ウルグァイの首都モンテビデオはラ・プラタ河に面しています。その河に沿うラムブラ大通りを下流に向かっていくと右側に夏は多くの日光浴や水浴で賑わうポシートス海岸があり,それを過ぎるとすぐの四つ角の右側にMuseo de Naval(海軍博物館)という標識があります。右折して数分歩くとそこはもうプンタ・デル・ブセオ岬の先端でこの小さな博物館(1981年開館)を容易に見つけることができます。休館日は木曜日でそれ以外は8〜12時,14〜18時まで入館できますがいつもひっそりとしています。入館料はたしか無料だったと思います。
内部は四つのホールに分かれています。第一ホールにはウルグァイの海の歴史に関するものでコロンブスの乗った三つの帆船の模型が展示されています。第二,第三ホールはスペインの植民地時代,独立の英雄アルティガスや独立および軍政時代における資料,写真などが展示され,なかでも1930年に水路船として活躍したCapitan Miranda号(1978年にウルグァイ海軍省の練習船に改装,2000年のワールドセイル2000では日本の帆船「あこがれ」との抜きつ抜かれつのデッドヒートがありました)が目につきます。最後のホールでは,主として近年のウルグァイ海軍の資料,写真,各種機器類がみられますが,その一角にドイツの豆戦艦グラフ・シュペー号に関する資料が飾られています。シュペー号の模型,ハーケンクロイツ,艦長ラングスドルフ大佐の胸像写真,舷側部の破片,ピストル,水筒,軍装など乗組員の日用品などです。また,博物館の庭にはシュペー号の大砲1基や錨が置かれています。
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自沈後引き上げられたシュペー号の150mm単装砲(射程距離22km), 海軍博物館の庭にラ・プラタ河に向いて設置してある |
ここからさらに上流のモンテビデオの旧市街の近くにあるモンテビデオ港にはもっと大きな錨がラングスドルフ艦長の「今日,われわれが共に守るべき理想よ,不朽なれ」という銘とともに飾られていますので,この小さな錨は補助的に使われていたのかもしれません。
さて,シュペー号というドイツ軍艦のことを知っている人はせいぜい昭和一桁の年代まででしょう。シュペー号という名は第一次世界大戦でドイツ東洋艦隊を率いて活躍したフォン・シュペー中将に由来するといわれ,第二次世界大戦初頭,ラ・プラタ沖で英国巡洋艦など3隻と単独で壮絶な海戦を行い,最後に自爆した軍艦です。この海戦に興味を持った人は拙稿の終わりに参考としてあげたようにかなり多く,同名の映画も作られています。以下の記述はこれらの参考書のうち主として酒井三千夫氏と英国人ダドリー・ポープ氏(内藤一郎氏訳)の著書によるものです。
第一次世界大戦に敗れたドイツは陸海軍兵力を制限(対英兵力比35%)されたベルサイユ条約に調印し,海軍については合計排水量10万トン,新造軍艦最大排水量1万トン,備砲大口径28サンチ(センチ,11インチ)という不利な条件下にありました。このような厳しい状況のもとで建造されたのがシュペー号で,その特徴は次のようなものでした。
- 主要要目:全長186m,全幅21.7m,上甲板までの高さ12.2m,重量1万トン,速力26ノット
兵装:280mm(11インチ)3連装砲2基、150mm単装砲8基、105mm連装高角砲3基,88mm単装高角砲3基,37mm連装砲4基,20mm単装砲10基
533mm4連装水上魚雷発射管2基
搭載機2機 ,カタパルト 1基
- 排水量を少なくするために電気溶接を多用。同じ理由で舷側,甲板等の厚さが比較的薄く11インチ徹甲弾の防御不能
- 燃料として積み込む重油の移動などによる左右傾斜復原装置を有している
- ディーゼルエンジン(56,000馬力,最大速力26ノット)を採用
- 当時としては珍しいレーダーを装備。もっとも精度が高くなく,ラ・プラタ沖海戦ではほとんど機能しなかった
- 乗組員は士官30名,下士官,兵921〜971名
(以上は記録により多少数値などの異なるものもあり)
これらの特徴のうち,最も優れていたのは砲力と速力で,当時この能力に対抗し得る艦は英国の3隻と日本の金剛級4隻(「金剛」,「比叡」,「榛名」,「霧島」)の計7隻のみでした。巡洋艦の快速と,戦艦の砲撃力を加えた,いわば高速戦艦でした。ただ,短所としては舷側,甲板などの厚さが戦艦より薄く防御力に欠けている点で,このことがシュペー号をして真の戦艦ではなくポケット戦艦とか豆戦艦と称された所以でした。
