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| 〜じっくり版〜 | ||
内 藤 敏 男 |
ダイジェスト版は、写真中心の構成になっています
| テングノハナ | |
| 奇妙な土手に出くわしました。大和市の北端から境川の左岸を散策していて、鶴間(つるま)橋が架かる地点で、首をかしげてしまいました。ぽっかりと窪んだ空地が50メートルも町田市内に突っ込んでいる、窪地斜面はしっかり石積みしてあり土手上には竹藪が茂っている、ゆるやかなフック曲線を描くと、鶴間橋を通る主要地方道藤沢・町田線で曲線は消え込んでいるのです。 この地点は川の改修前、テングノハナと人々は呼んでいたそうです。町田側から望むと、公所(ぐぞ)地区の定方寺(じょうほうじ)の建つ高みは天狗の面であり、川の流れは天狗の鼻。道はその鼻の先で相州武州を境する境川を、昔、渡っていました。境国山定方寺のある公所は天狗の隠れ里か、東の武州・江戸方向に天狗は長い鼻をツンと突き出しています。 |
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![]() 鶴間橋付近 |
![]() 『テングノハナ』 |
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| アクタ・アバレ・境川 | |
| SSssSsS……、羊腸に似た屈曲を重ねて、以前の境川は流れていました。テングノハナはその一例です。左右にくねる川床は暴れ川の証拠でもあります。 昭和28年測量の「大和町全図」を広げると、大昔からよじれ流れる川の姿を見ることができ、唖然とします。相模原を南流してきた川が当時の浅間神社の北で跳ね返り、公所の岡の縁に沿って東流しすぐ南に流路を転じて、またくねり曲がり流れていきます。カウボーイを振り落とすロデオの荒れ馬のような軌跡を、川は描いているのです。 江戸時代、公所の名主だった古木昌子さんの家には、多くの古文書があります。文化13(1816)年3月の『天文方書上(てんもんがたかきあげ)』には、「当村境川アクタ川と云」とあります。激流になると流れを変えて、家も田畑作物も押し流し、日照りが続いて涸れると、たちまちアクタを深く折れ曲がる岸に散乱させるのか。現在、市の辺縁の林に放置されている、朽ちた自動車やオートバイ、アウトオブデートな電気器具や家具類の風景を連想してしまいます。あるいは悪太郎の「アクタ」か、悪さを欲しいままにする暴れ小僧を言ったのでしょうか。公所在住の佐藤利雄さんによると、かつては「アバレ川」と呼んだものだとか。 テングノハナを斬って落として完成した境川改修事業。川水をなだめなだめて下流に流す工事は、ゆるやかな円弧の連続する河岸風景を造っています。短絡した新しい境川を鶴間橋から見下ろして、「アクタガワ」・「アバレガワ」と口にしてみると、……三百年ほど前、氾濫に難儀して川岸から岡へ移り住んだ定方寺と村人の姿が、あぶり出しとなってきます。 |
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| 鎮守さまと氏神さま | |
境川を挟んで、上鶴間・下鶴間・鶴間と名の付いた村落が広がっています(相模原市南部・大和市北部・町田市西部に相当)。この3か村は南北7キロ東西4キロほどの長方形を形作っていて、中程を境川が流れ、中央部には一番高い岡が座っています。どの村落でもそうであるように、鶴間でもこの100メートル弱の岡の上に神が祀(まつ)られました。3か村が崇敬する「鶴舞神社」です。文亀3(1503)年、北条早雲が作らせた『相模国旧社北条神名録』(古木文書)には、鵜野森(うのもり)・鶴舞(つるまい)・深見(ふかみ)の3社がこの近辺の神社として記載されています。鶴舞神社の創立を 伝える文書類はないが、神名録に登場するからには、新参の社でないことは確かです。一方、公所の子之社(ねのしゃ)と住吉社(すみよししゃ)は、鶴舞神社よりもさかのぼる年代からあった古い社(やしろ)。地元の社として、まず一集落の誕生の時から村人たちは社を建てたはずだから。 ひとかたまりの氏族が1つの氏神さまを持ち、これを縁(よすが)に営み暮らす、のちに同族 が増え農地も広がり地域が発展していき、ほかの氏族たちも集まり集落は大きくなる・・・しかし最初に建てた氏神さまを共通のウブスナとして崇敬し続けていく・・・。これが個々の集落の持つ郷社の姿と思われます。公所では子之社・住吉社がこれに当たるでしょう。同様の自然環境をともにするいくつかの郷社の氏子たちは、さらにひとつの鎮守さまを共有した・・・数集落・数大字の規模で一つの神社を造った・・・。これが総鎮守であり、鶴舞神社に相当します。 |
