説教
マルコ福音書 5           

ーヨハネの弟子たちとパリサイ人の弟子たちは断食をしているのに、あなたの弟子たちはなぜ断食をしないのですか」。イエスは言われた「婚礼の客は、花婿が一緒にいるののに、断食ができるであろうか。。・・しかし花婿が奪いさられる日が来る。その日には断食するであろう」。ー
         (マルコ福音書2章18〜22)

1.「罪」を問題にしない
1.我々は婚礼の客なのだ  

マルコ福音書を中心に「イエスってどんなかたか?」を学んいます。前回は、当時最も差別され、病の苦しみと宗教的、社会的汚れを負わされて苦しんでいるらい病患者に対して「はらわたを突き動かされる」ほどの怒りを感じ、彼を抱きしめ、いやしたので、イエス自身が汚れた者とされ、町から追い出されてしまったイエスの姿を学びました。それはあくまでこの男のため、彼が当時の社会で安心して生活できるようにするための行動で、決して、イエス自身の名のためではないのです。キリスト者はよく、すべては神の栄光のためとか言いますが、神やイエスは自分の栄光のために人を愛しているのではないのです。(天皇のために、金正日のために)

当時の病気の多くは悪霊の仕業、祖先の罪、本人の罪の結果とされていました。特に宗教家たちはこの「悪霊の仕業」と「罪の結果」を振りかざして人の病気を解釈し、烙印を押して差別する、そしてこの宗教を信じ、献金するならば悪霊は追い出され、罪は許され、病気は治ると言っていたのです。いや、現代でもほとんどの宗教はこのやり方で、人を脅かし、差別をし、烙印を押し、そしていやすという手順をふんでその宗教の繁栄を図っていると言えるでしょう。医学は驚異的に進歩しましたが、人間を取り巻いているおどろおどろしたものは少しも変わってはいないし、いわゆる精神的な病、占いのたぐいの方はますます増えています。もっとも自分の病気の責任を悪霊や祖先に押し付けて、自分を解放するというのもたしかに一つの解決法には違いないのですが。しかしそれは必ず祖先の霊とか、悪霊とかのとりこになってしまうのです。

さてカペナウムのある家でイエスが話をしていると聞いたこの中風の男は友人4人と相談してイエスの所にのりこんできました。勿論話よりも癒しを期待してでしょう。戸口から中に入れないと思った彼らは、屋根に上って大きな穴をあけその男を担架のままイエスの前に吊りおろしたというのです。雨の少ないガリラヤでは屋根はごく簡単な平屋根であったようです。ですから簡単に壊すことは出来たのでしょうがやはり無茶な行動です。その家の持ち主はカンカンになって怒ったことでしょう。イエスも驚きましたが、中風の者よりもむしろその無茶なことをした4人の男の信頼の心に感動してその思いに応えたのでしょう。口語訳にも新共にも「信仰を見て」と訳していますが、これは本田訳のように「この人たちの信頼に満ちたふるまいをみて」と訳した方がよいでしょう。ピスティスという語が、とかく固定化し、教義化された「信仰」とみられ、そのような信仰がなければ・・と使われてしまうからです。ここではそのようなピスティスではなく、このイエスならいやしてくれるという信頼なのです。それだけに彼らのこの中風の男をいやしてほしいという思いは強く、あのような非常識な行動にもでたし、それがイエスの心に共鳴をおこしたといえるでしょう。

イエスはいきなり、この中風の男に向かって「あなたの罪はゆるされたよ」といいました。これがイエスの心に響いた共鳴です。イエスはこの男を今まで取り巻いてきた宗教的差別を怒っているのです。それはあのライ病の男に対する差別ほどではないにしても、やはり当時の宗教からも社会からも痛めつけられていたのでしょう。その苦しみ、しかしどうしてもそれには納得できない自分を感じて呻いている、それはあのライ病人のうめきと同じ響きをもってイエスに迫ったのでしょう。さらにイエスは、この男の傍らに、この男の呻きに共鳴している友人を発見して、いっそう共鳴感を深くしたに違いありません。この男、友人、イエスの共鳴体が一つになって、あえてユダヤ教の律法、神学に挑戦しているのです。イエスはこの男とその友人とともに、この男の病を規定しているその根源の宗教的解釈と対決するのです。その宗教的原因からの解放なくして、この男の本当の解放はないからです。

イエスは「あなたの罪はゆるされたよ」と言います。「なあんだ、イエスも律法学者たちと同じくこの病気は罪の結果であると考えていたのではないか、ただ俺には大祭司以上にその罪を許す権威があるのだと自己誇示をしているだけではないか、それでは何も変わりはしない、ただ力比べをしているだけだ」となるでしょう。

しかしそんなことではありません。イエスは「みんなお前の病気のことを罪の結果だと言って、お前に罪人、汚れの烙印を押しているが、とんでもない、病気は罪の結果ではないのだよ、私はお前の罪なんか問題にしないよ、そうした宗教から解放されなさい」と言っているのです。

