宮腰信次郎は、明治期の検事・法律家、起業家、大正期の教育者として今後研究が進む人物である。
長男は宮腰千葉太は、フランス、アルゼンチンの外交官、ブラジルの日本人社会における戦後認識派のリーダー。
両者の写真を期限限定で公開する。(データ量が多く、重いです)
| 趣味・生活・研究の覚え書き | ||
2008.12.21(日)
◇ガルシン『あかい花』(神西清訳、岩波文庫、1937年)
狂った人を描写
◇ゴーゴリ『狂人日記』
◇チェーホフ『黒衣の僧』
著者は医師であり結核患者であった
◇チェーホフ『六号室』
◇ギリシア悲劇作家エウリピデス『バッコスの信女』
◇西鶴『好色五人女』
狂気が他者に与える影響
◇歌舞伎「高時」
アルコール中毒で幻視・幻覚によりカラス天狗の舞を見る
2008.12.17
KA-VK-AT1 KA-VK-DM2U 取り替え
「人間誕生」入手、未見
津島佑子「林間学校」、内容は?!
S氏、学童保育とHP、ミカン
平和堂、4件
論、構成、テーマ、時間
飲むヨーグルト必要
アルバム、2008.2006
5万。12万。A-F。茨城、五浦。渥美半島。京都。歌舞伎。
配達記録、ビデオカメラ
富浦海浜学校、三津浜学園、神戸竹馬林間学校、蔵王学園、相模保育所、宇佐見学園、沼津学園、千本松原林間学校、雀のお宿、日本八景、学童養護協会、修養学園、大学医学部、私人、医師、実業家、団体、八瀬学園、人物
2008.12.14
うず潮、1964年吉永小百合主演
林芙美子原作とのことで、林作「うず潮」の映画と思ったら、まったく別の作品であった。
林作「うず潮」には、二宮町の軍事保護院相模保育所、小児科医杉田鶴が出てくるのだが。
別の物語であることを知ることができて良かった、とする。
吉永が初々しい。うどんを食べる場面が沢山あった。タコの天ぷら入りのうどんとはどんなものか
ギルバート・グレイプ、2度目見る。
いい人になりたい、と言うギルバート。
自分の夢は語らず、家族の幸福を語るギルバート。
あなたになら言える秘密のこと、これも2度目見る。よく分からない部分があるため。
聴覚障害の描き方が現実的ではない。補聴器をつけないと、騒音が激しい職場でも音が聞超えない。でも補聴器をつけると電話を聞けて、食堂の別のテーブルの会話を聞ける。そういった聴覚障害はないのではないか。クロアチアの戦場のホテルで兵士にレイプされるときに、耳元で「ソーリー」と謝られた経験を語る場面がある。肉体的にも精神的にも耐えられない状況において「音を切る」ことができるようになったの、ということを描いているのだろうか。また、その状況で自分の中に他者が生まれ、多重人格的な状況となったのか。性的虐待で多重人格となる、といったことを聞いたことがある。そういった状況か。
2008.12.10
宮腰信次郎、宮腰千葉太の写真
宮腰信次郎は、明治期の検事・法律家、起業家、大正期の教育者として今後研究が進む人物である。
長男は宮腰千葉太は、フランス、アルゼンチンの外交官、ブラジルの日本人社会における戦後認識派のリーダー。
両者の写真を期限限定で公開する。(データ量が多く、重いです)
http://members.jcom.home.ne.jp/kiri-n/miyakosi-pic.htm
2008.12.8
映画「あなたになら言える秘密のこと」を見た。失明した男を看護する女性が心を開く云々の新聞記事で見る気持ちになった。ハンナは補聴器をつけている。ハンナは多重人格、自分の中に自分の子どものような他人が住んでいる。「秘密は何か?」と思いながら見る。秘密を語るには、ハンナには聴覚障害、彼には失明が必要なのだろうか。
宮腰信次郎について問い合わせのメールあり。
2008.12.6
横光利一は大学受験の現代文で取り上げられることがあるという。あまりメジャーでないので受験者のほとんどが読んでいなく、過去に出題されていない名文がある。J大で出題されたという。「花園の思想」サナトリウム
熊谷守一
5人の子ども、2人を幼くして亡くし、長女を21才結核でなくす。
死んだ子を描く「陽の死んだ日」。30分描き、絵を描いている自分に気づき、やめた。荒い筆使い。左上から見下ろす父の視線。それは大原美術館にあるという。
熊谷の美術館。
ギルバートグレイプ
見たという人、2人目に出会う。デカプリオの知的障害の演技。印象に残る。
ハッピーフライト
単純に約2時間、飽きずに何となく楽しむことができる映画。
Expressions
しばらく通勤車中が意味ある時間となりそう。ライナーノーツがいい。
2008.12.2(火)
糸賀一雄シンポ
2008.12.1
横光利一「春は馬車に乗って」1916年、を読む。
彼の妻は肺結核。医師にもう長くない、と言われている。やせて、好物も食べなくなる。妻は、何かにつけて夫をなじる。夫は時に諭し、反論する。
死に向かう妻、妻の心と身体に苦悩する彼。彼は妻の看病を、仕事(執筆)もしなくてはならない。
彼は横光自身。横光は病身の妻と逗子に住み、28才で23才の妻を亡くしている。