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| 最高所に富士塚を盛る | |
| 総鎮守鶴舞神社の建つ岡の頂上からは、大山・丹沢の山並みが西に望め、その山塊の上に冨士が遠望できます。 江戸時代に富士信仰が盛んになります。信仰団体「冨士講」の開祖は長谷川角行(かくぎょう)(1541〜1646)といい、冨士の人穴で断食・爪立・不眠の修行を積んで、冨士の仙之大菩薩を造物主とする教義を布教したことに始まります。 このころ、冨士詣が盛んになり、各地では小富士を築いてこれに詣でることがはやります。江戸には数十の富士塚 が雨後のタケノコのように生まれたといいます。江戸切絵図「内藤新宿千駄ヶ谷辺図」では瑞圓寺の境内に寺よりも高く富士塚が描かれているし、「大久保絵図」の西向天神境内にも一際高く「不二」がそびえ、宝泉寺には「高田冨士」という名所が書き込まれているといった次第。だから、切絵図の絵図1枚に、1つ2つの富士塚を見付けるのは意外に容易なこと。まったく、驚かされます。宝永4(1707)年、冨士の中腹が大爆発して、こぶのような宝永山が誕生したことがあります。この時、関東一円にも多くの灰を降らしました。昼間でも行灯をつけ、笠・合羽姿で往来しなければならなかったと記録されています。村々では降灰を浴び数年間は天候不順となり、凶作が続きます。しかも川流が変わったり川床が埋まるなどして、冨士噴火の難儀は多くの百姓を襲いました。 なぜか、この宝永4年、公所の総鎮守を再築しました。神社に残る棟札には「宝永四年」「浅間(せんげん)神社」と書かれています。この時、神の加護を一層高めるために、「鶴舞神社」に冨士浅間を勧進し、社名も「浅間神社」に変えたのでしょうか。そして宝永の冨士大爆発の降灰を使って霊験あらたかな富士塚を造ったとも考えられます。 この浅間神社には大小二つの富士塚が築かれています。神社跡の岡に登れば、その一つがうっそうとした茂みの下に隠れているのが分かります(写真参考)。現代の開発が進むまでは、もう一つの大きい塚が聳えていたそうです。公所の旧家北島忠義さん(泉の森の郷土民家園へ江戸末期建築の自宅を寄贈)は、回想します。 「6〜7メートルはあっただろう、傾斜の急な塚だった、這い登って頂上から北を眺めやると、周りの高木の梢を越えて、広々とした相模原が見渡せたものだった」 ピラミッドでも造るよう、多くの農民の素手が大量の土砂を遥か下から担ぎ上げ、近在にない「富士塚」を造った・・・。その労苦や冨士参詣(さんけい)の出来ない人たち(女子と多くの農民たち)がこの富士塚に詣でて幸を願った信仰も、しのび思われます。 |
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| 富士山のあった公所 | |
| 古木昌子さん所蔵の江戸期の文書を拝見すると、「冨士山」の名が公所の地名として幾度か出てきます(「山」とは平地にこんもりと茂る森林を指していう言葉)。文書とは境川の堰(せき)を修理する時、工事の材料である木を公所の「冨士山」を伐採するかどうかで、公所と目黒が争う文書です。また、下鶴間大山道に面する長谷川賢太郎さん所蔵の古地図(万延元年『下鶴間絵図』)には、「字富士山」と地名が書き込まれています。位置は浅間神社の南です。 考え合わせると、浅間神社あたりの森林を、「富士山」と呼んだ時期があったことと、鎮守の森辺りはかなり広い樹林帯であったことを推定させます。 富士塚を峠として道が南北へ通っていました。鎌倉・八王子間の街道で、今の16号線に近いルートです。冨士浅間に詣でる道であることから、別名「フジケードウ」と呼んでいたと、公所在住の佐藤利雄さんは記憶しておられます。西にも細い坂道があり、谷戸川近くに庵(いおり)を結んでいた神主古木宮内が、浅間神社に通った急坂なので、「宮内坂(くないざか)」と人々は呼んでいたともいわれます。 今使われてない地名や道の呼び名も、掘り起こしてみると、時代時代のそこでの暮らしが分かるような気がします。(未完) |
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| 制 作/(株)永屋 大和市中央林間4-27-3 |
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