背番号[11]の名選手列伝
プロ野球第1号ホームラン藤井勇。戦前の好打者。復員後は大洋などで選手、監督として活躍。70年代初頭、金田村山確執のなかでコーチ。
ザトペック投法の二代目ミスタータイガース村山実。よみうりの提示する数倍の契約金をけって阪神入団。1年目天覧試合にリリーフしてファールをホームランと判定され、サヨナラ負けを喫す。以後、死ぬまで「ファールや」と言い張り続ける。涙の抗議などする熱血漢。1年目に防御率1位と沢村賞のタイトルを獲るが新人王は他に譲る。その後、防御率1位、最多奪三振、最多勝、最高勝率、沢村賞など数々のタイトルをゲットして62年64年の優勝に貢献。無安打ながら失点を許すノーヒットありランも記録。「財布を拾たような、落としたような」の名言を吐く。稼いだ金でマンション11を建設し経営。62年MVP受賞。勝ち星で上回っていた小山がすねて日本シリーズ入浴事件。小山は翌年山内と世紀のトレードでロッテへ。速球だけでなく、フォークボールに磨きをかけ、スライドしたりシュートしたりまっすぐ落ちたりと投げ分ける。1500、2000の節目の奪三振を長嶋から取ると宣言してその通りに実行。30ちょいで監督兼任を任されてしまい、吉田派が去ったりふてくされるなか、その年の防御率は0.98のミラクル。兼任2年目、チームの不振で金田正泰ヘッドコーチに指揮権を譲り投手に専念。が、チーム成績回復後も指揮権を返上してもらえぬまま失意のなか引退し同時に監督辞任。引退試合は江夏らの騎馬に乗って登場。よみうりV9暗黒打線を三者三振。大卒唯一の200勝投手。第2次吉田義男監督の85年から優勝、3位、6位の後を受け、2度目の監督就任。このとき吉田義男と歴史的和解。球団創設以来2度目の最下位という窮状打開のために選手の背番号大量変更などを行うが、6位、5位で終わる。そんなこんなで11番は永久欠番。 |
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背番号[12]の名選手列伝
サンデー若林の高校の先輩で球団創設時の正捕手、カイザー田中義雄。戦後は監督も務める。
クマさん後藤次男。1試合最多塁打の記録を樹立するなどの好打者で50年代のリードオフマン。伊予だぬき藤本監督が辞めたあとと、第1次吉田義男監督のあと、誰もやる人がいないときに断りきれずに2度、監督就任。いずれも1年こっきり。2回目の78年はぶっちぎりで球団史上初の最下位。90年代大低迷の予行演習。サンテレビの解説を長く務める。筆者が阪神電車で甲子園に向かうクマさんに遭遇したときはボロボロになった阪神百貨店の紙袋ひとつ下げての通勤途上だった模様。
虎風荘前寮長梅本正之。中西、亀山らやんちゃ者は今も頭が上がらない。中西が寮抜け出し時に塀から落ちてビール瓶ケースに頭から突入、流血時に「119番、何番や?」の名言を吐く。
太ったピンチヒッター和田徹。田淵がいたので捕手をやめて外野やファーストもやる。
大リーグ帰りのマッシー村上雅則が1年だけ在籍。
西鉄、近鉄で防御率1位など活躍したベテラン清俊彦が1年だけ在籍。
アンダースローの美しい投球フォーム深沢恵雄。伸び悩んで4,5年、福間とのトレードでロッテ移籍。ロッテで1年だけ大活躍して翌年の開幕投手。この川崎球場の開幕戦でリーがホームラン。プロ野球ニュースの「今日のホームラン」でライトスタンドの筆者が写る。
深沢との交換でロッテからやって来た福間納。NHKトリオが成長するまで、加藤博一とコンビのピンクレディなどで宴会を盛り上げる。移籍1,2年目は代走起用もあり。移籍2年目か3年目ぐらいから中継ぎエースの座を確立、登板試合数のリーグ記録を塗り替えるほど毎日投げる。で、ほとんどリリーフで防御率1位のタイトル獲得。85年優勝の陰のMVP。ゴルフ番組の司会もこなす。
日ハムの小さな大三塁手古屋英夫が2年だけ在籍。
松井のハズレ1位安達智次郎。90年代ハズレ続きの高卒ドラフト1位の先駆け。
長い下積み、長い一軍半を経て準レギュラーまできた星野修。打撃フォーム固まらぬまま新勢力に押し出されて近鉄移籍。移籍後しばらくはほぼレギュラー。
