健康の周辺 獣としての人間をめぐって

   

 

この20年くらいの医療の進歩は実に目覚しいものがあります。CTやMRあるいは超音波といった診断機器の進歩により、体の中が透けてみえるようになったといっても過言でないくらいです。胃潰瘍、高血圧、高脂血症といった病気の治療も格段に進歩しました。結核といった、以前には日本できわめて深刻であった病気の脅威も大いに軽減してきています。人類の歴史は少なくとも二百万年以上といわれていますが、しかし、そのなかで、現代医療の恩恵に浴せているひとは、たかだかここ百年以内のかたにかぎられるわけです。このような急速の進歩は、このままずっと続いていくのでしょうか?

われわれは今、一種の閉塞感の中にいるように思います。これはわれわれ日本人に限ったことではなく、少なくとも先進国にひろくみられることのように思います。フランシス・フクヤマという人が、一九九一年に「歴史の終わり」という本を出しました。これは社会主義圏の崩壊をふまえて書かれたものですが、世界の体制は「リベラルな民主主義」という体制以外に選択の余地がないことが明らかになった、いろいろな体制が優劣を競っていた歴史は終わってしまった、と主張しています。しかし、同時に、その歴史が終わった社会は、必ずしも希望に満ちたものではなく、ニーチェのいう「最後の人間」、気概を欠く「胸郭のない人間」の跋扈する無気力な社会となる危険が極めて高いことも指摘しています。

科学の世界にも同様な見方はあります。昨年日本で翻訳紹介された「科学の終焉」という本は、もはや科学に発見可能なことはほとんど発見しつくされてしまったのではないか、これから科学にはやるべき大きな仕事は残されていないのではないか、といった見解を示したものとなっています。

アインシュタインが相対性原理を提唱する直前の物理学界は、ちょうどこの「科学の終焉」に描かれたような、もはや新しい発見など何も期待できない、やることは残されていない、という見方が大勢であったといいます。クーンは多くの議論を呼び「パラダイム」という流行語をつくりだした「科学革命の構造」のなかで、科学者の大部分は真理の探究にかかわっているわけではなく、その時支配的である見方(パラダイム)を補強することに従事しているのだと主張しました。クーンによれば、そういうパラダイムが崩れて新しいパラダイムに置き換えられることが時にあります(たとえば、ニュートン力学からアインシュタインの体系への変換などのように)。アインシュタインの場合にも見られるように、パラダイムの変換はいつ生じるか予想できません。ですから、これからも、いつそれがおきるかはわかりませんが、そのようなパラダイムの変換がおきない限り、科学の世界もある種の行き詰まりを打開することは難しいのかもしれません。

医療の世界も最近の目覚しい進歩にもかかわらず、一種の行き詰まりに直面しているように思えます。現在まで医療を支えてきたパラダイムは「二分法」的見方であったと思います。それは「こころ」と「からだ」をわけて考えることが可能だ、ということを前提にしています。そして、もっぱら分離した「からだ」のみを医学の研究対象にしていくというやりかたで急速な進歩をとげてきました。しかし、その見方はまた、現代の混乱とも深くかかわっているように思えます。

最近出版された「日本人の心のゆくえ」の中の「援助交際というムーブメント」の章で、河合隼雄氏は、「こころ」と「からだ」を明瞭に分離して考えられという見方を批判し、「こころ」と「からだ」を分離せず、それらを統合していく第三のものとして「たましい」という要素を導入する必要があることを主張しています。援助交際をしている少女たちは、「他人が喜び、自分も楽しく、誰にも迷惑をかけない行為がどうしていけないのか?」と問いかけます。もし「こころ」と「からだ」が簡単に分離できるものならば、その言葉には誰も反論できない、しかし、「こころ」と「からだ」を割り切って考えると「たましい」という大切なものが抜け落ちてしまう。「たましい」がなければ、人間は人間として生きていけない。援助交際は「たましい」に悪いのだ、そう河合氏は主張しています。

河合氏のように、人間を二分法的にでなく三分法的にみる見方の一番古典的な例としては、プラトンが「国家」の中で展開した「たましいの三分説」があります。プラトンは「たましい」を「欲望」「理性」「気概」の三つにわけました。この「気概」の原語は thymos で、「覇気」とか「気迫」とかとも訳せる語であり、プラトンが理想国家の指導者に不可欠とした資質です。プラトンあるいは河合氏の三分法をもとにし、プラトンの「気概」あるいは河合氏の「たましい」の観点から現代の医療をみてみると、医療がどのように見えてくるかということを、これから少し考えてみたいと思います。医療は、多くの場合「からだ」をあつかいます。時には「こころ」をあつかうかもしれません。しかし「気概」とか「たましい」にはかかわることもしていないし、かかわることさえできないのかもしれません。それが現代医療の問題点であり、二分法という医療のパラダイムがもつ弱点ではないかと考えるからです。

