米英軍のイラク攻撃を支持します(2003年4月1日)

日本で唯一(?苦笑)、断固米英を支持する声明です。

「9.11」以後の国際共同体の最大の危惧は一部のならず者国家の存在であり、彼らによる大量破壊兵器開発と、それがイスラムを中心としたテロリストの手に渡る可能性にあります。
核や生物・化学兵器による大量虐殺を厭わないテロリストの攻撃は、「9.11」の数倍・数十倍の被害を国際共同体に及ぼすことでしょう。
イラクのサダム・フセイン政権が明らかにならず者国家であり、テロリストが国家を牛耳っているにすぎないことはいちいち説明するまでもないことです。
なお、一部の反米主義者は米国こそ「ならず者国家」である、などと「反論」するのが常ですが、これは自由・民主主義という普遍的な原理を踏まえない言説であり、こういう人たちとは共通の言葉がないのでコミュニケーションは不可能です。

国連が国際共同体の利益を守れなくなったとき

真剣に国際共同体の利益のためイラクのサダム政権の排除に乗り出した米国を中心とした勢力に対して、サダム政権と国益でつながる仏独は、国際共同体に背を向け自国の国益のため公然と敵対してきました。
もはや国連は国際共同体全体の利益を守る国際組織としての使命は果たせない存在に成り下がりました。
国連はもともと第二次大戦の連合国側を中心として成立した、戦後の一時的組織にすぎません。
人類が新しい戦争体制を迎える今、国際共同体の利益を守る、より有機的な国際組織を展望して米国がその再編をも覚悟でイラク戦争に決断した勇気は高く評価されるべきでしょう。
確かに、開戦の合法性には異論も出てますが、もともと国際法に限らず法というものは法の外の力で制約を受け、再編・形成される存在です。国際法をつくるのは国家です。
国際共同体の利益をスムーズに代表する国際組織が米国を中心とする反テロの「意思の同盟」を基盤として、今後形成されることは間違いないところでしょう。

米国支持を珍しく鮮明に断言した日本政府の姿勢

日本では小泉首相が安保理決議なしの米国の攻撃を公然と支持しました。
このこと自体は高く評価されましょう。
ところが、一部では「北朝鮮のことで面倒を見てもらわないといけないから」米国支持だ、などという声も聞かれます。
しかし、北朝鮮問題があってもなくても、日本は米国支持であるべきです。
日米同盟はなにより自由と民主主義という人類普遍の原則に基づく、意識的に選択した理念の同盟関係であるべきです。
確かにこの同盟は、その歴史的経緯において、第二次大戦における勝者が敗者に強制した同盟という性格があります。
しかし、戦後50数年の日本の繁栄は米国の「核の傘」など軍事力によって築かれたものではなくて、米国を支える自由民主主義という思想とそれに基づく社会システムと共通のものを日本社会が取り入れた結果です。
それはまだ日本的なものであり、日本的な限界から脱却できていないのも事実ですが、そんなことを言えば、米国の自由と民主主義もあくまで「米国流の」ものにすぎず、常に内外の批判と検証でもって鍛え上げられていく再編途上のものにすぎません。

イスラムテロリズムという新たな敵

米国と日本を共通に支える理念とシステムにとって、イスラムテロリズムこそはその根底からの挑戦者と言えましょう。
20世紀において、人類はファシズムとコミュニズムという二つの強敵と闘い、多くの犠牲のうえに彼らの挑戦を撃退しました。
いま21世紀を迎えて、第三の、更なる強大な敵が登場したことになります。
イスラム教という宗教本体とテロリズムとは無関係とか言う「弁明」も、一部のイスラム教擁護派から聞かれます。
しかし、トルコなどを覗いて、イスラム教という宗教が他の宗教のようには近代のシステムに組み込まれない部分を残すイデオロギー装置であることは確かなことです。
その前近代的な要素は、イランにおいて「原理主義」となって開花し、近代文明そのものへの(コミュニズムに代わる)新しい挑戦勢力へと成長してきたわけです。