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| シュペー号を追跡,攻撃した英国の軽巡洋艦のエイジャックス |
前述のように,独海軍力は英海軍力に比べて極めて低くゲリラ戦略をとらざるを得ないこと,シュペー号の攻撃に強く防御に弱いという特徴から独海軍は敵商船の拿捕,撃沈によって海上通行を妨害し,敵国の食糧事情や生産力に打撃を与えることに専念させることにしました。同じ目的を達成するためにドイツは潜水艦(Uボート)を大量に建造しています。シュペー号が活動を開始したのは1939年9月30日(英独戦争開始は同年9月3日,日本が連合国と開戦したのは1941年12月8日)で南太平洋,インド洋で活躍し同年12月17日自爆するまでに英商船9隻計50,089トンを撃沈せしめました。この成果はUボートによるそれに比べれば微々たるものでしたが,英制海権に与えた精神的な打撃は非常に大きかったようです。その間,シュペー号は最後に逃避したモンテビデオ港を除けば本国はもちろん中立国に一度も寄港せず独油糟船アルトマルク号から数回にわたって洋上給油と食料品などの補給を受けました。そのアルトマルク号はラ・プラタ沖海戦の際,英国艦艇の水兵300名の捕虜を船倉に収容しており,必死に洋上捜索を行っていた英海軍に運良く発見されなかったのですが,1940年2月16日になってノルウェーのフィヨルドにかくれていたのを英駆逐艦によって拿捕されました("アルトマルク号事件")。
ヘンリー・ハーウッド代将の指揮する英南太平洋方面艦隊南米支隊は軽巡洋艦のエイジャックス(6,985t,6インチ砲搭載),アキリーズ(ニュージーランド船,7,030t,6インチ砲搭載)と重巡洋艦のエクセター(8,390t,8インチ砲搭載)それに装甲巡洋艦カンバーランド(9,750t)からなっていましたが,カンバーランドは遠くフォークランドで待機していました。残りの3隻で広大な海洋に出没するシュペー号を発見するのは極めて困難と思われましたが,ハーウッド代将はシュペー号のこれまでの航路を分析した結果,12月12,13日頃にラ・プラタ沖に出現すると考え,上記3艦を同洋上に集結させました。彼の予想どおり12月13日早朝(6時10分)シュペー号を発見(実は敵艦シュペー号はこの10分前に英艦隊を発見しています),かねての作戦どおりエクセターをシュペー号の左舷,他の2艦を右舷方向に展開させ両翼方位陣形をとりました。壮絶な砲撃戦が開始し始めましたが,圧倒的に火力でまさるシュペー号11インチの主砲はエクセターに集中し,たった17分の間に同艦に甚大な被害を与えました。
すなわち,艦前部における浸水により艦首3フィート沈下,右舷における650tの浸水により7〜10フィート右へ傾斜,先任下士官居住区,塗料庫など各所に火災発生,艦橋,方位盤,発令所およびほとんどの砲塔は直撃弾により機能喪失,無線通信,艦内電話機能完全喪失などの被害をこうむり,戦死者50名以上,重傷者20名以上にも達しました。かくしてエクセターは戦線を離脱せざるを得なくなりましたが,幸い機関部には重大な被害を受けず自力運転は可能でした。エクセターは不必要に高い前後2本のマストを有していて標的になりやすかったこと,シュペー号にとって脅威となりうる8インチ砲を有していたことおよびシュペー号後方より併行して追跡していたことなどから主標的となり甚大な被害を蒙ったものと考えられます。
一方,シュペー号は外見上さほどの被害を受けたようには見られませんでしたが,エクセターの8インチ主砲や執拗なエイジャックス,アキリーズ両艦の6インチ砲による攻撃でかなりの被害を受けていました。右舷における前後部被弾,左舷における艦首水線上0.9x1.8mの破孔,中部の浸水,艦長公室,配膳室の破壊,後部の魚雷装填台,士官公室,先任下士官室,食堂等貫通のほかしょう楼部,艦橋の被弾等です。乗員の死傷状況は戦死者36〜37名,重傷6名,軽傷53名に達しています。砲撃戦開始から1時間半後,ラングスドルフ艦長は艦内の乗員の死傷者数や損害状況,乗員の士気を調査した結果,最寄の中立港に退避する必要があると判断し,ラ・プラタ河口からウルグァイ国モンテビデオ港に向かいました。2隻の英巡洋艦はその後を執拗に追跡し続けました。23時50分,シュペー号はモンテビデオ港に入港しました。
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| シュペー号の1939年9月30日のドイツ出港からウルグァイ沖までの航跡 |
