♪小さい国のながーい国歌♪

―ウルグァイ国歌の作曲者と作詞者を求めて―



Dr.Goto 後藤信男:

元国際協力事業団ウルグァイ獣医研究所強化計画短期専門家

(派遣期間:97年1〜7月)


ウルグァイの面積は日本の約半分,おそらく南米で一番小さい国でしょう。

人口もきわめて少なく,1997年の統計では約315 万人で人口密度は17.8 人/平方キロメートルです。そのうちの半数近くの135万人が首都のモンテビデオに住んでいます。

モンテビデオの新旧両市街の境に独立広場があり,その近くにソリス劇場があります。ソリスとはウルグァイの土地を1516年に初めて発見したファン・ディアス・デ・ソリスという人の名前です。この劇場には,ヨーロッパから有名なオーケストラやソリストが来演するし,ロシアのバレー団もしばしばやってきます。かつては世界中に牛肉をはじめとする食糧を輸出して裕福な国であったこと,および来演する頃は,北半球と南半球が気候が逆になることから,ヨーロッパの音楽界やオペラ団がシーズンオフの6 〜9月にウルグァイや南米各地に来るのだそうです。日本からも東京カルテットがモンテビデオ市の音楽協会の招きで来ています。

Teatro Solis

1997年7月18日に日本の指揮者福村芳一氏とウルグァイの若手ピアニストによるプロコイエフのピアノ協奏曲があるというので,これを聴きに始めてソリス劇場に行きました。1856年に落成したもので,外観はギリシャ風で大理石からなっている重厚な感じの建物,内部は全部で1600席で,ヨーロッパの古い劇場のように5層のバルコニがぐるりと取り巻いています。しかし,舞台や床,椅子などはかなり傷んでおりました。特に照明施設は古くなっていたという事で,すでに1988年の日本政府の文化無償資金援助で新装されています。

やがて定刻になると,指揮者があらわれていきなり歌劇の序曲みたいな曲を国立ウルグァイ交響楽団が演奏しはじめました。すると皆が起立しはじめましたので,はじめてこれは国歌だなと思いました。日本の君が代はせいぜい1分くらいの長さですから,すぐ終わるだろうと思いましたが,なんと前奏の部分だけでおよそ1分くらいで約5分くらい続きました。曲は4/4拍子でコーラスー独唱―コーラスの形で荘重かつ勇壮な感じですが,全体としては先に延べたように歌劇の序曲のようです。

私はこの国歌に興味を持ちその由来などを持った詳しく知りたいと思い,帰国後井上忠恕リーダーや森美津子嬢の資料の収集をお願いしました。二人は早速いろいろ手配してくださり,国歌のCD をはじめ歌詞,楽譜,国歌などに関する法令集など貴重な資料を送ってくれました。

それらによりますと,作詞はFransisco Acuna De Figuerraという人です。彼は1791年9月にモンテビデオで生まれ,図書館のディレクター( 身分は公務員) を勤めるかたわら外国語の先生をし,ラテン語,フランス語,ポルトガル語の詩を訳していました。父親がスペイン人,母親がアルゼンティン人で,いわばスペイン系であったためか,彼が若い頃はにはそれ程自国に関して強い感情を持っていなかったようですが,1814年頃ブラジルに旅行してから愛国心に目覚めたとのことです。1830年,憲法記念日が7月18日に制定されその3 周年記念(1833年) に彼が作詞したものが国歌の詞になりました。モンテビデオの繁華街通りである7月18日通りは憲法記念日に因んでつけられたものです。その後,1845年の若干の変更を経て1848年に正式に国歌として承認されました。彼は1862年10月6日,に亡くなりました。

国歌の内容は,自由を賛歌し祖国を守ろうという同じ内容の前文と後文の間に11番まである長いものです。前・後文はコーラス部分で,実際に独唱で歌われるのは11番のうちの1番だけです。以下に森嬢がお姉さんとともに訳された名訳を記します。

 


National Flag

  • El Himno Nacional Uruguayoウルグァイ国歌(合唱なし)

  • El Himno Nacional Uruguayoウルグァイ国歌(合唱付)

    オリエンタレスよ,命を失っても我が国を守れOrientales, la Patria o la tumba!

    自由を侵されるならむしろ栄光の死をLibertad, o con gloria morir! Es el voto que el alma pronuncia,

    この真心の願いを勇ましく成し遂げようY que heroicos sabremos cumplir!

    オリエンタレスよ,自由を求めよ!Libertad, libertad Orientales!

    この叫びが祖国を守ったEste grito a la patria salvó

    戦いではその激励を受けQue a sus bravos en fieras batallas

    勇士は奮い立たされたDe entusiasmo sublime inflamó

    自由の栄光を求めDe este don sacrosanto la gloria

    占領者よ,我が力を知れMerecimos: tiranos temblad!