近代批判でイスラムに急接近する元コミュニストと周辺の人たち

本来は近代国家内部の変革勢力であるべきコミュニズムの残党たちは、その政治力学(「敵の敵は味方」)もあって、理念上は敵対しなければならないはずのイスラムに接近しています。
自らが帰属する国家と社会への本質的な嫌悪の念で常に「外」の世界に頼るべき何ものかを求めて止まない性向の人たちは、かつてスターリン独裁のソ連を「労働者の祖国」と賛美し、あるいは毛沢東発動の権力抗争であった「中国文化大革命」を「魂に触れる革命」と憧れました。
ゲバラなどはいまでもそんな人たちにとっては英雄です。
しかし、多くの市民にとっては正統的コミュニズムをストレートに押し出すことは時代錯誤にしか思えません。
そこで、彼らは近代文明と国家への批判のイデオロギー装置としてイスラム教に着目しているようなのです。
コミュニズムが有効性を失ったいま、ではイスラムだ、とは言っても、イスラム原理主義が近代に代わる明白なオルタナティヴを提起し得ているというわけではまったくないでしょう。
彼らは、そもそも未来社会への具体的なプログラムなど持ち合わせていません。
自暴自棄的な近代への憎悪の念で動いているだけです。
自爆テロこそその象徴と言えましょう。
幕末の尊皇攘夷派による自暴自棄的テロ、それを継承した戦時中の「特攻攻撃」、その血脈上にある日本赤軍による無差別虐殺テロ。
それらから学んだのがイスラムテロリストでしたから、彼らは本質的に反近代的な存在と言えます。

恥を知って欲しい「反米・反戦・平和」運動

いまに始まったことではありませんが、感情的な「反米・反戦・平和」運動には説得力は皆無です。
彼らはことの本質がイラクの独裁政権による大量破壊兵器開発にあり、それがテロリストの手に渡る危険性と、それによる市民社会の平和と安全の問題にあることをあえて無視します。
この問題を無視するのは彼らのなかにも見解の相違が見られるからでしょう。
そもそも、彼らのなかにはテロを反米闘争の有効な一手段として歓迎する部分さえ含まれます。
彼らはアルカイダとほぼ同様の世界認識のもと、グローバル化の推進や、その結果としての貧富の差の拡大、第三世界民衆の「悲惨」なるものをすべて米国が意図的にその政策によってもたらしたものと決め付け、それに対抗するテロは「弱者」のやむを得ない手段、として一定「評価」します。
そして、イラクや北朝鮮など人権を無視した独裁国家でさえ、米国よりはましである、との認識を一般化させます。
そうした認識を支えているのは世界的には破綻したはずのコミュニズムの残存イデオロギーでしょう。
つまり、民主主義と言ってもそれはブルジョワ独裁を覆い隠す欺瞞のイデオロギーであり、本当の民主主義はプロレタリア民主主義だ、という半世紀前に大きな力を振るったお馴染みの「理論」です。
しかし、そんな「理論」は91年ソ連崩壊で明白に終わったはずです。
この「理論」はもう少しだけ煮詰めてみたらすぐ破綻する代物です。
彼らには言ってやりましょう。なるほど、それではあなた方はまた暴力革命をやろうと言うんですか? プロレタリアートの独裁をやりたいわけなんですか? と。
そのような未来社会へのプログラムを具体的に提示したら、ほとんどの人は彼らを拒否することでしょう。