現在の第3捕手浅井良。03年ベンチでは星野そばにいるので、出場機会以上にテレビに写っていたが、04年鳥谷優遇のあおりで二軍暮らし。05年はたまに好リード。 |
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背番号[13]の名選手列伝
毎日大量引き抜き事件の後、50年代の正捕手徳網茂。
サイドスローで先発もリリーフもこなした鈴木皖武。73年優勝争いの渦中で金田正泰監督を殴って謹慎。
太平洋からやって来た小さいキャッチャー片岡新之介。田淵晩年の第2捕手。川崎球場のゲームで、田淵負傷退場、大島代打起用後に負傷退場して池辺がキャッチャーをやるハメになる。
片岡とのトレードで阪急からやって来たまさかの笠間雄二。83年打撃開眼して正捕手に。横浜球場の打撃練習では、ライナー性のホームランをレフトスタンドに打ち込み、筆者の牛丼弁当を撃破。スローイングに難があり、塁間の青いゴキブリ松本に20個か30個ぐらい連続盗塁を許すが、筆者が観戦する甲子園のゲームで終止符を打つ。
村山に0番にさせられる前の中野佐資。
日本ハムからやって来たアフロエース岡部憲章。
野茂のハズレ1位、強かった法政のエース葛西稔。新人で8勝か9勝でそのほとんどがヤクルト戦。翌年の開幕がヤクルト戦だったおかげで、中村監督が開幕投手に起用。が、2年目以降、アンダースローからの高目速球を見切られて伸び悩むが、リリーフで活路を見出す。復帰した遠山と相手打者に合わせて交互に一塁を守るツープラトンセットアッパー&ストッパーの一翼を担う。コーチ兼任を経て02年星野大量リストラで引退、二軍コーチに。
関本健太郎と奈良の橿原で小中いっしょだった中村泰広。
背番号[14]の名選手列伝
本間勝広報部長。王に強いピッチャーだったらしい。
70年代の名二塁手、トップバッター中村勝広。抜群の選球眼でフォアボールをよく選んだ。三十ちょい過ぎで兼任コーチ、三十代半ばで引退して即二軍監督というエリートコースを歩んで90年監督就任。92年準優勝。会社が取ってきたダメ外国人を使い続ける中間管理職に徹して球団異例の6年にわたる長期政権を樹立。中間管理職としての手腕を買われ、石毛でボロボロになったオリックスの再建を託される。
球界渡り鳥で全12球団から勝ち星を挙げた野村収。84年開幕投手。客の差別野次に怒ったスミスに3ランを打たれる。85年優勝時は中継ぎとして活躍し、NHK特集「エースなき優勝」では「その日暮らし」の仏教説話を説く。
入団1年目の代打の神様八木裕。
晩年の伊藤文隆。
90年代の中継ぎエース弓長起浩。先発起用がなかったのと、リリーフカー導入が惜しまれる。池内なみにスーパーカブ二人乗りが似合ったと思われるヤンキーフェイス。
カーライルとの見分け方がわからぬままのハンセル。カーライルとは違い先発ローテーションでそこそこ活躍。
オリックスからやって来た、当てればデカいジョージ・アリアス。オマリー特命コーチの指導で打率向上とスランプで塞ぎこむ悪癖を改善するもオマリーがベンチ入りしなくなった04年再発して帰国。
インサイド攻めができないジェントルハートで先発ローテに残れなかった自由枠ルーキー能見篤史。 |
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背番号[15]の名選手列伝
チーム創設時から戦後しばらくにわたる主戦投手御園生崇男。投げない日は内野も守り、晩年は野手として活躍。
大洋で新人王と連敗記録を達成して東映を経てやってきた権藤正利。軸足をひょいと曲げる投法で防御率1位を獲得。バッキー荒川乱闘事件の直後にリリーフに出てきてあろうことか王の頭に当てる。「サルでもタバコ吸うんか」発言がひきがねで金田正泰監督を殴る。
安仁屋に18番を譲った谷村智啓。阪急に移籍しての引退前の最後の登板では先発であれよあれよの完投勝利。
大町と同期のサイドスロー赤松一郎。社会人出の即戦力のはずが入団4年目ぐらいでようやく一軍デビュー。筆者が観戦する横浜球場で投球の際にヒジの腱が切れて再起不能。
南海から帰って来た上田次朗。
兄貴とともに入団した嶋田章弘。85年3試合ぐらい好投。打者に転向してウェスタンリーグ連覇に貢献。