    占領者よ,我が力を知れMerecimos: tiranos temblad!

     

    自由を戦いで取り戻しLibertad en la lid clamaremos,

    自由のためには潔い死もY muriendo, también libertad!

  •  スペイン語の全詞  (ウルグアイ大統領府)


    ここで,オリエンタレスとはラプラタ河の東方に住む人を指し,ウルグァイ人の事を言います。

    作曲については1848年半ばまでは曲としてははっきり定まっておらず,国の祝祭日にふさわしく,また,勇壮な曲が強く望まれていました。「1952年2月18日の法令集によれば,1848年7月26日に民間の作曲家である

    Fernando Quijano の提出した曲が国歌として承認されたという事です。現在の形のコーラス,独唱を伴うオーケストラ形式にしたのはGerardo Grasso です。ところが作曲はFransisco Jose Debali によるとしている資料もあります。この資料によれば彼は1791年7月26日にハンガリーで生まれ,47 歳の時にブラジルのサンパウロに永住すべく故国を出立しましたが,当時そこでは黄熱病が流行していたのでウルグァイに上陸しました。1838年のことです。ウルグァイでは当時の大統領リベラの軍隊の上級音楽家として勤務し,次いでウルグァイの最初の劇場である「Casa de Comedias 」の長となり,当時のウルグァイの音楽家の第一人者となりました。「Casa de Comedias 」は後にソリス劇場と統合され,彼もその専属のオーケストラに所属するようになりました。彼は1862年10月6日に71 歳でなくなりました。

    国の正式な文書である「1952年2月18日の法令集」にはFernando Quijano が国歌の作曲者であると記載されていますが,入手したCD にはFrancisco Jose Debali となっています。どちらが本当の作曲者か私には分からなくなりました。

    いま,あらためてCD でウルグァイ国の国歌を聴いたところ4 分30 秒かかりました。国歌としては長いもので,オリンピックやフットボールW 杯大会などの時には省略しないで全部演奏するのだろうかとつまらない心配をしています。

    (1998年8月記す)



     

    「後記」

    ―ウルグァイ国歌の作詞・作曲者についてその後の調査から―

      Mitsuko MORI森美津子(Mitsuko MORI ):ウルグァイ共和国大学経済学部

       

      ウルグァイ国歌の作詞・作曲家が誰であるかさらに国立図書館などでいろいろな資料を探してみました。以下にまとめた情報は学生の参考書にするため1970年に中学校の先生が集めた資料を中心に検証したものです。

      ウルグァイの国歌は,南米の他の諸国と違い政府の法令によって作られたものではなく,国民が自ら自然と昔から歌っていたのが結果的に国歌として認められたようです。

      例えばチリの国歌は,チリには一度も住んだことのないスペイン人の作詞者によって作られました。

      訂正:”例えばチリの国歌は,チリには一度も住んだことのないスペイン人の作曲者によって作られました。”本章の最後を参照してください。

      現在歌われているウルグァイ国歌の歴史は次の通りに簡単にまとめられます。

       

      ウルグァイ国歌の変遷

      • 1811年−アルテイガス将軍をたたえる詩があった。
      • 1816年−Bartolome Hidalgo の作詞によるMarcha Oriental という行進曲が現在の国歌に似ているところがある。
      • 1827年−Francisco A. de Figueroa が“Himnos alos Heroes”及び“Himno a los Treinta yTres “(33 人の勇士をたたえる詩) を書く。
      • 1828年−その後,同Francisco A. de Figueroa はCancion Patriotica( 国家の詩) を作り国歌として認められるよう初めて政府に提出した。
      • 1833年(7月)−Francisco A. de Figueroa 作によるCanción Patriotica がウルグァイ国の憲法3周年記念式典にて歌われた。(政府は国歌の詞として認めたが,決まった曲はなく,それぞれに曲を合わせて歌っていた。)
      • 1840年−Figueroa 作の国歌をFernando Quijano による曲に合わせて「Casa de Comedias 」劇場で歌われた記録がある。
      • 1845年−Francisco A. de Figueroa はこれまでの国歌の詞を書き直した。
      • 1848年−ウルグァイ国歌の作詞はFrancisco A. de Figueroa ,作曲はFernando Quijano によるものであると政府が法令で決めた。

       

      国歌の作詞者に関しては明確であるものの,作曲家についてはFernando Quijano ではなく実は音楽家のFrancisco Jose Debali によって作られたという2つの説がありました。

      当時の記録にはFernando Quijano の名がたびたび載せられていましたが,ウルグァイの歴史学者の調べによると実際には,Jose Debali による曲であるとされています。

