エアロスミスの歌を聴くと、 B'z の稲葉さんはこの影響を強く受けているんだなぁ(ていうかパクリですか)と思った。熱いです。
Latest topics - outsider reflex より
かなり前、布袋氏が Sweet Emotion を「パク」っていたのを思い出してイライラ。
でも、スティーブン・タイラーだってミック・ジャガーの出来損ないと言われた時期(何時)があったのだと思うと、パクる側よりむしろ、それを揶揄する側の方が情けない気がする。要するに自分のこと。さんざん誹謗してたし。
懸賞で、Audiが当たった。とはいえ、平成4年式の傷物なので、まあ当たったというより「2万円で購入した」ようなものだ。
で、今日が納車日。
あまり嬉しくないのは、車が嫌いだからだろうな。
良く皆ドライブを楽しめるよ。やらねばならない危険予測の数々に、私は神経が磨り減らされる思いで運転するんだが。
音楽を聴きながら運転できるのが、自動二輪と違う魅力であることは知っているけれど、音だって危険予測に必要なので聞く気になれない。
人は神経質だと言うけれど、二輪に何年も乗っていると、自ら体験したり目撃したりする「危険」が色々とあるわけで。車は、人を殺す可能性があるわけだし死角も多いので、危険予測に一層注意する必要がある。
制限速度50km/hのところを70km/hで走ったとしても、目標地点に到達する時間は55km/hで走った場合と殆ど変らない。一般道で「急ぐ」のは無意味。それはまあ、200kmも300kmも走れば、20分から30分程度の差は出るだろうけど、そんなもの。
制限速度5kmオーバー程度で「トロトロ」走っていると「イライラ」するドライバーがいるようだが、そんな程度でイライラする人間に免許を与えるのもどうかと思う。
結局論拠を見つけることができませんでしたでは話になりません。
この部分が、主に反論になっていない、論争になってませんと述べている部分です。論拠がなく、(個人的) 感覚に基づいた物をろばQは論と認めておりません。
http://www.netlaputa.ne.jp/~robaq/200206.html#diary20020607_3 より
確かに、文脈を無視すれば、話になりません
などと揶揄したくなる気持ちも分かります。しかし、だからこそ、後半において(論拠の乏しい)仮定が否定されたケースについて論じているわけでして、とりあえず、話になりません。
と言われる覚えはありません。相手の主張の一部分を切り取りすれば、簡単に批判できる良い例でしょう。
ろばQさんには、私の知らない議論のローカルルールがあるようです。
「仮定を立て、それに基づいてある結論を出す」という論述の手法自体を否定されています。仮定に論拠がなければ論とは認めないのだそうで。これにはカルチャーショック(?)を受けました。
しかし、それは立派な「論」です。正しいか否かは証明されていない「論」です。大学の図書館の薄暗い部屋(謎)に行けばその手の論文が嫌になるほどあります。
仮定であることを明言した場合、論争相手は、その仮定の不当性を論述することによって容易な反論が可能になります。そのためにわざわざ明言しているのです。ですから、私の論じた「仮定の信憑性」を明確に否定すれば良いだけであり、それは議論ではありふれた状況です。実際、ろばQさんは「仮定の信憑性」を否定なさっているでしょう。それのようなやり取り(が|も)議論です。
で、ろばQさんは私の仮定の「信憑性」を否定されたわけですが、私はその論点について争うつもりはありません。恐らくコンセンサスは得られない部分だからです。そのため、仮定が成立しない場合についても論じた訳です。が、その部分には触れられず、「ろばQさんへの反論とは無関係ですが」と断った部分を一々引用し、批評するのは何の目的があるのでしょうか。
- 反論
- 相手の意見や批判に反対の意見を述べること。また、その議論。「政策批判に―する」
goo [国語辞典] より
反論になっていない、とは例えば、相手の主張に異を唱えているように見えて、実は相手の主張に賛成している、といった特殊な状況でなら分かります。が、私は明らかに反対の意見を述べました。
仮にその反対の意見に論理的矛盾があったとして、反論になっていないわけではありません。仮定を立て、それを出発点として何かを否定したとして、反論になっていないとは言えません。私が仮定を明示しているのに対し、ろばQさんは仮定を暗示している、という違いがあるのみです。あらゆる論述には明示的・暗示的に必ず仮定が存在します。意図する論点を明らかにするには、明示した方が良い、というのが我々の考え方です。
逆に質問しますが、実質的に (CSS 対応 UA を対象に) CSS で width / height プロパティが natural size として利用されていれば、CSS の仕様にかかわらず、natural size を与える手段として CSS が使えるんでしょうか? 実質的に使われている事を論拠とするならば、時に b tag だって見出しの代わりになります。
http://www.netlaputa.ne.jp/~robaq/200206.html#diary20020607_3 より
natural size(画像本来の幅と高さ)を与える手段として、CSSを使うことはできないでしょう。CSSは表示についてしか語りませんから。
