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吉岡実の著書や編纂書(所蔵本を中心に、一部吉岡家蔵本を含む)
こ のページでは、吉岡実の人物と作品について端的にまとめた資料を引用・紹介させていただいた(吉岡実逝去時の各紙の訃報は、陽子夫人から借覧した切り抜き に限って採録し、若干難のある記述――例えば「「ユリイカ」誌に発表した「僧侶」で第九回H氏賞を受賞」は正しくは「詩集『僧侶』で第九回H氏賞を受賞」 である――も原文のママとした)。引用した辞典・事典、著者略歴等における人名や書名、年代の誤記・誤植は事実と照らして訂正したが、とくに断らなかっ た。各文章末尾の( )内は執筆者名。私が書いた文はふたつあって、2000年のものは《広辞苑》(岩波書店)のパスティシュであり、1999年の「最も 短い略歴」は《「死児」という絵〔増補版〕》(筑摩書房、1988)の記載の模倣である。おしまいに《〈吉岡実〉人と作品》の編者自身の「最も短い略歴」 を付した。
(初稿 2002年11月、改稿 2009年10月)
YOSHIOKA Minoru〔フランス語〕(2002、無署名)
MINORU YOSHIOKA〔イタリア語〕(2000、無署名)
吉岡実(よしおか・みのる)氏=詩人・装幀家(1990、無署名)
実存主義的な詩風 吉岡実氏(よしおか・みのる=詩人)(1990、無署名)
吉岡実氏(よしおか・みのる=詩人、元筑摩書房取締役)(1990、無署名)
実存主義で新詩風 吉岡実氏(よしおか・みのる=詩人)(1990、無署名)
吉岡実氏(よしおか・みのる=詩人、装丁家)(1990、無署名)
一九一九・四・一五〜一九九〇・五・三一
《略歴》東京市本所区中ノ郷業平[なりひら]町(現、墨田区)生まれ。父紋太郎、母いとの三男。一九三二(昭7)年、本所高等小学校入学。関東大震災後に、住んでいた東駒形から厩[うまや]橋の四軒長屋へ転居、文学への親近はこの長屋の二階に住んでいた佐藤樹光(のちの書家、春陵)の影響が決定的であった。三四年、小学校を卒業し本郷の医書出版南山堂に小僧として奉公、短歌を作り始める。三八年、南山堂退社。春陵の書塾を手伝う。春陵がくれた北原白秋『花樫』は五十余年の愛蔵書となる。俳句も作りだす。翌年、徴兵検査を受ける。四〇年、西村書店入社。木下夕爾との二年間の文通始まる。斎藤史『魚歌』を愛読する。一月半の臨時召集で目黒大橋の輜重[しちょう]隊に入る。一〇月、初めての詩歌集『昏睡季節』(自費出版)刊。翌年、召集令状を受け麻布三連隊(陸軍歩兵部隊第三連隊)に入隊、『万葉集』、リルケ『ロダン』、ゲーテ『親和力』等を携え満洲に出征する。一二月、遺書として兄と友人に託した第一詩集『液体』(草蝉舎)が届く。/四五年、半年前に渡った済州島で敗戦を迎え復員する。満洲の部隊を転々としたが大半は輜重兵として馬と過ごす兵役生活であった。四九年、「卵」を主題とした表現を中心に、本格的な詩作を決意する。五一年に筑摩書房に入社、七八年の依願退職まで勤務する。五五年八月、最後の詩集にしようと『静物』(私家版)を刊行、飯島耕一に認められ、翌年に「今日の会」に誘われて入会する。五八年一一月、詩集『僧侶』(〈第九回H氏賞〉書肆ユリイカ)を刊行し詩壇に衝撃を与える。五九年八月に、超現実的な詩の特色を持った同人詩誌「鰐[わに]」に参加する。単行詩集八冊を刊行し、戦後の最も代表的な詩人の一人となった。 (澤正宏)
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詩人。一九一九―一九九〇年。東京都本所生まれ。第二次世界大戦中は中国へ出征、韓国の済州島で終戦を迎えた。戦後は筑摩書房に勤務しながら作品を 発表。詩作だけでなく本の装丁も手がけた。代表作に『僧侶』『サフラン摘み』など。 (無署名)
《作家の別腹――文豪の愛した東京・あの味》、光文社、2007年11月20日
一 九一九―一九九〇年。東京本所生れ。主な詩集に『静物』一九五五年、『僧侶』一九五八年、『サフラン摘み』一九七六年、『薬玉』一九八三年、散文集に 『「死児」という絵』一九八〇年、『うまやはし日記』一九九〇年その他。『吉岡実全詩集』筑摩書房、一九九六年。『昏睡季節』に先立つ作を含む詩歌集『赤 鴉』二〇〇二年、弧木洞、句集『奴草』二〇〇三年、書肆山田、編書に『耕衣百句』コーベブックス、一九七六年など。 (無署名)
《詩の風景・詩人の肖像》、書肆山田、2007年11月10日
一
九一九年(大正八)四月十五日、東京生まれ。本所高小卒。戦前は南山堂、戦後は筑摩書房に勤務、装丁も手がける。かたわら詩作を続け、五八年詩集『僧侶』
でH氏賞、七六年『サフラン摘み』で高見順賞、八四年『薬玉』で歴程賞受賞。「ユリイカ」に発表した詩は若い世代に大きな影響を与えた。一九九〇年五月三
十一日死去。
●収録作品――「タコ」 (高橋順子)
《日本の現代詩101》、新書館、2007年5月5日
1919 年〜1990年 詩人。東京生まれ。少年期には北原白秋や佐藤春夫を好み、俳句にも惹かれていたが、やがて孤独な思索から幻想的・物質的イメージにみちた 硬質な詩的言語を紡ぎだし、『僧侶』で戦後の詩壇に衝撃を与えた。筑摩書房の名編集者でもあり、澁澤龍彦、土方巽とはとくに親密に交友、下戸ながらしばし ば酒席に列する。澁澤龍彦には「吉岡実の断章」(『人形愛序説』)などがある。 (巖谷國士)
《澁澤龍彦 幻想美術館》、平凡社、2007年4月12日
(一九一九〜一九九〇)東京都出身。戦後、清岡卓行らと「鰐」創刊。詩集『僧侶』(一九五八)、『サフラン摘み』(一九七六)など。●「静物」出 典・『吉岡実詩集』思潮社、一九六七年。 (無署名)
《詩をよむ歓び》、麗澤大学出版会、2007年2月17日
1919年、東京本所生まれ。詩人・装丁家。詩集に「僧侶」「サフラン摘み」など。1990年没。「吉岡実全詩集」が筑摩書房より刊行。 (無署名)
《キネマの文學誌》、深夜叢書社、2006年12月28日
吉岡実(1919-1990) published his first book of poems, 『昏睡季節』 A Season of Stupor in 1940. After the publication of 『静物』 Still Life, his first postwar publication, he quickly became a major figure in the avant-garde and is now considered one of Japan's most important postwar poets. His influence reached into other genres through his close friendships with major figures in contemporary Japanese painting and dance, including the Butoh pioneer Tatsumi Hjikata. Kusudama (Shoshi Yamada, 1983) may be Yoshioka's most important work, and is representative of his later experiments with quotation and collage. (無署名)
[Five] Factorial , summer 2006
1919 年東京生まれ。41年満州への応召に際し詩集『液体』上梓、終戦まで軍隊生活を送る。戦後に入り、55年『静物』刊行、58年『僧侶』でH氏賞受賞。59 年飯島耕一らと「鰐」創刊。戦後最高の詩人の一人に数え上げられる。主著に、詩集『サフラン摘み』『薬玉』『ムーンドロップ』、随想集『「死児」という 絵』、評伝『土方巽頌』など。書籍の装幀も多く手がけた。90年没。 (無署名)
《吉岡実散文抄――詩神が住まう場所》、思潮社、2006年3月1日
