重、三重の列を造っている。大和駅の東に当たるのが深見地区。深見は集落(一ノ関・島ヶ関・島津・諏訪・森下・坊ノ窪・入村・要石・宮下・宮ノ上・大塚戸など)が南北に並んでいて、その中央がこの坊ノ窪集落である
 集落の通りや屋敷隅のあちこちに石の神や仏の姿を見掛け、つい気が向く。男女2体が並ぶ双体道祖神、石の小さな祠(ほこら)、「猿田彦大神」と大書した石塔も路傍に立っている。中でもよく祀られているのは「お稲荷さん」と「お地蔵さん」である。
 「お……さん」が付くのは、稲荷と地蔵だけ。稲荷と地蔵はとりわけ親密な信仰対象であるからだろう。
3 坊ノ窪のイエナ
坊ノ窪イエナ略図

 坊ノ窪は30軒ほどで、道行く人はだれでもが知り合いであった。同姓の家が多いので、家の名(イエナ)で呼び合うのが普通であった。イエナの一部を抜き出し略図にしてみた。
 シタハズレとは、坊ノ窪集落の北端で丘の下にある家。
 丘の上の家は、ウワッパズレ。
 ショーユヤ・クルマヤサン・ゲタヤ・コーヤは、醤油(しょうゆ)屋・車屋・下駄(げた)屋・紺屋が家業の時代でもあったのだろう。
 トモエモサマは友右衛門、モザエムサマは茂左衛門か門左衛門、エースケサマは栄助、デンザエモンは伝左衛門。かつて大事に代々使ってきたイエナであるに違いない。
 ニイヤは新家・新屋で、新宅・分家のこと。インキョは隠居の家、セドは裏に当たる背戸の家、ヤマンネは山手の根に位置する家をさすと聞く。
4 お稲荷さんと秋葉社
 略図(図6)中央下の岩船地蔵から北へ屋敷を左右に小道を行くと、ショーユヤ、シタハズレの屋敷前に出る。広い交差地点には島状の空地があり、ここに石の神々が並んでいる。(写真8、9、10)
深見石塔群深見石塔群
深見双体道祖  地神塔・小祠・庚申塔・猿田彦大神・・・は、道路拡張整理の都合で移されたのだという。
 西へ木の間を縫って上がっていくと、林間に妙法講中の稲荷がポツンと置いてある。(写真11)石段を登って拝見するが、いまは戸や窓は塞(ふさ)いであり、おとずれるのは風だけだ。
 2月の初午(はつうま)の日に高橋省平さん(シタハズレ)を訪ねたことを思い出す。樹間の妙法稲荷
 朝、お屋敷でお稲荷さんへ油揚げや赤飯を供えたりするしきたりを見学し、10時からは妙法稲荷へ。講中仲間が初め囁(ささや)くように始めた念仏の唱和は、やがて太鼓のリズムに乗って大きなどよめきとなり、赤い幟のはためく妙法稲荷の木立をすっぽりと包み込む・・・。この村の興奮した素顔を拝見させてもらい、ここには時代を遥(はる)か超えた1日が在ることを知ったのだった。
 丘の上に出て南北に走る鎌倉古道を左に取る。高塀が長く続き、その基礎を造っている石がズラッと古道に面している。(写真12)その大小の石が石仏にもみえてくる。塀に埋め込まれてもう何道端の"石像"たち10年になるのだろうか。塀の一部になる前はただの丸石であったはず。下の小さい石と上の大きな石が対になり、地蔵の首と顔に変わり、顔に目が鼻が皺(しわ)が浮き出してきたのは、いつごろだろうか。日に晒(さら)され、雨風に打たれ、苔も生え広がってきている。流れる時は、確かに、石の中に潜んでいる地蔵の姿を掘り続けることだろう。
 左手に火難を防ぐ秋葉社と並んで、「正一位中丸稲荷大明神」(写真13)が座している。
 この稲荷は中丸イッケの浄土宗の中丸稲荷家10軒ほどで祀っている。中丸家でお稲荷さんを祀ったのは古い。中丸正義さん(ヤマンネ)によると、お稲荷さんを勧請したのは江戸時代に遡(さかのぼ)るという。
 お堂を開錠してもらった。(写真14)不意を打たれた。覗(のぞ)き込もうとした目に飛び込んできたのは、赤い鳥居の奥にズラッと並ぶ、白いキツネ30体であった。
 お稲荷さんには作神(つくりがみ)として、田畑耕作の期間は中丸稲荷内部農地を守り、秋は山の神に帰っていくという、「神の春秋去来」の考えがある。今も続く初午の祭りは、山から神を迎える大切な行事である。
 中丸稲荷の奥に秋葉社が建っている。
 秋葉神社(本社は静岡県の天竜川中流)の三尺坊大権現は、天狗(てんぐ)のように飛翔(ひしょう)して鎮火する業にすぐれていたといい、火事を恐れた江戸時代、とりわけ将軍綱吉のころに流行神として広がった。坊ノ窪でも有志が秋葉講を組み、分社を建てて祀り、毎年代参人を選んで参拝に行き、護符を受けてきていた。
 中丸さん所持の文書を読ませていただくと、明治期にも毎年のように代参に出ている。講中は50銭ずつ出し合って代参の費用に充て、秋葉神社では1円を納めて護符をいただいてきたとある。
5 即身成仏・らいげんさん
 奇妙なことを聞いた。
 坊ノ窪に「らいげんさん」がいた。庵(いおり)を結んで耕作に勉(つと)める一人もので、"らいげんさん"(?)墓碑念仏を日ごろ唱える僧であった。晩年、らいげんさんは死を予感して竪穴(たてあな)を掘って、あたりの人に依頼した。
「穴中で鐘を叩(たた)いて念仏を唱えているから、鐘がやんだら、この穴を埋めてほしい」
 念願通りに、らいげんさんは生をまっとうした。肉身のままで悟りを開いて仏になる・・・即身成仏されたのだ。そこで、村人たちは石を刻んで供養したという。
 後年、22枚の板碑など貴重なものと、小さな仏を発掘した。だが月日の流れは無常・・・。板碑一枚(南北朝時代の逸品)は国立博物館に保存されているが、外は散逸して、行方知らずとなってしまった。
 今、ヤマンネ宅の庭奥に五輪塔と石仏(写真15)がある。当時発掘した石仏だそうで、中丸正義さんは水と花を欠かさずに祀っておられる。拝ませていただいたとき、この風化した痛ましい石仏がらいげんさんかも知れぬと、心をよぎった。
6 八坂神社・新井先生碑・境川改修記念碑
八坂神社 新井先生碑全景 新井先生碑
 坊ノ窪の最南部、入村との境には、「八坂神社」(写真16)が鎮座している。
深瀬橋 北部のはずれ、森下集落との間には、「新井先生碑」(写真17、18)が暗い森中に立っている。
 この地(深見2016)には深見学校が建てられ境川改修記念碑ていた。明治12年初代校長を務めたのが、新井蔵之助である。当時、上等・下等の4年ずつの修業年限であり、この学校に通ったのは、要石・入村・坊ノ窪・島津・一ノ関の集落の子たちだ。この碑を建てたのは大正7年で、深見学校で学んだ人たちの力によるという。
 東を流れる境川に「深瀬橋」(写真19)が架かっている。深見と境川改修工事碑横浜市瀬谷区を結んでいるから「深瀬」と呼ばれているのだろう。東へ渡ってすぐ目に付くのが、3メートルもあろうか、高い石塔「境川改修ならびに土地改良事業竣工記念碑」(写真20、21、22)である。

