最終更新日

巣鴨・真性寺にある吉岡実之墓(2002年5月31日撮影)
吉本隆明氏が逝去(2012年3月16日脱稿)
大野一雄氏が逝去(2010年6月2日脱稿〔2011年9月30日追記〕)
秋元幸人氏を送る(2010年5月3日脱稿〔2010年6月30日追記〕)
益田勝実氏が逝去(2010年3月21日脱稿)
森田誠吾氏が逝去(2008年10月20日脱稿)
湯川成一氏が逝去(2008年7月23日脱稿〔2008年10月31日追記〕)
秋元幸人著《吉岡実と森茉莉と》が刊行(2007年11月6日脱稿)
飯田龍太氏が逝去(2007年2月28日脱稿〔2007年3月31日追記〕)
阿部良雄氏が逝去(2007年1月25日脱稿)
宗左近氏が逝去(2006年6月24日脱稿)
清岡卓行氏が逝去(2006年6月5日脱稿)
飯田善國氏が逝去(2006年4月20日脱稿)
《吉岡実散文抄――詩神が住まう場所》が刊行される(2006年3月9日脱稿)
塚本邦雄氏が逝去(2005年6月11日脱稿〔2009年1月31日追記〕)
石垣りん氏が逝去(2004年12月27日脱稿)
種村季弘氏が逝去(2004年9月9日脱稿)
城戸朱理著《吉岡実の肖像》が刊行(2004年6月6日脱稿)
元藤Y子氏が逝去(2003年10月21日脱稿)
〈奠雁展〉初日(2003年5月1日脱稿〔2004年10月31日追記〕)
吉岡実遺愛の〈奠雁展〉(2003年4月25日脱稿)
句集《奴草》が刊行される(2003年4月18日脱稿)
多田智満子氏が逝去(2003年1月24日脱稿)
高橋康也氏が逝去(2002年7月12日脱稿〔2012年2月29日追記〕)
吉増剛造氏、ラジオで語る(2002年6月23日脱稿)
秋元幸人著《吉岡実アラベスク》が刊行(2002年6月8日脱稿)
矢川澄子氏が逝去(2002年6月1日脱稿〔2004年2月29日追記〕〔2004年8月31日追記〕)
十三回忌に詩集《赤鴉》が刊行される(2002年5月31日脱稿)
詩人で思想家の吉本隆明氏が3月16日、肺炎のため亡くなった。87歳だった。吉本氏による最も早い吉岡実論は《現代詩全集3》(書肆ユリイカ、1959)に収められた〈戦後詩史3〉の〈僧侶〉(C・8)評だが、《戦後詩史論》が単行本として大和書房から刊行されたのは1978年と遅く、長らく《言語にとって美とはなにか〔第2巻〕》(勁草書房、1965)の詩篇〈牧歌〉(A・10)の分析が独自の光芒を放った。吉本氏は1996年以降もたびたび吉岡実(詩)に言及したが、吉岡実は吉本隆明(詩)について文章を残していない。だが、詩集《神秘的な時代の詩》(1974)としてまとめられた〈マクロコスモス〉(F・1)には「善なる悪なる共同幻想」、〈立体〉(F・3)には「共同幻想体として」、という興味深い詩句が見える。吉岡は「内的独白」や「意識の流れ」といったタームを好むモダニストだったから、吉本隆明の《共同幻想論》(河出書房新社、1968)が一本にまとまる前にこれらの語を書きしるしたとて、驚くにはあたらない(ただし、《共同幻想論》には「共同幻想」も「共同体」も登場するが、「共同幻想体」は出てこない)。私が最後に吉本氏の姿を目にしたのは1990年6月3日、巣鴨・真性寺での吉岡実の告別式においてだった。謹んで吉本隆明氏のご冥福をお祈りする。
6月1日、舞踊家の大野一雄氏が亡くなった。103歳だった(吉岡実より13歳年長)。吉岡は大野一雄の踊りに初めて触れた日のことを〈日記抄――一九六七〉に書いている(7月3日)。「夕方、三好豊一郎来る。ラーメンを食って紀伊国屋ホールへ向う。那珂太郎、澁澤龍彦と出会う。七時開演、土方、笠井君たちの舞踏詩「形而情学」始る。クレオパトラ・タカイ、アレクサンドロス・オオノ、ヘリオガバルス・カサイ、ネロ・ヒジカタの奇怪にして典雅、ワイセツにして高貴、コッケイにして厳粛なる暗黒の祝祭。幻の舞踏者大野一雄の芸に接しえたのは幸運。ハサミを持って踊り狂う老人の姿これはなんだろう、地獄の使者か、人間至福の正体か。恍惚の二時間半。土方巽の傑作に拍手。那珂太郎、白石かずこと近くの喫茶店で一時間ほど雑談。十時半ごろ別れる」(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、一三〜一四ページ)。詩篇では〈ラ・アルへンチーナ頌〉(1977)に寄せた〈裸子植物〉(H・25)や〈睡蓮〉(K・13)が大野の舞踏に触発されて成った。私が接しえた大野作品では〈花鳥風月〉(銀座セゾン劇場、1991)や〈御殿、空を飛ぶ〉(横浜赤レンガ倉庫、1993)から受けた感銘が大きいが、大阪で開かれた永田耕衣の会でのアンチームな踊りも忘れられない。アレクサンドロス・オオノ――大野一雄さんのご冥福をお祈りする。
〔2011年9月30日追記〕
「大阪で開かれた永田耕衣の会」は、詳しくは〈耕衣大晩年の会〉(メルパルクOSAKA〔郵便貯金会館〕にて、1995年6月1日)で、記念講演と祝舞――種村季弘〔講演〕〈元気な永田耕衣さん〉、永田耕衣〔講演〕〈田荷軒談娯〉、大野一雄・慶人〔舞踏〕〈暈狂う舞〉――が行なわれた。講演のあと謡を披露した耕衣さんも、種村さんも、大野一雄さんも、あのころはみなさんお元気だった。耕衣の会のちょうど5年前の、そして大野さんが亡くなった20年前の1990年6月1日は、奇しくも吉岡実の仮通夜その日だった。
秋元幸人氏が去る4月29日、亡くなった。48歳、肺ガンによる早すぎる逝去である。秋元さんの近著は《レオン=ポオル・ファルグの詩》(思潮社、2009年8月28日)で、刊行後まもなく購入したものの、読了してから感想をお伝えしようと機を逸したのが悔やまれる。
秋元さんとは吉岡実十三回忌のおりにご挨拶したくらいで、雑誌や書籍の交換、電話やメールのやりとりが中心の間柄だった。このサイト《吉岡実の詩の世界》(2002年11月30日開設)が秋元幸人《吉岡実アラベスク》(書肆山田、2002年5月31日刊行)に刺戟されて成ったことは、大書しておかねばならない。秋元幸人が成したのとは異なる方向で、つまり可能なかぎり吉岡実の事績を紹介する形で〈吉岡実〉を描くこと、それが本サイト開設当初の方針であり、現在も不変である。