58才と53才の夫婦の会話ではないのか?と思ってしまう、長年連れ添った信頼と甘えの下に言い合うかのような会話。
病にあって、外の植物は秋から冬。そこにスイートピーが届いた。スイートピーを見た妻は、つかの間の幸福に浸る。春が来た。
結核と死が身近にあった時代のきわめて個人的な会話。
そこに・・・・
2008.11.24
・重松清、カシオペアの丘(車いす)
きよしこ(吃音)
半パンディズ
・三木澄子、遠い花火
・菅原有一、ママもう一度呼んで
・蘭郁二郎、「虻の囁き」「鱗粉」「エメラルドの女主人」「楕円の応接間」
などサナトリウムや転地療養を題材にした作品
2008.11.17
| 1971 | 武田泰淳 | 富士 | 太平洋戦争末期の富士北麓の精神病院を舞台 | 精神障害 |
| 小川 洋子 | 余白の愛 | 耳を病み、心をも病んでいる主人公。突発性難聴の耳は音を判断することができず、心はまた現実と記憶とを区別できない | 突発性難聴 | |
| 小川 洋子 | 完璧な病室 | 弟はいつでも、この完璧な土曜日の記憶の中にいる―病に冒された弟と姉との時間を描く | ||
| ルイ・F・セリーヌ | リゴドン | フランスに侵攻したドイツ軍から逃げる列車に障害を持った子どもたちが十何人か乗っている。 | 知的障害 |
2008.11.16
「ヘルプマン」くさか里樹、2004年、講談社(イブニング」2003年11月号から連載)
高校を留年している恩田百太郎が、特別養護老人ホームでベッドに拘束されている老人を見て介護の世界に入る。失敗を重ねながら、老人とその家族に頼りにされるヘルパーになっていく。
2008.11.3
2008年10月18日小規模研修会の感想
川口幸宏先生の講演「エドゥアール・セガンによる知的障害教育成立過程と「病弱児施療院」(現:ネッカー子ども病院)内の病弱教育学校−フランス社会における近代的福祉・医療・教育の成立の側面から−」を聞きました。私は川口先生から次の2著書を頂いており、講演と著書から得た感想を述べてみます。
***以下はこちらに http://members.jcom.home.ne.jp/kiri-n/seganinp.htm
2008.11.2
大学医学部と病弱教育 眼科において
視覚障害分野において、大学医学部との関係もあったことを、最近の論文から知ることができた。
小林秀之「弱視学級の歴史と今後の役割」特殊教育学研究46(2)、p125-130より
1961年、大阪府高槻市立桃園小学校の分校として大阪医科大学付属病院内の弱視学級が開設された。医学的弱視に対して眼科的な治療を行いながら、同時に視力が回復するまでの間、学習の空白が生じないように学校教育を行うという性格のもの。
小林一弘「南山小学校視力保存学級に関する研究」1984によると
・東北帝国大学医学部、小柳美三
・東京女子医学専門学校、宮下左右輔
・金沢医学専門学校、柴野順吾
・大阪帝国大学医学部、山本脩一郎
これら大学の教授・医師が弱視教育に関心を持っていたことになる。
・佐藤達彌という医師の名があった。北海道大学で医学博士号をとっている
宮下は京都府立医科大学、大阪府立医科大学、東北帝国大学医学部と移っている。その先々で何かやっていないか??
山本も大阪に、大阪に何かないか??
2008.10.26
横須賀の特別支援教育総合研究所に行く。病気や障害の手記を、病弱教育研究室の書架に並べた。自宅では並べら切れない。
日本図書センターで出版した「写真・絵画集成 日本の障害児教育」の「拾遺」をまとめて綴って、同じ書架に置いた。これは結構すごい、病弱教育史のデータベースになると思う。コピーのコピーなので画像がくすんでいるが、知られていない多様な学校、教育施設が満載である。編集に提案した画像で、本に採用されたのは10分の1程度だろう。埋もれた画像を、研究所で見てもらえると幸いです。その中から、研究テーマを見つけてもらうと、なお幸いです。
行き2時間、帰り1時間30分。前回も同じ時間であった。
2008.10.12
サイダーハウス・ルール ラッセ・ハルストレム監督
サイダー(=リンゴジュース)ハウスはリンゴ農家で働く者の寮、そこに雇い主が決めた規則が張り出されている。しかし、そこでのルールは、そこで働いて暮らしている者で決めるべきではないか。たとえ雇い主であっても寮の外の者が決めては、うまく生活はできない。産科医が院長の孤児院。中絶手術に来る女性、出産してその子を残して退院する女性、養子をもらいに来る夫婦。孤児院で生まれ、育ったホーマーは、中絶を行うラーチ院長と対立する。孤児院で出てサイダーハウスで働き、そこの経験で成長する。中絶を許さない法律や自分の考え、サイダーハウス・ルールから学んだホーマーは孤児院に帰る。
サイモン・バーチ マーク・スティーヴン・ジョンソン 監督 アメリカ
映画の冒頭は教会のステンドグラス、キリストの像である。小人症(演じるイアンはモルキオ症のようだ)のサイモンは、自分が障害を持ってこの世に生を受けた意味を考えている。障害のある自分が生きている意味、寿命が短いと感じている自分が行う使命は何か、と。