トータルなオルタナティヴを示せない反対運動

世界大規模で、文明と反文明の闘いがいま火蓋を切ったと言えましょう。
これは思想の闘いでもあります。
運動参加者らが曲がりなりにも「人権」とか「平和」を掲げるなら、最も悲惨な自爆テロを思想的にも運動論上からも断固批判するべきでしょう。しかし、彼らがテロや自爆テロを非難したことを私は聞いたことがありません。
これは人類の未来社会をめぐる闘いでもあります。
イタリアのアントニオ・グラムシは30年代、ムソリーニに囚われた獄中で、米国の商標のつかない未来社会のシステムを構築するべきだと言いつつ、結局は提示し得ずに獄中で果てました。
このことを後世の私たちはどのように考えるべきでしょうか。
グラムシによると、未来社会への設計図のうち、「古い欧州」は時間の問題で消え去るであろう(勝利するのは「アメリカニズム」)、しかしながら、コミンテルン流のオルタナティヴも実はダメではないかと考えた節があります。
彼にとって、十分検討に値する設計図として残された一つが米国社会の可能性でした(「アメリカニズムとフォーディズム」ノートについての筆者の解釈)。
もちろん、コミュニスト・グラムシが米国流の社会システムを全面的に肯定したわけではありません。しかし、それ以外の選択肢を彼が見出せなかったこともどうやら事実のようです。
これはどうも現在のコミュニスト、あるいは一切の左翼的反対派にとっても同様なのではないでしょうか。
いまある米国流のシステムのいい面を伸ばし、悪い面を軽減させるようにもっていく、そこにしか人類の具体的未来はないようです。

自由と民主主義の価値

イラクに米国流「自由と民主主義」を押し付けても無理だという人たちもいます。
しかし、不思議にそういう人たちは米国流「自由と民主主義」による押し付け憲法を未来永劫守っていこうという人たちのようです。
彼らの政治理念・価値観はいったいどうなっているのでしょうか?
彼らは米国の社会システムについて異様に厳しく批判するわりには、イラクや北朝鮮のような普通に見て独裁国家としか言えない存在には驚くほど寛容です。
その象徴とも言えるのが社民党です。
同党は前身の社会党時代に、イラクのバース党と友好関係にあったようです。北朝鮮の労働党との関係は広く知れ渡っていますが、バース党も社会主義を掲げているらしいので友党関係も不思議ではありません。
問題は、護憲を掲げ、平和と民主主義を守ると称する「庶民の」政党がどうしてあのような独裁国家の支配政党を擁護できるのか、ということです。
その場合の「護憲」とか「平和と民主主義」の中身はどうなっているのですか、ということです。
ことは社民党だけの問題ではありません。
いったい、彼ら左翼はこの日本を北朝鮮やイラクのような国家にしたいと言うのでしょうか?
そのことを彼らは鮮明にしたうえで運動をやっているのでしょうか。
そこをはっきりさせてから、「反戦・平和」運動をやってもらいたいものです。

またぞろお馴染みの陰謀論

「サダムを育てたのは米国だ」とか「石油が欲しいからの戦争だ」とか、またぞろ陰謀論が華々しく登場してます。
無知な人たち、あまり勉強もしないで、奇異な説にだけすぐ飛びつく人たちは「本気で」信じてしまうことでしょう。
しかし、虚偽の言説が歴史に力をもつことはありません。
米国がサダムをある時期において支えていたことは事実のようです。
しかしながら、イラ・イラ戦争当時、サダムの側を「よりまし」として応援したのは米国の国家理性としては当然のことです。
誰も将来(つまり今日)のことなど予想できるわけもありません。
それは米国と言えども、間違いを犯しやすい人間が支えている国家であることを意味しているだけのことです。
国家理性に基づく判断ということで言えば、米国の支援で権力基盤を確立したサダムがアラブの盟主を目指して、今度は米国に楯突いたのもイラクの国家理性としては当然のことですし、今日、米国が自国と世界の安全のためにサダム打倒に立ち上がったのも国家理性として当然の判断であると言えましょう。