私の目にした秋元さんは、その文章からうかがえるとおり、実際の年齢よりも老成した大人[たいじん]の風格の偉丈夫だった。小笠原鳥類さんは西脇順三郎を語る会で秋元さんの〈吉岡実と西脇順三郎〉を聴いたそうだが、残念なことに私は聴きのがしている。後で講演の記録をちょうだいしたものの、大学の教え子たちが懐かしむ秋元さんの「楽しいお話」を聴くことはかなわなかった。前にも書いたことがあるが、〈吉岡実と誰誰〉(たとえば西脇順三郎、たとえば澁澤龍彦)をいろいろ執筆していただいて、時が充ちて新しい本になるのを楽しみにしていたのに、それも空しい(単行本未収録のものは《現代詩手帖》2008年5月号掲載の〈巫術師の鎮魂――入沢康夫と吉岡実〉くらいではないか)。今はただ、無念でならない。
完成したあかつきにはぜひ読んでいただきたかった《吉岡実トーキング》を、秋元幸人の霊前に捧げる。《吉岡実アラベスク》を、《吉岡実と森茉莉》をどうもありがとう。私にとってのあなたは、この二冊のなかで生きつづけています。さようなら、「愛する人たちと/何気ない会話を交わす間に/一人だけ階下へ降りてゆくように」(通夜式で千穂夫人が紹介した秋元幸人の詩の末尾)立ちさった秋元さん。吉岡実と森茉莉に、よろしく。
〔2010年6月30日追記〕
秋元幸人さんからの来信を整理していたら、《吉岡実アラベスク》を恵投いただいたときの礼状の控えとその返信が出てきた。新刊読後の感想を認めた礼状の最後で、私は秋元さんにある資料の無心をしている。「相内武千雄『サフランを摘む人・中期ミノス第三期』刊行年次不明」(同書、五八ページ)がそれだ。折り返し秋元さんからB4判四枚のモノクロコピーが届いたので、お礼に吉岡実自筆の未発表詩稿のコピーを差しあげた。その相内〈解説〉の勘所は、秋元さんが
実際、今私の手許に有るクレタ島ヘラクレイオン美術館所蔵の水彩復元模写『サフランを摘む人』一葉を解説した美術史家相内武千雄の文章にも、この謎めいた壁画の由来は次の様に詳しく説明されている。クノッソス宮殿は十九世紀最後の年にイギリス人アーサー=ジョン・エヴァンズによって発掘された。壁画を発見したエヴァンズは、「クレタの繪畫のしきたりでは暗赤色又は赤褐色で男性を表示する」以上、この壁画に描かれた「若い人物が暗青色で色どられている」のは不審だとし、これを「むしろ少女ではあるまいか」と述ベ、一方イタリアの考古学者ルイジ・ペルニエルはこの壁画を「最初に見たときは、少年ではなく猿であった」と反駁したというのである、「もし猿であったら、エヴァンズの所謂『フレスコの家』のパピルスや花に戲れる野猿の圖のように、この圖の解釋も變ってくることであろう。この猿は青色なのである」。(〈6 「サフラン摘み」〉、《吉岡実アラベスク》、五二〜五三ページ)
とおさえているとおりだ。吉岡ははたして〈サフラン摘み〉を執筆(初出は《現代詩手帖》1973年7月号)するまえに〈サフランを摘む人〉や相内の解説文を目にする機会があっただろうか。コピーでいただいた図版〈サフランを摘む人/中期ミノス 第三期〉を、原典に当たりなおして次に掲げよう。秋元さんは相内の〈解説〉を「刊行年次不明」として出所を挙げていないが、探索の結果、座右宝刊行会編《世界名画全集〔第3巻〕》(河出書房、1956年12月15日)だとわかった。

〈サフランを摘む人/中期ミノス 第三期〉のカラーコピー
出典:座右宝刊行会編《世界名画全集〔第3巻〕》(河出書房、1956年12月15日、V-6)
相内はエヴァンズの少女説≠「胴のくびれたほっそりした體形はクレタ人の人體觀照の定型なのだからあまり問題にならないとしても,一般に女性の肉體は白色で示されているから,少女推定も難しいことになってくる」(原文横組。前掲書、ノンブル記載なし)と斥けている。サフランを摘んでいるのは、はたして少年なのか少女なのか、それとも猿だったのか。
「『朝日新聞』夕刊文化欄の「研究ノート」、三浦一郎教授による壁画「サフラン摘み」発見の記事が発想の原点になっている。破損が多いためサフランを摘んでいるのが少年であるか猿であるか不明という記述が作者の注意を惹き、この愛すべき一篇が産まれるきっかけになった」(高橋睦郎〈鑑賞〉、《吉岡実》、中央公論社、1984、七二ページ)のは確かだとして、秋元さんの文章でクレタの壁画と(山中智恵子が《星醒記》の〈うつせみ〉で「サフランを摘みゆきしままポンペイの青き少年還らざりしを」と詠んだ)ポンペイの壁画の詳細な比較を堪能できないのは、返す返すも残念だ。
なお、相内武千雄(1906-70)は《西脇順三郎先生記念論文集》(慶應義塾大学芸文学会、1963)にも論文を寄せている慶應大学工学部教授だが、NDL-OPACでは単著を検索できなかった。
2月6日、国文学者の益田勝実氏が亡くなった。86歳だった。吉岡実が編集を担当した《ちくま》90号(1976年10月)に益田勝実〈絶妻之誓〉が掲載されている(筑摩からは《秘儀の島――日本の神話的想像力》が1976年8月25日に出ていた)。《土方巽頌》(筑摩書房、1987)の1984年7月8日の日記には「雨。益田勝美〔ママ〕『古事記』を読む」(同書、一六六ページ)とある。吉岡は〈白秋をめぐる断章〉に「私は遅まきながら、『古事記』や柳田国男『遠野物語』や石田英一郎『桃太郎の母』などの「神話」や「民間伝承」に、心惹かれるようになった。私のもっとも新しい詩集『薬玉』は、それらとフレイザー『金枝篇』の結合に依って、成立しているのだ」(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、三〇五ページ)と書いており、益田氏の著作は吉岡晩年の詩境にも影響を与えた。
去る10月16日、小説家の森田誠吾氏が亡くなった。82歳だった。吉岡実《土方巽頌》(筑摩書房、1987)の1986年1月20日の日記には「曇。寒い朝。飯島耕一から電話で、土方巽の病状を聞いてくる。午後いちばんで、国立劇場へ行く。〔……〕六時ごろ帰宅。『魚河岸ものがたり』で、直木賞受賞した、森田誠吾から受賞式に出席してほしいと言われた」(同書、二〇九〜二一〇ページ)とある。一方、森田氏は〈「直木賞」ものがたり〉(《銀座八邦亭》、文藝春秋、1987)にこう書いている。
「馬琴」〔処女長編「曲亭馬琴 遺稿」のこと〕の構想が生れた時に、詩人の吉岡実さんに相談してみると、言下に、新田〔敞〕さんに読んでもらうといい、彼がOKするようならいい小説だし、彼がOKするような小説を書けと言われた。
脱稿して新田さんにお願いすると、読了後すぐ連絡があって、梅沢〔英樹〕さんに逢うように言われ、梅沢さんに逢うと、いい小説でした、読み了[おわ]ってから、まだ江戸という雰囲気に酔っています、とまで言われ、我がこと成れりと喜びながら、それを忘れて、世の中、闇だ、なんて、ひとりですねていたのでは、吉岡さんにも新田さん、梅沢さんにも申しわけが立たない。(同書、一九六〜一九七ページ)
