自叙伝・文学作品に見る病・虚弱児教育、学校保健

文学
□広津和郎「若葉の香」1911年 初出「万朝報」
広津和郎全集第一巻 p57
少し激しく働きでもすると、直きに胸のあたりが鈍い力で圧されるような気がする。 −略− 此の二三年春の暮から夏の初にかけて、毎年脚気に襲われるの例であった。

□スタインベック「天の牧場」1932年、アメリカ
三笠版より
p276 アデノイド
マニイは アデノイズのせいで、妙にひきつれたようなとんがった顔をしていた。−略−この子はアデノイズ症状のため知能の発達がおくれている標準以下の子供だったのであった。
p308 
ヒルダはついぞ健康だった時がなかった。驚くほどのはやさで次から次へとありとあらゆる子供の病気にかかった。− 癇の強い子 − しだいに破壊的になった。
 p323 (いわゆるスペイン風邪)
一九一七年 の終り頃には、戦時の流行性感冒が無情な残酷さでこの一家を襲った。−略−三日間子供たちは弱々しく抵抗したが、四日めには二人とも息をひきとった。

□結城信一「螢草」1951年、芥川賞候補作
私が三歳の、−略−その日の夕方、私が四十度を超える高熱を発したとき、私は狂うように左脚の激痛を訴えだした。
竹の棒のようにピンと硬直したまま
小児麻痺であれば絶対に癒らない
両国駅近くにあったマッサージ師に通よひはじめた

□三木卓「ほろびた国の旅」初版1965年、再版2009年7月、講談社
p35:飴湯〜ぼくたちは、夏の臨海学校のときに一日に一杯だけのませてもらっていたのです。
p55:安治はとても軽いのです。〜病気というわけではないのですけれど、いつも顔色がわるくて、やせていて、あまり元気ではないのでした。
p102:ジフテリアの予後があんまりよくなくて、黄だんをひきおこして寝ているのでした。この病気は、たしか、秋になって第二学期がはじまるころによくなったはずです。黄だんは、いつまでもいるまでもだるい病気でした。
*昭和10年代の満州の子どもたちを描く

□三木卓「素足と貝殻」集英社文庫、1999年
文庫版332頁
一九四二年に大連市立伏見台国民学校に一年生として入学したとき、足のせいで養護学級に入ることになり

□太宰治「薄明」昭和22年12月
昭和20年、長女は5歳、長男は2歳
甲府の空襲の10日ほど前から「二人そろって眼を悪くして医者にかよっていた」
空襲の2、3日前から上の女の子は「完全な失明状態」
県立病院が郊外に移転、「その病院にかよって二日目の午後に眼があいた」
映画「ヴィヨンの妻」プログラム 2009年10月10日 P14
津島園子「父、太宰治と母の記憶」
「薄明」私が結膜炎にかかって目が見えなくなってしまったんです。その時の話なのですが

□志賀直哉「暗夜行路」後編
主人公時任謙作の赤ん坊が、丹毒(連鎖球菌によって起こる化膿性皮膚炎)で助からない
医師と時任が、安楽市について語る

□横光利一「御身」1924年
「幸子は種痘から丹毒になりましたが、漸く片腕一本で助かりました」

□志賀直哉「和解」1917年
1916年に志賀は長女を生後56日で失った。経緯が書かれている
*1919年、長男を丹毒で生後一ヶ月で失う 立川昭二「昭和の跫音」筑摩書房、1992年より

自叙伝
◇中村菊三「大正鎌倉余話」かまくら春秋社、1982年
中村、1905年生まれ
p119、光明寺のお堂を一ト夏借りる小学校や臨海学校の生徒達の水泳には最適の海岸であった(材木座海岸)
p145、「水泳教室」の章、臨海学校が二三あったが、これ等は東京の学校の施設で

◇小林恒子「一枚の写真 きのふの空」東京布井出版株式会社、2001年
小林、1909年生まれ
p57、私は〜杜松小学校に入学すると早速麻疹をしょいこんで来て、弟にも感染させ

p121、大正七年二月二十日から〜休学した。病名は乾性肋膜炎。右肋膜炎、左肺結核後遺症
p141、加藤医師の愛娘の清子さん。沼津に近い静浦海岸に転地していた。

◇和田義隆「大正時代の暮し、学び、遊び」私家版、1991年
和田1910年生まれ
p21、「まずしい食生活」の章 食事は飯を食うこと
p223、大正七年の秋から翌年にかけて、全国的にスペイン風邪が猛威をふるい
    疱瘡、結核、コレラ、赤痢等

◇加藤八重子「大正っ子の思い出」主婦の友出版サービスセンター、1983年
加藤、1912年生まれ
p91、「臨海学校」の章
p91、小学校五年頃の話になるが、赤城小学校で初めて夏休みに臨海学校を開設することになった。 〜静岡県沼津の御用邸のあった海岸に近い、島郷という村にあるお寺

◇武田専「わんぱく らくだ君」講談社、1984年
武田、1923年生まれ
p227、「樋口の小父さん」の章
p227、夏休みになった。らくだ君は小学校の臨海学校に初めて参加した。千葉県〜生徒たちに泳ぎを教えるのが目的で〜毎日二時間ほど学習するだけで泳ぎの時間にあてる