ニヤけたツラしてノーヒットノーラン湯舟敏郎。新聞はスポーツ紙しか読まない野球選手が多いなか、社会人野球情報が豊富な毎日新聞を購読。近鉄移籍後すぐ引退。二軍投手コーチで帰ってくるが、ファームで調整のはずの福原が悪くなって一軍に帰ってきたという罪状で更迭。
02年芽が出て、オフの滝修行でいよいよ、という03年になって新たな故障発覚藤田太陽。05年1試合だけ先発してMVP投票で1ポイント獲得。
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背番号[16]の名選手列伝
東急で青バットの大下とケンカしてやって来た櫟信平。スカウト〜バッティングコーチとして掛布を育てる。
吉田義男と鉄壁の三遊間コンビを形成した三宅秀史。常に上位打線でフルイニング出場。金本に塗り替えられるまで連続イニング試合出場の日本記録を持つ。練習中に小山の投球が目を直撃して、選手寿命を縮める。引退後、少しだけコーチをした後は球界から身を引き、マスコミ取材も余り受けない隠れた名選手。
ドラキュラ上田二朗(次郎、次朗)。とくに中日戦に強くドラキラーとも呼ばれる。が、73年の中日球場優勝決定試合は、会社意向により微熱ということで登板回避。最終試合の甲子園で先発炎上。この年、9回二死までノーヒットノーランのあと一人というところで長嶋に打たれる。73年の大活躍以降は先発の柱の一本として活躍するも10勝するかしないか。力が落ちてきたところで南海に移籍。数年して、さらに力が落ちたところで南海からシーズン途中に復帰。復帰後最初の登板は神宮球場で先発。スローカーブの連投で5回持たずにノックアウトするも打線が打って勝つ。これを2連勝目に11連勝の偉業。が、以降次朗の登板はなし。コーチを務めたあとフロント入りし、管理部長の要職。
玉造のプリンス岡田彰布。田淵の大学ホームラン記録にあと2本ぐらいまで迫った早稲田のスラッガー。6球団競合のドラフト1位を岡崎代表が当たりクジを引いて、田淵と違って喜んで入団。小学生のときにキャッチボールをしてもらったことのある三宅の16番を受け継ぐ。大学ではサードだったが掛布がいるんでセカンドコンバート。が、ブレイザーはヒルトンを使うので、怒った客の圧力(嫌がらせ)に耐えかねブレイザー辞任。中西監督になって晴れてレギュラーになって新人王。オールスターは代打の初打席でホームラン。中西譲りの前に構えたバットを引きながらタイミングを取る打法を習得。4年目ぐらいのときに二遊間の難ゴロを取ったときに股が裂ける重傷。休んでる間に、守備を重視する安藤監督がセカンド真弓ショート平田を固定して、慣れないライトやファーストや代打で冷遇。吉田義男が85年に帰ってくると、真弓をライトにコンバートして岡田をセカンドに戻す。苦手だった後方のフライをバッティングマシンによる特訓で克服。守備も上手になって平田とのコンビで幾度となく実現困難な併殺を完成。85年には三冠王を獲ってもおかしくない打撃成績を残すが、すべてバースによって上回られてしまった。オリックスを経て二軍監督。NHK出向という星野の申し出を断って、03年から三塁コーチ。星野退団で04年から予期せぬ監督就任。早稲田出のルーキー鳥谷重用で評価を落とすが、05年今岡5番サード、安藤先発転向、JFKリリーフトリオなどの布陣が大成功して優勝。一気に挽回するものの日本シリーズで元の木阿弥。ラインバックがやり始めたデーゲームで目の下に墨を塗るのがシールになると真っ先に導入。現在は帽子の上にグラサンをひっかけるなどのファッションリーダーでもある。
テレビ解説で「これではすぐに打たれます」という耳のハナをあかして完投勝利の山崎一玄。その後はイマイチの成績で湯舟、北川らと近鉄移籍。打撃投手として復帰。
外角低目を取ってくれる審判なら絶対打たれなかった安藤優也。05年先発転向後、二段モーションを改め安定してローテーションの一角を守る。 |
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背番号[17]の名選手列伝
球団創設時の契約第1号選手門前真佐人。
50年代の名内野手白坂長栄。
70年代後半の代打の切り札桑野議。後のビートたけしのように首をひねりながら打席に立ち、出塁しても首をひねり続ける。