詩 人。幻視した世界をそのまま言葉に写すかの、強烈なイメージと詩語で知られる。詩集に『僧侶』『静かな家』『サフラン摘み』など。土方〔巽〕に求められて 書いた詩に「闇夜が好き/母が好き/つとに死んだカンガルーの/吊り袋のなかをのぞけ/テル・テルの子供/ニッポンの死装束が白ならばなおさら/青い柱を 負って歩き給え……」、で始まる〈青い柱はどこにあるか?〉がある。また『土方巽頌』の著者。 (原田広美)
《舞踏(BUTOH)大全―― 暗黒と光の王国》、現代書館、2004年9月20日
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一九一九〜九〇。詩人。東京生。大岡信らと『鰐[わに]』を創刊。『僧侶』でH氏賞。詩集『静物』『サフラン摘み』等。 (無署名)
東 京都生まれ。本所高等小学校卒。第一詩集『液体』(一九四一年)を刊行後、満洲へ出征。戦後、五五年に詩集『静物』で詩界に登場する。『ユリイカ』周辺の 詩人たちと識り、「僧侶」、「死児」を同誌に発表。詩集『僧侶』でH氏賞を受ける。独自の現代性をもったその詩法は後続世代の詩人たちにも大きな影響を与 えた。他の詩集に『紡錘形』、『静かな家』、『サフラン摘み』(高見順賞)、『薬玉』(歴程賞)などがある。 (無署名)
《現代日本の詩歌》、毎日新聞社、2003年4月30日
詩 人 装幀家 〔生年月日〕大正8年4月15日 〔没年月日〕平成2年5月31日 〔出生(出身)地〕 東京都墨田区本所 〔学歴〕本所高等小学校(昭和9 年)卒 〔受賞名〕H氏賞(第9回)(昭和34年)「僧侶」、高見順賞(第7回)(昭和51年)「サフラン摘み」、歴程賞(第22回)(昭和59年)「薬 玉」 〔経歴〕高等小学校卒業後、彫刻家を夢みたが果たさず医書出版南山堂に勤務し、そのかたわら夜学に通う。昭和15年召集を受け、詩歌集「昏睡季節」 を刊行して応召し、20年に復員。30年「静物」を刊行。34年「僧侶」でH氏賞を受賞、また清岡卓行らと「鰐」を創刊(37年まで)。51年「サフラン 摘み」で高見順賞を、59年「薬玉」で藤村記念歴程賞を受賞。戦後は筑摩書房に勤め、本の装幀家としても有名である。他の著書に「うまやはし日記」「土方 巽頌」などがある。 〔所属団体名〕日本文芸家協会 (無署名)
《詩歌人名事典 新訂第2版》、日外アソシエーツ、2002年7月25日
Ne a Tokyo le 15 avril 1919. Il commence a travailler a 15 ans dans une masion d'edition d'ouvrages medicaux. Il commence a ecrire des tanka des cet age. En 1937, a 18 ans, il se met a ecrire des haiku. En 1938, il quitte la masion d'edition ou il etait apprenti et cherche a vivre en donnant des lecons de calligraphie. En 1940, il est appele, et prepare un recueil: Konsui Kisetsu (La Saison lethargique) fait de tanka et de poemes en vers libres. Son recrutement est annule en 1940. En 1941, il est de nouveau appele. Il repart en laissant en guise de testament un recueil intitule Ekitai (Fluide). Il fait la guerre entre 1940-1945. Il s'occupe essentiellement de chevaux en Mandchourie. Il revient en 1945. Il est alors engage dans une masion d'edition. Il decide d'abandonner le haiku pour la poesie contemporaine. En 1951, il entre a Chikuma-Shobo, ou il restera toute sa vie. Son premier recueil de poesie ≪ contemporaine ≫ Seibutsu (Natures mortes), vendu a 60 ex. En 1958, il publie Soryo (Moines). En 1959, il se marie avec Wada Yoko. Pour son mariage, il publie un receuil de tanka. Pour la premiere fois, il publie une anthologie personnelle: premiere publication qui n'est pas a compte d'auteur. 1962: Bosuikei (Fusiformes). 1968: Shizukana ie (Maison silencieuse). 1974: Shinpitekinajidaino shi (Poemses d'une epoque mysterieuse). 1976: Safurantsumi (Cueillette de safrans). 1979: Natsuno utage (Le Banquet d'ete). 1980: Poru Kureno shokutaku (La Table de Paul Klee). Premier et dernier recueil de prose: ≪ Shiji ≫ toiu e (Tableau intitule ≪ Enfant mort ≫). 1983: Kusudama. 1988: Mundoroppu (Moondrop). Juste avant de mourir il publie son journal de vingt annees sous le titre: ≪ Journal de Umayahashi ≫. Il meurt en 1990. (無署名)
PO&SIE , No. 100, juin 2002
(1919 -90) 昭和時代の詩人。大正8年4月15日生まれ。昭和16年詩集「液体」をのこして応召。戦後、「静物」で詩壇に登場する。34年H氏賞を受賞した 「僧侶」は現代詩のひとつの到達点とされる。装丁家としても活躍。平成2年5月31日死去。71歳。東京出身。作品に「サフラン摘み」(昭和51年高見順 賞)、「薬玉」(59年藤村記念歴程賞)など。 (無署名)
《日本人名大辞典》、講談社、2001年12月6日
1919-1990
Nato a Tokyo, dopo aver terminato la scuola dell'obbligo frequento il
liceo commerciale serale, mentre lavorava presso la ditta Nanzando. Fu
richiamato alle armi nel 1940 e parti per la Manciuria. Nel dopoguerra
si impiego come legatore di libri nella casa editrice Chikuma. Oltre ai
libri di poesia Il monaco e La raccolta dello zafferano,
in cui ha espresso in modo singolare la sua fantasia, e autore di molte
altre pubblicazioni, una delle quali e una raccolta giovanile di Tanka.