最近、医療の評判はよくありません。医者は病気ばかりをみていて、病人をみない。「病気」を見るのではなく「病人」をみろ、もっと人間全体をみろ、といようなことがよくいわれます。しかし、医療が「気概」とか「たましい」といった、ひょっとすると人間の一番大事な部分かもしれないところにふれるとこさえもできないとしたら、それは医療にとって、自分の能力をこえた無理難題であるのかもしれません。そして、「こころ」と「からだ」を分離して考えられるという見方は単に医療の世界ばかりでなく、あるいはまた援助交際をしている少女たちばかりでなく、日本全体をおおっている見方でもあるように思います。この問題は医療をこえた問題かもしれないのです。

前に述べたフランシス・フクヤマの「歴史の終わり」は、実はプラトンの「たましいの三分説」と、ヘーゲルの歴史観に依拠して書かれています。フクヤマによれば、ヘーゲルは歴史を唯物論的に見ることなく、歴史は「モノ」によっては動かず、「人間」あるいは「人間の認知を求める闘い」がそれを動かすと考えました。この「人間の認知を求める闘い」という見方を西洋思想史にさかのぼって辿ってゆくと、その起源はプラトンの「国家」の「気概」にいきつくとフクヤマはいいます。冷戦後の世界が「リベラルな民主主義」に収斂してくるというのは、この「リベラルな民主主義」体制のみが、人間がお互いに認知しあうことを許容し、すべての人間の尊厳、プライド、自尊心といったものを保障できる唯一の体制であることが明らかになったからである、というのがフクヤマの主張の一番根本的な部分です。

われわれが現在暮らしているこの現代日本をふくめて、西欧先進国ではすでに現実のものとなっている「リベラルな民主主義」体制には、しかし、重大な欠陥がある、その欠陥の一番根源的な部分を指摘したのがニーチェであった、とフクヤマはいいます。ニーチェによれば「リベラルな民主主義」体制では、万人が自分の主人公になるのではなく、万人が平等な奴隷になるのだというのです。「リベラルな民主主義」体制では、ひとは「気概」を失い、「欲望」と「理性」だけをもとにして私利私欲による打算だけで行動する人間ばかりになるといいます。これが、ニーチェが「ツァラツストラ」でいった der letzte Mann ( the last man ) です。「歴史の終わり」の原題「 The End of History and the Last Man 」は、歴史が「リベラルな民主主義」体制に収束するとともに、そこで暮らす人間はみなニーチェのいうder letzte Mann になってしまう危険があるのではないか、というフクヤマに見方を示したものとなっています。「リベラルな民主主義」体制は平板で目標のない世界であり、充実した人生とは無縁な世界ではないか、そういう疑問に答える鍵として、フクヤマは「対等願望」と「優越願望」という言葉を提出します。人間が認知を求める場合、他人と対等であると認められたいという願望と、他人より優れていると認められたいという願望の二つの場合があるというのです。「リベラルな民主主義」体制は、その「対等願望」を実現するものではあるが、決して「優越願望」を保証するものではない。人間の尊厳とかプライドとかは、「優越願望」あるいはプラトンの「気概」に由来するものであるから、そういうものを保証できない社会は危うい、というのです。

竹内靖雄氏は最近刊行された「「日本」の終わり」で、日本をふくめた福祉国家というのは、「ひとはその能力に応じて負担し、その必要に応じて受け取る」というマルクスが「共産党宣言」でえがいた社会をほとんど実現しているのであり、じつは社会主義国家なのだといっています。社会主義とは、まさに「対等願望」の実現をめざすものです。竹内氏は、経済も人口もこれから成長することが期待できないこれからの日本においては、社会主義的福祉国家を維持していくことは不可能であるといいます。医療は福祉の中心に位置するものであり、今後そういう体制が維持できるか否かということは、医者であるわたくしにとっては切実な問題であります。しかし、その問題は今回は際措いておくとしても、「対等願望」を実現した「福祉国家」日本の現実がわれわれの健康観に大きな影響をあたえていることは間違いありません。