B要素を実質的に見出しにする場合、Heading要素という正式なものがあるため、それを使うのが明らかにベターですから、width、height属性をnatural sizeとして用いることとはその点、異なります。実質的に使われているからといって、B要素を見出しの代わりにすべきではありません。
また私は、実質的に使われていることを論拠として、width、height属性が、natural sizeの代わりになる、とは主張していません。私は、実質的にnatural sizeとして利用されているwidth、height属性は、CSSでは代替できない、といったに過ぎません。そしてそのような場合、構造と見栄えの分離と称して、外部CSSを利用すべきではない(できない)のです。どうして B要素と見出しの話が出てくるのでしょう。
その他、私がW3Cによる「定義」に疑問を呈している部分を引用し、「それが定義です」と仰いますが、それは承知しているところですので、何も申し上げることはありません。
また、あるブラウザの挙動について論じる時、論拠をすべて仕様に求めて、それ以上は考察しないのならば、議論する必要も考える必要も全く無く、ただ、仕様書を読めば良いだけになります。しかし、agendaは考えるコンテンツですから、考えるなと言われても困ります。
ここではろばQは積極的に書くべきではないといっているだけで、その理由は一切述べておりません。と言う事はそふぃあさんの引用させていただいた部分についてのみ、否定しにかかったものだと思われて差し支えありませんとは、width と height の否定論だったので、理由に関わらず否定した、と思われて差し支えありませんと言っているような物です。冒頭の不特定多数の読者を説得するという目的云々とあわせて読めば、言論封殺を目論んだアジテーションと言う事になりますが?
引用させていただいた部分についてのみ、否定しにかかった
とは、要するに「書くべきではない」という意見に反論しただけという意味です。そのため、ゼロからの考察になっており、議論する意図で書かれたものではないということです(丁寧語が廃されているのはそのためです)。従って、私にとっての論点は、この時点では「書くべきか否か」という漠然としたものであり、意図的にずらしたわけではありません。もちろん言論封殺など目論んでいませんのでご安心下さい。
ただ、この文書に対する反論
と書いたのはこちらのミスであり、誤解を生んでしまって当然です。申しわけありませんでした。
何故、多くの人は img tag には height と width 属性を書いた方が良い、と言っているかと言うと、img tag が出現すると (一般的な) UA は img tag で指定された画像の大きさが不明な間、続く内容の表示する事ができず、結果文書全体の表示速度が遅くなる (逆に言えば img tag に height、width 属性を書き込むと表示が速くなる) からだそうである (ろばQはこれ以外の論拠を聞いた事がないので以降、これを唯一の前提として論を続ける)。
img tag に height、width 属性は書くべきではない。 より
これが唯一の前提、だそうですが:
なにが言いたいのか釈然としません。
何れにしろ、前提にはなっていません。
- 前提
- (1)ある事が成り立つためのもとになる条件。「他言しないことを―に打ち開ける」「原状回復を―に貸与する」
(2)〔論〕〔premise〕推理において結論が導き出される理由ないし根拠となる命題。⇔結論
goo [国語辞典] より
論と言っているので(2)の意味でしょうが、前提から何も導き出されていないので、前提にはなっていないのです。仮に(1)の意味だったとしても、必要条件ではないので、やはり前提にはなっていません。
私の主張とは全く別の側面から、width属性、height属性が見た目以外の役割を果たす場合を例示されています。
この a / area の shape / coords は、img (あるいは object) の width / height に対応して記述されるものです。width="100" height="100" の img に対する coords="0, 0, 50, 50" と width="200" height="200" の img に対する coords="0, 0, 50, 50" では全く意味が異なってしまう以上、shape / coords の定義されている(すなわち width / height が論理的な意味を持ちうる) HTML では、img の width / height を明示すべきと考えた方が良いと思います。
http://math.oheya.to/markup/notes/0206.html#day02-2 より
width属性、height属性の値によっては、shape、coords両属性の持つ意味が異なってくる、という特殊な例ですが、両属性の性質を再考する上で良い例かと思われます。私は思索する機会を得、おかげ様で完全に迷いを吹っ切ることが出来ました。
ちなみに、HTML鳩丸倶楽部では、CGI やコンテント・ネゴシエーションによって違うサイズの画像が得られたりするようなケース