(無署名)
Sei Budda di pietra――Antologia di poesia giapponese contemporanea, settembre 2000
詩人。別号、皚寧吉な ど。東京本所の生まれ。高等小学校卒。医学出版社に奉公。徴兵に際し、詩歌集《昏睡季節》、詩集《液体》刊行。輜重兵として満洲を転戦。戦後、筑摩書房に 勤務。特異な幻視力で、堅牢にして柔軟な言語世界を構築した。主な詩集に《僧侶》《サフラン摘み》《薬玉》《吉岡実全詩集》、散文に《「死児」という絵》 《土方巽頌》などがある。装丁家としても知られる。(1919〜1990) (小林一郎)
1919年 東京に生まれる
1934年 本所高等小学校卒業
1990年 東京で逝去
詩人・装丁家
著書 詩集《僧侶》《サフラン摘み》《薬玉》《吉岡実全詩集》ほか
散文《「死児」という絵》《土方巽頌》《うまやはし日記》 (小林一郎)
(よしおか・みのる、一九一九―九〇)
一九一九年東京都生まれ。本所の高等小学校を出て、十五歳で医学書出版の南山堂に奉公。かたわら文学に親しみ、短歌をつくる。四〇年より二度にわたり召集
を受け、四一年から満州、朝鮮と従軍。戦後、復員して四五年に神田の小さな出版社に勤める。翌四六年、恩地孝四郎に装幀の謝礼を持参したことを機に装幀の
研究に励む。また、このころから詩を本格的に書き始め、以後、現代詩の最前線で鮮烈な詩作活動を展開した。五一年に筑摩書房入社、七八年の事実上の倒産に
ともない退職するまでの二十七年間、同社に勤務。主に広告・広報業務を担当しながら、五二年から装幀を手がける。『西脇順三郎全集』(七一年)ほかの神経
の行き届いた仕事を残して、同社の社内装幀の伝統を揺るぎないものにした。他社からの装幀の依頼も六〇年代からふえ、詩人による装幀の系譜に貴重な足跡を
残した。九〇年没。 (臼田捷治)
《装幀時代》、晶文社、1999年10月5日
詩人、装幀家。大正8年4月15日、東京都墨田区本所生まれ。平成2年5月31日
没(71歳)。本所高等小学校(昭和9年)卒。H氏賞(第9回)(昭和34年)「僧侶」、高見順賞(第7回)(昭和51年)「サフラン摘み)、歴程賞(第22回)
(昭和59年)「薬玉」を受賞。高等小学校卒業後、彫刻家を夢みたが果たさず医書出版南山堂に勤務し、そのかたわら夜学に通う。昭和15年召集を受け、詩
歌集「昏睡季節」を刊行して応召し、20年に復員。30年「静物」を刊行。34年「僧侶」でH氏賞を受賞、また清岡卓行らと「鰐」を創刊(37年ま
で)。51年「サフラン摘み」で高見順賞を、59年「薬玉」で藤村記念歴程賞を受賞。戦後は筑摩書房に勤め、本の装幀家としても有名である。他の著書に「うまや
はし日記」「土方巽頌」などがある。 (無署名)
一 九一九年、東京本所に生まれる。少年期に北原白秋、佐藤春夫の詩歌に親しみ、自らも短歌・俳句の習作を試みたが、二十歳前後に実験的なモダニズムと出会っ て、シュルレアリスティックな作風に転じた。出征前に詩歌集『昏睡季節』、『液体』を刊行、四一〜四五年にかけて満洲で軍隊生活を送り、帰国後、『静物』 をまとめ『僧侶』(五八年)で超現実主義的イメージが現実的な像を結ぶという驚異的な詩を確立、注目を集めた。終生、果敢な実験的詩法を探りつづけ、戦後 現代詩の前線で未踏の詩的領域を切り拓いたが、他者の章句を引用して織り成した『サフラン摘み』(七六年)、言葉による世界の肖像のごとき『薬玉』(八三 年)と、その高峰は連山の趣きを成すものである。散文集に『「死児」という絵』『土方巽頌』等があり、本の装幀も手がけた。一九九〇年没。 (無署名)
《討議戦後詩――詩のルネッサンスへ》、思潮社、1997年1月25日
よしおか みのる
大正八(一九一九)―平成二(一九九〇)
東京生れ。本所高小卒。少年時より俳句・短歌を作る。飯島耕一らと「鰐」創刊。モダニズムの独自な熟成により特異な生理感覚と幻覚的映像に満ちた作品を結晶させた。詩集『静物』『僧侶』ほか。歌集『魚藍』。 (大塚美保・高橋智子)
《日本名詩集成》、學燈社、1996年11月30日
よしおか・みのる
大正8(1919)〜平成2(1990)
詩人。東京生まれ。詩集『僧侶』『静かな家』『サフラン摘み』ほか。
句集『吹毛集』(昭和30年刊)により耕衣の句と出会い、交遊を深める。昭和51年『耕衣百句』を自ら編纂。この一冊により、若い詩人たちにも耕衣の存在
が知られるところとなった。 (無署名)
《特別展「虚空に遊ぶ 俳人 永田耕衣の世界」図録》、姫路文学館、1996年10月4日
詩 人。固有の宇宙として特異な詩空間を創出した。詩集に『吉岡実全詩集』『ムーンドロップ』『薬玉』『夏の宴』『サフラン摘み』『神秘的な時代の詩』『静か な家』『紡錘形』『静物』ほか、散文集に本書のほかに『「死児」という絵』『土方巽頌』がある。装幀家としても知られる。一九一九―一九九〇。 (無署名)
《うまやはし日記》〔第二刷〕、書肆山田、1996年3月15日
(一九一九/九〇)詩人。東京生まれ。詩集『僧侶[そうりょ]』『静かな家』『サフラン摘み』など。 (無署名)
《講談社カラー版 日本語大辞典〔第二版〕》、講談社、1995年7月3日
1919 年東京生まれ。1941〜45年、軍隊生活を送る。'41年満州への応召に際し詩集『液体』上梓。戦後、詩集『静物』('55)、『僧侶』('58、H氏 賞)刊行、'59年清岡卓行、飯島耕一、大岡信らと詩誌「鰐」創刊。以後、詩集に『紡錘形』『吉岡実詩集』『静かな家』『神秘的な時代の詩』『サフラン摘 み』(高見順賞受賞)、『夏の宴』『薬玉』『ムーンドロップ』ほか、歌集『魚藍』('59)、随想集『「死児」という絵』('80)、評伝『土方巽頌』 ('87)、日記『うまやはし日記』('90)などがある。書籍などの装幀も多く手がける。1990年5月31日歿。 (無署名)
《続・吉岡実詩集》、思潮社・現代詩文庫129、1995年6月10日
(よ しおか・みのる 一九一九〜九〇)東京本所生。少年時代より短歌、俳句、詩に親しみ、自らも作る。四一年の応召に際し、北園克衛の影響が見られる詩集『液 体』(私家版)を出す。戦後、筑摩書房勤務のかたわら詩作を続け、『静物』(五五・私家版)を刊行し、認められる。エロスとタナトスの香気漂う幻想的世界 を描いて秀抜な『僧侶』(五八・書肆ユリイカ)によってH氏賞受賞。「僧侶」「死児」などの連作〔ママ〕のヴィジョンは特異なもので、残酷さと諧謔味のい りまじった詩風は高く評価されている。様々なものの生と死を見据え、そこから幻想的ヴィジョンと思想とを紡ぎ出した『サフラン摘み』(七六・青土社)で高 見順賞受賞。母を中心とする家族のイメージが冥界を思わせる世界の中で語られる『薬玉』(八三・書肆山田)で歴程賞受賞。現代詩人の中でも最も幻想的な詩 人の一人といえるだろう。装幀家としても有名。 (石堂藍)
《日本幻想作家名鑑》、幻想文学出版局、1991年9月1日
大 正八・四・一五―平成二・五・三一(一九一九―九〇) 昭和期の詩人。東京生れ。商業学校中退。昭和一五年(一九四〇)第一詩集『昏睡季節』、翌年『液 体』を刊行、満州へ出征。三〇年『静物』で詩壇に登場、続く『僧侶』(昭三三)は戦後詩の達成した一極点として大きな反響を呼ぶ。三四年「鰐」創刊に参 加。ほかに『紡錘形』(昭三七)、『静かな家』(昭四三)、『サフラン摘み』(昭五一)。 (無署名)
《新潮日本人名辞典》、新潮社、1991年3月5日