数多いる、活躍できなかった隠し球的ドラフト1位の代名詞源五郎丸洋。1年目のキャンプで故障して終了。
「こいと」渡辺と同時期に入団して同じように先発要員候補のまま終わった太田貴。
高卒4年目ぐらいで1軍先発も経験していよいよというときに同窓の先輩中込のいじめに遭い投げられなくなった山村宏樹。移籍した近鉄ではそこそこ活躍。
西武で新人王のアンパンマン杉山健人。左の中継ぎとして期待はずれで谷間の先発ももちろん5回ともたずに降板。すぐさま近鉄移籍。
近鉄で長くレギュラーを張った吉田剛。藤本、沖原の入団でご苦労様。
ヘンなヒゲで1年目から投げて打って走っての大活躍トレイ・ムーア。2年連続で暑くなってから調子を落とす。
05年ローテーションの谷間を埋めたブラウン。
だいたい5回4失点ぐらいの投球ながら打線の援護に恵まれて夏までに4勝1敗の成績を収めたが杉山の台頭で用なし。 |
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背番号[18]の名選手列伝
球団創設時から毎日大量引き抜き事件までの大エース若林忠志。監督も兼務して後半は背番号30。徴兵で選手も客も少なく、また戦況悪化で途中で打ち切られた49年は、阪神電鉄車両工場に「動員」させられながら50数試合のうち30試合強に登板して22勝で優勝。
2リーグ分裂後のエース梶岡忠義。コーチとして62年64年優勝。OB会長も務め、一時期OB戦の先発をよく任された。震災後、千葉に引っ越され03年逝去。
草魂鈴木啓示指名の予想を裏切っての初代ドラフト1位石床幹雄。源五郎丸ほどではないにしろ、ほとんど登板なく終わる。
左足を上げると同時に右手の振り下ろしを始める変則投法谷村智博(智啓)。超スローカーブなどもまじえつつのテンポよい投法。相手投手が松本の中日戦や安田のヤクルト戦だと2時間かからず終了。江本、古沢、上田との四本柱で開幕から10試合ぐらい連続完投で山本和、安仁屋らのリリーフ陣を休業状態に追いやったのは15番に換えてから。
若生とのトレードで広島からやって来た沖縄初のプロ野球選手安仁屋宗八。移籍1年目にストッパーとして活躍し防御率1位でカムバック賞受賞。当時のストッパーは2点ぐらい負けてる7回ぐらいからでも登板。
銀縁眼鏡のサラリーマン的風貌で実働4,5年なれど強烈な印象を残す大町定夫。アンダースローから緩い変化球を内外角に投げ分けると、稀に相手打線は打ちあぐねてくれる。KBS京都制作「上岡龍太郎のそれ行け!タイガース」ではゲスト出演の素人大学生ファンの、好きな選手は?との上岡の質問に対する回答「大町」「中村勝(当時二軍監督)」「掛布の嫁はん」という三段ギャグに登場。
中西1位のドラフト2位池田親興。野村が先発した84年開幕戦、いいところで救援デビュー。中畑に真っ直ぐの連投で同点タイムリーを喫する。が、この年9勝して新人王候補でエース格に。翌年も9勝。日本シリーズでは第1戦先発で完封勝利。3年目以降、塁間の青いゴキブリ松本にカカトを踏まれて骨折したりと故障がちで大野らとともに4対5の大量トレードでダイエー移籍。池田はリリーフエース、大野は盗塁王など活躍するが、ダイエーから来た5人はニャンコ藤本をはじめまったく使えず。
村山につけられた1番から解放された野田浩司。今にもヒジを壊しそうな横手投げでエース級の活躍もヒジを壊してオリックス移籍。オリックスで復活して奪三振の記録を塗り替えたり、日本シリーズ出場など大活躍。野田の交換相手が松永だっただけに史上最悪のトレード。
首都リーグ2部の東経大から朝日生命。社員のほとんどが強いのか弱いのかわからなかった野球部をあと1勝で都市対抗というとこまで導いた藪恵壹。1年目9勝で新人王。その後もエースとして君臨するが打てないチームにあっては10勝ちょいがやっと。打たれだしたら止まらない持病や清原にぶつけ続けるなど、見かけによらぬ熱いハートの持ち主。01年、絶不調にあえぐが、02年から背番号を4番に換えて復活。04年を最後に渡米。
ヘンなモミアゲで1年だけストッパーとして活躍したバルデス。