2008.9.23
今年の研究課題である杉浦守邦氏の研究レビューを書いた。8割程度の仕上がりとなる。
「杉浦守邦による病弱教育史の研究」第1稿
桐山直人
1.はじめに
2.杉浦守邦氏について
3.杉浦守邦による学校保健史と病弱教育史の研究
4.病弱教育史の研究の整理
(1)病弱教育史
(2)人物史
(3)学校保健史
(4)養護教諭史
(5)肢体不自由教育史
(6)戦後学校保健史
5.おわりに
文献
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ETV特集「手の言葉で生きる」の録画を見る。再視聴となる。子どもたちの生き生きとした姿、表情。つくられたドキュメントとしても、魅力ある教育の姿のように見えた。しかし、ろう教育の世界においてはどのように評価されるのだろうか。
2008.9.21
「漂う部屋」吉行淳之介、清瀬病院に昭和28年11月に入院、手術直前
「闘」幸田文、結核
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本日ETVを見る。知人が出ていたのでメールしたが、不達。
Nさま
神奈川の桐山です。T先生の本、放課後研究でお会いしていらい、数年ぶりとなります。本日教育テレビで、H聾学校K先生の日本手話による教育が放送されました。Nさんに、日本手話、たつのこ学園、高橋潔のことを教えてもらっていたので、番組の意図や社会的な意味を考えながら見ることができました。
Nさんが、手話、集会場での手話の歴史の講演で登場されました。K先生とも関わりをもっておられるのでしょうか。この番組が、聾者間、聾教育界でどのような反響を起こしたか気になるところです。
その後歴史研究、進んでいますか?特殊教育学会でも発表されていましたね、たしか。当方は、ボチボチといったところです。
2008.9.21
写真週報、178号、昭和16年
耳と養護教育、との記事。これは大阪の思斉学校の正聴教室。となると、同校は精神薄弱児=知的障害児の学校というだけではなく、養護教育という大きなくくりの中での、障害児教育〜特別教育構想・実践していたのではないか。日本で最初の知的障害の養護学校という評価だけでは不十分、ということになる。検証が必要となってきた。
2008.9.19
高三啓輔「サナトリウム残影」日本評論社、2004
「とらわれの人々」ジョセフ・ケッセル、ダボス療養所
「療養所物語」相羽政雄、私家版、22才で南湖院に
「道化の華」「虚構の春」太宰治、中村恵風園療養所を描く
「春は馬車に乗って」「花園の思想」横光利一、最初の妻キミの長い療養所生活と死
「由比浜随遊私記」山岡謙介、鎌倉文化研究会「鎌倉」第13号、鎌倉海浜院の滞在記録「痴人の愛」谷崎潤一郎、ナオミと穣治が海浜院ホテルに泊まろうとする
「平凡人の手紙」「死とその前後」有島武郎、妻安子が杏雲堂療養所で療養、大正5年亡
「松虫」有島安子、杏雲堂療養所で療養、大正5年亡
「中浜東一郎日記」明治25年11月29日、転地療養
「不如帰」徳富蘆花
「居残り佐平次」古典落語、品川で療養
「幕末太陽伝」映画、佐平次、高杉晋作共に結核
「明治天皇紀」明治9年8月、転地、浴場療養
「百年目の梶井基次郎」菊田均、病気の祖母の口からアメ
光明学校、昭和16年の記事「写真週報」197号
http://www.jacar.go.jp/shuhou/DjVu/A2704701/YA104701/0413/index.djvu
2008.9.15
ジャン=ドミニック・ボービー「潜水服は蝶の夢を見る」講談社、2008
映画の原作に、病院の由来を書いたページがあった。
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凝った装飾を施され、どっしりと落ち着いたその姿。淡いベージュのレンガを積み重ねた、北フランス独特の高い壁。べルクの町と、英仏海峡の灰色の海にはさまれて、病院は、砂浜の真ん中に坐礁した船のようにも見える。最も美しい建物正面の上部には、公衆浴場やパリの公立小学校と同様<パリ市>と書かれている。この病院は、パリの気候では回復が思わしくない子どもたちの小児病院として、第二帝政時代に治外法権の別館という形で建てられ、今日に至っているのだ。
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空気・環境の悪い都会から離れた「郊外」につくられた東京の養護学園、大阪の郊外学舎と共通する立地、そこに19世紀後半に小児病院が建てられたことが分かる。
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戦後、結核に冒された小さな犠牲者たちを受け入れたのを最後に、この海軍病院は、小児病院としての色彩を少しずつ失っていった。そして今ではむしろ、肉体も精神も衰えていく老人患者たちが、ここでその衰えと闘っている。しかしそれも、病院全体を大きなフレスコ画とすれば、そのほんの-部でしかない。 P39