詩 人。東京都生まれ。超現実派風のイメージを硬質な文体にちりばめた詩法は、大きな衝撃を詩界に与え、とくに若い詩人たちに圧倒的な影響を及ぼす。『僧侶』 ('58年、H賞)、『薬玉』('83年、歴程賞)ほかすぐれた詩集が多い。生涯にわたり、美術・演劇等にも広い関心をもち、土方とは相互に影響を与えあ う間柄で、詩画集「あんま」制作に参加している。 (無署名)
《土方巽展――風のメタモルフォーゼ(変容)》、秋田市立千秋美術館、1991年〔2月27日〕
1919.4.15〜90.5.31
詩人。東京都本所生まれ。商業学校中退。若くして俳句短歌に親しみ、さらにモダニズム系の詩を愛読。1941(昭16)年、応召して大陸に渡るに際し処女
詩集『液体』をまとめる。戦後、筑摩書房に入社。55年に詩集『静物』を刊行。やがて詩誌『ユリイカ』周辺の詩人たちとの交流がはじまり、傑作「僧侶」
「死児」を同誌に発表。それらを含む詩集『僧侶』(58年)でH氏賞を受ける。超現実派風のイメージを硬質な文体にちりばめた詩法は、大きな衝撃を詩界に
与え、とくに若い詩人たちに圧倒的な影響を及ぼす。59年に清岡卓行、飯島耕一らとともに同人詩誌『鰐』(〜62年)を創刊。その後の方法的模索は、『サ
フラン摘み』(76年、高見順賞)に至って新たな境地に達する。ほかにも『薬玉』(83年、歴程賞)ほか、すぐれた詩集が多い。生涯にわたり、美術・演劇
などにも広い関心をもち、特に舞踊家・土方巽とは相互に影響を与えあう間柄だった。随筆・日記文にも佳編がある。 (入沢康夫)
《[現代日本]朝日人物事典》、朝日新聞社、1990年12月10日
〈大正8〜平成2年〉詩人。昭和49年『神秘的な時代の詩』を刊行、51年『サフラン摘み』で高見順賞、58年『薬玉』で歴程賞を受章〔賞〕した。 (無署名)
《昭和 二万日の全記録〔第15巻〕――石油危機を超えて 昭和47年〜50年》、講談社、1990年8月24日
〈大正8〜平成2年〉詩人。昭和33年『僧侶』を刊行。舞踏や美術に対する造詣は深く、本の装幀も手がけた。戦後、筑摩書房に勤務した。 (無署名)
《昭和 二万日の全記録〔第15巻〕――石油危機を超えて 昭和47年〜50年》、講談社、1990年8月24日
〈大正8〜平成2年〉詩人。昭和34年『鰐』創刊に参加、詩集『僧侶』でH氏賞を受賞する。詩集に『紡錘形』『サフラン摘み』『薬玉』など。 (無署名)
《昭和 二万日の全記録〔第15巻〕――石油危機を超えて 昭和47年〜50年》、講談社、1990年8月24日
〈大正8〜平成2年〉詩人。昭和16年処女詩集『液体』を著し応召。33年『僧侶』刊行、翌年第9回H氏賞受賞。他に『サフラン摘み』など。 (無署名)
《昭和 二万日の全記録〔第14巻〕――揺れる昭和元禄 昭和43年〜46年》、講談社、1990年7月24日
〈大正8年〜 〉詩人。戦争体験と死の意識の濃い『静物』『僧侶』で詩壇に登場した。昭和51年『サフラン摘み』で高見順賞受賞。 (無署名)
《昭和 二万日の全記録〔第13巻〕――東京オリンピックと新幹線 昭和39年〜42年》、講談社、1990年6月24日
五月三十一日午後九時四分、急性腎不全のため、東京都目黒区の東京共済病院で死去。七十一歳。葬儀・告別式は三日午後二時から、豊島区巣鴨の真性寺
でおこなわれた。喪主は妻・陽子さん。自宅は〔……〕。
吉岡氏は大正八年四月十五日、東京・本所生まれ。少年時から俳句・詩に魅かれ、昭和十六年の満州応召時に詩集「液体」をまとめる。戦後、三十四年に詩誌
「ユリイカ」に発表した「僧侶」で第九回H氏賞、また五十二年に「サフラン摘み」で第七回高見順賞を受賞。大岡信、清岡卓行氏らと創刊した詩誌「鰐」の活
動とともに、『紡鐘〔ママ〕形』『静かな家』『夏の宴』等、超現実的な作風の長篇詩で戦後詩に大きな影響を与えた。また、舞踏家・故土方巽氏と親交、『土
方巽頌』の著書の他、『「死児」という絵』、『うまやはし日記』など、随筆・日記でも独自の世界を切り拓いた。 (無署名)
《図書新聞》、図書新聞、1990年6月16日
五月三十一日午後九時四分、急性腎(じん)不全のため、東京都目黒区の東京共済病院で死去、七十一歳。東京都出身。自宅は〔……〕。葬儀・告別式は
三日午後二時から東京都豊島区巣鴨三ノ二一ノ二一、真性寺で。喪主は妻陽子(ようこ)さん。
商業学校中退。少年時代、佐藤春夫、北原白秋などを読み、昭和十五年詩歌集「昏睡季節」を刊行。同年召集を受け、済州島で終戦を迎える。戦後は、私家版
の詩集「静物」を刊行、三十四年「僧侶」で第九回H氏賞を受ける。同年清岡卓行、飯島耕一、大岡信らと「鰐」を創刊した。北園克衛らのモダニズムに影響を
受け、戦中体験を通しての実存主義的な詩風にユーモアと超現実的な手法を加えた硬質な詩は、若い詩人たちに強く支持された。
詩集に「吉岡実詩集」「静かな家」「サフラン摘み」(高見順賞)「薬玉」(歴程賞)「ムーンドロップ」(詩歌文学館賞受賞決定後、辞退)などがある。
筑摩書房の重役としても活躍、また装丁家としても知られた。五十二年に亡くなった作家和田芳恵氏は義父。 (無署名)
《北海道新聞〔夕刊〕》、北海道新聞社、1990年6月1日
三十一日午後九時四分、急性腎不全のため東京都目黒区の東京共済病院で死去、七十一歳。東京都出身。自宅は〔……〕。告別式は三日午後二時から豊島
区巣鴨三ノ二一ノ二一、真性寺で。喪主は妻、陽子(ようこ)さん。
吉岡氏は東京・本所の生まれ。昭和二十六年に筑摩書房入社。主に宣伝畑を歩き、PR誌「ちくま」の編集長も務め、五十三年退社した。
昭和三十四年、詩集「僧侶」で第九回H氏賞、五十二年、詩集「サフラン摘み」で第七回高見順賞受賞。
詩人・荒川洋治氏の話
「高校二年の時、図書館にあった吉岡さんの詩『僧侶』に出合った感動を今も覚えています。詩的言語は小説の言語とこうも違ってすごいのか、目がくらくらす
るような感じでした。吉岡さんは、詩の言葉を世俗的な日差しから守ろうとした、その極北の詩的結晶を示した詩人だと思う。ぼくら以降の詩人はほとんどが出
発点においてその影響を受けているのではないか」 (無署名)
《産経新聞〔夕刊〕》、産業経済新聞東京本社、1990年6月1日
三十一日午後九時四分、急性腎(じん)不全のため東京都目黒区中目黒の東京共済病院で死去。七十一歳。東京都出身。自宅は〔……〕。告別式は三日午
後二時から豊島区巣鴨三ノ二一ノ二一の真性(しんしょう)寺で。喪主は妻陽子(ようこ)さん。
吉岡氏は大正八年、東京・本所生まれ、少年時代に北原白秋や佐藤春夫、水原秋桜子らの詩歌に親しみ、昭和十六年、満州(中国東北部)に出征する前に最初
の詩集「液体」を出した。
戦後、筑摩書房に入社。昭和三十四年、詩集「僧侶」で第九回H氏賞。同年、清岡卓行、飯島耕一、大岡信氏らと同人詩誌「鰐(わに)」を創刊し、三十七年
まで続けた。
吉岡氏は初期に北園克衛らのモダニズムの影響を受け、戦後は、戦争体験から実存主義的な手法も取り入れて新しい詩風を開いた。五十一年、詩集「サフラン
摘み」で第七回高見順賞、五十九年同「薬玉(くすだま)」で第二十二回歴程賞を受賞。全詩集として「吉岡実詩集」(思潮社)がある。 (無署名)
《東京新聞〔夕刊〕》、中日新聞東京本社、1990年6月1日
三十一日午後九時四分、急性じん不全のため東京都目黒区の東京共済病院で死去、七十一歳。葬儀・告別式は三日午後二時、豊島区巣鴨三の二一の二一の
真性寺で。自宅は〔……〕。喪主は妻陽子(ようこ)さん。
