中山道入門| 旧中山道の仲宿商店街では年間を通してこれを冠したイベントが企画されています。そこで中山道により親しんでもらうため、中山道の歴史をひもとくことにしました。 さて、徳川家康が、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの後、まず手をつけたのは、街道の整備でした。江戸から京都に至る東海道五十三次を定め、次いで慶長七年(1602)中山道六十三次、引き続き奥州道中、甲州道中、日光道中の五街道を幕府の直轄地とし、宿駅や道程を成立させた。いずれも日本橋がその起点である。 右図の道路元標は、日本橋の橋のまん中に埋め込まれており、見る際には注意が必要ですが、橋の神田寄りの「元標の広場」にレプリカがあります。 |
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![]() 中山道六十九宿 |
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”女街道”と呼ばれた中山道 中山道は江戸日本橋から京都三条大橋まで結ぶ約百三十五里二町(約534q)の街道です。上記の地図は、六十九宿の宿場を印したものです。草津では東海道で合流するので六十七宿とするものもあります。東海道が温暖な太平洋岸を通る海の道に対し、中山道は険しい碓氷峠や木曽路を通る山道でした。そこで東海道の五十三次、百二十六里余りに対し、中山道は距離も長く宿場の数も多かった。 しかし大井川・天竜川・冨士川などの川留めや、宮−桑名間のような海の船旅もないので、女性に人気のある女街道でした。 九代将軍徳川家重、十代家治の御台所(正室)を京都から迎えた時、また幕末に皇女和宮様が十四代家茂に降嫁する東下りの時、いずれも中山道を選んでいます。 |
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| 江戸四宿のひとつ「板橋宿」 日本橋を発って中山道の最初の宿場が板橋宿です。江戸の四宿のひとつで、品川宿、内藤新宿、千住宿とともに、多数の食売女(飯盛女)もいて、送り迎えの人々共々賑わったといわれてます。また、昔の旅は命がけ、ここで”水さかずき”をくみかわして別れを惜しんだ人もいたようです。 |
江戸末には庶民も旅に 下諏訪は、中山道と甲州街道、鎌倉街道が交わる交通の要所です。今でも、”江戸から五十五里”の一里塚の碑が残っているとのこと。また、諏訪大社の門前町としても栄えた宿場町で宿も整っていたそうです。 江戸も末頃になると、庶民も旅に出られるようになりました。それまでは、参勤交代の大名行列や宮家の降嫁の行列、公用旅行者が主だったわけです。 一生一度のお伊勢参りは有名だが、中山道沿いにも、上野国の妙義山や榛名山への参詣、諏訪大社や善光寺参りなどがある。京へ上がるにも、道中に景勝地や名所旧跡が多いので中山道を利用する人々も増えたといいます。 |
中山道は木曽街道とも 「木曽路はすべて山の中である。あるところは岨づたいに行く崖の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曽川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入口である。……」 藤村の「夜明け前」の冒頭の一節ですが、中山道六十九宿のうち十一宿が集まる木曽路は、険しい山道が続く難所である。 上図「中山道六十九宿」によれば、贄川、奈良井、荻原、宮ノ越、福島、上松、須原、野尻、三留野、妻籠、馬籠の十一宿。 下記の広重・英泉の浮世絵では、中山道を木曽街道と言っています。木曽谷を中心とする山路であることを強調したものでしょう。 妻籠や馬籠では早くから保存条例を作り、住民の協力により今も昔ながらの町並みが保存されています。若い女性の観光スポットになっているところです。 木曽福島は幕府がおいた天下四大関所のひとつで、江戸を守る重要な拠点でした。 関所では通行手形がないと通れず、特に「入り鉄砲に出女」を警戒しました。 |
| ●広重・英泉作『木曽街道六拾九次』について 『木曽街道六拾九次』は天保六年(1835年)頃着手され、当時、美人画で名をはせた渓斎英泉(1791年〜1848年)が手がけ、途中、『東海道五拾三次』で成功を納めた歌川広重(1797年〜1858年)に受け継がれました。 艶やかな美人画を得意とする英泉と、叙情的風景を描く広重という、作風の異なる二大作家による連作は、他の風景画にない異色の魅力を持つ大作中の大作と言われています。 英泉はシリーズ中24図を描いていますが、作風は漢画のタッチを生かした、やや硬い調子のものが多く、広重ほど「幽玄」「わび」「さび」「哀愁」をたくみに表現するセンスには及ばなかったため、それほど人気を獲得するに至らず、ついに深谷宿、本庄宿のあたりで挫折してしまいます。 そして、広重の作品が占める割合が多くなり、最終的には英泉のほぼ倍の46図を描く結果となりました。広重はこの作品により、さらにその名声を高め、広重の出世作とも言われています。 なお、この『木曽街道六拾九次』は、第四十六宿の中津川が変わり図で2枚描かれ、更に起点の日本橋が加わっているため、総点数は71枚となっています。 その中から、木曽路の十一宿を描いてある11枚を、北から南へ紹介します。 |