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デュマ「モンテ・クリスト伯」、ノワルティエ・ド・ヴィルフォール、重度の身体障害者として描かれたこの男・・・・・文学作品と障害者像
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聖地ルルドに、巡礼する予定は? P73
19世紀にルルドの泉で聖母を目撃したというベルナデット・スービルー
フランスでは、ルルド巡礼で障害や病からの回復を願う。エディット・ピアフはノルマンディーにあるリジューのテレーズの墓に巡礼した。
2008.9.7
病弱教育史研究、3つの先行研究
@日本病弱教育史 大著
A杉浦守邦氏による、学校保健、養護教諭、肢体不自由教育、人物研究、文部省における特殊教育と体育・保健
B織田真一氏による、病弱教育の歴史研究---それを元に桐山による個別学校史研究(病弱教育)
桐山による研究課題
@病弱教育、個別学校史
富浦海浜学校、八瀬学園
A教育会による虚弱児教育
虚弱児 再度山林間学校
障害児学校-制度外学校
全国と地方のつながり
B日赤による虚弱児童保養所
京都、全国
C小学校令36条但書、家庭修学規定
制度外教育の拠り所
D軍関連団体による病弱教育
三津浜、南勢、蔵王、相模、大阪池田
E大学医学部と病弱教育
東大精神科-修養学院、京大小児科-小児科学校、名大公衆衛生科-蓼科、九大小児科-喘息、肢体不自由
東大整形外科-柏学園、整肢療護園、東大眼科-弱視教育、長崎大学-原爆と子ども
東京女子医専-東星学園、帝国女子医専-鎌倉学荘
F手記を元にした病因別の医療と教育
G文学作品に現れた障害者像
H病弱教育と学校保健、基本文献選集
I人物史研究
宮腰信次郎 別所彰善
遠城寺宗徳 藤井利誉 高塚賢三
戦前後をまたいだ人物 村嶋帰之、重田定正、花岡忠男、積之勝
結核と虚弱児間に関係はないと実証 松田道雄、新井英夫
J白十字会林間学校100年史 2016年(残り8年)
寄宿制小学校30年、虚弱児施設50年、養護施設20年
K海外の病弱教育情報の国内移入
文献、渡航記録
L団体史
学童養護協会、白十字会、林止
M写真集
フランス北部、ベルクの海軍病院
2008.9.1
新井英夫著「肺結核患者の作業療法」秋元波留夫、冨岡言召子「新作業療法の源流」三輪書店、1990、pp207-227
引用文献から新井の論文を見つけた
新井は1950年代に死亡している、とのこと。旧版に新井論文があり、新版にも掲載したのか?謎!
結核と虚弱児教育の関係について、論をまとめたいと思いながら、進められない。
夜11時、教育テレビで高校の同級生のY君が地震の話をしていた。演劇部で作曲、ピアノ演奏をしていた好青年、勉強ができて、今はN大学教授になっていた。気象庁に勤める友人から、映画「日本沈没」にちょい役でY君が出ていると聞いていた、確かめたい。映画が上映された頃、新聞にY君のコメントが出ていた。映画の監修をしている、小松左京の小説「日本沈没」で地球物理学に関心を持った云々。
長男が生まれたその夜、TVを見ていたら、伊豆大島の噴火のニュースで、Y君が噴火の様子を見てきて、興奮気味に状況を語っていた。それ以来のTVでの出会いであった。実際に会ったのは、就職した頃に偶然N駅で、互いに近況をちょっと語ったことを覚えている。
映画 この夏
夏休みのレモネード 白血病のダニー7才とピート8才 これは映画のページにUP
クワイエットルームへようこそ 自殺願望の女性 内田有紀だから、男と別れて、退院して元気になりそうな
潜水服は蝶の夢を見る 脳梗塞の42才の男性 病者の視線が多用される。映画の2時間の中に納めるに、省略が多い
ラブソングができるまで ADHAの31才の女性 軽い楽しめるラブコメ。彼女の生きにくさが所々に描かれている。映画のページのUP
アヒルと鴨のコインロッカー これは別視点で見る。
2008.8.31
杉浦守邦による病弱教育史関連研究一覧
を以下にUPしました。病弱教育史研究は、まず杉浦先生の研究を踏まえることがスタートです。
http://members.jcom.home.ne.jp/kiri-n/sugiurarekisiitaran.htm
2008.8.16
キリスト教と巨大聖堂
奈良の東大寺はとても大きい。
近畿地方の古墳は巨大である。
ピラミッドは巨大である。
万里の長城は長く大きい。
ローマ、フィレンチェ等イタリアのキリスト教の聖堂はともつもなく大きく,華麗である。
キリスト教の聖堂に入って感じること。
この聖堂は、その土地の住民の富の再配分の「装置(=仕組み、制度)」ではなかったか。
人口が多く、土地の富が大きければ、それを土地の住民にできるだけ平等に分配するために、巨大な物作りにが必要となったのではないか。
