2001年11月5日号のThe Nation に掲載された論文
(Michael T. Klare, The Geopolitics of War. 河内謙策訳)
今回の戦争の地政学的次元は、なかなか認識することが困難である。というのは、戦争はアメリカにとって本質的な利害をわずかしか有しないアフガニスタンで始まったからであり、又オサマ・ビン・ラディンが見たところ物質的利害を超越しているように見えるからである。しかし、これは人を欺くものである。なぜなら、紛争の中心はサウジアラビアであり、アフガニスタンやパレスチナではないからである。また、ビン・ラディンの究極の目標の中にはサウジアラビアにおける新政権の樹立が含まれているが、そうなれば新政権は地上においてもっとも価値のある地政学的商品をコントロールすることになるであろう。サウジアラビアの石油資源は地球上の石油の確認埋蔵量の4分の1を占めるのである。
今回の紛争の根源を正しく理解するためには、時計を逆に、特に第二次世界大戦の終わりごろの数年間に戻って見なければならない。その頃アメリカ政府は、戦争が終わったらアメリカが支配することになるであろう世界のために正式に計画を作り始めた。戦争が終わりに近づいていたころ、ルーズベルト大統領は国務省に来るべき時代のアメリカの安全と繁栄を保証する政策と機関の研究を命じた。これが国連とブレトン・ウッズ機構の構築につながるのだが、現在との関係で最も重要な点を言えば、アメリカが十分な石油を手に入れることにつながったわけである。
アメリカの戦略研究家は石油へのアクセスがとりわけ重要であると考えた。なぜなら石油こそが枢軸国との戦争で勝利した基本的な要素であったからである。広島と長崎への原爆投下により戦争は終わったが、ドイツと日本をひざまずかせるようアメリカの軍隊を駆り立てたものは石油であった。石油こそが多数の艦船、タンク、飛行機を動かし、信頼できる石油資源へのアクセスを欠いていた枢軸国を追い詰めたのである。それゆえ、大量の石油へのアクセスが将来のアメリカにとって決定的であると広く信じられていたのである。
では、石油はどこで産出されるのか。第1次世界大戦と第2次世界大戦のときは、アメリカは、自分と同盟国のための十分な石油をアメリカ南西部、メキシコ、ベネズエラでまかなうことが出来た。しかしほとんどのアメリカの専門家は、戦後はそれでは不十分になると考えていた。その結果、国務省は石油の他のあるところについての集中的な調査を行った。この努力により、国務省の経済顧問ハーバート・フェイスは、必要な石油を供給できるところが世界で1箇所だけあるという結論に到達したのである。ダニエル・ヤーギンの『賞品』という本に引用されているところによれば、フェイスは「すべての調査の結果は、ある1箇所を示している。それが中東だ」と述べている。
もっと場所を特定して、フェイスと彼の仲間は、未開発の石油のうちでも最もたくさんの石油がサウジアラビアから出るであろうという結論を出した。しかしどうやって手に入れればよいのか。最初国務省は、サウジアラビアから譲歩を引き出し、王国の石油を掘り出すために国有企業を利用することを考えた。しかし、このプランは扱いにくい、それでその代わりに提案されたのがアメリカン・オイル・カンパニー(ARAMCO)というアメリカの石油メジャーの同盟体に任せるという方式であった。しかし政府高官は王国の長期の政治的安定も心配した、それでサウジアラビアの防衛については、アメリカが責任をとることを考えついたのである。現代アメリカ史の中で最も有りうべからざる事件の一つがこうして発生した。1945年2月のヤルタ会談の後、スエズ運河のアメリカの軍艦の上で、ローズベルト大統領は、現代サウジ王朝の創始者であるアブド・アルアジズ・イーブン・サウド王と会見したのである。会見の詳細はいまだに明らかにされていないが、ローズベルト大統領が、アメリカがサウジの石油にアクセスする特権を得る代わりに、アメリカがサウジを防衛するという約束を与えたと広く信じられている。この取り決めは、現在も有効で、アメリカ=サウジ関係の基本となっている。
この関係は両者に多大な利益をもたらした。アメリカはサウジの石油を好み、アメリカの原油の輸入の6分の1は、サウジの原油であった。ARAMCOとアメリカのパートナーは、サウジで石油を採掘し、それを世界中で売りさばくことを通じて莫大な利潤を手にした(しかし、ARAMCOがサウジで取得していた株式は、1976年に国有化された。ARAMCOは石油の採掘を管理し、海外で石油製品を売りさばくという形で存続している。)サウジアラビアは、毎年60〜100億ドルの商品をアメリカ企業から買っている。サウジの王族は、巨富を手にし、アメリカが守ってきたおかげで外敵からも、国内の敵からも安全であった。