 『……古来この川は川幅狭く且屈曲甚しく流域の耕地は僅かの降雨にも氾濫、湛水数日に及び其の被害は甚大なるものがあり而も之を灌漑に利用する手段、施設に並々ならぬ苦労があった。年毎の旱害の面積も又多く我等の父祖は宿命として泣く以外に手段はなかった。……』

 昭和28年、蹶起(けっき)団結して嘆願陳情を開始し、取水堰(せき)の整備、農道・用排水路の整備、暗渠(あんきょ)排水・機械揚水施設を設置するなど、完成したのは同44年暮れであった。
 大和市深見地区坊ノ窪集落を散策した小半日、なぜか無性に楽しかった。坊ノ窪の四囲を巡って、八坂神社・新井先生碑・境川改修記念碑を拝見した。集落内では、お稲荷さん・お地境川改修記念碑全景蔵さん、道祖神・小祠に出逢(であ)った。お家の庭には、屋敷神・稲荷社が多く、お墓にも小祠が大切にされている地区だ。大和市深見地区の坊ノ窪には、石に刻まれた神仏が住まっているのだ、祈りの絶えない人里でもあるのだ、そんな思いに捕らわれてきた。
 ふるさと原点を見失っている自分に、突然、気付かされた。無性になにかしなければと、気忙しく前屈みに坂道を上った。
 これからも歩き神の誘いのままに集落を散策して、自分を見詰めることを、心習いとしたい・・・、境川を背に坊ノ窪の坂をのぼり上り、考えていた。
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