従事する人ができるだけ多くなるようにするには、巨大で、できるだけ手が込んだ(=複雑、華麗)建物を造る必要があったのではないか。
九州に「キリスタン大名」が生まれた。国を治める殿様は、キリスト教に近づくことで、西洋の文化や科学等の知識・技術を得ることができる。だからキリスト教を受け入れた。それは教えられた覚えがある、以前から考えていたこと。
さらに考えたこと、それはキリスト教は、信仰と道徳と元に人々からお金を集めてそれを再配分する「装置(=仕組み、制度)」であり、その装置を手に入れるために、国の殿様はキリスト教を受け入れたのではないか。
戦国大名だけではない。ヨーロッパに広がり、世界に広がったのは、その土地、その時代にない、新しい政治と経済の装置としてキリスト教が受け入れられて歴史があったのではないか。
キリスト教は教育であった。福祉であった。それは分かりやすい。政治であった。それも分かりやすい。
とてもつもなく多量なキリスト教絵画と彫刻。その数からすると、芸術家が描いた・作ったのではなくて、職人が作ったのだろう、と思えてきた。そうだろう、当時は自己表現として絵を描くことなどなかっただろう。大量のキリスト教絵画も、経済活動の一つであったのだろう。
キリスト教は経済でもあった。それに気づく。東大寺、古墳、ピラミッド、万里の長城もまた経済、それも福祉を含んだ経済であったのだろう。
子どもの頃、図書館で見たピラミッド建設を描いた本の絵には、ムチを持った現場監督がいて、その下で奴隷がうつむいて石を運んでいる様子が描かれていた。そうではなく、仕事として誇りを持って石を刻み、運び、人々は職人として胸を張って石を積んでいたのではないか。ムチ打たれて奴隷として酷使されて石を積むのではなく、職人として働いて賃金を得て、その金で家族を養い、できるだけ豊に暮らそうとしていた人々がピラミッドを造ったのではないか。そうでなければ、何千年ももつ、精度の高い物作りはできなだろう。いやいや作った物など、何年ももたないだろう。
人が多ければ、仕事の量もたくさん必要となる。ピラミッドは巨大化し、キリスト教の聖堂も巨大化し、華麗(=複雑、仕事量が多い)になっていたのだろう。
2008.8.13
日本育療学会 小規模研修会
2008年10月18日土曜日 午後6時〜8時
入場無料 申込不要
テーマ
エドゥアール・セガンによる知的障害教育成立過程と
「病弱児施療院」(現:ネッカー子ども病院)内の病弱教育学校
−フランス社会における近代的福祉・医療・教育の成立の側面から−
講師:川口幸宏 学習院大学 教職課程 教授
上記のポスターをHPにアップしました。
ご参加ください。
ポスターはこちら
2008.7.4
「リハビリテーション」誌に書評を書いた。花田春兆氏、最新作。以下にUPした。
http://members.jcom.home.ne.jp/kiri-n/kurohune.htm
2008.5.24
日本推理作家協会編(東野圭吾選)『謎001』(講談社文庫)内
母子像(筒井康隆)アルビノ(白子)
手話法廷(小杉健治)聴覚障害者に関わる法廷
仕事場を解雇された聴覚障害のある青年と仕事場での事故で中途障害で車いす生活となった肢体不自由者
2008.5.6
長尾山8万坪の購入
1930(S5)年5月7日、別所彰善述 「精常余歴」昭和5年5月号 58ページ
昭和元年一二月二五日花屋敷土地会社と此の興生園敷地の売買契約をいたしました当時、無資無力の私が、果して此の大業を成就し得るや否やを皆様から危ぶまれましたが、例のモラトリアム最中に巨額の園債募集tいふ、暴挙(?)を発表したにも係はらず、幸に私を絶対に信じて下さつた篤志会員諸氏のお陰で五月末には予定通りの金が集まり、臨時資金の借り入れを依頼して置いた信託や銀行へ、反対にドシドシ預金をしたので、銀行は大変驚いてゐたさうであります。
精常園実測図
1949(S4)年12月測量
16軒の民家がある
石碑
1929(S4)年4月15日、晴嵐頂上の大自然石に刻せんとす
無牛翁の絶筆、東京美術学校長正木直彦氏のご来園を煩はし文字の配置の御指導を仰ぐ
1931(S6)年5月7日、別所家祖碣の遷碣祭
2008.4.25
宇佐玄雄「神経質の矯正法」
第一報
「京都市児童福祉百年史」の年表で、大正11年の三聖医院の開設と「低能児その他性格異常児の教育治療を行う」という記述に出会いました。−そして宇佐晋一著「あるがままの世界」、玄雄氏著「神経質の矯正法」を入手しました。
「神経質の矯正法」には「三十余年来神経質者の教育治療に従事すると共に、又学校医、幼稚園医として多年学童等の心身の健康に注意し、〜研究〜指導につとめている」との記述がありました。上記百年史の「〜児の教育治療を行う」との記載と合わせて考えると、玄雄氏は三聖医院(病院)の治療の中で、子どもを対象とした何らかの取組みを行っておられたのでしょうか。あるいは通常の診療の中で子どもに関わっておられたのでしょうか。
