ホーム楽譜浄書>2. コンピューター化以前の楽譜浄書(2)

2. コンピューター化以前の楽譜浄書(2) 



 日本での「スタンピング」に対して,クラシック音楽および故郷である西欧では,伝統的に「彫金」によって浄書譜が作られていました。彫金による浄書の歴史は,16世紀後半(ちょうどJ.S.バッハが生まれた頃です)にまで遡ることができるそうです。
 具体的には,銅板に,彫刻刀のような器具で五線を彫っていったり,音楽記号の形をした金型をハンマーで打ち付けたりして楽譜を作っていました。ヨーロッパにおいても,浄書版下の製作がコンピューターに取って代わられるようになったのは日本と同様で,21世紀に入った頃には彫金による浄書家はすべて引退してしまったといいます。
 金属や石などに彫刻することを,英語で“engrave”という動詞で表します。このことから派生して,楽譜浄書のことは“music engraving”,楽譜浄書家は“(music) engraver”と表現されており,実際の作業コンピューターに置き換えられたとしても,彫金による楽譜浄書の歴史はことばのなかに残っていくことでしょう。

 ヨーロッパのなかでも特に浄書の技術が発達したのがドイツです。ドイツは欧州随一の職人気質の国として知られていますが,世界的に浄書文化が発達した国が,同じく職人文化を持つ日本とドイツだったというのも大変興味深いところです。
 ドイツの数ある出版社のなかでも,読みやすく正確な楽譜として世界的に定評がある出版社にヘンレ社(G. Henle Verlag)があります。実は,私はほかの浄書家の方とともに,ミュンヘン市にあるヘンレ社の本社社屋を訪問したことがあるのですが,ここに掲載している写真は,そのときに撮影したものです(クリックすると拡大します)。彫金による楽譜浄書の雰囲気を少しでも感じていただければと思います。

彫金浄書写真1  彫金浄書写真2  彫金浄書写真3  彫金浄書写真4

 私が浄書の仕事を本格的に始めたのは21世紀に入ってからのことで,これまでで述べてきた旧来の楽譜浄書(コンピューター浄書に対して,しばしば「手書き浄書」と呼ばれます)の作業を実際に目にしたことはありません。ここまで私が述べてきた内容も人づてに聞いた内容ばかりです。
 私が初めて手書き浄書について話を聞いたときにそうだったように,この文章を読まれた方も,ほんの10数年前まで,あらゆる楽譜が,スタンピングにせよ彫金にせよ,地道な手作業によって行われていたことに大きく驚かれたのではないでしょうか。それほどまでに,完璧に均整の取れた美しさが,手書きの浄書譜にはあるのです。

 この文章を執筆している2009年の時点で,楽譜浄書は,99.9%がコンピューターによって行われるようになったと言って良いでしょう。コンピューターですと,音符などの修正はもちろんのこと,レイアウトの変更なども容易に行えるようになりました。また,専門の器具や長年の修行の必要もなく,手書き時代に比べると浄書を手掛けることに対する敷居も低くなりました(かくいう私も,コンピューター浄書が存在しなければ,浄書家としての道を歩むこともなかったでしょう)。少ない初期投資で楽譜出版が行えるようにもなり,多種多様な出版物が世に出るようになったことも,大いに喜ぶべきことです。
 このように,音楽出版業界に大きな福音をもたらしたコンピューター浄書ですが,一方で,浄書の技術そのものは,完璧な手書き浄書には,未だ追いついていないのが実情です。ソフトの性能もバージョンを欧ごとに進歩してきましたし,ソフトを扱う上でのノウハウも年々進歩してきています。それでも,人間の視覚上の錯覚にまで考慮された緻密なスペーシングやレイアウトにを行うには,とてつもない手間が掛かってしまうのが実情です。表現を変えれば,コンピューターを使って,手書き浄書に「追いつけ追い越せ」ということを日々追求し続けているわけです。

 現在の音楽文化の隆盛の影には,まさに縁の下の力持ちとして出版業界を支えてきてくださった多くの浄書職人が存在してきたこと,そして,道具こそ変わったとしても,先人が培ってきた浄書の技術や伝統を,我々浄書家はしっかりと受け継ぎ,さらに次の世代に繋いでいく必要があると感じています。