田川建三は「罪が前提されたうえでその許しが語られるのではなく、そもそも『罪』という理念によって人間が規定されるような状況、人間理解の仕方を廃棄しようというのである」と言う。そのように言う自由(権威)をイエスは自分自身で持っていたとマルコは言うのです。

マタイ福音書になると少ニュアンスが違います。マタイはこのように罪を許す権威をイエスに与えた神をほめたたえた(マタイ9:8)となり、やはりこの病気の原因は罪にあり、それをイエスは許す権威を神から授けられていたのだ、その権威を与えた神はほむべきかな、となってしまう。

「罪を赦す」とは、まず、問題にしないということです。「あなたが私に悪いことをしたというが、私はもともとそんなこと問題にもしていないよ」ということが、「赦しであり、解放」でしょう。考えてみれば、私たち人間同士の過ちは、殊更問題にするほどのことでもなく、またはほとんど50歩百歩であり、赦し、赦されるなどという大仰なものではないでしょう。そのときには、「もうゆるせない!」と思っても、少し冷静になれば、大したことではないと思えることがほとんどでしょう。そのうちに「ゆるす」ことがキリスト教美徳だなどとあやしげな倫理が割り込んでくると、かえって相手を罪人、しかも自分の赦しという点数を稼げる悪い罪人に仕立ててしまうというとんでもないことをしてしまうのです。これこそ、正に罪なのです。

この中風の者の犯した罪とはなんでしょうか。ユダヤ教律法学者たちは、この人が病気であることが罪を犯した証拠なのだと言うのでしょう。その罪とは神への不信仰、律法、神殿、祭司、宗教家への不誠実など、そのほとんどは宗教的罪なのです。その結果彼は病気という「汚れ」を負わされ、罪人にされ宗教的、社会的差別を受けるのです。イエスは「そのような罪を神は問題にしないよ」というのです。神に対する罪、宗教に対する罪、それは宗教がでっち上げた罪であり、そんなことに一喜一憂する神、災いや罰を下す神など、神の名に値するでしょうか。

2.既に救われている。

イエスは答えます。「お前達はたとえば、どうしたら婚礼に招かれるだろうか(救われる)と心を配って思い煩い、条件を並べ立てているのと同じだ。その内の重要な条件が断食なのだろう。しかし私たちは既に婚礼の客なのだ。何かの条件を満たさなければ客になれないのではなく、新郎たちに招かれて。既に婚礼の席にすわっているのだ。そのご馳走を前にして、どうして断食など出来るだろうか、それこそ失礼なことだ。はっきり言っておく。お前達と私の宗教とではその根っこが違うのだ。お前達のはどうしたら救われるのだろうかという根っこ、私のは既に救われているという根っこなのだ、お前達のは古い皮袋、古い布切れであり、私のは新しい酒なのだ、だからお前達の古い皮袋に入れると張り裂けてしまうのは当然だろう。私の弟子達も古い酒として、古い皮袋の中で生まれ、育てられたが、私の仲間になって私の福音が伝染し、自由な人間となったのだ、彼らにはもはやどうしたら婚礼の客になれるのだろうかと言うような律法的古い皮袋は通用しないのだよ」と。  

キリスト教倫理というものは、救われるため、天国に行くための倫理ではなく、救われた者として、自由なものとして、その神の無条件の恵に応える倫理だと言うことを忘れてはならない。信仰も救いの条件ではないのです。凡ての人が、神の無条件の恵で救われていることを信じる事が信仰なのです。  

勿論ユダヤ教とキリスト教には深い繋がりがあります。しかしはっきりとした断絶があること、根っこが違うこと、古い皮袋(律法主義)には新しい酒(福音)をいれることは出来ないこと、古い布切れに新しい布を継ぐことも出来ないことは明確です。それを福音と律法を都合良く混同して利用してきたことに教会の問題があるのではないでしょうか。そして「信仰」さえも救いの条件、律法にしてしまっているのです。  

「しかし、花婿が奪い去られる日が来る。その日には断食するであろう」とあります。ブラジルのカトリック信者達の多くは、受難節の頃からは断食を始めます。肉を食べなくなります。すると肉が安くなるので不心得の我々は肉を食べるのですが。勿論こうした文字通りの断食にも意味があるでしょう。しかしそれだけではなく、この現実、神の恵が凡ての人に注がれているにも拘わらず、多くの人々からはその恵が奪い取られているかのような現実がある、そうした現実に向かっては「断食する」までに、向い合い、取り組んでゆくことが大切なのだと言われているのです。イエスはまさに、神の無条件の恵を伝えながら、伝えることだけでもきびしい抵抗を受けつつ、更にそれを実行したのです。それこそ神の恵みを「断食するまでに」行ったのです。このイエスのふるまいこそ、我々が継承したいものです。

  • 戻る[バベル 目次]