玄雄氏は、著書「神経質の矯正法」の副題を「神経質児童の保育陶冶法」とされています。「児童、保育、陶冶」といずれも教育的な用語を用いておられます。玄雄氏の教育面におけるお仕事を掘り起こすことで、京都における子どもの病気や障害の治療と教育、また一般児童の健康・保健事業に、新たな歴史的な事実が加わるのではないか、と考えております。
第二報
玄雄医師は子どもを対象とした特別な取組みを行ってはおられなかったことが分りました。しかし、子どもの入院、子どもの治療を行っておられたことが分りました。年表の「吃音矯正並びに低能児その他性格異常児の教育治療を行う」が何からの引用であるか今後調査を進めたいと思います。−「趣意書」ではないことが分かり、調査として一歩前進しました。
「神経質の矯正法 神経質児童の保育陶冶法」の出版は昭和30年で、玄雄医師が亡くなられる2年前です。晩年に出版された本が子どもを対象とした物であり、ご自身が子どもに対して大きな関心を持っておられ、実際に子どもを治療されたいたことが分ります。年表の記述の出典が分ると、どの時点でそのような構想を持っておられたか分るのではないかと思います。
玄雄医師は、大正8年に東京帝国大学精神医学教室の呉秀三教授のもとで研究されています。ちょうどその年の10月、同教室の臨床の場であった巣鴨脳病院が松沢に移転し松沢病院となっています。巣鴨脳病院時代、明治42年に病院内に「修養学院」という教育機関を設けており、松沢移転後も大正12年の関東大震災までは存続した、とされています。玄雄医師は「修養学院」を実際に見ておられた、と思われます。「低能児その他性格異常児の教育治療」という文言から、玄雄医師がご自分の病院設立にあたり、巣鴨や松沢病院の「修養学院」のことを思い出されていたのではないか、と予想していた次第です。
玄雄医師の30余年の医療経験の中で、どのような子どもが対象となり、どのような治療を受けたのかといった観点で、読んでみようと思います。また、昭和17年に橋田邦彦文部大臣と面会しておられるとのこと、ますます教育との係わりを感じ取ることができます。
2008.4.6
太陽の仲間たち−身体障害者とある医師の挑戦−、三枝義浩、講談社、1994年。大分に障害者が働く工場=太陽の家を設立した医師、中村裕(1927〜1984)を描いた漫画である。整形外科医として脊髄損傷者の手術・治療を行い、イギリス留学で障害者のスポーツと社会復帰の現状を見て、帰国後に東京でパラリンピックの成功、障害者雇用の実現を果たした。日本の障害者スポーツの歴史、障害者雇用の歴史において中村裕医師の存在が大きな出発点になっている。医師として治療するだけではなく、患者が仕事を持ち、収入を得て、社会生活ができるまでするまで援助した中村裕氏のことを知ることができる漫画となっている。
作者が参考にした文献は
・太陽の仲間たちよ、中村裕、講談社
・中村裕伝、中村裕伝刊行委員会編
・すすめ、太陽をあびて、きりぶち輝、PHP出版
解説を書いた社会福祉法人太陽の家理事長、畑田和男が引用した文献は
・整形・労災外科、第24巻3号、中村の大分県身体障害者体育協会設立の経緯の中村の述懐
・四国太陽新聞第8号、身体障害者のオリンピックに関するコメント
2008.3.17
九州大学の遠城寺宗徳教授
九大医学部小児科関係の文献
○還るを知る 遠城寺宗徳、九大小児科同門会、昭51
○こどものからだと教育 (家庭教育シリーズ第1集)遠城寺宗徳、大日本女子社会教育会、昭和43年
○ 日本小児医事年鑑 昭和24年度栗山重信・鎮目専之助・詫摩武人、日本小児医事出版部、昭和24年 *これに遠城寺は「小児科随想」と題して、小児科教室の構想として附属施設として、乳児院、託児所・幼稚園、小学校、精神低格児施設(補助学校)の4機関をあげ「当分は実際に付設することは困難であろうから他の施設と特約協力する」と記している。この構想を数年後には内部努力で実際に開始したことになる
○ つくしんぼ(1〜26)九大医小児科学教室二十六冊 1 父母と医師の会 N研届き 不 昭32〜37 *ガリ版印刷の治療教育部の機関誌
○強い子弱い子―育児の医学と教育 遠城寺宗徳、慶應通信、昭和41年
○九州大学医学部小児科教室業績目録 昭和59年〜平成8年 *遠城寺とは時代が異なるが、教育のことを論じた論文がないか、と思って買ってみたが「養護教諭」関連1本あるだけであった
□一生一竿 遠城寺宗徳追想集 1979年
西日本新聞の記者による遠城寺氏からの聞き書きがあり、それに治療教育部やその他、教育関連の項あり。ただし「聞き書き」なので、どのように評価して扱っていいのか、検証が必要。教授時代が時代順に書いてあるので分かりやすけれど。
2008.3.16
○「京都市児童福祉百年史」の年表、宇佐玄雄医師が「低能児その他性格異常児の教育治療を行う」という記述から、三聖病院と宇佐玄雄医師について調べ始める。
○玄雄医師は子どもを対象とした特別な取組みを行ってはいなかったが、子どもの入院、子どもの治療を行っていた。年表の「吃音矯正並びに低能児その他性格異常児の教育治療を行う」が何からの引用であるか今後調査を進めたい。