最初から小説家・森田氏と詩人・吉岡のようだが、実はそれ以前に「戦後、私が継いだ家職の広告木版業は、出版広告を主としていた」(〈敦の周辺〉、《中島敦〔文春文庫〕》文藝春秋、1995、一七〇ページ)氏と筑摩書房の広告制作担当者という間柄だった。森田氏は、臼田捷治《装幀時代》(晶文社、1999)が挙げている《三段八割秀作集》(1972)の出版元・精美堂の社長でもあった。国立国会図書館には同書のソースと思しい石原龍一・祐乗坊宣明選《3段8割秀作展 '66》(精美堂画廊、[1967])、同《3段8割秀作展 '67》(同、[1968])がある。そのフォルダーには三段八割広告を数倍に拡大印刷した刷り物がそれぞれ十枚ほど(うち筑摩書房の広告は各二枚)収められているので、その書名を挙げておこう(3. や4. は《装幀時代》で言及されている)。末尾の( )内は同資料〈展観目録〉における三段八割の分類で、精美堂画廊の持ち主でもあった森田氏の創案だろう。
この〈3段8割秀作展〉を企画したのが森田氏だった。吉岡とは、小説家と詩人という以上に、広告制作を通じた仕事仲間だったのではないだろうか。ちなみに森田氏は「また、広告制作担当の吉岡実は、やがて象徴詩人として第一人者となるが、平素は詩人の一面を全く見せず、世間話に興ずる青年であった」(《中島敦》、一七一ページ)と評している。森田誠吾による《中島敦》こそ《曲亭馬琴 遺稿》(新潮社、1981)と並ぶ伝記文学の白眉だろう。《中島敦》は、著者と和田芳恵(編集者として中島敦の小説集《南島譚》を手掛けた)と吉岡実とのエピソードで終わっている。ここにその段を引きうつしつつ、謹んで森田氏のご冥福をお祈りする。
一度、私は、和田の娘・陽子の夫となった吉岡実から、和田を紹介された。
まだ、五十過ぎというのに、好々爺[こうこうや]然とした和田には、話に聞く切れ者の気色は微塵もなく、私が遊び半分吉岡のために彫った篆刻[てんこく]を褒め、自分も一顆欲しいと丁重に言った。
否やはなく、和田の希望に従ったが、和田はこの印を著作の検印として使ってくれた。没後、未亡人もその意を汲んで、今も霊前に供えてある、と伝え聞いた。
和田が刻印の謝礼として贈ってくれた色紙には、
皿の枇杷つぶらつぶらに灯なりけり
とある。(同書、一八〇ページ)
林哲夫さんのブログ《daily-sumus》の本日2008年7月23日アップ分に、湯川成一氏の肖像写真とともに「〔……〕湯川さんが今月の十一日に亡くなられた。十三日にご家族だけの葬儀が営まれたという。いずれ偲ぶ会がもたれるとは思うが、あまりに急なことであった」とある。噫! 吉岡実の訃報を新聞紙上で目にしたときもそうだったが、なにかに決定的に遅れてしまったという悔恨の念しか湧いてこない。吉岡実詩集《神秘的な時代の詩〔限定版〕》(湯川書房、1974年10月20日)の刊行者、生前ついにお目にかかる機会がなかった湯川成一氏のご冥福をお祈りします。
〔2008年10月31日追記〕
《spin》04号〈湯川書房 湯川成一さんに捧ぐ〉(みずのわ出版、2008年9月)に〈湯川書房限定本刊行目録(未完)〉が載っている。目録7の塚本邦雄自選歌集《茴香變》(1971) はかつて文藝空間の原善から借覧して愉しんだが、湯川書房の限定本でまず想いだすのが本書だ。その塚本邦雄の厖大な著書のほとんどを編集・装丁した政田岑生さんは、鶴岡善久氏とともに吉岡実の《液体》(湯川書房、1971)を含む未完の叢書〈溶ける魚〉を編集していて(どんなラインナップになったのだろう)、湯川氏はその歿後に《政田岑生詩集》(書肆季節社、1995)を制作している(年譜を見ると、政田さんを塚本に引きあわせたのも氏のようだ)。これらの書目を見るにつけ、湯川氏の出版活動はその中心に自社の限定本(《神秘的な時代の詩〔特装版〕》など)があり、ひとつ外側に自社の市販本(《神秘的な時代の詩〔限定版〕》など)や自社刊行の自費出版物(関西在住の文人に多い)、さらにその外側に制作などに携わった他社出版物があったように思う。
吉岡実は湯川本を「さて、新句集『物質』を拝受し、いつもながら、旺盛なる精神行為にうたれました。〔……〕また造本、装幀も清楚で、流石は湯川本です」(〈永田耕衣句集《物質》愛誦句抄〉、《琴座》393号、1984年5月、二一ページ)、「過日、お手紙と『物質』の特装本を頂きながら、お礼を申上げるのが、大変遅れまして申訳けありません。おゆるし下さい。さて、白い革装のルリュールの『物質』を、掌で撫ぜながら、流石に湯川本だと感心しているところです。〔……〕しかし、五十冊限定を製作したのは驚きです。耕衣特装本の異色ですね。大切にいたします」(〈青葉台つうしん――永田耕衣宛書簡〉、《琴座》421号、1986年11月、一七〜一八ページ)と評した。吉岡が夢見た、好きな著者の限定本を出す個人出版[プライヴェートプレス]に最も近かったのが、「社主一人の湯川書房・湯川成一」(〈風信〉、《東京新聞〔夕刊〕》1972年8月1日)だったのではあるまいか。しかしながら、それに専念するにはあまりに創作家でありすぎた。吉岡実の中の詩人は装丁家より大きく、装丁家は編集者より大きかった。自身の創作を断念した者でなければ、他者のプロデュースなどどうしてできようか。湯川氏にどのような断念があったのか、あるいはなかったのかわからないが、〈湯川書房限定本刊行目録(未完)〉を見ながらそのようなことを考えた。
待望久しい秋元幸人さんの随筆集《吉岡実と森茉莉と》が思潮社から刊行された(奥付は一〇月二五日発行)。秋元さんから早早に出版の計画を聞いていただけに、待ちわびた一書である。ジャケット・帯とも白地(花布と当今珍しいスピンも白!)にスミ文字のみの、簡潔にして豪奢な装本である(装丁は思潮社装幀室)。表紙の書名「吉岡実と森茉莉と」に続くように帯の著者名「秋元幸人」とあるので、「吉岡実と森茉莉と秋元幸人」のように見えるのも楽しい仕掛けだ。表1の帯文を引こう。
類稀な詩人・作家へ年来の想いを捧ぐ、待望の随筆集
江戸っ子の吉岡実への思い入れ。つづいて歿後20年の森茉莉の項では〈巴里での生活の妙諦ここに極まった〉という若き日の後、谷中清水町から浅草神吉町へと下町生活を送った森林太郎の娘を追った秋元の迫真のペンがつづく。更に加えるならば〈羽化登仙する瞬間を待っている感じ〉の西脇順三郎の漢語とギリシャ語に対する熱弁を克明に記している。
大詩聖たちが、こちらをむいて歩いてくる姿をこの一冊は巧みにとらえている。
――藤富保男