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■第三十四宿 「贄川(にえかわ)」 【広重】 (長野県木曽郡楢川村贄川) 木曽路十一宿の北端の宿場。絵の軒先の看板に、このシリーズの彫師、摺師、版元の名前がある。馬の尻に書いてある三十四とは贄川宿の宿番を示す。 |
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■第三十五宿 「奈良井宿・名産店之図(ならいしゅく・めいさんてんのず)」 【英泉】 (長野県木曽郡楢川村奈良井) 鳥居峠越えを控え、一夜の宿をとる旅人が多く「奈良井千軒」と言われるほど栄えた宿場。看板の「名物お六櫛」は、この地方の特産品で薮原宿の方が有名。 |
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■第三十六宿 「薮原・鳥居峠硯清水(やぶはら・とりいとうげすずりしみず)」 【英泉】 (長野県木曽郡木祖村薮原) 難所だった鳥居峠(標高1,197m)を越え薮原宿に。左手の松の根本に、木曽義仲が願文を書いたという硯清水がある。はるかに見える山は御嶽山。 |
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■第三十七宿 「宮ノ越(みやのこし)」 【広重】 (長野県木曽郡日義村宮ノ越) ここは木曽義仲ゆかりの地で、平家追討の挙兵の地、旗上八幡宮がある。絵は、夜霧を表現するシルエットの処理が見事で、近景はくっきりと遠景はぼかした技巧的に優れる名作。 |
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■第三十八宿 「福し満(ふくしま)」 【広重】 (長野県木曽郡木曽福島町) 福島は木曽谷の行政と経済の中心地。碓氷、箱根、新居と共に天下四大関所の一つがある中山道要の宿場。中山道のほぼ中間地点。信仰の山御嶽山への玄関としても賑わっている。 |
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■第三十九宿 「上ヶ松(あげまつ)」 【広重】 (長野県木曽郡上松町) 上松には「木曽八景」のうちの五景がある。その一つ「小野の滝」が描かれている。付近には中山道随一の景勝地と言われた「寝覚の床」がある。 |
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■第四十宿 「須原(すはら)」 【広重】 (長野県木曽郡大桑村須原) 宿場の中の水舟が風物。絵は宿のはずれの名刹「定勝寺」の境内だといわれる。激しいにわか雨に虚無僧の雨宿り、遠景の描写を墨色で表現し、雨の旅情を感じさせる。 |
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■第四十一宿 「野尻・伊奈川橋遠景(のじり・いながわばしえんけい)」 【英泉】 (長野県木曽郡大桑村野尻) 「野尻の七曲り」という外敵から町を守るために左右に曲がりくねった宿場の町並みが残る。絵は伊奈川橋を中心に描いており、左手奥に「木曽の清水寺」といわれる岩出観音がシルエットで描かれている。 |
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■第四十二宿 「三渡野(みどの)」 【広重】 (長野県木曽郡南木曽町三留野) 妻籠宿と並び栄えた宿場である。十二万体を夢見て全国行脚した円空の仏像が宿場内の等覚寺にある。絵には紅白の梅が咲き、春の訪れを告げている。 |
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■第四十三宿 「妻籠(つまご)」 【広重】 (長野県木曽郡南木曽町妻籠) 現在でも江戸時代の町並みをよく残しており、木曽路を代表する観光地として有名。伊那谷への分岐点でもある。絵は、馬籠峠を描いてある。 |
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■第四十四宿 「馬籠駅・峠ヨリ遠望之図(まごめえき・とうげよりえんぼうのず)」 【英泉】 (長野県木曽郡山口村馬籠) 妻籠宿と馬籠宿の間には馬籠峠(標高801m)がある。峠からは南に恵那山が眺められる。峠を下ると島崎藤村の生誕地であり、名作「夜明け前」の舞台になった馬籠宿。 |