東京生まれ。高等小学校卒業後、出版社に勤務。モダニズムの影響を受け、戦争中、処女作「液体」を発表、戦後、戦中体験からの実存主義的と超現実的な手
法を融合し、昭和三十四年、詩集「僧侶」で詩壇の登竜門「H氏賞」を受賞。現代の残酷のイメージをテーマにし、実験的な作品として詩壇に衝撃を与えた。同
じころ、清岡卓行、大岡信氏らと「鰐(わに)」を創刊。筑摩書房に勤務するかたわら昭和五十一年には「サフラン摘み」で高見順賞を受賞。 (無署名)
《毎日新聞〔夕刊〕》、毎日新聞東京本社、1990年6月1日
超現実的な独特の作風で戦後詩に大きな影響を与えた詩人の吉岡実(よしおか・みのる)氏が五月三十一日午後九時四分、急性腎不全のため、東京都目黒区の東
京共済病院で亡くなった。七十一歳。告別式は三日午後二時から、豊島区巣鴨三ノ二一ノ二一の真性寺で。喪主は妻陽子(ようこ)さん。自宅は〔……〕。
東京・本所生まれ。少年時代から俳句、詩の世界に強くひかれ、昭和十六年、満州への応召に際して詩集「液体」をまとめた。戦後は三十四年、「ユリイカ」
誌に発表した「僧侶」で第九回H氏賞を受賞。同年、大岡信、清岡卓行氏らとともに同人詩誌「鰐」を創刊、三十七年まで充実した活動を続けた。五十二年には
「サフラン摘み」で第七回高見順賞を受けた。
舞踏家の故土方巽氏とも親交があり、六十一年の氏の死を悼み、『土方巽頌』を発表している。随筆や日記でも、独自の境地を示した。 (無署名)
《朝日新聞〔夕刊〕》、 朝日新聞東京本社 、1990年6月1日
超現実的で難解な詩風で知られた詩人の吉岡実(よしおか・みのる)氏が、三十一日午後九時四分、急性ジン不全のため、東京・目黒区の東京共済病院で死去し
た。七十一歳。告別式は三日午後二時から豊島区巣鴨三の二一の二一、真性寺で。自宅は〔……〕。喪主は妻、陽子(ようこ)さん。
東京・本所の生まれ。戦後、筑摩書房に勤務するかたわら詩を書き、清岡卓行氏らと詩誌「鰐」を創刊した。昭和三十四年詩集「僧侶」でH氏賞、五十一年
「サフラン摘み」で高見順賞、五十九年「薬玉」で歴程賞を受賞。グロテスクかつエロチックなイメージで、独特の幻視の世界を詩として構成。筑摩書房では取
締役などを歴任、装丁家としても知られ、同社の「宮沢賢治全集」「萩原朔太郎全集」などの装丁を手掛けた。 (無署名)
《読売新聞〔夕刊〕》、読売新聞東京本社、1990年6月1日
(一 九一九― )詩人。東京・本所に生まれる。幼少期彫刻家を志したが果たさず、出版社に勤務しつつ夜学に通い文学書に親しむ。一九四〇年(昭和一五)応召の 年詩歌集『昏睡季節』(私家版)刊。四一年私家版詩集『液体』、敗戦帰国後、五五年(昭和三〇)『静物』を刊行し、その詩風の特異さで注目される。第二詩 集『僧侶』(一九五八)でH氏賞を受賞。五九年清岡卓行、大岡信、飯島耕一らと詩誌『鰐』を創刊。本の装丁家としても優れた仕事をしている。詩集はほかに 『吉岡実詩集』(一九五九)、『紡錘形』(一九六二)、『吉岡実詩集』(一九六七、全詩集)、『静かな家』(一九六八)、『サフラン摘み』(一九七六。高 見順賞受賞)、『薬玉』(一九八三。藤村記念歴程賞受賞)などがある。歌集には『魚藍』(一九五九)がある。 (原崎孝)
《日本大百科全書 23》、小学館、1988年9月1日
よ しおか みのる 大正八・四・一五―(一九一九―) 詩人。東京に生れた。商業学校中退。少年時代、書家佐藤春陵に兄事し、その影響で北原白秋、佐藤春夫 を耽読、結婚記念の私家版七〇部限定の歌集『魚藍』(昭三四刊)に収録された四七首には、この二詩人の影響が認められる。同じく少年時代から俳句に強くひ かれ、水原秋桜子、山口誓子、富沢赤黄男、日野草城らを愛読した。次いで北園克衛、リルケの詩を読む。昭和一六年、満州への応召に際し青春の遺書として出 した詩集『液体』には、北園克衛の影響が著しい。済州島で終戦。戦後は萩原朔太郎、斎藤茂吉らを愛読し、一人の詩友もない孤独の中で詩作を続け、『静物』 (昭三〇刊)を刊行。H氏賞を受けた『僧侶』(昭三三刊)は、特異な幻覚的影像に充ちた言語構造の中に、虚無感とシニカルな笑いを充満させて大きな反響を 呼んだ。「夜はいっそう遠巻きにする/魚のなかに/仮りに置かれた/骨たちが/星のある海をぬけだし/皿のうえで/ひそかに解体する/燈りは/他の皿へ移 る/そこに生の飢餓は享けつがれる」(『静物』)。昭和初頭にモダニズムが開いた詩風が、この詩人に至って稀れに硬度の高い言葉に結晶したのである。三四 年、清岡卓行、飯島耕一、岩田宏、大岡信らと「鰐」を創刊し、三七年まで続けた(通巻一〇冊)。他に『吉岡実詩集』(昭三四刊)、『紡錘形』(昭三七 刊)、『静かな家』(昭四三刊)、『サフラン摘み』(昭五一刊。高見順賞)、『薬玉』(昭五八刊。歴程賞)がある。 (大岡信)
《増補改訂 新潮日本文学辞典》、新潮社、1988年1月20日
東京生まれ。高等小学校を卒業後、彫刻家を夢みたが断念。与謝蕪村、佐藤春夫、北原白秋に熱中、『昏睡季節』を自費で出版。大岡信らと「鰐」を刊 行。『僧侶』『紡錘形』などを刊行。装丁家としても知られる。 (無署名)
《少年少女日本文学館 8――明治・大正・昭和詩歌選》、講談社、1987年9月21日
よしおか・みのる 1919―. 東京生の詩人。白秋と北園克衛の影響のもとに詩歌の道に進み、戦前すでに詩集『液体』を刊行。『静物』発表後に「鰐」同人となる。主な詩集に『僧侶』 『サフラン摘み』などがある。本稿〔〈吉岡実あるいは生物の袋について〉〕2で論じられた作品群〔〈聖あんま断腸詩篇〉〈青い柱はどこにあるか?〉〈聖あ んま語彙篇〉〕はのちに土方巽に献げる一冊の詩集〔該当する「詩集」はなく、評伝《土方巽頌――〈日記〉と〈引用〉に依る》を指すか〕にまとめられた。 (四方田犬彦)
《最新流行》、青土社、1987年8月25日
詩人、随筆家、装丁家 〔生地・生年月日〕東京1919.4.15
〔最終学歴〕商業学校中退 〔経歴〕医書出版南山堂を経て、1940応召、51筑摩書房入社、のち参与、59〈鰐〉創刊に参加 〔著作〕1940《昏睡季
節》、41《液体》、55《静物》、58《僧侶》(59H氏賞)、59《吉岡実詩集》、歌集《魚藍》、62《紡錘形》、67《吉岡実詩集》、68《静かな
家》、74《神秘的な時代の詩》、76《サフラン摘み》(高見順賞)、83《薬玉》(84歴程賞) (無署名)
《現代人名情報事典――WHO'S WHO IN WORLD TODAY》、平凡社、1987年8月25日
一九一九年生於東京。曽就読於商業学校、輟学后在幾個出版社工作過。現任職於筑摩書房。係《今日》、《鰐》等詩刊同人。詩集有:《液体》
(1941)、《静物》(1955)、《僧侶》(1958、獲H氏奨)、《静静的家》(1968)及歌集《魚筐》等。 (孫鈿)
〔簡体字は日本語の漢字に改めた〕
《日本当代詩選》、湖南人民出版社、1987年7月
1919・4・15〜 詩人。東京本所生れ。世界を秘儀的ユーモアで織る異色詩人。
高等小学校を卒業して医学書出版社に奉公した。第1詩集『液体』の原稿を兄に託して、昭和16年出征。まさに青春の遺書だった。終戦までの軍隊生活の影は
屈折して作品に沈んでいる。30年『静物』を出して後、飯島耕一、ユリイカの伊達得夫及び周辺の詩人たちを知る。『僧侶』『紡錘形』『静かな家』などの世
界を醸成しているのは、形体へのこだわり・諧謔・エロチシズム・ユーモア・奇妙な音楽性といった要素が強く、難解な現代詩の極北と見なされることが多い。
それに比べて散文はストレートな味わいがあり、むしろ人なつこさがある。全エッセイを収めた『「死児」という絵』は詩法の根拠や人柄を語る大冊である。舞