吉岡実と森茉莉に関する6篇(2002年から2004年にかけて発表)はことごとく初出時に読んでいたが、こうしてまとまると〈森茉莉と吉岡実〉がコンパスの中心のように全篇を統べていることがわかる。巻末の〈小説西脇先生訪問記〉(1997年発表)は初読だったが、著者の別の一面を見るようで興味深かった(この〈小説西脇先生訪問記〉を収録したためか、講演〈吉岡実と西脇順三郎〉の内容は本書には盛りこまれなかった)。秋元さんの本格的なフィクションをぜひ読んでみたいものだ。
俳人の飯田龍太氏が去る25日、亡くなられた。86歳だった(生年は吉岡実の翌1920年)。吉岡は飯田龍太特集号の〈私の好きな一句〉に「茨の実麻疹はるかに思ふとき」(句集《山の影》、立風書房、1985)を引いて、随想〈幼児期を憶う一句〉を書いている(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、三三八〜三三九ページ)。吉岡はそこで、飯田龍太・大岡信・高柳重信の三氏とともに編んだ《現代俳句全集》(立風書房、1977〜1978)に触れているが、そのあたりのことはいずれ同全集の解題として書きたい(四人の編者で健在なのは大岡さんだけになってしまった)。飯田氏のご冥福をお祈りする。
甲斐駒のほうとむささび月夜かな(《山の影》)
〔2007年3月31日追記〕
上で触れた《現代俳句全集》解題を執筆したので、そちらもご覧いただきたい。「ともあれ、私は否応なしに〔三好達治句集〕『柿の花』と見較べることになって、『定本・百戸の谿』にすでにありありと露われている飯田龍太の向うッ気の強さ、癇癖の強さと、それを実作において句の魅力に転じている腕力の確かさに感服せずにはいられなかった」(《現代俳句全集 一》、立風書房、1977年9月5日、一〇三ページ)という一節が、同全集の飯田龍太集の解説(大岡信〈明敏の奥なる世界――飯田龍太の句〉)に見える。
雲のぼる六月宙の深山蝉(《春の道》)
《ボードレール全集〔全6巻〕》(筑摩書房、1983〜93)の個人訳で知られる阿部良雄氏が 去る17日、74歳で亡くなった。吉岡陽子編〈〔吉岡実〕年譜〉の1984年7月、「京都市美術館で土方巽、宇野邦一、木幡和枝、中村文昭らと〈バルチュス展〉を観る。〔……〕十一月、来日したメキシコの詩人オクタビオ・パス夫妻のお別れ会に飯島耕一、大岡信らとアスベスト館へ招かれる。和服姿の土方巽、阿部良雄・與謝野文子夫妻、合田成男、通訳を兼ねた野谷文昭、外国の文化使節、画家、美術批評家たちも同席」(《吉岡実全詩集》、筑摩書房、1996、八〇六ページ)は《土方巽頌》の〈日記〉(1984年7月11日、11月5日)の記載に基づくが、阿部良雄・與謝野文子編《バルテュス》(白水社、1986)には同書の〈バルテュスの絵を観にゆく、夏――(日記)84年より〉(《土方巽頌》における題名とはやや異なる)が収録されている。翌1985年5月26日の〈日記〉にも、アスベスト館開封記念公演〈親しみへの奥の手〉の「打上げの宴には、元藤夫人、阿部良雄、宇野邦一、田鶴浜洋一郎、中村文昭そして、田中泯の弟子の外国人たちも来ていた」(同書、一八七ページ)と見えるが、残念ながら阿部氏が吉岡実詩に触れた文章は詳らかにしない。氏のご冥福をお祈りする。
宗左近氏が去る20日、87歳で亡くなった。吉岡実と同じ1919年生まれだった。吉岡の1960年3月20日の日記「日曜 午後三時、向島百花園へゆく。宗左近の詩集・評論の出版記念会。途中で伊達得夫とぬけ出して、新橋のぶれへ。清岡、岩田そして東野夫妻がいる。ふりしっと・はるとうのケイ子さんの長い髪。今夜の圧巻は伊達の羅生門とケイ子さんのネリカン・ブルース。鰐の会のためとくに店をあけたとのこと。飲みつつ大いに唄う。十一時半閉会」(《吉岡実詩集〔現代詩文庫14〕》、思潮社、1968、一二二ページ)に出てくる詩集は《黒眼鏡》(書肆ユリイカ、1959)、評論は《芸術の条件〔二〇世紀芸術叢書〕》(昭森社、1959)だろう。宗氏はいくつかの吉岡実論や追悼文を残している。一方、吉岡は自筆〈年譜〉(《吉岡実〔現代の詩人1〕》、中央公論社、1984)に宗氏との交友を記している。ご冥福をお祈りする。
清岡卓行氏が去る6月3日、亡くなられた。83歳だった。清岡さんは吉岡実の詩を最も早い時点で評価した詩人の一人で、吉岡が《静物》(私家版、1955)を献呈した際、いちはやく返信したという。《今日》同人を経て《鰐》の同人仲間でもあった清岡さんは、1968年に〈吉岡実の詩〉(のち《抒情の前線》、新潮社、1970)という画期的な吉岡実論を発表したが、残念なことにその後は吉岡実詩に否定的な立場をとるに至った。両者の交渉は、清岡卓行編《イヴへの頌〔肉筆による詞華集〕》(詩学社、1971)に吉岡が詩篇〈沼・秋の絵〉(D・21)の自筆原稿を寄せたのが最後と思われる。もっとも、吉岡には〈手と掌〉(1978年8月発表)という随想があって、この文章など、清岡さんが吉岡に一本贈った《手の変幻》(美術出版社、1966)に対する返書という気がしなくもない。
以下はまったくの想像である。竹西寛子の追悼文〈吉岡実さん〉の一節に「多くはなかった会話の中で残っているのは、吉岡さんの男友達についての点描である。感謝のしかたは一様ではなかったが、よい友達をもつ仕合せに支えられた点描は、いずれも涼しい印象で今も生きている。袂の分ちかたも、私には男らしく聞かれた」(《太宰府の秋》、青土社、1993年11月25日、三三ページ)とあるが、私にはこれが清岡卓行のことを言っているように思われてならない。
1999年の夏、吉岡実が戦時中そこにあった長春(旧満洲の新京)へ向かう途次、大連の地に降りたったとき去来したのが「ここが清岡卓行の〈アカシヤの大連〉〈円き広場〉の街か」という想いだった。謹んでご冥福をお祈りする。
〔付記〕
清岡卓行自筆〈年譜〉(《清岡卓行〔現代の詩人6〕》、中央公論社、1983)を見ていたら、「昭和四十九年 一九七四年 五十二歳/一月、「『亜』の全冊」(ちくま)」と発表記録があった。吉岡は当時、PR雑誌《ちくま》の編集者だったから、執筆依頼は吉岡の発案だったかもしれない。
彫刻家で詩人の飯田善國氏が去る19日、亡くなった。82歳だった。吉岡実は飯田善國の「複眼の所有者は憂愁と虚無に心を蝕ばまれる」を題辞に引いた詩篇〈形は不安の鋭角を持ち……〉(H・11)を、多くの知友に捧げた詩篇で編んだ《夏の宴》(青土社、1979)に収めている。吉岡はまた、飯田善國詩集《見知らぬ町で》(思潮社、1983)の装丁もしている。