池田清彦氏は、現在かなりのひとは健康シンドロームとでも呼ぶべき病気にかかっているのではないか、といいます。 病気のことが気にかかって、ほかのことが手につかない、という状態は、それ自体が病気であるというのです。健康というと、すぐに酒とタバコのことが問題になるようです。タバコが健康に悪いことはあらためていうまでもありません。肺癌以外にもさまざまな癌の原因となりますし、心臓にも悪く、潰瘍も悪化させます。酒は一合から二合程度の酒は寿命を伸ばすともいわれており、タバコほど健康に悪いとはいえないかもしれませんが、タバコと異なりアルコール依存という重大な問題もかかえています。ですからもし人間から「からだ」をそれだけ分離して独立にあつかうことが可能であるとすれば、タバコも酒もまず、いいことはないことになります。しかし、「たましい」までふくめた、あるいは「気概」までもふくめたトータルな人間を考えるなら、それは必ずしも、悪いとばかりはいいきれないように思います。そうでなければ、これだけ明白に健康に悪いものが、今日まで連綿として人間の歴史の中で続いてきた理由がうまく説明できません。

晩年の吉田茂は、あなたの健康法はときかれて、「ひとを喰うこと」と答えたそうです。この言葉には、ある種の「気概」があるように思います。その吉田茂の息子である文学者の吉田健一が死んで、今年で二十年になります。その吉田健一氏の対談集が最近出版されました。その後書きで娘さんが父の吉田健一を評して「精一杯自分にとっての良い生を生きよう、この世に生を享けたからには、その生を納得していきよう、いや、もっと完全に、自分の生と自分との間に隙間がないようにしよう、そのように生きた」と言っています。大変に美しい言葉であると思いました。これもまた「気概」に通じるものであると思います。

吉田健一も一生、「人間らしさ」ということにつき書き続けたひとでした。吉田健一はヨーロッパ十八世紀の優雅を愛し、十九世紀の粗野な観念論を嫌ったひとでしたでしたから、ヘーゲルのような無骨な論とはまったく異なる語り口で語りました。吉田氏によれば、「文明の状態とは我々が人を人と思うということに尽きる」のですが、これは前から述べている、リベラルな民主主義こそが、人を人と認知できる唯一の体制であるという議論とつながるように思えます。 

しかし、吉田氏は「ヨウロツパの世紀末」のなかで、単なる民主主義だけでは文明ではない。文明を実現していた十八世紀のヨウロツパでのように、思いやりであるとか、人間の内面への洞察とかが当たり前に行われていて、そうした行為が、通常の礼節の一部と弁えられているような社会が文明なのである、といった趣旨のことを述べています。民主主義などというのは、ただそれがあるというだけでは、すぐに、文明につながるわけではないのです。

ニーチェというひとも人間の人間らしさということを考えたひとであると思いますが、しかし、吉田健一は、ニーチェ的なものを自分の考えから徹底的に排除したひとだったように思います。ニーチェの「ツアラツストラ」の最後にのほうに、「おお、人間よ、心して聞け。深い真夜中は何を語る?」ではじまる有名な部分があります。その中に、「世界は深い、/昼が考えたより深い。/世界の痛みは深い――、/悦び――それは心の悩みよりいっそう深い。」 といった部分があります。ここにある「世界は深い」 Die Welt ist tief といった表現、一般に「深い」「tief」といった表現、それが吉田健一が嫌い、かつ、一生かかって取り除こうとした見方であったかと思います。吉田氏は、深淵などというものはない、それはないのだから、本当にはないものをあると思うものは精神に異常をきたしているのだといいます。ニーチェが「超人」を目指したの対し、吉田氏はそれとは反対に、人間は、ただの獣、ただの動物であるとしました。しかし、その意味はなかなか複雑で、人間はただ存在しているだけでは「獣」にすらなれないのです。人間は、ただの「獣」となるためにも、文明人にならなければいけないのです。人間は文明をもつことによって、はじめて人間以外の動物なみになれると吉田氏は主張します。ニーチェは「頭」ばかりが肥大して、「頭でっかち」になった人間を批判し、そういう頭ばかりで貧血した人間を「最後の人間」と呼んで軽蔑して、もっと「胸」の大きな、胸郭の大きな人間になるよう呼びかけました。それに対し、吉田氏は、観念が異様に肥大して、自分のことを人間以外の動物とは隔絶した特別に優れた存在であると思うような人間の傲慢を批判し、そのような観念の肥大を捨て去ることによって当たり前の動物にもどることを主張したのだと思います。そういう観念へのとらわれを脱した人間を、吉田氏は文明人と呼びました。いってみれば、大きくなり過ぎた「頭」をもとに戻し、「頭」と「胸」と「下半身」のバランスのとれた美しい動物に、人間がもどることを考えていたのかと思います。