懸念される反知性主義的な反ユダヤ言説

一部の落書きにも似たインターネット上掲示板では、「イラク戦争の米英側の武器がイスラエル製である」とか、「ポストサダムのイラクとイスラエルが石油のパイプラインを引く計画である」とかを「例」に挙げ、戦争の責任をイスラエルやユダヤ系の人びとに向けようとする動きさえ見られます。
米英側の武器にイスラエル製が多く使われているとしたら、それはテロとの戦いの経験でイスラエルの人びとが優れた武器を開発してきた結果であり、ユダヤ系の人びとがそうした面でも優れていること以上を意味しません。
石油パイプライン構想も、まったく国家理性としては当然の判断でしょう。
それと開戦の責任とは何の関係もありません。
また、イラク戦争を担う米国政権の主体をネオ・コン派であるとして、そこでもユダヤ系の人びとを悪者にしようという危険な動きが見られます(ネオ・コン派は必ずしもユダヤ系の人びとばかりではありませんし、同派の理念と戦略・戦術はユダヤ思想とは何の関係もありません。さしずめ「フリーメイソン」非難の今日版でしょうか?)。
彼らは右翼的というよりは左翼的な人びとで、戦後日本のトンデモ反ユダヤ主義が主に左翼によって担われてきたことを改めて思い起こさせてくれます。
国際的にもフランスなどでは反ユダヤ主義の動きが見られますが、これは大変懸念される情勢です。
私たちは近代において営々と築かれてきた人権・自由・民主主義という普遍的な価値観を再認識し、これらを破壊しようとする敵との闘いについて自覚しなければなりません。

テロとの闘いに耐える力を

日本にとってイラク戦争はまだ前哨戦にすぎません。
より身近な北朝鮮との闘いが控えています。
北朝鮮との闘いで、重要なのは日本の社会が現在のような対北朝鮮姿勢を継続できるのかが一番の問題である、とどなたか専門家が指摘していました。
北朝鮮のミサイルよりも怖いのは日本社会の知的・精神的な脆弱性です。
いまでこそ拉致への怒りで社会は一部を除き一致し団結しているように見えますが、東京湾にでも恫喝のミサイルを打ち込まれればどう変わるかは分かりません。
何せ日本では北朝鮮の代弁メディアである「朝日新聞」や、代理政党「社民党」などがまだ自由に活動している有様です。
どれほどの犠牲が出てもテロリストや無法国家と闘い抜くという強固な意思を市民社会がもち続けることが必要となるでしょう。

世界がイスラエルとともにテロと闘う時代に

市民が闘いに耐えるということは、イスラエル市民の経験が参考になりましょう。
テロリストやならず者、共産主義者や右翼ファシストどもに、この開かれた市民社会を破壊させるわけにはいきません。
この闘いに勝ち抜かないと、人類が近代以降営々と築いてきた文明は崩壊します。
日本社会もテロとの闘いを積極的に担う意思をもつべきときでしょう。
市民各位、その覚悟が出来ていますか?
いまだ戦後コミュニズム体験の総括さえなされていない日本社会は知的に脆弱であると言えます。
しかし、世界が真っ二つに割れて存亡を賭けた戦いはもう始まっています。
文明の側に立つか、反文明の側に立つか、答えは明白であり、「洞ヶ峠」はあり得ません。

世界は大きな思想の闘いに突入しつつある

21世紀の人類史を決する闘い。
彼らは「反戦」とか「平和」とか、時には「人権」という言葉さえ、紛らわしくも使用するようですが、独裁政権やテロリストを批判しない連中の「反戦・平和・人権」はまがい物でしかありません。
彼らがいかなるときも言わない言葉で、私たちが最も大事に思うのが「自由」です。
これこそ私たちを結びつけ、彼らと闘うキーワードでしょう。
今回の対イラク戦争もいみじくも「イラクの自由」作戦と名づけられました。
中東の地から遠い日本で、私たちは戦況を冷静に見つめ、米英軍兵士たちの安全とイラク解放の一刻も早きを祈らずにはおられません。

自律を目指す市民のためのウェブに アントニオ・グラムシ研究のためのウェブに