一方、飯田氏は《現代詩手帖》1980年10月号〔特集・吉岡実〕の〈〈謎[エニグマ]〉に向かって――『夏の宴』を中心に〉で「修辞・比喩・暗喩・想像・感覚・そして妖しい感情の肉体までを逆説の危機に晒して氏が追求してきたもの、氏自身もおのれの詩法を解き明すことができないと明言しているその詩法の秘められたモチーフは、〈世界の謎〉についての言説であった」(同誌、一四五ページ)と論じている。
吉岡は随想では飯田氏のことを書いていないが、あの詳細な自筆年譜にこんな記述がある。「昭和五十一年 一九七六年 五十七歳/春、英訳詩抄『ライラック・ガーデン』(佐藤紘彰訳編)シカゴレヴュー〔ママ〕より刊行される。飯田善国のアトリエで、西脇順三郎ほか数人で酒宴。エーゲ海岸の小石を貰う」(《吉岡実〔現代の詩人1〕》中央公論社、1984、二三四ページ)。《サフラン摘み》刊行の半年前のことである。
吉岡実の新刊が出た。吉岡が生前に刊行した随想集《「死児」という絵》(思潮社、1980)、《「死児」という絵〔増補版〕》(筑摩書房、1988)、評伝《土方巽頌》(筑摩書房、1987)の3冊の散文著作から城戸朱理さんが28篇を選んで編んだ散文選集《吉岡実散文抄――詩神が住まう場所〔詩の森文庫E06〕》(思潮社、2006年3月1日)である。表1の帯文を引く。
超現実的なリアリズム
著者は短いエッセイを書くのさえ呻吟したと言われるが、その文章は名品と評されていた。出来事が現実を超え、反自然的な相貌を帯びてくる。自伝から作詩法にまつわるもの、西脇らの人物論までを収録。解説=城戸朱理
ついでだから〈詩の森文庫〉第二次刊行の案内リーフレットに掲載された文章も引こう。帯文、案内文とも、城戸さんの解説〈詩神が住まう場所〉を踏まえている。
吉岡実は短いエッセイを書くのさえ呻吟したというほど散文に苦手意識をもっていたが、その文章は心ある読者に高い評価をえていた。自然に語られた出来事が現実を超え、超自然的な相貌を帯びてくるのだ。「私の生まれた土地」など自伝的なもの、「私〔わたし〕の作詩法?」など詩に関するもの、西脇、澁澤、土方らの人物論を収録。 解説=城戸朱理
吉岡実の散文は、その詩からは想像できないほど事実に即した「日常反映の記録」であることが多い。そのなかで異色なのが、本書の初案タイトルに採られた〈突堤にて〉だ。以前〈突堤にて〉の校異を《〈吉岡実〉を語る》に書いたので、詳細はそちらをご覧いただきたいが、初出の末尾の文を削除したことからは「作品」への志向がうかがえる。いずれ〈突堤にて〉評釈を書いてみたい。
城戸さんは2005年7月19日の《城戸朱理のブログ――poetry and diary》に〈吉岡実エッセイ選を編纂して。〉を掲載しているが、その末尾には「これまで、単行本未収録の吉岡さんの散文は、すでに小林一郎氏によって、集成・編纂されており、ほぼ1冊分の分量になる。刊行が待たれるところである」と書かれている。ありがたい言葉だ。
塚本邦雄氏が去る六月九日、八四歳で亡くなった。吉岡実は〈二人の歌人――塚本邦雄と岡井隆〉(一九八五年一〇月の《短歌春秋》創刊号〈一首百彩〉掲載)を「同時代の歌人として、私がもっとも注視するのは、やはり塚本邦雄と岡井隆ということになろうか」(《「死児」という絵〔増補版〕》筑摩書房、1988、三四〇ページ)と始めている。そして、塚本の師である前川佐美雄の歌業に触れたあと、塚本の歌集《装飾楽句》(作品社、1956)から四首を引いている。その冒頭は
水に卵うむ蜉蝣[かげろう]よわれにまだ悪なさむための半生がある
一方、塚本邦雄は吉岡実の詩(とりわけ詩集《僧侶》の詩篇)についてたびたび書いているが、《私のうしろを犬が歩いていた――追悼・吉岡実》(書肆山田、1996)掲載の〈誄讚〉一二首が吉岡に寄せた最後の作品だと思われる。最初と最後の歌を掲げる。
蠛[まくなぎ]の黒き渦なすひんがしへ奔らう 魚藍忌は明日のはず
世の末の夏末つ方詩歌よりいささ冴えつつ紫紺野牡丹
あれは一九八〇年前後だったろうか、東京・赤坂の銀花ギャラリーで年に一度、塚本邦雄筆趣展が開かれていた(色紙や短冊、新刊等の展示即売会である)。私は文藝空間の原善と語らって、塚本が来場していそうな日に訪れ、拝顔の栄に浴したものだ。ギャラリーには、高柳重信や葛原妙子もふらりとやってきた。塚本本の装丁者・政田岑生さんが、手ずから蜜柑をむいて勧めてくれたことも思い出される。その高柳、葛原、政田氏も今はなく、塚本邦雄もまた逝った。
少年発熱して去りしかば初夏[はつなつ]の地に昏れてゆく砂絵の麒麟(《装飾楽句》)
〔2009年1月31日追記〕
塚本邦雄は吉岡実が亡くなった翌6月号の《現代詩手帖》(実際の発売は前月末だから、書店に並んだのは吉岡が歿した数日前か)の特集〈戦後詩、その歴史的現在〉に回想〈邂逅の秘蹟〉を寄せている。塚本が詩篇〈僧侶〉に呈した最高の讃辞だと思われるので、引用する。
石原吉郎の「風と結婚式」に会ったその年〔昭和三十一年〕のその月〔八月〕、「ユリイカ」が創刊された。吉岡実の名作「僧侶」の初出は翌三十二年の四月号である。六十四頁建の誌の三十七頁目から、この詩はひつそりと、むしろ目立たぬやうに組まれてゐたが、私の目には、一聯五頁だけが、夜光塗料でゑどられたかに、不気味に発光してゐた。
〔塚本は第九聯全八行を引用している〕
ベルナール・ビュッフェの挿絵でも配したら、即[つ]き過ぎになる。ほとんど痺れるばかりの魅惑に、私は短歌を忘れる寸前だつた。重症の肺結核で臥床三年、やつと恢復期にあつた私は、この詩を発条として、第二歌集の『装飾楽句[カデンツア]』を編んだ。引用は最終の第九聯だが、私は全詩を諳じた。今でも暗誦することができる。(《現代詩手帖》1990年6月号、一二五ページ)
塚本が吉岡の〈僧侶〉を「発条として、第二歌集の『装飾楽句[カデンツア]』を編んだ」というのは、同歌集が1956(昭和31)年の3月20日発行だからクロノロジーには反する。だが、前年クリスマスイヴ執筆の同書〈跋〉の「けれどもまた僕のまづしい才能を賭けたこの一巻が、たとへば壮美・冷厳な交響楽「現代詩」の中にひびく、孤独な然し輝かしい『装飾楽句[カデンツア]』として繋がり得てゐたら、それも現在の小さな喜びとしよう」(《塚本邦雄全集〔第一巻〕》、ゆまに書房、1998、一三〇ページ)という不敵な覚悟を読むと、同時代を生きた歌人の詩人と併走する姿が見えてくる。