が挙げられています。が、これは制作者の意図する視覚情報のサイズが不定のため、記述できないだけです。不定であることを示す値はありませんから、記述すべきでないというより、できないと考えた方が良いと思います。すべきでないとは一言も書かれていませんが。……その辺はさすがというか。
(注意:W3Cに喧嘩を売る内容です)
IMG要素は空要素であり形式的には内容を持たないが、制作者がIMG要素を用いて何を伝えようとしているか、それが本質的な内容であるから、「画像を用いた視覚的な情報」がIMG要素の内容である。
いや、IMG要素の本質的内容は画像データそのものである、とする場合、以下成り立ちません。
画像本来のサイズが、その性質の一部であることは自明である。
ここで、制作者の上書きしたサイズが、論理属性の定義を満たす(情報の内容の性質であると言える)かどうかを検証する。
制作者は、IMG要素を用いて、ある視覚的な情報を伝えようとする。その視覚情報の性質は、制作者の意図に基づく筈である。画像のサイズを変更しようと考えた際、PhotoShopで画像を拡大・縮小することと、width属性値、height属性値を変更することに、どれほどの違いがあろう。つまり、制作者が伝えようとする情報が内容なのであって、その性質を属性値に収めることは情報を伝える行為に直結する。
従って、制作者が上書きしたサイズは、情報内容の性質であるといえる。
以上より、IMG要素の width属性、height属性は(情報の内容の性質を伝えるものであるから)論理属性である。
ろばQさんは、先日の私の文章に対して、反論になっていない
、議論になっていない
等のレトリックを用いて中傷し、それについての説明をされていないようなので、対抗言論を用意して待っております。
ろばQさんの作成されたimg tag に height、width 属性は
書くべきではない。(6月4日現在)の論理的な不備や矛盾を指摘し、ろばQさんの議論能力を否定するものになっておりますので公開を差し控えておりますが、反論になっていない
等の論拠を示す意思を確認できない場合、公開する予定です。ご了承ください。
もしレトリックではないと仰るなら、反論の意味、議論の意味を辞書で調べることから始めて下さい。それから、前提の意味も予め調べておくことをお勧めします。
ろばQさんから再反論を頂きました。論点がずれている
とのことですが、自説のコアに有利な仮説を立てて説得力を補うのは、不特定多数の読者を説得するという目的の上では合理的であるという判断で行っています。が、今回はろばQさん個人の主張に対してまともな反論をする、つまりろばQさんの主張をより堅固なものにするため、という主旨で書いてみます。
結論から先に書きますと:
「width、height属性を記述したことによって一部のブラウザでalt属性値の可読性が損なわれることは、ある条件の下でアクセシビリティ的に問題があるものの、致命的であるとは言い難く、また、根本的原因はwidth、height属性にはないので、width、height属性を記述べきではないとは言えない」
(仮定)画像を非表示にした際、グラフィカルブラウザはIMG要素のwidth、height属性を無視するのが正しい。
不具合のあるブラウザの使用と、ユーザーの自助努力の否定を前提にすると、アクセシビリティの問題は幾らでも発生します。それをもって「致命的」と評価し、否定論を展開するのは行き過ぎだと、私は思うわけです。
「ある条件の下、起こりうる問題の指摘」であるなら、私は何も反論はできません。しかし、img tag に height、width 属性は書くべきではない。を読んだ(2002年5月24日)限りでは、「原則として否定」しているように見受けられました。誤読なのでしょうが、その2で登場したような前提が明確に記述されていないので仕方ないと思います。しかも、文書タイトルからして「原則的に書いても問題がない」とする私の考えとは真っ向から対立するものだと考えてしまったわけです。
ちなみに、私の立てた「仮定」は、正しいか否かその正当な論拠を見つけることができませんでしたが、おかしな仮定であるとは言えないことは確かです。つまりwidth、heightを無視しないことによって、何らユーザーに利益は生じませんから[仮定の信憑性]。
この仮定を破棄した場合、つまり「画像を非表示にしても、width、heightの評価を保持すべきである(保持するのが正しい挙動である)」とした場合についても考えてみます。あまり意味がありませんが。
この場合、「ユーザーが画像を再表示させることができない止むを得ない理由」を詳しく論じる必要がありましょう。私の小さな頭では:
という理由しか思いつきません(他に止むを得ない状況があるなら、それらを列挙するべきでしょう)。このサーバーの不調が原因のアクセシビリティ障害ですが、これは読んで字のごとくサーバーの不調が原因であって、width、heightの否定論の論拠とするには足りません。何か書けるとすれば「具合の悪いサーバー対策としてのwidth、heightの扱い」、という形になります。CSSに対応しているブラウザは少ない、だからCSSは駄目だ、と言えないのと同じです。
また、ろばQさんの主張への反論とは無関係ですが、私には幾つか「width、heidth属性否定論」を否定したくなる理由があります。