なぜ、わたしが吉田健一にこだわるのかといえば、それは、吉田氏が実に健康なひとであったと思うからです。あるいは健康であろうという意志が実に強固であって、その意志を一生貫いたひとであると思うからです。池田氏のいう「健康シンドローム」の対極にいたひとであると思います。娘さんの吉田健一評にあった「自分の生と自分との間に隙間がないこと」、これが健康ということなのだ、といったら、わたしの健康についての見方が少しはお分かりいただけるでしょうか?

今まで医療は、ただ生命の量的な側面のみを相手にしてきました。最近、ようやく Quality of Life 生命の質というようなことを言い出しましたが、ほとんど緒に就いたばかりであって、まだ、なにもできないというのが実状であると思います。そして、これからも、そういう点に大きな役割を果たせるか、はなはだ疑問のようにも思います。なぜなら、医療は、「気概」とか「尊厳」といったものには手も足もだせないからで、そういうものにかかわることさえできないでいて、Quality of Life 生命の質などというのは、ずいぶんとおこがましい、僭越な話ではないかと思います。

しかし、その病気の除去と生命の保全について、ある程度の達成があり、しかも、これからの進歩は当面大きく期待できないという「収量逓減」「科学の終焉」の時代にわれわれがおり、さらには、そもそも進歩という西洋を支えてきた大原則が終焉し「歴史が終」ろうとする時代に、もし、われわれが今入ろうとしているとしたら、医療は今、きわめて厳しい岐路に立たされているということができると思います。医療は、分離した「からだ」のみを扱うことになれてきたので、トータルに人間を扱うための有効な方法論を、まだまったく持っていないからです。

そういう中で、健康という言葉も、今までは「からだ」のみにかかわってきました。そうではないトータルな「健康」、「こころ」や「たましい」までもふくめた人間全体の「健康」といったものが、はたして存在するのか、あるとすれば、それはどんなものなのか、それは医者がかかわるべき分野であるのか、そもそも、かかわることができるのか、もしかかわることが可能であるとすれば、それは従来の医療とはまったく別の分野がかかわるべきものであるのか、それについても、確たる見通しは、まだ誰ももっていないのではないかと思います。

もしも健康ということが、単に「からだ」にかかわるのではなく、「こころ」や、更には「たましい」あるいは「気概」「自尊心」や「プライド」までもふくめた人間の全体にかかわるものであるとすれば、それはとても医療のおよぶところではなく、健康の一番大事な部分、その中心の部分には、医療は結局、触れることさえもできないのだと思います。医療がかかわれるのは、健康のほんの周辺にすぎないと思います。

人間というのはとても矛盾した存在であって、命よりも大事なものがあって、はじめて命が大切になり、健康というものに意味がでてくるのだと思います。もしも命がこの世で一番大切なものとなるなら、その命はかえって干からびてつまらないものとなってしまい、守るに値するものであるかさえ覚束ないものとなってしまうようにも思います。そういうことで、医療にかかわる人間は、その患者さんにとって本当に大事なことには関わっていけていないという、隔靴掻痒の感をもって仕事をしているのではないかと思います。しかし、それが医療の分というものであり、その分のなかで、できることをしていくというのが医療の仕事であるとも思います。

以上、健康について普段考えていることを少し話せていただきました。このような機会をあたえていただきました社友会の皆様に厚く御礼申し上げます。ご静聴ありがとうございました。

 

文献

1)フランシス・フクヤマ「歴史の終わり」渡辺昇一訳 三笠書房

2)ジョン・ホーガン「科学の終焉」竹内薫訳 徳間書房

3)トマス・クーン「科学革命の構造」中山茂訳 みすず書房

4)河合隼雄「日本人の心のゆくえ」 岩波書店

5)プラトン全集11 藤沢令夫訳 岩波書店

6)竹内靖雄「「日本」の終わり」 日本経済新聞社

7)池田清彦「正しく生きるとはどういうことか」 新潮社

8)「吉田健一対談集成」小沢書店

9)吉田健一「ヨウロツパの世紀末」新潮社