創作エッセイ「ホタさんのたわごと」
    「思ったまんまの随筆?」(随時更新)

  また、市長賞をいただきました。
2010.8.22

 今年の横須賀市民文化祭写真の部で、はからずも市長賞を受賞することができました。実は平成16年にも市長賞を受賞しており、今回で2回目になります。最高賞を2回受賞すると以後賞はいただけず、「無鑑査」として展示されるそうです。
 前回の作品は、初音が司会を担当する横浜でのゴスペルイベントに行ったとき、待ち時間に近くの公園を散歩したおりに撮影した「人生いろいろ」で、この時は2枚の応募の内「当て馬」の方の作品が市長賞にえらばれました。
 今回の作品は今年横須賀市文化会館で行われた初音が代表と音楽を担当する「市民ミュージカル」2日目の開演前に行われたリハーサルのときのもので、題名は「夢はかなう」です。所属する湘南写真クラブの海野先生と相談して応募しました。作品搬入のおり、「審査員が体調不良で、浜口タカシ氏にかわりました。」とのメモを頂いたとき、もしかして、という気持ちになりましたが、佳作になればいいなと思っていました。
 実は初音が今回で市民ミュージカルを卒業することになり、最初から写真を撮っていた私もこの機会に卒業させていただくことにしました。演出の横田さんや振付のカワイさんには感謝の気持ちでいっぱいです。
 1枚目が16年の作品「人生いろいろ」2枚目が今回の作品「夢はかなう」


  東北撮影旅行に行ってきました。 2009.10.18〜20

 平成18年に定年退職者のカメラ部を立ち上げ、活動を行っていますが、昨年の小淵沢方面の宿泊撮影会に続いて、今年はなんと2泊3日で岩手県を中心として東北地方への撮影会に行ってきました。今回は、定年まで岩手工場で過ごし、現地に詳しい部員の吉川雅通さんが企画から案内まですべてを担当してくれて、私はお客様として気楽に過ごすことが出来ました。車は青山正男さん運転のVOXYで、7人が乗り込み18日早朝から厳美渓、毛越寺、抱返渓谷を経て、角館で一泊。
 2日目は早朝の角館屋敷跡の撮影に始まり、田沢湖、八幡平、玄武岩を経て秘湯の宿、国見温泉で温泉につかって旅の疲れをいやしました。
 3日目は小岩井農場でお土産を買って、一路帰宅に途につきました。
 撮影はもちろんのこと、同じ釜の飯を長く食べた仲間なので、会社の思い出や、カメラの話など、道中もたのしく過ごせました。
 そして、この仲間での写真展を開くことになりましたので、この文を読まれた方は是非ご覧いただきたいと思います。(詳細はトップページのメニューからクリックしてください。)

  マンドリンアンサンブルのメンバーにエール 2009.7.4

 横須賀マンドリンアンサンブルの第30回定期演奏会が7月4日、よこすか芸術劇場で行われ、私は写真係で参加しました。今回は特に素晴らしい演奏で、客席から撮影しながらアットホームで美しいハーモニーを聴かせてもらいました。
 創立40周年を迎えたこのアンサンブルには、実は私も当初加わっており、今回配布されたプログラムには、第3回定期演奏会までは私が司会や指揮を担当していたのです。当時、メンバーは皆若かったのですが、40年経った今、そのまま全員が「アラカン」世代になっていました。ファインダーから見た表情も「歳」を感じ、その分私もおじいちゃんになっているのだなと改めて感じました。本当は自分は歳をとらず、他人だけが歳をとっているのだと思いがちですが、そうはいきません。
 この道ひとすじに40年間活躍されているメンバーにエールを送ります。