03年の自由獲得枠で龍谷大からやって来た杉山直久。素直なフォームで球の出所が見えるときは打たれだしたら止まらなかったが、05年途中から悪癖を改善して先発ローテーション入りし初完封も記録、日本シリーズにも先発。デッドボールを受けて険悪な雰囲気になっても、ニヤけながら一塁に走って場をなごませること二度三度。 |
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背番号[19]の名選手列伝
初代Gキラー、酒仙投手西村幸生。沢村と同じ宇治山田出身。ライバル沢村以上の活躍をするが、沢村が在籍中に戦死なのに対し、西村は退団後に戦死のため扱いが過小。
ダイナマイト打線の名捕手、きかん坊、闘将土井垣武。毎日大量引き抜き事件時に「十年選手」の権利を行使して毎日に移籍。
朝日生命から電鉄本社に入団、タイガース出向扱いの大津淳。引き抜き事件後貧打時代のクリンナップ。退団後、球団フロントで要職を歴任。
シングルキャッチの鉄仮面藤井栄治。1年目から打線の中軸で62年、64年の優勝に貢献。余計な力のまったく入らない脱力スイングでバットの真芯をはずさず投球をとらえ、1本もバットを折らずに1シーズン乗り切ることもあった。脱力スイングは藤田平に継承。
小林に19番を獲られるまでの工藤一彦。
宮崎キャンプに向かう羽田空港でトレード通告。耳との交換でやって来た細腕エース小林繁。球団最後の20勝投手。独特の二段モーションの形態模写で明石家さんまが出世の礎を築く。レコードまで出したタイトルは「頼れるエースはアンダースロー」。小林のレコードヒット作は「亜希子」。宇多田母との交際を相手ベンチから野次られ大炎上、開幕戦敬遠球サヨナラ暴投など、パンチパーマ・ファンキィ系の野球選手ファッションを改革したファッションリーダーにあるまじき暴走もしばしば。しかし、ほんのちょっと力が落ちてきたところでアッサリ引退して老醜を晒さず。
85年胴上げ投手、球道中西清起。1年目、門限後に虎風荘を抜け出し中に歩いた壁から転落してビール瓶上に落下、大怪我で出遅れる。お父さんも不運な転落死。2年目、カーブに磨きがかかり魔球パームボールもマスターして山本和とのダブルストッパーに成長。山本和アキレス腱断裂後、一人でストッパーを務める。日本シリーズは相手打線弱すぎ、出番少なく終わる。中村監督の開幕戦完封勝利後は故障がち。気に入らない奴、例えば元木などにはそのケツめがけて投球するなどの男気を発揮。平田、木戸とのNHKトリオで宴会を盛り上げる。コーチ就任後はリリーフ経験を活かしたブルペン担当で、JFKトリオを生み出す。
スローモーションのような二段投法でスローカーブなどの変幻自在な投法でノーヒットノーランや大リーグ完封など偉業を達成する川尻哲郎。しばしウェスタンリーグの優勝等に貢献した後、近鉄を経て楽天。
04年自由枠ルーキー筒井和也。消化試合で初先発初勝利をモノにするが、故障。 |
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背番号[20]の名選手列伝
2リーグ分裂ちょっと後頃の新人王投手西村一孔。1年目の酷使がたたり4,5年で退団。
中日からやって来たアンダースロー石川緑。62年64年優勝時ローテーションの一角を担う。
西濃運輸から入団のダンプ辻恭彦。山哲、ヒゲ辻、田淵の第2捕手を長く務めてヒゲ辻とのトレードで大洋へ。キャッチャーフライをへそで捕球。
80年代永遠のエース候補伊藤文隆(宏光)。大好投もあれば1,2回でKO,まだ2点しか取られてないのに5回表に代打を送られる、6点取られてよれよれでも8点取ってもらって完投勝利など様々なヴァリエーションで80年代チームの浮沈を象徴してたかも。ただし、85年は前後数年で一番不調なれど日本シリーズでそこそこの好投。
その伊藤と同じ顔、体つきで同じ投球フォームゆえ「こいと」と呼ばれた渡辺伸彦。
バルセルナ五輪銀メダル台湾チームの大エース郭李建夫。金的直撃打球を受けもんどりうって投手寿命を縮めるも、退団後は台湾で活躍。
02年リリーフで大活躍したものの他球団に慣れられて限界が見えた金沢健人。 |
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