本所松坂町公園
忠臣蔵と吉良邸跡
写真集⇒ こちら

 師走ともなると、お馴染みの忠臣蔵の特別番組が決まってどこかのチャンネルで放映される。多少ひねって言えば、大石内蔵助を首謀者とする赤穂藩の狼藉どもが、切腹させられた亡き親分の遺恨を晴らそうと、幕府高官の私邸を襲撃その首を討ち取るまでの組織的テロリズムの話とでもいうところだろうか。

 この話、何故か国民的人気がある。人気の秘密の解明はその筋の識者にお任せするとして、われらが直江兼続の生涯をNHK大河ドラマに取り上げてもらうのに何と10年を要したのに、この「忠臣なる大石内蔵助」を題材とする物語は、「赤穂浪士」(1964年)にはじまり「元禄太平記」(1975年)、「峠の群像」(1982年)、「元禄繚乱」(1999年)と4回を数えている。

 さて、今回の「米沢 in Tokyo」は、細井平州の墓(浅草・天嶽院)探訪が目的であったが、せっかく出向いて来たからには其処だけでは勿体ないということになった。少し、足をのばせばその忠臣蔵の舞台になった「本所松坂町 吉良邸跡」を訪ねることができるというので、急遽、浅草から両国方面へと歩を延ばすことにした。

 途中、東京都立横網町公園内にある「東京都慰霊堂(伊東忠太設計)」の建物を鑑賞、続いて勝海舟の生誕地碑のある「両国公園」に立ち寄る。偶々、近くを通りかかった「時津風部屋」の前では「例の事件」の取材に集まった大勢の報道陣に出くわしびっくり仰天、午後4時頃漸く目的地に辿り着いた。

上杉家と吉良家
 本論の「吉良邸跡」にはいる前に、蛇足ながら、忠臣蔵で悪者にされている吉良上野介義央(よしなか)と上杉家(米沢藩)の関係を概観しておこう。@先ず、上野介義央の奥さん富子は、米沢藩2代藩主上杉定勝の娘(三姫)である。Aまた、その子三之助は僅か2歳で、米沢藩3代藩主上杉綱勝の急死で、上杉家を継ぐことになる。(後の米沢藩4代藩主上杉綱憲)Bそして綱憲の次男、義周(よしちか)が、今度は、上野介義央の養子になり「松の廊下事件」から数か月後、吉良家を相続することになるのだ。討ち入りは、この義周の代に起きた事件である。このように上杉家と吉良家とは深い関係にあり、俗に「三重の縁」と呼ばれている。

本所松坂町
 吉良邸があった「本所松坂町」は、現在、「墨田区両国3-13-9」という住所表示。JR両国駅(東口)から徒歩7分ほどのところにあり、江戸東京博物館、国技館などのほか前述の勝海舟生誕地の碑や芥川龍之介の文学碑、回向院なども比較的近くに位置している。因みに、当時、吉良邸があった地名は「本所二つ目」と称していた。松坂町という町名は討ち入り2年後に付けられたもの。以後、松坂町の名は200年余続いたが、昭和4年、大震災後の区画整理で消えることになる。

「本所松坂町公園」と吉良邸跡
 辿り着いた「吉良邸跡」は「本所松坂町公園」と一体化していた。“公園”内にあると聞いていたので、緑や子供の遊び場などが目に入る広々とした空間をイメージしていたのだが、そこは通りの片隅にあった。「なまこ壁」と黒塗りの門で囲まれた極く狭い屋敷風の佇まいだ。入り口にある石碑には「赤穂義士遺跡 吉良邸跡」とある。

 吉良上野介の屋敷は、はじめ江戸城呉服橋門内にあったのだが、刃傷事件のあと、赤穂浪士が吉良屋敷に討入るという噂がたち周囲の大名屋敷から苦情が出た。そこで吉良屋敷は幕府によって召し上げられ、一時、吉良家は上杉家の屋敷に身を寄せることになるのだが、その後、元禄十四年九月、ここ本所松坂町に移り住んだ。当時、本所の辺りは埋め立てられた新興住宅地、幕府としても討ち入りの騒ぎが江戸城近くで起きるのを警戒して、此処に屋敷替えしたのだともいわれている。

 現在「吉良邸跡」として残る「本所松坂町公園」は、広さ三十坪足らず、当時の二千五百余坪に比べるべくもないが、昭和9年(1934)地元両国三丁目町会有志が発起人となり、邸内の「吉良の首洗い井戸」を中心に土地を購入し、同年三月に東京市に寄付、責重な旧跡が維持されることになった。(昭和二十五年(1950)墨田区に移管、都指定旧跡になる。)

 この公園内には、「吉良上野介追悼碑」「吉良家、家臣二十士碑」「首洗い井戸」「討入りをとげた四十七士の錦絵」などがあるほか「松坂稲荷」が鎮座している。古く松坂町方面にあった「兼春稲荷」とこの土地の周辺に祀られていた「上野稲荷」の二社を合祀して昭和十年遷座されたものである。

 また、この辺りでは、毎年十二月十四日、義士討入りの日に『義士祭』が行われ、十二月の第二または第三土曜日・日曜日には、『吉良祭』が催され主君のために亡くなった吉良家家臣の冥福を祈っている。また、地元問屋が出店する『元禄市』なども開かれ大変な賑いになるのだとか。

付録
 吉良町のホームページに「現代版・忠臣蔵」という記事があった。それは同町が、町制50周年を記念して平成17年12月13日、14日に「忠臣蔵」ゆかりの自治体で構成する忠臣蔵サミット(第17回)を吉良町で開催し、そのホスト役を務めたというものだ。

 それによると、この忠臣蔵サミットは、正式には「義士親善友好都市交流会議(義士サミット)」と言い、平成元年に赤穂市の呼びかけで創設され、「赤穂義士ゆかりの地」に所在する全国の自治体が親善と友好を深めながら情報交換を行い、地域の活性化と発展向上のために相互協力していくことを目的にしている。

 また、「松の廊下事件」以降、交流のなかった吉良町と赤穂市は、平成2年に東京都墨田区長の仲介により「復縁」したのだとも記されている。このサミットは、「忠臣蔵ゆかりの地」の自治体が持ち回りで年に一度開催、現在、加盟自治体は33市区町に及び米沢市もメンバーの一員である。

余禄
 赤穂浪士の討ち入りから既に300年が過ぎた。時代背景が異なるから絶対あり得ないことを大胆に無視し、ふと、今の時代にこの事件が起きたら・・・という空想が頭をよぎった。それは、自治体レベルでの和解はあっても、吉良上野介義央が悪者にされるという虚構が来る年もくる年も、公共の電波で流され、今や国民大衆の心に善玉悪玉のイメージが刷り込まれていることへのささやかな抵抗なのかも知れない。いま起きれば、多分、両者の風評は逆転するだろう。取り返しのきかない歴史の流れではあるが、吉良家はじめその周辺の名誉回復が徐々に広まっていくことを期待している。(今井浩之介)




 「なまこ壁」と黒塗りの門に囲まれた
吉良邸跡

入り口右寄りに立つ石碑
 
「赤穂義士遺跡 吉良邸跡」
とある