  伊藤秀雄君『珈琲時代』のオーナーに 2009.5.1

 さいか屋横須賀店の横丁に『珈琲時代』というちいさな喫茶店がオープンして半年たった5月1日、私の後輩である伊藤秀雄君が名実ともオーナーになりました。
 この店は大滝商店街が空き店舗を利用して喫茶店経営をはじめ、この運営を伊藤秀雄君にまかされたのです。そして半年、軌道にのったところで名実共に彼の店になったのです。
 伊藤君は二科展に入選したことがきっかけで会社員から芸術家に転身し、いろいろご苦労をされたが、今ではやさしい、いいおやじになっていました。
 画廊としての機能もあり、展示会を開いたり、その案内を入れるポストが設置されていて、お客様には芸術家が多い。彼の「おやじらしさ」も人気のひとつになっています。
 コービーが350円で、そのほかにもいろいろにユニークにメニューがあるが、ここから2点を紹介してみます。
 『焼おにぎりのリゾット 300円』
 こんがり焼けたおにぎりにアツアツのコンソメスープを注いでいただく。おにぎりにスープがジワーっとしみこんだ美味しさは絶品。
 『佐島のへらへら団子 350円』(煎茶・お新香付き)
 農林水産省が2007年12月に発表した「農山村の郷土料理百選」に全国から推薦のあった1700点の料理の中から選ばれた『佐島のへらへらだんご』。実は選ばれたもののどこの店でもお目にかかれず、佐島の伝統家庭料理でした。佐島出身の彼は「それでは私が…」ということで、毎週木曜日の昼下がりに限定30食つくっています。
 次は木曜日に訪れてみたい。




  
私のカメラ遍歴 2009.1.31

 私が初めてカメラを手にしたのは中学2年生でした。カメラといっても当時はカメラを買えるはずもなく、購読していた少年雑誌の付録にカメラがついたのです。カメラといってもボール紙で作った四角い箱に小さなレンズをつけたもので、ピンホールカメラのようなものでした。そのカメラで同級生の妹さんを撮影したのが初体験で、それが何かの雑誌に掲載されたことを覚えています。
 本物のカメラを持ったのはそれから数年先のことで、船越にあるマスダ写真館から中古のカメラを月賦で購入して勤務先のカメラ部に入ったのです。そのカメラいじりがこうじて、昭和35年に当時現場で車両検査をしていたある日、急に人事部長に呼ばれて社内報の編集担当者になったのです。
 その後約20年間は、社内報担当者として会社のすべての行事を撮影しました。この間、結婚や子供の誕生など、自分自身もいろいろの遍歴をたどりましたが、私の青春はすべて社内報の行間と、撮影した写真に潜まれていったのです。
 その後、情報誌の編集で、お店や料理の写真などを撮影しましたが、今でも私の撮った写真をメニューにしてくださるお店もあり、親近感を感じます。
 今では仕事を離れ、生涯学習の一環として純粋に趣味の作品になりましたが、スナップを中心に今後も撮りつづけていきたいと思っています。現在湘南写真クラブに参加させていただいて、毎月例会で講師から作品の講評を頂いて腕を磨いています。また、勤務先のカメラ部も定年後に再結成し、交流を続けています。
 自慢話をひとつだけさせてください。昭和41年に長女誕生の時の写真が自動車産業人写真展で「三笠宮賞」を授賞できたことで、私にとって最初で最後のビックな賞だったのです。今では当時のような感性はありません。
 最近では、健康作りを兼ねて撮影する機会が多くなりました。被写体は娘のライブ活動が中心で、妻と共に追っかけをやっています。たまたま行政センターで市民展のパンフレットを入手したので、試しに市民展に近作を出してみることにしました。娘が司会を担当したゴスペルナイトが行われた横浜でのスナップです。入賞通知のはがきに「横須賀市長賞」とありました。まさかの受賞というのが実感です。この作品のタイトルは「人生いろいろ」で、当時の小泉首相の発言からヒントをえたものです。平成16年のことです。
 私は、スナップ写真を撮る機会に多く恵まれ、どちらかというと静物や風景写真は向いていません。スナップは、瞬間を撮るもので、その一瞬に妙味があるのです。以前、三笠宮賞をいただいた時もまさにスナップ写真でした。そして、私の写真の被写体の主役はいつも「人」です。『写真は記念写真に始まり記念写真でおわる』というのが私の信念です。デジカメはまさにスナップ向きであり、これからも体力維持・向上のため、カメラをかついで、あちこちに出掛け、いろいろなスナップを撮り続けようと思っています。
 昨年古稀を迎えた折り、子供達にお祝いをしてもらいました。その席上親子3代写真展をやろうという発言がありました。実は娘も息子も孫も全員ニコンのデジタル一眼レフカメラを愛用し、それぞれの分野で活躍しているのです。話はとんとん拍子でまとまり、5月13日から17日まで横須賀市米が浜の『オリエンタル画廊』で親子3代写真展を行うことになりました。お近くの方、ぜひご覧頂きたいと思います。