この海戦について前掲書の著者ダドリー・ポープ氏と酒井三千生氏はともに二つの疑問点を提示しています。そのひとつはラングスドルフ艦長が海軍総司令部からの厳重な連合国水上艦隊との交戦禁止令をなぜ破ったのかという点です。シュペー号はラ・プラタ沖で10分も前に英艦隊を発見したので退避する余裕が十分ありました。勝利する見込みがあると見たのか,それとも長期の航海でうんざりしている乗員の士気を高めるために交戦したのかその辺はよくわかっていません。第二の疑問点は,圧倒的に有利な情勢にありながらなぜ中立国の港に退避してしまったかということです。戦闘不能のエクセターに止めを刺し,残る軽巡洋艦に対処すべきではなかったかという点です。しかし,英艦の被害状況を客観的に評価し,自艦のそれと比較するのは交戦時点では不可能で自艦の被害状況を中心に判断せざるを得なかったのでしょう。
シュペー号のモンテビデオ入港に伴い,ウルグァイ政府を中心にして英,独間の熾烈な外交戦,情報戦が始まりました。ドイツ側は急遽ウルグァイ駐在ドイツ大使ラングマン博士,アルゼンティン大使館海軍武官,ラングスドルフ艦長などが集まり,事後対策を協議しました。その結果,シュペー号の修理日数は最短でも14日間が必要としてウルグァイ政府と在泊期間について交渉しました。一方,イギリス側はドレイク駐在公使とハーウッド代将がウルグァイ政府との交渉にあたり,1907年成立のハーグ協定第11条に基づき24時間以内の出航を強く要望しました。しかし,この条項の解釈は中立国によってかなり異なり,第一次世界大戦で数週間も在泊した例もあり,中立国ウルグァイ政府としてはその対応に非常に苦慮したものと思われます。24時間以内に出港というイギリスの主張は実は表向きのことで,今回の交戦で弾薬や燃料が十分でなくなった軽巡2隻ではシュペー号に対抗できないので1週間後の援軍到着まで停泊を引き伸ばしたいというのが本音でした。そこで,イギリス側はラ・プラタ河口には数隻の英軍艦が待機しているなどの偽情報を流しました。これらの情報はドイツ側の正確な判断を惑わし遂にはシュペー号の自爆に導きます。
ところで,入港したシュペー号には拿捕,撃沈された英商船の船員61名が収容されていましたが,ラングスドルフ艦長は直ちに釈放しています。彼は商船破壊活動中死傷者を一人も出していません。収容中の扱いも人道的であったといいます。映画では,最後に拿捕された英小汽船アフリカ・シェル号のダヴ船長とは奇妙な友情さえ芽生えたように描かれています。12月15日には彼はシュペー号戦死者36名の葬儀を市郊外の墓地で行っています。その中で,参列者のドイツ人すべてがナチス式の敬礼を行っているのに彼のみは旧海軍式の敬礼をしました。彼が最後にブエノスアイレスで自殺した時もハーケンクロイツ旗ではなくカイザー海軍旗に身を包んでいたことからも彼はナチスに対して好感を抱いていなかったと考えられます。
シュペー号の動向は全世界が注目するところとなり各国からの新聞記者や放送記者がモンテビデオに集まり,中には現地から中継放送をする局まで出てきました。当時のウルグァイの全人口は200万人位でしたが,河畔に集まった群衆はなんと3分の1以上の75万人にも達し固唾を飲んで豆戦艦を見守っていました。前掲の映画はその騒ぎをうまく描いています。
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シュペー号の乗員を移乗させたドイツ商船タコマ号 (海軍博物館,1951年撮影) |
12月15日,ウルグァイ大統領バルドミルは「シュペー号のモンテビデオ港在泊時間を72時間とし延長を認めず」とドイツ側に通告しました。17日の20時までです。ドイツ側は猛烈に抗議し,イギリス側も主力軍艦が来るように少なくとも19日まで停泊を延期させようとしましたがウルグァイ政府は頑として決定を変えませんでした。かくして17日14時,乗員900名は在泊中のドイツ商船タコマ号に移乗し,シュペー号には艦長ほか航海長,機関長,下士官など43名が残りました。大勢の市民が見守る中,18時15分,夏の夕日の中をシュペー号,15分後にタコマ号が出港しました。シュペー号はモンテビデオ西南西10〜20マイルのウルグァイ領海内に停止,自爆処理を施した後に43名全員がアルゼンティンの小型タグボートに移乗しシュペー号から離れました。タコマ号に移った乗員も夕闇に紛れて同タグボートに移乗しブエノスアイレスに向かいました。20時54分,大爆発がおこり全艦に大火災発生,深さ12mの河底に沈みました。タコマ号はその後モンテビデオ港に寄港し残留していた4名のシュペー号乗員が抑留されました。ラングスドルフ艦長はアルゼンティン大使宛に「シュペー号を自沈に至らしめた全責任は自分にある」という遺書を残しブエノスアイレスで19日夜にピストルで自殺しました。以上がラ・プラタ沖海戦のあらましです。
