****** 上正寺 ********************************************
龍澤山龍徳院と号す。浄土真宗西本願寺末。
本尊 阿弥陀如来。
元禄十五年(1702)僧 圓春 の記せし 境内太子堂縁起 によるに、
圓融院 第四皇子 尊勝法親王 郡中寺尾郷(市内小出町)に一宇を建て、
海圓院と号し、顕密兼学の道場とす。 文治年中(1185〜1189)当村に
移れり。 後、嘉禄年中(1225)住僧 了智坊道圓(佐々木四郎高綱公)
親鸞聖人(浄土真宗の開祖 1173〜1262) に国府津に謁し、其の宗法
に帰依し今の宗派に改む。 因りて 了智坊 を宗の開祖とす。
其の頃 親鸞聖人 寺号を 無上正覚寺 と名づく。 後、寺務を 智圓
に譲り、信州松本に 正行寺 を建て、仁治二年(1241)二月二十九日
其の地にて寂す。 齢 七十二才。 後、本山 覚如上人 巡国の折り、
当寺により、寺号を略して「上正寺」とよびしより今の称となれりという。
******************** 以上 相模風土記より抜粋 ***************** |
|
「海圓院」のあったと思われる辺は、七堂伽藍跡と里称し、其の規模を
偲ぶ礎石が散在し、付近には同堂に因む 鐘ヶ渕の伝説などもある。
現小和田の地は、南北朝時代の南朝方の豪族 鳥取五郎左右衛門尉
一族の所領であった事が、同寺に現存する 文中元年(1372)九月十日
の長慶天皇の本領知行安堵の綸旨で知ることができる。 |
|
江戸時代には朱印地を与えられ、近郷の名刹であったが、宝永元年
(1704)消失し、再興には鎌倉の寺堂を移して改修し、之を本堂とし、
ついで寺門、鐘楼なども落慶した。 此の間、地名に因んで「小和田山」
と称したこともある。 |
|
猶、境内に聖徳太子堂が存したことは、天保十二年(1841)正月の
太子堂再建勧進の版木によって知られる。 「南無仏太子像」は、幾度
かの修理を加えられているが、現存している。
【市 重要文化財指定=昭和四十九年一月二十三日】
【同指定「上野寛永寺燈籠」大八木信昭氏寄進】 |
|
又、境内より発見された 北朝の康永二年(1343)三月の板碑は、前
述の南朝の文中元年の綸旨と共に、当地方の南北両朝の勢力分布交
替を知る好資料である。
◆◆ 上正寺に関するお問い合わせは、下記へ ◆◆ |