●中山道 Q & A
| ■参勤交代で中山道を利用した大名は? |
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江戸幕府の大名統制のための制度に参勤交代があります。原則として一年在府、一年在国とし、その妻子はいわば人質、江戸居住を強制していました。従って国もとには側室を置くことにもなりました。 制度化されたのは寛永十二年(1635)の「武家諸法度」で、最初は外様大名を対象としましたが、後に譜代にも及んだ。 これにより諸大名は一年ごとの参勤(参府)と交代(帰国)をすることになります。ただし関東の大名は半年交代、遠隔地も大名は三年ごと、六年ごとに一年の参府などの特例もありました。 そこで中山道を利用したのは加賀百万国の前田家を筆頭に、越前・越中・越後、つまり福井や富山、新潟などの諸藩、信州の松代・上田、武州の川越・上州の高崎た館林など30〜40にも達します。 小大名の一行は百人くらいですが、前田家の場合は二千人にも達する大行列でした。半年以上も前から宿泊の本陣を決め、本陣の家屋の手入れなどをする。修理費はもちろん藩持ち。多数の家臣や従者の宿割り、昼休・小休場所などの決定と今も昔も大所帯の旅は大変なものです。 江戸時代を通して、加賀前田家の参勤交代は188回にも及んでいましたので、その出費も莫大なものであったでしょう。 外様であった前田家は、上屋敷を現在の本郷東大に、中屋敷を駒込に、下屋敷を板橋に持っていました。いずれも中山道沿いで、交通上、軍事上、重要な地点をおさえていたわけです。 |
![]() 東大赤門 徳川11代将軍家斉の息女が前田家へ輿入れする時に建造されたもので、「御守殿門」という |
![]() 「大名行列図屏風」 石川県立歴史博物館所蔵 実物はもっと長いのですが、これはその一部です。 |
| ■中山道設立以前は道がなかったの? |
| 江戸幕府によって五街道のひとつとして造成された中山道ですが、それ以前にも道はありました。「東山道」と呼ばれ、古代から中世にかけて東と西を結ぶ重要な道でした。大化の改新により駅制などが整備され始め、道も出来てきたという記録があります。 中世になると、鎌倉に武家政権が誕生、御家人たちが「いざ鎌倉」と駆けつける道が必要となりました。各地にあった道が結ばれ、鎌倉へ至る道、鎌倉往環(鎌倉街道)がそれです。 されに戦国の群雄割拠に時代には、例えば武田氏が木曽路の伝馬の継立を行うなど街道や宿駅を設けていました。 このように中山道が、東山道を基に、一部では鎌倉街道や戦国時代に設けられた道を改修し造成されたのです。 さて、中山道は、別に中仙道とも書いていましたが、江戸幕府は正徳六年(1716)、公式に中山道と記すことを命じている。 その触書には「五畿七道之中に東山道、山陰道、山陽道いづれも山の道をセンとよみ申候。東山道の内の中筋の道に候故に、古来より中山道と申事に候」と説明しています。地名に詳しい新井白石の意向による、とも。 さらに前述のように、木曽路を通ることから、木曽街道、岐蘇路、岐祖路とも言われ、東海道に対し、単に「山道」とも呼んでいたとのこです。 東と西を結ぶ街道は人の交通ばかりでなく、米や物資の輸送、商品荷物の運搬に利用され、次第に宿駅の施設も整備されました。 |
| ■江戸から京都まで旅をするのに何日かかったの? |
| 「お江戸日本橋七ツ立ち、初のぼり、行列そろえてあれわいさのさ、こちゃ高輪 夜明けの提灯消す、こちゃえこちゃえ」の歌にあるように、出発は七ツ、朝まだ早い午前四事でした。 早く出発して明るいうちに次の宿場に着くようにしていました。追いはぎなどの危険もあったからです。 では、一日、どのくらいの距離を歩いたのでしょうか。 昔の人は男の人で九里、つまり約35q、女連れでも、五、六里(20qから25q)を一日で歩いたといわれます。 従って江戸日本橋から京都の三条大橋まで、男性で十四から十五日、女性でも十八日〜二十日くらいで歩いたようです。すごい健脚です。 そこでいったい旅費はどのくらいかかるものsわようか。 文化年間、1800年頃の宿代は一泊二食付きで100文〜200文、換算すると1500円〜3000円。昼食代は50文〜80文(750円〜1200円)だそうです。その他疲れれば馬や籠を使ったかもしれないし、酒代や団子代もかかります。 とすれば、江戸から京都までの旅費として、今のお金で片道10万円〜12万円、往復だと25万円くらいは用意していなければなりません。当時の金では片道二両、往復四両というから大変な額です。 江戸後期、文政十三年(1830)には、お伊勢参りに四ヶ月間で400万人が行ったいう記録があります。すごい人気です。 |
![]() 広重画/東海道・日本橋 「お江戸日本橋七ツ立ち・・・」と西へ向かう大名行列出立の図 |