踏や美術・俳句・短歌に対する理解は深く、歌集に『魚藍』がある。詩集『サフラン摘み』で高見順賞受賞。 (八木忠栄)
《現代日本人物事典――20世紀 WHO'S WHO》、旺文社、1986年11月10日
よ しおか みのる 詩人・歌人。大正八・四・一五〜(1919〜)。東京本所生まれ。本所高等小学校卒。在校中、同居人の佐藤春陵の影響で、白秋・牧水の短 歌に親しむ。卒業後、医書出版南山堂に勤務、産婦人科図書からショックを受ける。短歌・俳句をつくる。以後、北園克衛・左川ちかを読み、詩をつくる。応召 に際し、遺書として詩集『液体』(昭16)を出版。満州へ出征、済州島で終戦を迎え、復員。朔太郎・茂吉・西脇順三郎を読む。筑摩書房に入社(昭26)。 詩集『静物』(昭30 私家版)を出し、これを最後の詩集とするつもりであったが、飯島耕一を知り、また書きはじめる。詩集『僧侶』(昭33 書肆ユリイ カ)により第九回H氏賞受賞(昭34)。この詩集の特色は、「四人の僧侶/庭園をそぞろ歩き/ときに黒い布を巻きあげる/棒の形/憎しみもなしに/若い女 を叩く/こうもりが叫ぶまで/一人は食事をつくる/一人は罪人を探しにゆく/一人は自涜/一人は女に殺される」(「僧侶」1)のように、風土化したシュー ルレアリスムの観があり、抽象的イメジと生理的感覚、形而上性と猥褻さを融合し、生と死の不条理の相を照らし出す。そのブラックユーモアは無類である。こ の年、結婚。歌集『魚藍』出版。清岡卓行・大岡信・飯島らと「鰐」創刊。以後、詩集『紡錘形』(昭37 草蝉舎)『吉岡実詩集』(昭42 思潮社)『静か な家』(昭43 同)『神秘的な時代の詩』(昭49 湯川書房)を出し、新しい展開を示した『サフラン摘み』(昭51・9 青土社)により高見順賞受賞 (昭52)。『夏の宴』(昭54・10 同)のあと、『薬玉』(昭58 書肆山田)により歴程賞受賞(昭59)。ほかに随想集『「死児」という絵』(昭 55・7 思潮社)がある。 (星野徹)
《日本現代詩辞典》、桜楓社、1986年2月15日
〔職 業〕詩人、装幀家 〔最近関心のあるテーマ〕現世をテーマの長篇詩 〔生年月日〕大正8年4月15日生 〔出生地〕東京都墨田区 〔最終学歴〕本所高等小 学校(昭9)卒業 〔受賞等〕H氏賞(1959)、高見順賞(1976) 〔所属団体〕日本文芸家協会 〔住所以下は省略〕 (吉岡実)
《現代日本執筆者大事典77/82 第四巻(ひ〜わ)》、日外アソシエーツ、1984年8月25日
(1919- )詩人。東京本所生れ。出版社勤務。書籍の装丁家でもある。特異な幻視の世界を構築した詩集『僧侶』『サフラン摘み』『薬玉』のほ か、初期の短歌を集めた歌集『魚藍』がある。 (〔高橋順子〕)
《第四 折々のうた〔岩波新書〕》、岩波書店、1984年4月20日
一 九一九・四・一五〜 詩人。東京の下町、本所業平に生まれる。文学的遍歴は俳句より出発、秋桜子、赤黄男、草城らに特別の関心を抱いた。一〇代の後半、北 原白秋の『花樫』の影響を受け、短歌に転じ、「秋ひらく詩集の余白夜ふかみ蟻のあしおとふとききにけり」など、当時の歌業は、戦後、『魚藍』(五九)に集 大成されている。処女詩集『液体』(四一)は、出征直前、自らの青春の遺書として二日間で編集したという。輜重兵として新京、チチハル、ハルピンなど満州 各地を移動、敗戦を済州島で迎えた五年間の戦争体験は、やはり人間認識や詩観の実存的中核を形成し、詩作の根源的なモチーフとなっている。平林敏彦、飯島 耕一らの『今日』(五四・六〜五六・一二、通刊一〇冊)に参加。その後、大岡信、清岡卓行らの『鰐』(五九・八〜六二・九、通刊一〇冊)同人として活躍。 『静物』(五五)は、凍った音楽のような死の韻律と、超現実風なマゾ・サディスティックなイメージ、陰惨なユーモアで異様な詩的緊張をたたえ、『僧侶』 (五八)は、戦後詩の「マルドロオルの歌」として、戦慄的な詩的空間を独創、一大衝撃を与え、第九回日本現代詩人会H氏賞を受賞した。寺山修司は、吉岡の 詩的特質を、怪奇人形芝居[グランギニョール]の世界に想定し、浅草の衛生博覧会の人体模型陳列会場や不具者ばかりの運動会へのノスタルジャの魅力である と評した(『戦後詩』六五)が、注目すべきは、詩の思想的背景にある、歴史の不条理や人間の原罪を自己告発的に糾問する、文明批評家としての苦悶と倫理の 厳しさである。信条告白的に自らの詩法を解析した、「わたしの作詩法?」(『詩の本』第二巻、六七)、「『死児』という絵」(『ユリイカ』七一・一二)は 必読の価値があり、他に『紡錘形』(六二)、『静かな家』(六八)、『サフラン摘み』(七六)、『夏の宴』(七九)等の詩集がある。 (千葉宣一)
《新版 現代作家辞典》、東京堂出版、1982年7月5日
詩人 一九一九、東京に生まれる。高等小学校卒。詩集「液体」「静物」「僧侶」「サフラン摘み」「夏の宴」随筆集「「死児」という絵」、等。 (無署名)
《余白に書く〔別冊〕》、みすず書房、1982年7月1日
@〔=郵便番号・現住所(電話番号)〕〔省略〕A〔=生年月日〕大8・4・15B〔=出生地〕東京・本所C〔=卒業又は修学校〕高等小学卒E〔=主な所属文学団体〕日本文芸家協会G〔=代表的著作・刊行年月・発行所〕詩集『静物』昭30・8私家版、詩集『僧侶』昭33・11書肆ユリイカ、詩集『サフラン摘み』昭51・9青土社
静 物
夜はいっそう遠巻きにする
〔……〕
次に卵を呼び入れる (無署名〔吉岡実もしくは《資料・現代の詩》編集委員会〕)
《資料・現代の詩》、講談社、1981年6月20日
大8〜 商業学校中退。詩人。昭16応召、満州を経て済州島で終戦。筑摩書房勤務を経る(歌集)『魚藍』34(詩集)『静物』『僧侶』『吉岡実詩 集』『サフラン摘み』他。 (無署名)
《昭和萬葉集 巻四――昭和十二年〜十四年》、講談社、1979年8月28日
Born in Tokyo on April 15, 1919. Wanted to become a sculptor when young, but this was not realized. Worked for a medical publishing company in Tokyo. During education at a commercial school, was interested in composing tanka and haiku poems. Served in the army for four years. Joined a coterie poetry magazine called Alligator. Since 1951, has been on the staff of a leading publishing house in Tokyo. Also well-known as a book designer. His published books of poems include: Liquid (1941), Still Life (1955), Priest (1958) (which won the Mr. H. Poetry Prize), Fishing Basket (1959) (a collection of tanka poems), Spindle Form (1962), Complete Poems (1967), A Quiet House (1968) and Picking Saffrons (1976) (which was awarded the Takami Jun Poetry Prize and from which the title poem is translated here). (無署名)