多くの制作者はユーザーの利益を考慮して、width、height属性を指定しています(所謂spacer.gifを除く)。target=_blankのように、何も損なわずに完全にベターな方法が存在するものを否定することとはわけが違うんです。パレート最適という言葉をご存知なら話は早いのですが、ともかく、一方は改善されるが、一方は悪化するという場合には、読者に判断材料を豊富に提供する必要があると思うのです。つまり否定論の前提は箇条書きにでもして、冒頭で明示すべきです。
もう一つ私が恐れるのは、width、height属性はプレゼンテーション要素だから、それらは外部CSSで指定すべきだ、という思想の台頭です。極右Strict派が、それを声を大にして唱え始めると、多分一般のauthorは「引き」始めます。何故ならあまりにも非効率だからです。では何故非効率になってしまうのでしょう。プレゼンテーションと文書構造は分離した方が効率的であること、それがCSSの理念の一つであるのにも拘わらず、です。それゆえ、本当にIMG要素のwidth、height属性がプレゼンテーション要素と言えるのかどうか、それは考える余地があるのだ、と、釘を刺しておきたいと思い、前回の反論を書きました。そのため、ろばQさんの主張全体に対する反論としては愚文となっています。あれは、引用させていただいた部分についてのみ、否定しにかかったものだと思われて差し支えありません。お手数をおかけしました。
When specified, the width and height attributes tell user agents to override the natural image or object size in favor of these values.と明言されていました。所謂プログラムのコマンド (= 命令) とは違いますが、少なくとも HTML 4.01 の仕様に沿って img と height、width を解釈するUAは可能であれば height と width の属性値通りにレタリングをせねばならない様です。
img tag に height、width 属性は書くべきではない。 その 2。 より
私はこのtellが納得いかなかったので「HTMLは命令ではない」を「仮定」としたのです。個人的には、width、heightを値通りにレンダリングせず、別の形で利用するUAがあっても問題ないと思っているからです。私は、この一端の記述ではなく、HTMLの「理念」の方を尊重します。
HTML has been developed with the vision that all manner of devices should be able to use information on the Web: PCs with graphics displays of varying resolution and color depths, cellular telephones, hand held devices, devices for speech for output and input, computers with high or low bandwidth, and so on.
HTMLが何か特定のレンダリング方法を「指示」「命令」しだしたなら、この理念は失われます。私はHTMLは飽くまで、UAに「告げて」いる、或いは「ある概念をこう理解せよと命令」しているだけなのだ、という一貫した解釈をしています。
例えば、画像をかき集める為の専用ツール(UAの一種)は、IMG要素を解釈するでしょう。画像はレンダリングせず、ハイパーリンクリスト等を提供します。しかし、ユーザーに、その画像に指定されているwidthとheight属性値を参考情報として告げたとしたらそれは間違いでしょうか。この場合、このUAは、明らかにwidth、height属性をプレゼンテーション要素とは解釈していません。要するに、W3Cの両属性の定義が納得いかないといったところです。どうも私は信者失格らしいです。しかしまあ、「推奨しない」とは言っていませんから、まだ十分信頼はしています。が、もし今後、naturalwidth、naturalheightのような代替となる属性も定義せずに「非推奨」にされてしまったとしたら、信頼はがた落ちですね。何故なら、画像の本来の幅と高さの情報は、本質的にプレゼンテーション要素ではないからです。
もちろん定義として「画像の本来の幅と高さの情報」イコール「現存のwidth、height属性」でないことは明らかです。しかし実質的にイコールに近いからこそ、それが失われた時にユーザー体験全体として莫大な損失が予想されるわけです。W3Cの「定義」に固執する価値を、私は感じません。一応念を押しておきますが、BLOCKQUOTEタグをインデントとして利用するのとはわけが違います。インデントはCSSで代替できますし両者は全く異なる概念ですが、実質的にnatural sizeとして利用されているwidth、height属性は、CSSでは代替できません。もとい表示整形においてのみ代替可能ですが、著しく非効率です。
正字正かな専門サイト言葉 言葉 言葉と、その周辺リソースとのおびただしい量のリンク(関係性)が失われた模様で……。
一体何が原因で、誰が何の為に……
。信じられないというのが正直なところですが、分からない部分が多々あるので当分の間はtnstyle.cssを使って無言の訴えをしてみます。
しかしそもそも野嵜さんは見ているのでしょうか。