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やまと歴史散歩 その2

公所 アクタ川と神の岡
 〜ダイジェスト版〜

じっくり版は、文章中心の構成になっています

テングノハナ位置図
鶴間橋

 大和市の北端から見て境川の左岸、鶴間橋の辺りにぽっかりと窪んだ空地が50メートルも町田市内に突っ込んでいます。町田側から望むと、定方寺の建つ高みが天狗の面、川の流れが天狗の鼻に見えます。この地点は川の改修前、『テングノハナ』と呼ばれていました。
 くねくねと流れる境川は、改修されるまでは「アクタ川・アバレ川」などと呼ばれ、たびたび氾濫して家や田畑を押流していました。『テングノハナ』は当時の「アクタ川」の姿を彷彿とさせる場所です。
古文書 右から4行目、「舞神社」を何と読むかわかりますか?
 これは、古木家文書「相模国旧社北条神名録」の一部です。文亀3(1503)年11月、北条早雲が相模国にある神社名を書き留めさせた記録の写しです。
 「」は、「つる」と読みます。この舞神社が今の浅間神社鎮守と氏神と氏子の関係ですから、16世紀初頭には、社があったことが分かります。
 「浅間神社」は、冨士信仰がはやる江戸時代に故あって、改称した結果と思われます。
舞神社が今の相模原市「上鶴間」大和市「下間」町田市「鶴間」など、農村地域の総鎮守であったのです。江戸時代の地元の文書では、下鶴間村をすべて「下間村」と書いています。「つる」は、鶴やなどとは別に、「高」を偏にして鳥と書いたり、はげしい・早いを意味する「雨冠に隹」を偏して鳥と書くなど、いろいろです。意味はそれぞれ違いがあるようですが、でも、下「」間村と統一されていたのか、なぞですね。
富士塚 江戸時代、富士信仰が盛んになった時期には、関東一円いたるところに「富士塚」があったそうです。
 写真もそんな「富士塚」のひとつ。浅間神社の中に今もたたずんでいます。
 古い文書によれば、浅間神社一帯のこんもり茂った森林地帯を「富士山」と読んでいた時期もあるようです。
 ご存知のように、江戸時代には富士山の噴火があり、その降灰による影響はこの地域にも大きくあったようですから、地元の「富士山」に詣でる当時の人たちの信仰心がしのばれます。
浅間神社総鎮守位置図
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