しかし、この異常なパートナーシップは、多数の予期せぬ結果を生み出した。我々の関心を引くのもそれである。サウジの支配体制を外敵から守るために、アメリカは、その地域における軍事的プレゼンスを次第に拡大してきた、その結果数千人の軍隊が現在駐留している。同様に、王族を国内の敵から守るために、アメリカ軍人は国内の安全保障上の機構に次第にかかわるようになってきた。同時に王族の富の蓄積に対してサウジの民衆が疑惑を持ち始め、構造的汚職を非難するようになった。それに対して支配体制は、王国内の政治的討論を禁止し(同国においては、議会も、表現の自由も、政党も、結社の自由も存在しない。)、訓練された米軍を反対意見を押しつぶすために利用してきたのである。これらすべての結果により、支配体制に対して反対派が密かに生まれ、時々暴力行為が発生するようになった。オサマ・ビン・ラディンが着想を得たのも、彼の多くの副官を集めたのも、このような秘密の環境からであった。
サウジアラビアにおけるアメリカの軍事的プレゼンスは、過去しだいしだいに増大してきた。最初、1945年から1972年までは、ワシントンは長くこの地域を支配していたイギリスに最も重要な防衛の責任を任せていた。1971年にイギリスがスエズ以東の軍隊を引き上げたときに、アメリカはもっと直接的な役割を引き受け、軍事顧問を派遣し、サウジアラビアに多くの武器を与えたのである。これらの一部は国外の敵に対処するためのものであったが、国防省は国内の敵に対処するための国家防衛隊の組織、装備、訓練、管理にも中心的役割を果たした。
アメリカ軍の関与は、1979年にはそれまでになかったレベルに到達していた。その時、3つのことが起こった。ソ連がアフガニスタンに侵略し、イランのシャーが反政府勢力に打倒され、イスラム主義者がメッカで反乱を企てたのである。これに対して、アメリカのカーター大統領は、新しく定式化された政策を発表した。ペルシア湾地域のコントロールを狙ったいかなる動きも「アメリカの死活的利益に対する攻撃」とみなされ、「軍事力を含む必要な手段により反撃されるであろう」、というのである。”カーター・ドクトリン“として知られるこの政策は、それ以来湾岸地域のアメリカの戦略を規定している。
新しいドクトリンを実行するために、カーター大統領は緊急展開部隊(RDF)を創設した。これは、アメリカに基地を持ちながら、必要に応じて湾岸にも展開する戦闘部隊の集合である。(RDFは、後に中央軍に吸収され、現在は中央軍が湾岸地域の軍事作戦を担っている。)カーターはまた、湾岸に軍艦を派遣し、バーレーン、ディエゴガルシア(インド洋に浮かぶイギリスが支配している島)、オマーン、サウジアラビアの米軍がこれを利用できるようにした−これらはすべて湾岸戦争に使用され、今回の戦争においても利用されている。さらに、アフガニスタンにおけるソ連の存在が湾岸におけるアメリカの支配に対する脅威であると信じて、カーターはソ連に支援されたアフガニスタンの支配体制の土台を侵食する作戦にゴー・サインを出したのである。(サウジの支配体制がこれに深く巻き込まれ、ソ連反対派に資金を出し、オサマ・ビン・ラディンを含むサウジの人間を派遣したことは、非常に注目してよいことである。)そしてサウジの王族を守るために、カーターはサウジアラビア国内の敵に対する作戦を強化していったのである。
レーガン大統領はカーターの軍事的な動きを更に強め、反ソ連のムジャヒディンに対する秘密の支援を大幅に増加させた。(最終的には、およそ30億ドル相当の武器がムジャヒディンの手に渡った。)レーガンはカーター・ドクトリンに重要なことを付加した。アメリカは、サウジの支配体制が、イランのように国内の反対派によって打倒されることを認めない、というのである。彼は1981年に記者に対し、「我々はサウジアラビアがイランのようになることを認めない」と語っている。
その後に湾岸戦争が起こる。イラクの軍隊が1990年8月2日にクウェートに侵略したとき、現在のブッシュ大統領の父親が主として関心を寄せたのは、クウェートのことではなくサウジのことであった。8月4日のキャンプデービッドの会議で彼は、イラクの攻撃からサウジを守るために直ちに軍事的行動をとることを決意した。サウジ防衛の成功のために、彼はチェニー国防長官をリヤドに派遣し、サウジへの米地上部隊の展開とイラクに対する空爆のためにサウジの空軍基地の利用を王族に説得したのである。
砂漠の嵐作戦については、ここで再び語る必要がないであろう。ここで特筆しておく必要があることは、クウェートにおける戦闘が終わってからも巨大な米軍は撤退しなかったということである。イラク南部の飛行禁止が破られないように米軍機はサウジから飛び立って監視している(この飛行禁止は、バスラ地域のシーア派に対するイラクの攻撃を抑止するとともに、クウェートに対する再侵入を防ぐためのものでもある)。また、アメリカの飛行機は、現在も続いているイラクに対する多数の国による経済制裁に参加している。