では,ラ・プラタ沖海戦はどうして世界中の人々の関心をひいたのでしょうか。海戦が第二次世界大戦で最初に起こった大型軍艦同士の対戦で当時の世界の中心から遠く離れた南太平洋を舞台にしていたことにもよりますが,シュペー号ラングスドルフ艦長が人命を尊重するという人道的精神の持ち主で敵からも敬意を払われるようになったほど暖かい心を有していたこと,しかも悲劇的な最後を遂げたことが世界中の人々の心を打ったのだと思います。
一昨年(1999年)の12月13日夕刻,モンテビデオで「ラ・プラタ海戦60周年」記念の会がウルグァイ駐在のドイツおよびイギリス大使の主催,ウルグァイ海軍の協力の下に開催されたと在日本大使である稲川照芳氏(前ドイツ総領事)が報じています(日独協会機関紙Die Brücke)。同大使によれば,出席者は各国大使,ウルグァイ海軍幕僚長はじめ関係者それに年老いたシュペー号の乗組員の一員やその家族です。会の進行は幕僚長の挨拶,歴史学者による海戦の状況,英独大使のスピーチそれにカクテルという簡素なものだったそうです。この報文の中に大使ならでは得られない当時の外交戦の一部が記されていましたので最後に紹介します。
ウルグァイは他の南米諸国と同様に欧州における戦争とは中立の立場をとっていましたが伝統的に親英的でした。しかも,当時の駐ウルグァイ公使はユージン・ミリントン・ドレイクという人で英・ウルグァイ文化協会を設立するなどウルグァイ国内に広い人脈を有していました。さらに,ウルグァイ外相グアニは駐英公使を務めドレイク公使とは20数年来の友人でした。一方,ドイツ公使のオットー・ラングマンは神父で外交官としての経験,キャリアは英公使に比し見劣りしていたということです。このような事情がシュペー号の停泊期間の決定に何らかの影響を与えたかもしれません。
なお,モンテビデオには86歳を最高にシュペー号乗組員5名が存命しているとのことです。ウルグァイの在留邦人のなかにもシュペー号の自沈を目撃した移住者がおられましたが,10数年前に他界されたそうです。
資料収集や写真撮影にご協力いただいた在ウルグァイのJICA専門家矢口宏一氏に厚く御礼を申し上げます。
(2001年2月1日記)


上:シュペー号の錨(Montevideo港)
中:錨の右壁に「今日,われわれが共に守るべき理想よ,不朽なれ」
と記されている(Montevideo港),
下:シュペー号の錨のハーケンクロイツ(海軍博物館の庭)
参考図書等
- 稲川照芳:ラ・プラタ海戦―グラフ・シュペー号の最後,Die Brücke,3月号,2000
- ダドリー・ポープ/内藤一郎訳:ラプラタ沖海戦(5刷),早川書房,1999
- 酒井三千生:ラ・プラタ沖海戦,出版協同社,1985
- M・パウエル&E・プレスバーガー監督:映画 「戦艦シュペー号の最後」,出演:ジョン・グレグスン(1956年英国),同ビデオ(東北新社)
その他 英,独,伊,西語のホーム・ページ
(シュペー号に関連する数々の写真があります)
- Admiral Graf Spee and the life and career of Captain Hans (英)
- KMS Admiral Graf Spee(英)
- Admiral Graf Spee(英)
- DER KAMPF AM
RIO DE LA PLATA (独)
- Operationen der Admiral Graf Spee im Sudatlantik(独)
- ADMIRAL GRAF VON SPEE(伊)
- ADMIRAL GRAF SPEE(伊)
- Acorazado de bolsillo "Admiral Graf Spee"(西)
- LA II GUERRA MUNDIAL: EL ATLANTICO(西)
- Sesenta anos despues Tragedia y muerte del Graf Spee
ウルグァイの日刊紙El Paisのシュペー号自沈後60周年特集号(1999/12/17)(西)
- BATALLA DEL RIO DE LA PLATA(西)