Japanese Literature Today , No. 3, March 1978
大
正八・四・一五〜(1919〜)詩人。東京本所業平に生れる。父紋太郎、母いとの三男。昭和九年、高等小学校卒業後、彫刻家を夢みたが果たさず、医書出版
南山堂に勤務。そのかたわら夜間商業に通う。そのころは、与謝蕪村、佐藤春夫、北原白秋らに熱中して友人二、三人と俳句や短歌をつくりはじめる。一五年、
召集をうける。詩歌集『昏睡季節』(昭一五・一〇 草蝉舎)を限定一〇〇部で刊行。二〇年、済州島で終戦を迎える。復員。父母はすでに死去。三〇年八月、
詩集『静物』を私家版として刊行。三三年一一月、詩集『僧侶』を書肆ユリイカより刊行。三四年、詩集『僧侶』により第九回H氏賞に推されるが一度辞退。清
岡卓行らの奨めなどにより受賞を承諾。同年、和田陽子と結婚。記念として、十代後期につくった短歌四七首による歌集『魚藍』を私家版七〇部限定(非売)で
刊行。また三四年八月、清岡卓行、大岡信、飯島耕一、岩田宏らと詩誌「鰐」を刊行する。書肆ユリイカより『今日の詩人双書』の一冊として『吉岡實詩集』
(昭三四・八)を刊行。三七年九月、詩集『紡錘形』を草蝉舎より刊行。四二年一〇月、全詩集として『吉岡実詩集』(思潮社)を刊行。四三年七月、詩集『静
かな家』(思潮社)を刊行。現在筑摩書房に勤務。本の装幀家としても知られている。/〔……〕〔写真「紡錘形(箱)」掲載〕〔……〕
〔参
考文献〕粟津則雄『吉岡実論』(「詩と批評」昭四二・七) 北川透『夢の異端と異端の夢』(「南北」昭四二・九)
天沢退二郎『異聞・吉岡実論おぼえ書き』(「現代詩手帖」昭四二・一〇) 清岡卓行『吉岡実論』(「文学」昭四三・一)
飯島耕一『吉岡実の詩』(昭四三 思潮社刊『現代詩文庫』14所収) (清水昶)
《日本近代文学大事典 第三巻》、講談社、1977年11月18日
詩 人。1919(大正8)年4月15日、東京本所業平町に生まれる。蕪村、白秋などに親しむが、37年『みづゑ』に掲載されたピカソの詩に影響されて造形的 な詩を書きはじめる。41年『液体』、55年『静物』などの詩集を刊行する。57年4月、詩誌『ユリイカ』に長詩「僧侶」を発表し詩壇の注目を集める。 58年詩集『僧侶』を刊行、これにより59年第9回H氏賞を受賞する。『僧侶』においては日常性から解体された硬質の言語が、ちょうど銅版画の細密な線の ように彫り込まれ、非現実の恐るべき陰惨なビジョンが展開されている。吉岡はその後62年『紡錘形』、68年『静かな家』、74年『神秘的な時代の詩』な どの詩集を刊行する。吉岡の詩は年を追ってスピードとエロティシズムが加えられ「未経験なピンクの空間」と吉岡自身いうように、自由な、そして魅惑的な夢 魔の詩を書き続けている。67年には全詩集的な『吉岡実詩集』(思潮社)も刊行されている。 (鶴岡善久)
《現代人物事典》、朝日新聞社、1977年3月1日
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(一九一九〜 )現代の詩人。ショッキングな幻覚的イメージと稠密[ちゆうみつ]で硬質の言語美とを特色とする前衛的な詩風をもつ。▽東京・本所の生れ。商業学校中退。第二次世界大戦前すでに一冊の詩集『液体』(一九四一)を出版しているが、無名の期間が永く、詩壇への登場はずっと遅れた。『静物』(五五)に続く第三詩集『僧侶[そうりよ]』(五八)によってH氏賞を受賞。それを機会に広く紹介されるや、その難解だが魅惑的な作風によってたちまち多くの読者をひきつけ、今日では最も傑出した詩人のひとりとして詩壇にランクされている。詩集に右のほか、『紡錘形』(六二)、『静かな家』(六八)が、歌集に『魚藍』(五九)がある。 (小海永二)
大 正八年―(1919―) 四月一五日、東京の下町、本所業平の職人の家庭に生れる。父紋太郎、母いと。本所高等小学校卒業後、医書出版南山堂に勤めなが ら、夜間商業に通う。彫刻家を志すも果さず。同宿の書家、佐藤春陵の影響で、短詩型文学に親しみ、試作する。昭和一六年夏、出征。入営直前の二日間、自家 版の処女詩集『液体』(一六・一二・一〇)の編集整理に没頭。青春の遺書の心境である。輜重兵として渡満。新京、チチハル、ハルピンを転戦。軍旗際で、シ ラノ・ド・ベルジュラックを風刺劇として上演、師団長の逆鱗にふれて転属。敗戦を済州島で迎える。二六年、筑摩書房入社。三〇年八月、詩集『静物』(自家 版)上梓。詩誌『今日』同人。三三年一一月『僧侶』(書肆ユリイカ)上梓。第九回日本現代詩人会H氏賞を受く。三四年八月『吉岡実詩集』(「今日の詩人双 書」書肆ユリイカ)上梓。『鰐』同人。三五年九月『現代日本名詩集大成』第11巻に参加。三七年一月、詩的随想「突堤にて」(『現代詩』)発表、九月、詩 集『紡錘形』(草蝉舎)上梓。四二年一〇月『吉岡実詩集』(思潮社)上梓、一一月「わたしの作詩法?」(『詩の本』第二巻、筑摩書房)発表。四三年七月、 詩集『静かな家』(思潮社)上梓。四六年一二月、評論「『死児』という絵」(『ユリイカ』)発表。四七年四月、連祷詩「葉」(『ユリイカ』)発表、一〇 月、詩「タコ」(『ユリイカ』臨時増刊号・現代詩の実験)発表。なお、三四年に、歌集『魚藍』(自家版)を上梓する。 (千葉宣一)
《現代日本文學大系 93 現代詩集》、筑摩書房、1973年4月5日
@姓名(ルビ):吉岡実[よしおかみのる]A生年月日:一九一九年四月十五日B出身地:東京C最終出身校:商業学校(中退)D主著(発行所、発行年):詩集「静物」私家版(一九五五)詩集「僧侶」書肆ユリイカ(一九五八)E所属同人誌あるいは団体:「鰐」同人F受賞賞名:第九回H氏賞 (無署名)
(1919〜) 東京・本所に生まれる。商業学校中退。二、三の出版社を経て、その後筑摩書房に勤務。『今日』、『鰐』に参加。詩集に『液体』(昭和十六年)、『静物』 (昭和三十年)、『僧侶』(昭和三十三年)、『紡錘形』(昭和三十七年)、『静かな家』(昭和四十三年)等があり、『僧侶』によってH氏賞を受けた。他に 歌集『魚藍』がある。 (小海永二)
《日本の詩歌 27 現代詩集》、中央公論社、1970年3月15日
大 正八年四月十五日、東京本所に生れる。商業学校中退。『鰐』に参加、同人に清岡卓行、飯島耕一、大岡信、岩田宏等。詩集『液体』(昭16・草蝉舎)『静 物』(昭30・私家版)『僧侶』(昭33・ユリイカ)『紡錘形』(昭37・草蝉舎)『吉岡実詩集』(昭42・思潮社)『静かな家』(昭43・思潮社)、歌 集『魚藍』(昭34・私家版)がある。二、三の出版社を経て現在、筑摩書房取締役編集局付。 (無署名)
《日本詩人全集 34 昭和詩集(二)》、新潮社、1969年7月31日
《全集・現代文学の発見 第十三巻 言語空間の探検》、學藝書林、1969年2月10日
大正八年―(一九一九年―) 東京本所に生まれる。高等小学校卒業。短歌、俳句を試作したこともある。今次大戦には満州へ出征した。詩風の特色は、硬質の言葉による異様なイメージの造型と、生理的感覚の直接的把握とによって、人間実存の底部の相を表現するところにあり、従って作品には神話性がただようことになる。現代詩の内でももっとも難解な作品を書いてきた。詩集に『液体』(昭一六)、『静物』(昭三〇)、『僧侶』(昭三三、H氏賞受賞詩集)、『紡錘形』(昭三七)、『吉岡実詩集』(昭四二)。 (無署名)