クリントン大統領は、基地内の施設を拡充し、アメリカ本土から湾岸に駆けつける能力を高めることによって、湾岸におけるアメリカの立場を更に強固にした。クリントンは、ペルシア湾の北に位置し、資源の豊富なカスピ海盆地に対するアメリカの影響力を強めようとした。
ここからたくさんのことが結果として発生した。経済制裁はイラクの人々に多大な災難をもたらしたが、空爆のほうもたくさんの民間人の死をもたらした。一方、アメリカはイスラエルによるパレスチナの人々に対する暴力を抑止しなかった。このことが多数の若いムスリムをビン・ラディンの勢力に参加させることになった。しかしながら、ビン・ラディン自身について言えば、彼が最も関心があるのはサウジアラビアであった。湾岸戦争が終了してから彼が努力を傾注した目標は、以下の2つである;ムスリムにとって聖なる土地の心臓部とも言うべきサウジアラビアから異教徒たるアメリカ人を追放すること、及び、サウジの現在の支配体制を打倒し、ビン・ラディンのイスラム原理主義的信念とより調和するものに取り替えること。
両方の目標ともビン・ラディンをアメリカとの直接的な紛争に巻き込むものであった。
そして、他のいかなる説明にもまして、これこそが中東における米軍人や米軍の施設、ニューヨークやワシントンのアメリカのパワーの象徴にたいするテロリストの攻撃を説明するのである。
現在の戦争は、9月11日に始まったのではない。今まで判明しているところでは、1993年のワールドトレードセンターに対する攻撃から始まった。1995年のリヤドにあるサウジ国家防衛隊に対する攻撃や、1996年のダーレーンにあるコーバルタワーの外の爆破事件では成功した。それから、1998年にはケニヤとタンザニアの米大使館爆破事件、最近では米艦船コール号に対する攻撃があった。これらすべての事件は、ワールドトレードセンターとペンタゴンに対する攻撃と同様に、アメリカのサウジとの同盟を維持するという決意を瓦解させ―そして最終的には、ローズベルト大統領とアブド・アルアジズ・イブン・サウド王により作り上げられた1945年の協定を無効にするという長期の戦略と一致する。
彼らと闘うために、アメリカはまず自己を防衛しようとしている、すなわち市民と軍人をテロリストの暴力から守ろうとしている。しかし同時にワシントンはペルシア湾における自己の戦略的位置を高めようとしている。ビン・ラディンを片付けると、イランは国内が混乱しており、サダム・フセインはアメリカの容赦ない空爆により身動きが取れないので、アメリカの優越的地位は、当分の間確実であろう。(ワシントンが一番心配しているのは、サウジの専制的支配体制が、ワシントンとの仲のよさを攻撃されるようになることである。それゆえ、アフガニスタンの攻撃のためにサウジの空軍基地を使用させろと強硬には言わなかったし、オサマ・ビン・ラディンにリンクしているサウジの慈善事業の資金の凍結もやかましくしなかったのである。)
オサマ・ビン・ラディンにとっても、アメリカにとっても、この紛争は地政学的意味を有する。オサマ・ビン・ラディンがサウジの支配体制をコントロールするようになれば、
アメリカの石油企業との協定は見直され、石油の採掘と石油がらみの資産の分配について新しい政策が採用されるであろう。そうなればアメリカにとって、また世界経済にとって壊滅的な結果がもたらされるであろう。もちろんアメリカは、そうならないように戦っている。
紛争がもっと展開しても、我々がこの紛争のキーパーソンから話を聞くことはないであろう。テロリストに対する戦争に広範な国民を動員しようとはしても、ブッシュ大統領が、アメリカの政策においていわゆる地政学が大きな役割を果たしていると認めることはないであろう。オサマ・ビン・ラディンも、認めたがらないであろう。しかし、以前の湾岸戦争がそうであったように、この戦争は激しい地政学的争いに由来するのである。
現在の政治的環境の下では、これらの問題を深く掘り下げて明らかにするということは、非常に難しいであろう。ビン・ラディンと彼の仲間は甚大な損害をアメリカに与えた、そしてこのような攻撃を繰り返させないということが国家の最優先課題であることは、明らかである。しかしながら、いつかは湾岸におけるアメリカの政策の真剣な見直しが行われるであろう。そのときにはサウジアラビアの民主化を促進することがアメリカの長期的利益になるのではないかが問題になるであろう。たしかに、多数のサウジアラビア市民がもっと開かれた政治に参加するようになれば、暴力に惹かれる者やオサマ・ビン・ラディンの反アメリカのドグマに惹かれる者は、ほとんどいなくなるであろう。
[マイケル・クレアは、The Nation の通信員、アムハーストにあるハンプシャー・カレッジの平和と世界安全保障研究部門の教授。この論文を裏付ける資料は、彼の最近の著作である『資源戦争:地球的規模の紛争の新風景』(メトロポリタン)参照。]