○「神経質の矯正法 神経質児童の保育陶冶法」宇佐玄雄
出版は昭和30年で、玄雄医師が亡くなる2年前。晩年に出版された本が子どもを対象とした物であり、ご自身が子どもに対して大きな関心を持っておられ、実際に子どもを治療されたいたことが分る。玄雄医師は、大正8年に東京帝国大学精神医学教室の呉秀三教授のもとで研究している。ちょうどその年の10月、同教室の臨床の場であった巣鴨脳病院が松沢に移転し松沢病院となる。巣鴨脳病院時代、明治42年に病院内に「修養学院」という教育機関を設けており、松沢移転後も大正12年の関東大震災までは存続した、とされている。玄雄医師は「修養学院」を実際に見ていた、と思われる。「低能児その他性格異常児の教育治療」という文言から、玄雄医師がご自分の病院設立にあたり、巣鴨や松沢病院の「修養学院」のことを思い出していたのではないか、と予想する。
宇佐玄雄著作
○「癖の直し方」
○「説得療法」
○「神経質の矯正法神経質児童の保育陶冶法」
○「あるがままの世界」
○宇佐玄雄医師は、昭和17年に橋田邦彦文部大臣と面会してる。
2008.3.13
○宮腰千葉太編「その面影」宮腰千葉太発行、1926年
*宮腰信次郎自叙伝、遺稿集、追悼文集
仙台の古書店から購入。山梨英和学院大学、三康図書館にあることが分かっていた本。宮腰信次郎氏のお孫様から貸していただいたことがある。宮腰氏は日本で最初の養護学校=白十字会林間学校を開設し、後に校長となった人。日本のメゾジスト教会を組織上アメリカの母教会から独立に導いた人。明治後期から大正初期の炭坑・鉄道会社の運営にあたった法律家、元検事。宮腰伝を書きたいと思う。コピーではなく、本物を持つことで、宮腰伝につなげたい。
○和田正系「草堂茶話」医道の日本社、1978年
和田氏は日赤千葉支部富浦海浜学校の校医、後校長。千葉医学専門学校卒、東洋医学、漢方に詳しい。その和田氏のエッセイ集。パラパラとめくって、タイトルと内容を見る。富浦海浜学校のことには触れていないらしい。しかし、ご本人の挿絵が多数入っていて、和田氏のことが伝わってくる本となっている。
2008.3.4
○白十字会林間学校
結核予防団体白十字会が1917(大正6)年に神奈川県茅ヶ崎町小和田浜に開設した、体質虚弱又は腺病質の児童を対象とする寄宿制小学校。小学校令第36条第1項但書による「家庭修学」の認可を得たキリスト教に基づく私立小学校で、卒業証書の裏面に「茅ヶ崎町長ヨリ尋常小学校ノ卒業証明書ヲ受クルモノトス」書かれ、小学校卒業が認められた。日本における最初の養護学校である。養護学校が法律上に規定されるのは1941年「国民学校令施行規則第五十三条ノ規定ニ依ル学校ノ編制ニ関スル規定」である。この規定に該当する学校は、規定当時多数あったが、その中で最も古い学校は1909(明治42)年開設の「東京市養育院安房分院」である。しかし同院が小学校としての認可を受けるのが1936(昭和11)年である。法令に基づいた義務教育を履修する学校としては白十字会林間学校の方が古いことになる。このことにより、白十字会林間学校が日本における最初の養護学校となる。
開設・運営の中心となったのは元長崎控訴院検事宮腰信次郎、初代校長に江原素六を招聘した。宮腰による「目論見書」内「本校の目的」には「健康の児童と一緒に普通の学校へ通学せしめて置く時は、肺結核になる虞れある体質虚弱又は腺病質の児童を分離し、教育の傍ら、その身体の健康を恢復し、根本的に結核の伝染を予防するにあり」とある。相模湾に近い松林内に、寄宿舎・校舎・屋外教場・静養舎を配置し、授業は午前中3時間とし、持ち運びができる机・椅子により屋外で学習する時間を設定していた。寮舎は児童の居室が2部屋、そこに1名の寮母を置き、十名前後の児童が生活した。白十字会の会員医師が学校医となり、静養舎に看護婦を常駐させ、嘱託医に地元の医師を充てた。栄養研究所佐伯矩を顧問とし、栄養士を置いた。教育と医療と生活により、健康の快復と結核予防をめざした。開校時は児童数8名、1923年の関東大震災により校舎・寮舎等が倒壊するが復興し、寮舎を増設して1940年には120名を超える児童が在籍した。
1947年に児童福祉法・学校教育法が施行されて白十字会林間学校の医療・生活部門と教育部門を分けて運営する必要性が生じた。1949年に白十字会林間学校の医療・生活部門が虚弱児施設として認可され、教育部門は分離して平和学園小学校となった。白十字会林間学校は現在児童養護施設として同じ場所で同じ名前で存続し、その南隣に平和学園小学校が運営されている。
<先行研究>
・茅ヶ崎の小さな学校−旧白十字会林間学校の三二年−、桐山直人、草土文化、1999年。
<資料>
・その面影、宮腰千葉太、研究社、1926年。
・太陽学校、村島帰之、鳴弦社、1943年。
・白十字会80年史、社会福祉法人白十字会、1990年。
・平和学園50年の歩み、学校法人平和学園、1997年。
○理論實際學校の夏季聚落.