石垣りん氏が去る二六日、八四歳で亡くなった(生年は吉岡実の翌一九二〇年)。石垣氏には《表札など》を含む四冊の単行詩集があり、吉岡との関係については〈吉岡実の装丁作品(17)〉に書いたので、ここでは別のことを書く。吉岡が装丁している石垣りんの散文集《焔に手をかざして》は一九八〇年三月五日に筑摩書房から刊行されており、この構成が吉岡の《「死児」という絵》(思潮社、1980年7月1日)の構成と驚くほどよく似ているのである。《焔に手をかざして》の目次を抜粋する。
T 暮しの周辺(41篇)
U 言葉・読むこと書くこと(12篇)
V ゆかりの人・人(18篇)
W この岸で(18篇)
あとがき
《「死児」という絵》は各章とも標題がなく、ローマ数字による章番号だけなので、同書〔増補版〕(筑摩書房、1988年9月25日)の宣伝文を借りて〔 〕内に誌す。
T 〔生い立ちの記〕(19篇)
U 〔詩作をめぐるさまざま〕(10篇)
V 〔愛読した短歌俳句について〕(17篇)
W 〔西脇順三郎はじめ詩人との交流記〕(13篇)
あとがき
ただし一九八〇年版《「死児」という絵》の編集は吉岡本人ではなく八木忠栄氏だから、影響云云はあたらないだろう。いずれにしても、詩人がさまざまな媒体に発表した散文をまとめる際の典型的な編集方法が、これらの書には見られる。石垣氏の逝去に際し、この点を顕彰しておきたい。
種村季弘さんが去る八月二九日に亡くなられた。吉岡実と同じ享年七一歳だった。一四年前の吉岡さんの葬儀の日、とるものもとりあえず巣鴨・真性寺に駆けつけたが、焼香のために並んだのがたまたま種村さんの後ろだった。一九九一年一〇月一二日の〈吉岡実を偲ぶ会〉(浅草・木馬館)で、種村さんはおおよそ次のような話をされた。
「人様とのお付きあいはいろんなレベルがあると思うんですが、私は吉岡さんとは小学生のレベルで付きあわせていただきました。
吉岡さんは大学とか旧制高校とかお出にならなかったわけですが、だいたい戦前の東京では当たり前のことで、私は昭和八年生まれですけれども、小学校の同級生の三分の一くらいが中学校に進んだだけで、あとは卒業してすぐに家業を継ぐとか手に職をつけるとか、そういうことをやった。そういう方たちは教養とは無縁かというと、それはまた話が別で、第一、上の学校に進んだからといって、マニュアルどおりの近代教育は受けることができるかもしれませんが、教養形成に関してはむしろマイナスになるようなこともある。なまじ大学なんかに入ると、流行思想にかぶれてしまいますね。いっときならヘーゲルやマルクス、いまだったらデリダとかフーコーとか。そういうものを読んだり、読んだふりをしないと幅がきかない。幼児体験やローカリティを含めて丸ごと世の中にもっていかれて、自分になにも残らない。洗脳されてしまう惧れがある。
最近お亡くなりになった日影丈吉という作家が中学に入ったばかりのとき、関東大震災で学校が崩れてなかなか建たないので、アテネ・フランセに入った。あの方はフランス語だけじゃなくて、ギリシャ語・ラテン語などの古典語に関しては、大概の仏文出の方よりずっとできた。明治の人はそうですね。自前で横浜に行ってじかに外人にぶつかるとか、永井荷風みたいに銀行員になって向こうへ行って、じかに海外の知識を得るとかした。
制度的な学校教育を通じてでなければものは考えられない、というふうになったのはわりと最近で、戦前であればそこらへんに親方であるとか、あるいは先輩であるとか友人であるとか、そいういう人がいまして、そこに行ってじかにいろんなものを吸収してくることができたし、街がそういう造りになっていた。それをどんどん学校教育が壊しちゃって、近代の時間が我が物顔で流れていく。そういうところ以前で形成された教養というものがありまして、それが近代的な時間というものを逆にひっくり返して、言葉を異化効果的に使っていく。そういう使い方ですね。つまり、時間が死んだところから言葉が生きてくる。
吉岡さんはそういうことをやられた、というふうな気がしています。それが、先ほど言いました小学生的な、知識に汚染されていないところで私なんかがお付きあいできた理由だと思います」
巣鴨・田村での吉岡の年忌の席で(当方は吉岡が所蔵しているとはつゆ知らず)ゾンネンシュターンの色鉛筆画について語らったことも、ただ懐かしく想いだされる。遺志により、お別れ会などは予定されていないという。種村さん、どうかゆっくりと吉岡さんや澁澤さん、土方さんたちとお寛ぎください。愉しい知識を、ありがとうございました。
城戸朱理さんの《吉岡実の肖像》が、ジャプランから七七〇部限定で刊行された。一九九四年から翌年にかけて《投壜通信》に連載された〈詩人の肖像 吉岡実〉を毎号楽しみにしていただけに、このたびようやく一書となったのは嬉しいかぎりだ。吉岡実の詩についてのモノグラフはいままでに三冊あるが、その人物に的を絞った本は《吉岡実の肖像》が初めてである。
秋元幸人さんの《吉岡実アラベスク》が吉岡の〈西脇順三郎アラベスク〉を換骨したように、城戸さんの《吉岡実の肖像》も吉岡の《土方巽頌》を奪胎したものと言えよう。吉岡実を論じようとする者の多くが、その散文に範をとるという現象は興味深い。吉岡実散文の魔力は、吉岡実詩の魔力におさおさ劣らない。
昭和後期に屹立する天才詩人、吉岡実。
戦慄すべき詩的言語の創造者にして、磊落な江戸っ子でもあった、
その素顔を、若き日に知遇を得た著者が、愛惜を込めて綴る随想集。
吉岡実は何を愛し、何を語ったのか――。
詩の源泉ともいうべき、魂の光芒が、ここにある。
(《吉岡実の肖像》帯文〈魂の光芒、言葉の肖像。〉)
《吉岡実の肖像》は熟読すべき文章の連続であり、吉岡実本人を知らない多くの人も「これがあの〈詩〉を産みだした人物か」と感嘆するに違いない。私は《召喚》を手にしたときの驚きが甦る〈わたしの処女詩集のころ〉や、装丁論としても出色の〈本〉をとりわけ懐かしく読んだ。
城戸さんには吉岡実に献じた詩集《非鉄》(初刊は1993年、のち《城戸朱理詩集〔現代詩文庫140〕》所収)がすでにある。かくなるうえは、《洗濯船》吉岡実特集号に掲載された〈乱神の似姿〉以降の吉岡実詩についての評論や詩集の書評をまとめた「吉岡実大全」を期待したい。
