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やまと歴史散歩 その4

渡辺崋山と大山道を歩くA
 〜ダイジェスト版〜

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渡辺崋山と大山道を歩く1(ダイジェスト版)
 江戸から相模の国に入った渡辺崋山(1793〜1841)の旅は、いよいよ旅の目的である「お銀さま」のもとへ向かいます。
 「お銀さま」は、相州高座郡早川村(現綾瀬市)の人でした。三州田原藩の第11代藩主三宅備前守康友の侍女となって、崋山の主である友信を出産しましたが、直後に実母が急逝し、故郷に戻っていました。
 その頃崋山は14歳、お銀さまは21歳でした。25年後、そのお銀さまを訪ねて大山道を行く崋山の旅は、主のためだけでなく、崋山自身にとって慕情の旅だったことでしょう。

 下鶴間村の大山道は、『新編相模国風土記稿』に道幅四間(7.2メートル)とあり、今も昔もほぼ同じ幅です。しかし、道中の風景は大きく異なります。
 今の鶴間駅の近くでは、「鶴間の原」で畑に精を出す農民に出合い、丁寧に桑の名「柘」「桑」や、養蚕によい種類を教えてもらったことが書かれています。
 また、「鶴間原」は柴胡(さいこ)が多く、「柴胡の原」とも呼ぶことと、晴れているので、箱根・足柄・長尾・丹沢・津久井の山々がいよいよ近くに見える、という記述もあります。
 「柴胡」とは、いまはほとんど見られなくなってしまった植物の名前です。背丈は2尺ほどで、枝先に薄い黄ばんだ粟粒ほどの花群をつけ、清楚さを感じさせる野草です。
 昭和2年の絵図(『神中鉄道沿線案内図』)を見ると、「大和駅」と「相模大塚駅」の間に柴胡ノ原とあります。崋山が見たであろう、腰下くらいの丈の柴胡が見渡す広野に一面に広がっている風景は、この頃までは見られていたようですが、柴胡を野草として見ることができない今となっては幻の風景です。
 大和市西端、今は西鶴寺と大和斎場が林の中に建っているあたりが「水の牛王(ごおう)」の地、下鶴間村・上草柳村(両村現大和市)・栗原村(現座間市)の三村の境だったようです。
 ちょうど崋山がこの地を訪れた頃に編纂された地誌調査報告書『新編相模国風土記稿』には「水牛王」の地名について下記のような記述が見られます。
1.「三都乃古和宇」(みつのこわう)と読む。
2.下鶴間村では三の郷(ごう)をなまったのだという。
3.上草柳村では、熊野の牛王が流れ来たことがあってこう唱える。
 
 「三つの郷」(村)という解釈よりも、「水の郷」のほうが妥当な解釈のようです。三か村のはずれで、上草柳から下草柳にかけて南へ流れる引地川の源流であり、水の溜まる沼もあり「水の窪」だからともいえます。
崋山のたどった大山道 国道246号線は、江戸時代の大山道(矢倉沢往還)に近いものの、東京青山通りや玉川通り、川崎・横浜・町田を抜ける辺りはあまり原形を残していません。それに比べると、大和市を横切る部分はほぼ完全に昔ながらの道筋です。
 大和市内の大山道は下鶴間・鶴林寺西の坂上の「まんじゅう屋」から小園の北端「赤坂」までの7キロは、左右にやや揺れるくらいで、南西を指すコンパスのようにまっすぐ伸びています。246号線はこれに沿って作られました。しかし、「水の牛王」からは南にそれて曲がっています。これは、第二次大戦時に広大な高座海軍工廠が設けられ、迂回せざるを得なかったからです。
 現在、西鶴寺前の大山道をたどると、雑木林に入りそして大和厚木バイパスにとざされてしまいます。

 相鉄線「さがみ野駅」を左手に見て、「かしわ台駅」方向に進むと、にぎやかな商店の建て込んだ交差点「大塚本町」に出ます。下鶴間村・上草柳村・栗原村の載る大きな台地を横断してきた大山道は、尾根沿いに高度を下げて大塚に至ります。仮に大塚で目久尻川の谷に下りると、谷の屈曲に左右された悪路になってしまいます。これを嫌ったのです。
 大塚はかつては大きな塚があった所です。源頼朝時代にあった激戦の戦死者を葬った塚だったそうですが、今は墓標も塚の姿も見ることはできません。
庚申塔 庚申塔(アップ)
 「かしわ台駅」手前の踏み切りを北へ越えた三角辻には道祖神を見ることができます。さバス停「赤坂」の石像らに進んだ先に、246号線に向かって立つ小さな石像の群れもあります。さらに国道を離れた草の中の小径には珍しい庚申(こうしん)塔もあります。側面に『西 あつぎ 大山 東 江戸 道』と刻んであり、いかにも江戸時代の大山道を思わせる庚申塔です。ですが、246号線からは外れており、この小径が大山道だったのかどうかは定かではありません。
 このような道をたどり、やがて崋山は分岐点「赤坂」(右写真)に出ます。
 道中でお銀さまの消息を尋ねながら、この赤坂で左南方へ大山道を逸れて、いよいよお銀さまの住んでいた小園村へ向かいます。

 古東海道(左下写真)といわれている竹藪に続く道を探り、高見から南の村落を見下ろす子の社に至ります。このあたりで、崋山も記録している延命地蔵堂(バス停「小園団地入口」・右下写真)を見つけることができます。明治期までお堂は寺子屋として近くの児童教育に使われていたそうです。
 
古東海道 延命地蔵堂
小園村略図(オリジナル) 小園村略図(現代語訳)
小園村略図(左:オリジナル/右:現代語訳)

 そこからお銀さまのもとまではもうすぐです。
 崋山は、妖しい洞穴を潜ると、そこには伝説の地武陵桃源郷のような世界が広がっていた、先代の子孫たちが現世とは関係なく幸せに暮らしている風情であった、と記しています。この世を離れた桃源郷のような村里で、崋山はお銀さまと再会を果たしました。
 25年の歳月は、共に容貌を変えてはいるが、しかし確かめあって互いを認めるのにそう時間は掛からなかった、と言います。
 崋山は、隣の早川村から駆けつけた実父の幾右衛門も交え、お銀さまとのランチを堪能した後、夕方には村人に見送られて小園村を後にします。
絵図 左:民家の外観 右:会食風景(左から幾右衛門、お銀、崋山)
絵図外観 絵図会食
 お銀さまの墓(下写真)は、延命地蔵堂前のバス停から一つ先の「新橋」にあります。目久尻川に近い小高い丘に、婚家の一族たちの墓石が草地を囲んで並んでおり、その中のひとつがお銀さまの墓です。墓前には竹筒とガラスの小さな空きビンがある。中にだれが挿したか野の草が揺れて、冷たい墓石の上には8,9枚の銭が丁寧に置かれています。
お銀さまの墓地 お銀さまの墓石
 崋山が大和周辺を旅したのは、画家としての道を放棄せざるをえなくなったころです。やがて海外諸勢力に対する知識を得て大事に着手していくことになりますが、その間の短い平穏な時の旅でした。幕政批判を問われて囚われ、蟄居の内に自決するのはこの「游相の旅」10年後のことです。

 崋山が旅した大山道はその名の通り、人々が救いを求めて大山に詣でるための街道でした。さらにはその先にある富士山に参詣する道でもあったのです。旅人の目の前には、常にこの両山が美しくそびえていたことでしょう。
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