木村泉,高橋與惣共著. 大同館書店, 1927
筑波体、横浜市中央(古川静夫寄贈)
木村:大正8年、東京市衛生技師。大正15年、栃木県学校衛生技師。
高橋:大正8年、新設東京市小梅小学校校長。
大正7年に東京府は夏季聚落に関して訓令
東京府訓令第二十一号(大正七年七月二十五日)
東京市御殿場児童高山聚落、天幕屋舎・消毒用自動車(仏国寄贈)
白十字会林間学校の写真あり
日赤他、小学校独自の夏季聚落の実施があったことを知ることができる
○学校歯科保健史話、榊原悠紀田郎
○子どもの結核、青木正和、森亨
2008.3.3
東京市養育院安房分院
東京市は、1909(明治42)年5月16日、千葉県安房郡船形待町に海浜保養所「東京市養育院安房分院」を設置した。巣鴨分院の児童の中で、虚弱児を転入させて健康快復を待った巣鴨分院に帰還させることを目的とした。この分院設置には、前史がある。東京府知事大久保一は、明治5年に市内に徘徊する「浮浪乞食」の徒二百余名を本郷元加州藩邸跡に収容したことをきっかけに、翌明治6年に常設の救護所を上野護国寺内に設置し、東京府養育院と称し、営繕所がこれを管理した。明治23年、前年の市制施行により東京市が引き継ぎ、東京市養育院と改称した。この時、入所者の3分の1以上が児童で占められていた。児童の教育は早くから課題となり、明治8年には教育が行われていた。明治33年7月、同院医長入沢達吉は、収容児童の死亡者の100分の57が肺結核であるので、衛生上害毒を除去するために海浜保養所の新設を院長渋沢栄一に建議した。同年8月千葉県安房郡勝山町の篤志家広田松次郎所有の民家を借りて「勝山保養所」を設置して、試験的に収容児童の臨海保育を行い、教師岡仁三郎による林間授業などの施設内教育が好成績を収めた。その後明治38年、勝山保養所の成績が良好であったため、東京市が安房分院の設置を決議し、分院として恒久化することになった。これにより1909(明治42)年「東京市養育院安房分院」を設置に至った。
1936(昭和11)年、安房分院は、小学校令第36条第1項但書により「家庭修学」の認可を得た。これにより、安房分院で行われた教育を履修すると、船形町町長が尋常小学校の教科の卒業証明を出すことができるようになった。安房分院が義務教育を行う学校となったのである。1941(昭和16)年4月に国民学校令が施行されて「家庭修学」が認められなくなり、同年9月に館山市との間に覚書を取り交わし、安房分院内の教室を船形国民学校分教室(養護学級)とした。その後制度改革により、名称と機能が変化する。
1942年3月東京市訓令甲14号により「安房臨海学園」、1943年7月東京都施行により「東京都安房臨海学園」、1945年塩原に疎開し、一時東京都は運営を中止する。1946年運営を再開、1948年2月養育院から東京都民生局児童課に移管。1949年児童福祉法に基づく療育施設(←ここ要確認)となる。1955年東京都安房児童学園と改称、1978年に東京都船形学園と改称した。
現在は児童福祉法第41条に基づく児童養護施設、社会福祉法人東京都社会福祉事業団による「東京都船形学園」となっている。保護者のない児童・虐待されている児童・その他環境上、養護を要する児童を入所させて養護し、あわせてその自立を支援することを目的としている。
<先行研究>
・東京市養育院安房分院、病弱教育覚え書第6集、織田真一、1986年。
<資料>
・我が養護施設を語る、東京市養育院安房分院、「健康教育」第3巻2号、1937年2月
2008.3.2
| ローズマリー・サトクリフ | 思い出の青い丘 | K | サトクリフ自伝 | 1985 | 岩波書店 | スティル氏病 | 本人 | 2歳で発病、歩けなくなる。作家として出発するまでを、障害を持つ少女の立場から描く。 |
サトクリフは1920年12月14日、イギリス、サリー州で生まれる。3歳頃に若年性関節炎になり、進行・軽快を繰り返しながら症状が進行した。
40ページに次のような記載がある。
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車椅子に乗って午後の散歩につれていってもらえないとき―その頃私はまったく歩けませ
んでした―私は大部分の時間を庭のなかか、家の前のクルミの木の下に椅子を置いて過ごし
ました。それはできるだけ戸外にいるのがよいと考えられていたせいでした。どれほど寒かろ
うと、雨に降られようと、そうやって戸外に出ているということば、ほとんどどんな病気にも
効き目があるのだと当時は考えられていたものです。
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39ページには5歳とある。1925年、日本では明治から大正に元号が変わる頃。欧米の林間学校や露天学校情報が移入され、各地でその試みが行われ始めている時代である。戸外の健康への影響は、このように捉えられていた、という貴重な記録である。
この他、障害の子どもがどのように自分の障害を認識しているか、それがどのように変化していくか、が書かれている。