土方巽夫人・元藤Y子さんが去る一〇月一九日に亡くなった。元藤さんには《土方巽とともに》(筑摩書房、1990)という著作があって、吉岡実も登場する(同書は吉岡歿後の刊行で、吉岡の装丁ではない)。吉岡の《土方巽頌――〈日記〉と〈引用〉に依る》(筑摩書房、1987)に元藤さんが登場するのはもちろんである。土方巽記念アスベスト館のwebページ〈Y舞踏行脚/燔犠大踏鑑〉(2001年8月)には元藤さんの紹介として「1928年生まれ。夫である土方巽とともに、日本文化を代表する新しい身体表現である「舞踏」を創り上げた。土方巽記念アスベスト館館長として、多くの企画、展覧会、上映会、ワークショップ、公演等を開催。1992年より舞台活動を再開し、演出・振付・出演と国内外で広く活躍する」とある。土方巽関連のイベントや吉岡実を偲ぶ会でたびたびお目にかかったが、あれは確か一九九〇年代前半、両親と妹と家族で熱海に旅行したとき、網代の駅前でばったりお会いしたことがある。ご挨拶だけで失礼したが、離れて見ていた今は亡き母が「外国のかたかと思った」と後で言ったように、まことにあでやかないでたちの元藤さんだった。ご冥福をお祈りする。

随筆〈奠雁〉の初出切り抜き(吉岡家蔵)のモノクロコピーと〈奠雁展〉案内のカラーハガキ
吉岡実遺愛の〈奠雁展〉初日の五月一日午後、会場を訪ねて陽子夫人にご挨拶した。私はほかで奠雁を観たことがないので、吉岡実のコレクションの評価はできないが、そんなことを忘れさせる「木彫の鴨」のあたたかみのある、佳い展示だった。図録もないこぢんまりとした会だったので、随筆〈奠雁〉初出([愛蔵十二佳選 第七回]の原題は〈家に幸を呼ぶ、つがいの木雁〉、撮影は佐藤裕でカラーページ)のモノクロコピーと織田有の展覧会の案内ハガキの写真を掲げて、いま一度、その雰囲気を味わうことにしよう。ちなみに、初出の写真キャプションには「雁か鴨か。奠雁≠ニいう名も美しい。李朝木工の伝統美をうかがわせる遺品として珍重されている……。」(《ミセス》1986年7月号、二一四ページ)とある。
〔2004年10月31日追記〕
二〇〇三年五月一日の《朝日新聞》夕刊の〈立体・工芸〉に〈奠雁展〉が紹介されていたので、引用する。なお、文中にある「写真」は上掲案内のカラーハガキのサブカットである。
「1日木曜〜10日土曜、午前10時〜午後6時半(土曜は5時半まで)、東京都千代田区有楽町1丁目の織田有(有楽町駅、電話03・3215・0125)。新郎が木製の雁(がん)を新婦に贈る婚礼の儀式、「奠雁(てんがん)の礼」。中国から伝わった風習で、朝鮮王朝時代に盛んになった。雁は実物よりも一回り小さく、木肌を生かしたシンプルな造形を特徴とする=写真。詩人の吉岡実が生前収集した、150〜70年前の35点前後を展示。毎朝なでて大事にしていたため、つやがでて光っているという。4日と5日休み。」
2003年5月1日〜10日、東京・有楽町の古美術店「織田有(ODAU)」で吉岡実が生前、愛蔵した奠雁が展示される。送っていただいたDMハガキの文面を引用する。
奠雁展期日 5月1日〜10日/2003 【5月3日は開店致します】
新郎側より新婦側に雁を贈る「奠雁[チョナン]の礼」に用いられた李氏朝鮮期の木雁は、その風習が廃れて、現在では数少ないものとなりました。
展示の品は、毎朝、身近に置いた奠雁を撫で摩り愛蔵された詩人、吉岡実さんの遺品です。このたび氏の全句集「奴草」―発行・書肆山田―も刊行されましたので合せてご観賞下さい。
織田有/ODAU
千代田区有楽町1-12-1 新有楽町ビル1F tel.3215-0125 fax.3215-0126
Shin-Yurakucho Bldg. 1F, 1-12-1, Yurakucho, Tokyo 〒100-0006
日曜・祭日休み a.m.10.00〜p.m.6.30(土曜 p.m.5.30まで)
新緑の候、奠雁を愛でに有楽町へ行きたい。「〔……〕さて十数年前のこと、「芸術新潮」の紹介記事で奠雁展の小さな写真を見て、私はなぜか心惹かれてしまった。有楽町の古美術店が催した即売会だった。」――吉岡実〈奠雁〉(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、二八二ページ)
吉岡実生誕八四周年の四月一五日、かねて予告されていた吉岡実の句集《奴草》が書肆山田から刊行され、吉岡陽子さんから早早に一本賜った。詩集《赤鴉》に収められた〈奴草〉の全篇(ただし「泥道やふりにし町のむら燕」一句が削除され、「夜濯ぐ……」が「衣濯ぐ……」と改められた)に〈拾遺〉として二二句が加えられた、文字どおりの「全句作」である。本書の帯から引く。
詩人・吉岡実の遺した全句作品川や馬糞はなるる白き蝶
あけびの実たずさえゆくやわがむくろ
奴草【やっこそう】椎の根に寄生する寄生植物。葉は五、六片の鱗片となって十字形に対生。晩秋、茎頂に淡黄色奇形の両性花を単生。花弁を欠く。花に蜜あり鳥媒花。
ここで吉岡の俳句の発表歴を振りかえると、生前はついに自身の手で一本にまとめられることがなかった。歿後の一九九三年、活字化されたまま埋れていた俳句が、宗田安正さんの解題とともに〈吉岡実句集〉として《雷帝》誌に掲載された。二〇〇二年、《赤鴉》の〈奴草〉一二四句が出現して、吉岡句の全貌が見えてきた。今回の句集の刊行によって、《吉岡実全詩集》(歌集《魚藍》も収録)と併せて、吉岡実の詩歌句の作品世界がようやく顕かになったのである(〈編集後記 6〉参照)。
詩人の多田智満子さんが去る一月二三日に亡くなった。多田さんには吉岡実について書いた文章が三つほどある。〈秋のサフラン〉では詩〈サフラン摘み〉に触れている。〈素朴な様で適確な名文〉は《「死児」という絵》の書評なので、〈吉岡実さんの葬儀の日〉(中央公論、一九九〇年八月号)から引く。「炯眼――キョロリと、好奇心に満ちたあの大きな吉岡さんの眼は、たしかに凄い視力をもっていた。わけても、見分け、撰り別ける力をもっていた。幻視者というより、ヴィジョンを構成する人の眼だった。小柄で一見堅気の職人風のあの風貌から、私はいつも居職、それもとくに金銀の細工物を手がける〈飾り職〉を連想したものだ。言語を巧妙に配置し、奇想を象嵌し、心ゆさぶる作品を仕上げる、超一流の言語の金銀細工師」。故矢川澄子さんも出席された〈吉岡実を偲ぶ会〉の壇上での、軽やかな身のこなしが想いだされる。
ルイス・キャロルの研究で著名な高橋康也さんが、去る六月二四日に七〇歳で亡くなった。《ノンセンス大全》に収められた〈吉岡実がアリス狩りに出発するとき〉は吉岡と《アリス》との関係を語ってあますところがない。ほかにも〈吉岡実と劇的なるもの〉や吉岡の詩集《神秘的な時代の詩》書評(これは単行本に収められていないようだ)などがある。吉岡にはサミュエル・ベケットの「想像力は死んだ 想像せよ」をめぐる随想があり、そこに高橋さんが登場する。死の半月前まで観劇を続けていたというあたり、吉岡のストリップ通いを思わせるものがある。