一 九一九〜。東京本所の職人の家に生る。小学校のころより浅草六区を徘徊。本所高等小学校卒業後、医書出版南山堂に勤務。それまで家に一冊の本もなく、友人 の本を読みあさるのみ。夜学の商業学校に通うも、彫刻家を夢み、また俳句短歌を学ぶ。一九四一年応召。詩集「液体」を自費出版、満洲などに転戦。済州島で 終戦、帰国すれば父母は死去。ひとり詩をつくる。一九五一年筑摩書房に入社。「静物」自費出版。詩人たちとの交友。一九五八年詩集「僧侶」を刊行。五九年 H氏賞を受賞。 (無署名)
《全集・現代文学の発見 第九巻 性の追求》、學藝書林、1968年2月10日
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大正八年、東京本所に生まれる。父紋太郎、母いと。少年時より浅草六区を徘徊する。同居の盛岡の人佐藤春陵の影響をうけて短歌・俳句をつくる。白秋・春夫・直哉を愛読。高等小学校を出て、医書出版南山堂に奉公。中村葉子と出会う。昭和十六年八月、満州へ出征。十二月八日、太平洋戦争勃発。十日、詩集『液体』刊行。昭和二十年八月十五日、終戦。朝鮮済州島より帰る。父母すでに死去。はじめて、朔太郎、茂吉、誓子を読む。太田大八夫妻を知る。同居の画家T・Yの自殺を契機に、T・Iと出会う。昭和三十年『静物』刊行。これより「鰐」グループ及ユリイカ周辺の詩人たちを知る。昭和三十三年、『僧侶』刊行。昭和三十四年、H氏賞を受く。春、和田陽子と結婚。昭和三十七年、『紡錘形』刊行。筑摩書房勤務。 (無署名)
一 九一九年東京本所の職人の家に生れる。父紋太郎、母いと晩年の子。姉・兄の三人兄弟。明徳尋常小学校に入学。このころからよく浅草六区を徘徊。チャンバラ 遊びの一方の旗頭。家に一冊の本もなく、友だちの本を読みあさる。本所高等小学校卒業後、医書出版南山堂に奉公。産婦人科図書をみてショックをうける。夜 は商業学校へ通う。彫刻家を夢みて果さず。書家佐藤春陵の影響で俳句短歌を試みる。一九四一年夏出征。詩集『液体』自費出版。Y・Nとの恋愛感情も消滅。 満州部隊の軍旗祭で、シラノ・ド・ベルジュラックを喜劇化して上演、師団長の逆鱗にふれ転属。済州島で終戦。父母すでに亡し。独り詩をつくる。一九五一年 筑摩書房に入社広告を担当。一九五五年詩集『静物』自費出版。T・Iとの四年間の恋愛に終止符。飯島耕一を知り、『今日』に入る。はじめて詩人たちとつき あう。一九五八年詩集『僧侶』刊行。一九五九年五月、和田陽子と結婚。第九回H賞受賞。「鰐」同人。『吉岡実詩集』ユリイカより刊行。 (吉岡実)
《現代日本名詩集大成 11》、東京創元社、1960年9月10日
一九一九年、東京は本所の業平橋に生まれた。今年四十才ジヤスト、新人という年令でもない。享保時代から巣鴨のあたりに家を設けていたというか
ら、三代どころか百数十年来の江戸ツ子である。したがつて故郷がない。兄一人姉一人の三人兄弟だつたが姉ははやくに死んだ。
少年時代はゴタブンにもれず立川文庫的忍術物語に傾倒したが、業平橋時代、彼の家に下宿していた若いデザイナーの影響で文学にふれるようになつた。築地
小劇場で、滝沢修のルカでやつた「どん底」を見たのもこの頃である。その人はいまは書家として立つ、佐藤春陵という人だ。そして、十五・六才の頃には北原
白秋などの短歌が好きで、自分でもさかんにつくつた。
学業なかばで、医学書出版の南山堂に勤めた。そして視野が拡大されるにつれて、新しいものに憧れた。あるとき、「みづゑ」で読んだピカソの詩と、北園克
衛の詩におどろき、それから一年ぐらい、夢中でシユルレアリスチツクな詩をつくつた。十九才から二十才にかけてのことである。この間の作品、三十数篇を集
めて、一九四一年末、第一詩集『液体』をつくつた。しかし彼自身は同年の夏、召集を受けて満州に渡つていた。コバルト色のインクが指に浸み入りそうなこの
詩集は、彼の不在中、太平洋戦争の勃発と同時に刊行されたわけである。
新京の六七五部隊の軍旗祭で、仲間たちと「シラノ・ド・ベルジユラツク」を飜案上演し、カツサイを博したが、上層部ににらまれ、チチハル、ハルピン、な
どの部隊を転々として、済州島で終戦をむかえた。それでも陸軍伍長になつていた。
復員後、二三の出版社の仕事をして、一九五一年いまの筑摩書房に入り、現在、広告部次長の椅子にいる。
詩はひとりでコツコツ書きつづけ、どのグループにも入らず一九五五年、戦後の作品を集めて詩集『静物』を出した。これが機縁となつて清岡卓行を知り筑摩
書房の囑託をしていた飯島耕一を知つた。そして「今日」に参加、現在に到つている。
一九五三年頃、画家の吉田健男と一緒に住んでいたが、突然吉田が軽井沢で自殺した。すると吉田の初恋の女性があらわれ、この住所も境遇もわからぬ女性と
のミスチツクな恋愛が二年ほど続いた。結局、その謎の女は人の妻君でこわれた。彼の四十年の独身生活を彩る奇妙なロマンスである。
好きなものは、煙草(一日四〇本)、コーヒー(一日二杯以上)、映画(クレマン、ブニユエルなどが印象的だつた)。アルコールにはまつたくヨワイ。小柄
な体躯に、修行僧のような額をのせて、けつこうよくしやべる。この五月に、よきアシスタントだつた和田陽子さんと結婚新生活に入る。詩のほうも新しい局面
を拓くつもりだという。 (無署名)
《詩学》1959年5月号(14巻6号通号144)、詩学社、1959年5月31日
(1919-)東京生。商業学校中退。『今日』同人。詩集『液体』『静物』『僧侶』。 (無署名)
《アンソロジー抒情詩》、飯塚書店、1959年3月5日
1955年 新潟県佐渡郡(現・佐渡市)に生まれ、東京で育つ
1980年 早稲田大学第一文学部フランス文学科卒業
文藝空間 発行人、日本ペンクラブ 電子文藝館委員
編著に《吉岡実全詩篇標題索引〔改訂第2版〕》(文藝空間、2000)ほか
webサイトに《吉岡実の詩の世界》
Ichiro Kobayashi 小林一郎 was born in 1955, and is the publisher
of the journal 『文藝空間』 Literary Space. His publications include 『樹霊半束』 Tree Spirit
Semi-Lattice, a collection of haiku published under the name Kenji
Moroda. Kobayashi is also the editor of 『吉岡実全詩篇標題索引〔改訂第2版〕』 The
Complete Minoru Yoshioka Poem Title Index,
including a revised second edition, and maintains a website devoted to
extensively archiving information regarding Minoru Yoshioka:
http://members.jcom.home.ne.jp/ikoba/
[Five] Factorial , summer 2006
2002年5月31日、吉岡実十三回忌の墓前で(巣鴨・真性寺)
〈吉岡実〉人と作品 了
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