![]() 志村一里塚 |
| ■一里塚は何のためにあるの? 追分けって何? |
| 「くたびれた奴が見つける一里塚」と江戸川柳にあります。 街道の一里ごとの塚が築かれ、主に榎が植えられていました。中山道の場合、榎が60%近く、松が26%、あとは栗、杉だそうです。旅人はこれを見て、やっと五里歩いた、あとは何里だ、と目印にし、また馬や籠の駄賃の目安としました。 中山道の最初の一里塚は、本郷追分町、江戸末にはすでの塚はなくなっていたとのこと。現在、高島屋酒店の左横に一里塚跡の解説板があります。 二つめは現在の埼京線板橋駅そばの平尾一里塚(板橋3−1)、次にある日本橋から三里めの志村一里塚(志村1−2)は、当時を彷彿させる姿で残っています。国指定の史跡です。 天保末年(1840頃)の調査では、板橋宿から草津宿まで百二十六里余ありますが、その間に一里塚は107ヶ所あったとのこと。初めは一里ごとにちゃんとありましたが、次第に崩れたり枯れたりしたのでしょう。 中山道の最初の一里塚は本郷追分町にありましたが、追分という地名は各所にもあります。もともとは牛や馬を追って行く者が、分岐点で左か右に追い分けるところからきた言葉。本郷追分は中山道と日光御成道との分かれ道でもあります。追分節などの民謡や追分団子もここから生まれました。 「追分節」は中山道と北国街道との分岐点である信濃追分で唄った馬子唄が嚆矢。声を長く引いて悲哀をおびます。越後追分、江差追分などの民謡も。 |
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■「駅」ってな〜に 宿駅、宿場、伝馬は 駅伝もルーツ |
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| 冬の風物詩ともなっているスポーツの「駅伝」、一本のタスキを受け渡していく駅伝のルーツは遠く奈良、平安時代の律令制から始まった通信、交通運搬の手段、「駅制」です。これは、手紙や物、人やお金の乗継ぎの地点で、だいたいが交通の要所、現在の電車の「東京駅」などの「駅」の呼称のルーツでもあります。 この駅には人や馬が必要だし、宿や商店も整えられ、そこが次第に町として発展したもので、江戸時代は「宿駅」、「宿場」、単に「宿」といわれるようになりました。 この駅制を再編整備したのが徳川家康sw、1601年に東海道、翌1602年には中山道の宿場が設置され「開道年」とされました。 宿駅は公用のために設けられたもので、公家、大名、旗本などの交通、通信、運搬に供せられ、寛永期(1624〜1644)には幕府道中奉行の支配するところとなり、中山道では各宿、人足が50人、伝馬は50頭の整備が課せられたのです。 伝馬を供給する問屋があり、役人の出張所もありました。また、、大名などの貴人の宿泊施設である本陣が設けられ、これに収容できない一行を宿泊させる脇本陣も設けられた。これは、1635年、参勤交代の制度化にともなって公式化されました。 もちろん一般の庶民も街道を通行します。宿場にはこのための旅籠や木賃宿、茶店、遊女も登場して繁盛しました、この宿駅制は明治五年に廃止されました。 |
![]() 江戸図屏風 「板橋宿」 |
![]() 江戸名所図会 「板橋驛」 |
| ■足が命の「飛脚」っていったい何をする人なの? |
| 飛脚、「飛ぶ脚」と書き、文字通り「早く走る者」という意で、手紙などを運ぶ人のことです。IT時代の今は、通信の手段は多様化していますが、江戸時代までは、人の足か馬の脚に頼るより仕方なかったのです。 公用のものは「継飛脚」といい継所から継所に問屋の人夫が運びました。このほか、「大名飛脚」もあり、また一般の人が利用する「町飛脚」、江戸の「定飛脚」がありました。 書状一通を江戸から京へ運ぶのが一二四文で20日ほど要しました。早飛脚は7日を限り、その費用は3倍もかかりました。 飛脚屋井筒屋にいた木村長七は自伝のなかで、「江戸から京は三日半、飛脚ははだかで昼夜兼行で走り、宿場で継いていく」と記しています。実にすごいです。 継飛脚は「御用」の提灯持ちが先を走り、その後に状箱持ちが続くというスタイル。左図は江戸名所図会の「板橋驛」の部分で」、この様子がよく分かります。 飛脚は運んだのは手紙や書状だけではありません。荷物も、そして金子も為替も運びました。商業の発展でお金のやりとりが頻繁となるが千両箱を運ぶのはたいへん。そこで遠隔地間で現金を運ばずに決済する「為替」が発達しました。 路銀がなくなった黄門様が、格さんに問屋に為替が着いていないか、聞きに行かせるシーンがテレビにしばしば登場してきます。この「為替」は現在も郵便局で扱っています。 とにかく脚が命の飛脚です。 |
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