      その主な理由は原本の楽譜にはJose Debali の名しか載っていないことのほかに,さらに次のようなことが理由とされています。

      • 作品の音楽的な流れを見るとやはりJose Debali のものであると認められる。
      • パラグアイ国歌に似ているところがある(パラグアイ国歌の作詞はFrancisco A. de Figueroa ,作曲もウルグァイ国歌と同様にJose Debali だといわれている)

       

      さらにDebali は当時ウルグァイ国歌の作曲者がFernando Quijano であると新聞などのいろいろなところで発表されていることを知り,事実と異なっていることを1855年7月23日のEl Nacional という当時の新聞に投稿し,国歌に用いられている曲は自作のものであると主張しています。Debali はスペイン語が得意でなく当時,国歌の作曲者がFernando Quijano であると報道されていることをしばらく知りませんでした。金銭的な利益を得ることが目的でなく,ほんとうに作曲したDebali の名前だけは残しておきたい心情を述べています。

      では,なぜ当時の公文書にはQuijano の名にしか載っていなかったのか。それは,Debali はハンガリー人であり,当時ウルグァイには大きな内戦があり(Guerra Grande) ,政府は国民の愛国心を高めようとしていたので,国歌の作曲者はウルグァイ人であるとしたかったとの憶測もあります。しかもDebali とQuijano は友人同士でありましたし,Debal 自身もQuijano が作曲に際して協力をしてくれたことを認めています。ウルグァイ人であるQuijano は,ピアノ,ギターを弾く音楽愛好者ではありましたが,専門的な音楽の知識はそれほどのものではありませんでした。ウルグァイ国歌をみるとわかるように,これにはイタリアのオペラの影響が強く,Donizetti 作のLucrecia Borgia というオペラのストレッタ・「ゴンドラ人」の部分に良く似ています。このような曲はやはり正式な音楽を学んだ人,特に作曲を経験した者によって作られたに違いないと考えられています。Debali はれっきとした音楽家ではありましたが,スペイン語があまりわからなかったため,Quijano がFrancisco A. de Figueroa の詞を解釈してDebali に説明し,そしてDebali はそれに譜をつけたというのが事実のようです。現在はDebali の作ということが通説になってきました。


      作詞者:FRANCISCO ACUÑA DE FIGUEROA (1791 −1862) の略歴

      1791年9月20日モンテビデオ市に生まれ,ブエノス・アイレスで教育を受けました。

      ウルグァイがまだスペインに植民地支配されていたため,父JOAQUIN ACUÑAはスペイン王国の財務官を勤めていました。幼い頃から文学に親しみ,ウルグァイでは活発な政治活動をこなし,国立図書館員,後に教育省の委員などを勤めました。多数の詩を書きましたが,なかには皮肉っぽいユ―モアを用いるものがいくつかあります。

      ウルグァイが独立して間もなく,国家をたたえる詩をいくつか書き,国歌として政府へ何度も提出しました。1833年にやっと政府がFRANCISCO ACUÑA DE FIGUEROA 作の詞を承認しました。1845年に現在歌われている国歌の詞に書きなおしています。

      1862年10月6日死去。

       


      作曲家:FRANCISCO JOSE DEBALI(1791 −1859) の略歴

      1791年7月26日ハンガリーのキネン市に生まれる。

      ハンガリーで音楽を学び,音楽家として活躍する。29歳のときイタリアへ向かい音楽の研究を続ける。1838年にブラジルのサン・パウロ市へ移住する予定で南米に渡るが当時黄熱病が流行っていたためウルグァイのモンテビデオ市に移る。

      吹奏楽器が得意だったDEBALI は,モンテビデオ都立劇場のCASA DE COMEDIAS で行なわれた演奏会でクラリネットのソロを披露する(1838年11月) 。国歌のほか,BATALLA DE CAGANCHA (CAGANCHA 戦)の曲など143 曲と180 曲の編曲を残している。


      (1998年10月記す)

      以上

      [訂正]:
      「後記」に”例えばチリの国歌は,チリには一度も住んだことのないスペイン人の作詞者によって作られました。”と書きましたが,”例えばチリの国歌は,チリには一度も住んだことのないスペイン人の作曲者によって作られました。”と訂正します。チリ国歌の作詞者はEusebio Lillo Roblesで,作曲家はDon Ramon Carnicer y Battleです。ウルグァイ国歌の歴史を紹介する中学,高校用の教科書に”チリの国歌は,チリには一度も住んだことのないスペイン人のCompositor(作曲者)によって作られました。”と記載されています。このCompositorとautor(作詞者)を取り違えてしまいました。ここに訂正しお詫び申し上げます。(指摘いただいた”みほ”さんに感謝し,ご連絡をお待ちします)

     

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    Last update:2 Feburuary, 2001