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やまと歴史散歩 その5

山田橋・坂・括られたセーノカミ
 〜ダイジェスト版〜

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 民俗学者・柳田国男の著書『水曜手帖(てちょう)』は、「深見(ふかみ)」から文が始まる。

『深見という村は、現在は相州高座郡大和村の一大字であるが、『和名鈔』(わみょうしょう)にも見えている古い郷(ごう)で、境川の岸に沿うて長さが一里近くもある。私は昔の郷の中心はどの辺かということと、以前の鎌倉道は川のどちら側を通っていたろうかということを知りたいために、今度は小田急線の鶴間の停留所から下りて、東端の一之関という部落に入ってみた。』

 柳田国男が立った、大和市東辺の「一ノ関」集落(略図A地点)に境川から入って突き当たる三差路には道祖神が路傍に立っている。
 男女の像(写真1・2・3)の道祖神は、往来の車両が跳ね掛ける土砂のせいか、土汚れがひどい。
 柳田国男は付近の景観を『四五町歩の稲田』と記したが、今は東名高速道路が掠め通り、その広さは実感できない。
 境川に架かる橋が古来有名な「山田橋」(略図B)だが、現在親柱に掲げられている銘版は「上瀬谷橋」(写真4)となっている。山田橋の名は消えてしまった。
 その経緯とは、
・境川に架かる橋の施工・・・両市が費用を分担
・橋施工の担当・・・上流から順に交互分担
・山田橋の担当・・・横浜市
・改修後の名称・・・改修担当の市が決定
 平成元年に新橋が完成し、横浜市側の提案に大和市が合意し「上瀬谷橋」と命名されたのである。
 境川に迫(せ)り出した城山(=一ノ関深見城・略図C)は、15世紀半ば、山田伊賀守(いがのかみ)入道藤原朝臣経光(つねみつ)の居城であったとか。当時は、現大和市の一部と横浜市瀬谷が一つの「山之内荘世野の郷」であったという。
 妙光寺(みょうこうじ)の鐘楼には、因縁の鐘(写真5)が吊されている。経光が賭(か)け碁に勝って賭けていた万年寺(まんねんじ)の鐘を得て、これを妙光寺へ寄進したと伝えられている。その万年寺(田園都市線田奈駅北)は廃寺になり今はない。
 経光は牢場(ろうば)も造り(写真6「牢場坂」)、川原には長い馬場を設けて戦闘訓練をしたという。
 当時の境川は一ノ関の南でよく氾濫し、沼地を作っていた。深見城はこれを自然の堀として利用した。沼のほとりに10軒ばかりの百姓を移住させ、田を耕作して戦時の食糧に役立てようとした。その末裔が今日の農家の起源の一つでもある。
 深見城は水に囲まれた要害。そこへ武将たちは始終入城した。そんなことから境川を渡る橋を近隣の人々は「山田橋」と呼ぶようになった。「山田橋」は、境川両岸の歴史に密接にからむ名称であった。(写真7 橋の背景は深見城跡)
  
 集落の中にあるいくつかの坂にはだれが付けたかわからないが、古くからの呼び名がある。「大坂」(略図D・写真8)、その先を左へ上がると「小坂」、一本北の坂は「谷戸坂(やどざか)」(写真9)、ずっと南は「四万坂(しまんざか)」、北の城山には「天竺坂(てんじくざか)」。
 坂ひとつひとつには違う表情があり、だから固有の名前が付いている。地元の人々には、その名は馴染(なじ)んだものになっている。
 
 丸く彫った穏やかな地蔵さま(略図D・写真10)。80センチはある石像は赤い頭巾(ずきん)を被(かぶ)り前掛けをして、錦(にしき)のちゃんちゃんこを着ていらっしゃる。千羽鶴(せんばづる)が下がって野の花がガラス瓶に挿してある。足元に小石(写真11)が積んであるのは、昔からの信心からであろうか。治癒(ちゆ)を願って小石を戴(いただ)いて帰り、病が治ると小石を増やして地蔵に捧(ささ)げる風習である。
 周囲の文字から、相州高座郡深見村一ノ関講中が享保3(1718)年霜月13日に像立したものと分かる。
 一ノ関集落は急斜面をくねりながら、3本、4本と下る坂があり、どの小道にも道祖神や地蔵さまやお稲荷さんが祀られている。(略図参照)
 
 天王さまと地元では呼ばれている八雲神社(略図E・写真12)が谷戸坂にある。本殿脇(わき)、椿(つばき)などの木立の許(もと)に石仏たちが、鉤(かぎ)の手に曲がってうずくまっている。その特徴を強いて書くと次の通り。
(番号は向かって右から左にかけての順序・写真13参照
A 庚申(こうしん)塔(写真14)青面金剛(しょうめんこんごう)立像。大和市で最古の青面金剛像。天和4(1684)年。
B 庚申塔(写真15)青面金剛立像で、日と月が象(かたど)られている。
C 庚申塔(写真16)下にはミザル・キカザル・イワザルの三猿がうずくまっている。
D 庚申塔(写真17)青面金剛立像 Bに似た像。
E 庚申塔(写真18)大正9年11月吉日に一ノ関講中によって建てられた新しい塔。
F 地神(ちじん)塔(写真19)文字『地神塔』と表記された文政11(1828)年8月像立のもの。
G 石祠(せきし)(写真20)大和市域では最古の石祠。明和3(1766)年7月吉日に造られた祠。
 集落では、お互いをイエナで呼び合う。由来は家業にまつわるものや隣同士の位置からくるものなど、さまざまである(略図参照)。
 「シモ」(略図14)のイエナを持つ、小林峯太郎家では数体の石仏を祀(まつ)っていた。屋敷東の坂の登り鼻(略図F・写真21)である。
 ブロックで囲まれて、石仏たちが安置されている。中には、寛延3(1750)年に像立した弁財天が五輪塔などと身を寄せ合っている。この石群れの中に奇妙な石塊がある。傷んだ五輪塔の上部に、2個の球体を繋(つな)いだ石塊が載せてある。太い針金で括り上げられている。石は黒々と焼け焦げている(写真22)。
 この地域では、小正月に火祭りがある。道祖神など石の神を中にして、ご用済みのお札(ふだ)や門松や注連縄(しめなわ)を積み上げて火を放つ、伝統行事である。その火中の神としてこの石塊は役を果たしているのだ。この括られた神はセーノカミと呼ばれ、セートヤキの折に火中に投じる神だという。
 セートヤキは下講中(略図11〜16)、上講中(略図1〜10)という集落の中のブロックごとに行われている。この祭りが終わると、真っ黒に焼けたセーノカミは当番の家2軒が持ち帰り、丁重に祀る習わしだ。
 2002年1月14日(月)のセートヤキの場所は八雲神社境内(写真23)。何代もの間続けてきた田の中では、セートヤキはもう出来ない。東名高速が田圃(たんぼ)を抜けるようになり、田の小径(こみち)のアスファルト舗装が火で溶けてしまうからだ。
 セートヤキでは上新粉で作った団子を木枝につけて、あぶったりもする(写真24)。焦がさないで上手に焼くのは見た目よりずっと難しい。
 正月飾りの注連縄・門松・達磨(だるま)などを火にくべると炎が勢い良く上がる。
 以前は上下2講が2か所で行っていたが、今はこの八雲神社1か所になり、稲荷講も春秋2回だったのが春2月の稲荷講だけになった。伝統ある講中の行事も消えて行ってしまうのだろうか。
 火中からは針金で括った何代目かのセーノカミ(写真25)が取り出された。
 
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