〔2012年2月29日追記〕
丸谷才一の《蝶々は誰からの手紙》(マガジンハウス、2008年3月21日)に〈水着の女と『ユリシーズ』〉という高橋康也追悼文がある。わずか2ページの短文だが、最初「高橋康也さん」だったのが「高橋さん」「向う」「彼」「この男」「高橋康也」とみるみる呼び名を変えて、最後の段落はこうなっている。「水着の女が「ペネロペイア」を夢中になつて読んでゐる写真は、複写して、額に入れ、書庫の入口に飾つてある。それを見ると、ときどき、康也の面影がゆらりと心に浮ぶ。おつとりと構へてゐながら、ひよいと、しやれたことを口にする男だった。このモンローの話が、彼の才気の好例になるかどうかはわからないけれど」(同書、三二七ページ)。この「康也」は、置き換えがきかない。
去る六月一五日と二二日、吉増剛造さんがNHKラジオ第2放送で、吉岡実について語った(《NHKカルチャーアワー・文学と風土 詩をポケットに》の第11回〈美しい魂の汗の果物〉と第12回〈とどかないかも知れない深い愛の言葉〉)。大要は放送のガイドブックとして作成されたNHK出版の《NHKカルチャーアワー・文学と風土 詩をポケットに(上)》に掲載されているが、番組では四二年前に〈放送詩集〉として書きおろされた〈波よ永遠に止れ〉の朗読(若山弦蔵)の冒頭と後半が紹介されたのが印象的だった。この音源については入沢康夫さんが《吉岡実全詩集》の付録で触れている(私も入沢さんのご厚意で初めて耳にしたものだ)。吉岡自身、自作の朗読をしたことはないが、こうした番組を聴くかぎり、黙読とはまた違った味わいがある。
秋元幸人さんの《吉岡実アラベスク》が十三回忌を発行日に、書肆山田から刊行された。《三田文学》に発表された〈吉岡実アラベスク〉という総論的な中篇評論(そのうち〈サフラン摘み〉の項は書きおろし)と、八篇からなる各論(《ユルトラ・バルズ》に連載)で構成されている。
ところで、一冊全体を吉岡実論に捧げた書物は想いのほか少なくて、通雅彦著《円環と卵形――吉岡実ノート》(思潮社、1975)と鶴山裕司著《詩人について》(四夷書社、1998)が挙げられるくらいだ。連載中から愛読していただけに、本書の刊行は実に喜ばしい。
《吉岡実アラベスク》は吉岡の〈西脇順三郎アラベスク〉を範に、その詩的生涯を跡づけたもの。吉岡の未刊の対談・対話から多くのコメントを引き、逸文を的確にちりばめたあたりに著者の吉岡実詩に対するなみなみならぬ敬愛がうかがわれる。
私には全篇興味深いものがあったが、「引用詩」の濫觴を《サフラン摘み》や《夏の宴》のまえの詩集《神秘的な時代の詩》所収の〈夏から秋まで〉として論じている点が、とりわけ清新だ。
矢川澄子さんが去る五月二九日に亡くなった。吉岡実は一九八三年に筑摩書房から発行された矢川さんの著書《兎とよばれた女》の栞に〈謎に満ちた静寂〉と題した短文を寄せている(単行本には収められていない)。吉岡はそこで矢川さんの詩集《ことばの国のアリス》や《アリス閑吟抄》を愛唱していると書いている。私は残念ながら矢川さんの熱烈な読者ではないので、《コレクション瀧口修造9》月報の〈静かな雄弁〉以外に吉岡に触れた文章があるか詳らかにしないが、矢川さんは一九九一年一〇月一二日、浅草・木馬館で開かれた〈吉岡実を偲ぶ会〉の壇上で、おおよそ次のような発言をしている。哀悼の意をこめて、ここに再録させていただく。
「今日はなにも準備していないんで……。私は〔吉岡〕陽子さんと同い年で。吉岡さんとは、筑摩書房に寄ったときに、コーヒーを飲みにいきました〔吉岡の一九六〇年四月六日の日記に「渋沢龍彦夫妻とお茶をのむ」(《吉岡実詩集》、思潮社・現代詩文庫14、1968、一二三ページ)とある〕。人生にはいろいろなことがあるものでして、あるときなど『ぼくの前でなら泣いてもいいんだよ』とおっしゃってくださった。」
〔2004年2月29日追記〕
〈静かな雄弁〉はその後、矢川さんの単行本未収録のエッセイを集めた遺著《いづくへか》(筑摩書房、2003)に収められた。
〔2004年8月31日追記〕
矢川さんに吉岡実詩に触れた文章があった。昭和から平成になって間もない一九八九年二月の《新潮》臨時増刊号でのアンケート〈昭和文学 私の一篇〉に、吉岡の詩〈苦力〉を挙げているのだ。全文を引かせていただく。
「詩集『僧侶』全体が当時のわたしにとっては新鮮なおどろきでした。衝撃の強さからいえば、同じ頃の川端〔康成〕さんの『片腕』と、どっちにしようか、だいぶ迷いました。そういえば吉岡さんの風貌、川端さんにそっくりです」(同誌、四三五ページ)。
そういえば朔太郎・キートンと川端康成・吉岡実を「あのいつでも驚いているような眼」の印象で結びつけたのは、《ユリイカ》が吉岡実特集を組んだときの編集長・三浦雅士だった。
二〇〇二年の五月三一日は吉岡実の十三回忌だった。当日は真性寺で法要が営まれ、参列者に吉岡の未刊の詩集《赤鴉》が配られた。発行は弧木洞、発行者は吉岡陽子夫人。吉岡実生前最後の著書《うまやはし日記》の限定版が同じ「弧木洞」発行だったが、本書もきわめてプライベートな姿である(結婚記念の歌集《魚藍》が想いだされる)。
《赤鴉》の制作を担当した書肆山田のwebサイトに本書の紹介文が掲載されている。
「本書は、1990年に亡くなった吉岡実氏の十三回忌にあたり、弧木洞(発行人・吉岡陽子)より刊行された。限定72部、非売品。制作・書肆山田、装幀・亞令。2001年に吉岡家から発見された、吉岡実氏の手稿本《詩集 赤鴉》を活字化したもので、第一歌集「戯欷」及び第一句集「奴草」からなる。幾つかの作品は、吉岡実氏によって発表され、活字化されているが、大部分の作品は未発表のものである。」
そう、《うまやはし日記》のなかで刊行を希望していた歌集と句集が稿本として実在し(冠称の〈詩集〉は吉岡実自身が付けたもの)、没後一二年を経て日の目を見たのだ。私など、大岡信との対話〈卵形の世界から〉(《ユリイカ》1973年9月号)の吉岡発言を読んで以来、てっきり焼却されたものと早合点していたから、この本の出現はまことにもってありがたくもあり、驚異でもあるのだ。
《赤鴉》巻末の陽子夫人の〈覚書〉によれば、句集の形で吉岡実の(全)俳句が読める日も近いようだ。鶴首して待ちたい。
「〔昭和十四年〕十一月十一日(土曜) 句作にはげむ。いつか句集『奴草』を編みたいと思う。」(《うまやはし日記》、書肆山田、1990、八七ページ)。
最近の〈吉岡実〉 了
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