◇武田専「じーちゃんの思春期」出版芸術社、2001年
武田、1923年生まれ
p37、「あてがはずれた臨海学校」の章
p38、G中学校の臨海学校は東京湾に面した千葉県でも少しは名の知れた海水浴場で実施されている。

◇河合雅雄「人生の贈りもの」朝日新聞、2007年9月
河合、1924年生まれ、霊長類学者、京都大学名誉教授
僕は小学校3年生で小児結核にかかり、小学校は半分くらいしか出席できなかった。その後も病気ばかりで、高校は3年休学、大学もほとんど通っていないんだよ。

◇中村稔「私の昭和史」青土社、2004年
中村、1927年生まれ
p66、夏の二、三週間をM旅館で過ごすことが毎年の例となった(長野県安代温泉)
p83、小学校の四、五年ころ、私が熱中したのは鉄棒だった
p99、(東京府立五中)私は臨海学校に参加した(保田、7月20日から7月末まで)、寺に合宿、毎日午前中中浜に出て水泳の講習を受け、午後は静養、自習するのがきまりであった
p217、昭和17年、中学三年の学年末、私は急性腎臓炎に罹った、〜、私は浮腫んでいたのであった

◇北杜夫「どくとるマンボウ回想録」日本経済新聞社、2007年 New
北、1927年5月1日生まれ
p38、小学校に入るか入らぬかの頃に疫痢をやった。このときは意識が混濁してしまい、よく覚えていない。何でも熱が四十度をこしたという。
p40、風邪をひくと、よく扁桃腺が腫れた。小学校の終わりの頃、手術をしてこれを取った。
   中学三年のときにジフテリアにかかったことがある。
p41、小学校五年の三学期の初め、私は急性腎炎を病んだ。腎臓病には長い休養が必要であった。

◇桜井真一郎「わが人生」神奈川新聞、2004年10月
桜井、1929年うまれ、エンジニア
私は四年生になっていた。−略−壊血病結核を併発し、十全病院(市大病院の前身)をはじめ、大きな病院に片っ端から通って治療に明け暮れた。−略−私を転地療養させるためにわざわざ海老名の国分に引っ越した。−略−結核を併発していたから、午後二時をすぎると決まって熱が出た。

◇三木卓「懐かしき友への手紙」2009年、川出書房新社
三木、1935年生まれ
p16:幼少にして幾度も重病の餌食になっていたぼくは
p17:左耳を中耳炎にやられて、〜治療が終わると、耳を黒い三角巾で覆った
p20:耳から侵入した菌のために敗血症になったのである。〜同時に危篤状態だった。
p21:あの時代の子は、鼻水を垂らしていたり、耳だれが匂ったり、目を真っ赤にしていたり〜、いろいろ具合がわるいことになっていた。
p28:学齢前に片足にマヒと発育不全が残る子になった。
p54:小児マヒの後遺症を足にもっていた
p112:ぼくはこどものころ、軽い小児喘息だった。〜<百日咳>なんていうものにしょっちゅうやられていて、眼が真っ赤になるまで咳いたりしながら
p133:ぼくは八島在満国民学校の出身だが、終戦で廃校になったので、私立の桜木塾というところへいった。これは桜木在満国民学校という日本人小学校の教師たちが興したものだったらしい。
p169:ぼくが数え年で四つで小児マヒにかかって歩行不能になり、なんとか歩けるようにするためのリハビリテーション〜ぼくは、マッサージ師や電気治療師のもとを母親におぶわれて、いったりきたりしていた
p194:(1930年代)当時は兄弟姉妹の数が多いほど欠ける子も多かった。結核とか疫痢が、栄養状態のよくない子を倒したのである。長男は七つで粟粒結核で死んだ。兄は次男で、肋膜炎になって生きのびた。ぼくは小児マヒを筆頭にして五つ六つの重病にやられて生きのびた。    

◇吉行和子「ひとり語り 女優というものは」文藝春秋、2010
吉行、1935年生まれ
喘息で学校にまともに行くことができず、将来の夢もない時

◇筑紫哲也「若き有人たちへ」集英社、2009
筑紫、1935年生まれ
丁度シブスが流行っていた。チブスにかかった小さい患者たちは、どんどんすっーっと田舎の畑の中に孤立している古い建物に収容され、そしてチブスではなかった僕も同じ目にあった。本当にチブスになったのは其処へ入ってからのことであった。

◇柳田邦男「いつもそばに本が」朝日新聞2003年
柳田、1936年生まれ、ノンフィクション作家
小学校一年の三学期。急性腎盂炎で三ヶ月近く休み、自宅で療養した。−略−少年少女文学の本を繰り返し読んだ。−略−病気は必ずしも負の時間ではない。かけがえのないものを手にする節目になることもあるのだ。

◇原田泰治、朝日新聞「人生の贈りもの」2008年8月
原田、1940年生まれ、画家
1歳の時、病気で両足が不自由になった。5歳まで生きられないと言われていました。
土にまみれて遊ぶことがリハビリとなって、つえを頼りに歩けるようになった。小学校では足のことでいじめに遭ったけれど「自分で戦え」という父の言葉通りに元気にすごした。