  同期の桜があつまりました 2007.7.28

 7月27日、同じ釜のメシを食った同期の桜が箱根荘に集結、なつかしいひとときを過ごしました。昭和29年に関東自動車工業(株)に入社し、当時は暮らしていくことが精一杯の仲間達でしたが、今では、頑固親父となり、それそれの地域で活動をしています。現役の町内会長や民生委員もいるのです。
 結構ワルで通っていたT君は娘が小学生の頃に奥様を亡くして、男手一人で二人の娘を育てあげ、今では立派なおじいちゃんになっていました。その苦労話を隣の席で聞かせてもらい、ただただ感心するばかりです。私には到底できなかったことだと思います。
 また、定年後の生き甲斐として竹炭をつくっている仲間がいて、その作品を持ってきました。その竹炭と竹酢液を段ボール一杯購入して持ち帰り、お友達に配っています。この同期の仲間があってこそ、今の自分があるのだなとつくづく感じました。

  私は撮影しているので写っていません

  69歳を迎えてしまいました 2007.7.23

 7月21日、ついに69歳を迎えてしまいました。自分自身はいつまでも若いつもりで、子ども世代の人とも共通の情報交換をできるよう努力していますが、体のほうは日に日に衰えてきていることを実感しています。この日は横須賀マンドリンアンサンブル定期演奏会の撮影を頼まれ、1日中文化会館で過ごしました。私もこのアンサンブルに入っていたことがあり、いろいろな思い出がありますが、今は、客席から見守る立場になっています。夜は町内会の役員かがあり、1日を過ごしました。
 翌22日は町内会の防災訓練。この日は朝方から雨が降っていて、屋内での訓練となり、情報隊長としてスナップ撮影をしました。家に戻って、孫の智子ちゃんが作ってくれた誕生祝いのデコレーションホットケーキを家族でいただき、誕生プレゼントも頂きました。あと1年で70歳、そろそろ今やっているいろいろなことを整理しなければなと思っています。
 23日はSOHOビジネス認定者の交流会があり、また、新しい勉強をしてしまいました。忙しいのがなによりで、世の中に必要とされるうちはがんばってみようかなと思いました。

        すばらしい出来映えでした。

  横須賀市民展で市長賞を受賞して 2004.10.10

 最近、カメラを持ち歩くようになり、撮影する機会が多くなりました。被写体は娘のライブ活動が中心で、妻と共に追っかけをやっています。たまたま行政センターで市民展のパンフレットを入手したので、試しに市民展に近作を出してみることにしました。本命は娘のライブの時に盛り上がった観客を撮ったもので、当て馬に、娘が司会を担当したゴスペルナイトが行われた横浜でのスナップです。
 ところが、主催者から入賞通知のはがきが来たのでよくみると、当て馬に応募した方が横須賀市長賞受賞とありました。パンフレットを読み直すと市長賞が1位であることがわかり、びっくりしました。私のカメラ遍歴は以前も書きましたが、(3つ下にあります。)まさかの受賞というのが実感です。この作品のタイトルは「人生いろいろ」で、小泉首相の発言からヒントをえたものです。
 昨日その作品展を見に行きました。たくさんの応募作品は大きなものが多く、豪華な装丁で、自信作ばかりという印象でした。その中で、私の作品はどちらかというと小さくて地味な存在で、うっかりしていると通り過ぎてしまうような所にありました。でも、審査員の心に通じるものがあったのでしょう。
 私は、スナップ写真を撮る機会に多く恵まれ、どちらかというと静物や風景写真は向いていません。スナップは、瞬間を撮るもので、その一瞬に妙味があるのです。以前、三笠宮賞をいただいた時もまさにスナップ写真でした。今年購入したニコンのデジカメD70はまさにスナップ向きであり、これからも体力維持・向上のため、カメラをかついで、あちこちに出掛け、いろいろなスナップを撮り続けようと思っています。
 このところ、楽しいことが少なかったのですが、この入賞の通知をもらって元気を取り戻しました。

  
50年前の中学生に戻って 2003.12.31

 横浜市立六浦中学校を卒業して50年になったのを記念して、同期会が11月16日に横浜のホテルキャメロットジャパンで行われ、71名と3人の先生が参加しました。
 実はこの前に数回の幹事会が行われており、私にとってはこの幹事会のほうが同窓会のようなものでした。私は2年生の2学期からの転校生で、もともと地元で幼少のころからの友達でなかったのでつきあいも少なく、担任の先生も既に亡くなられており、幹事の中でも少し外れた位置にいました。自らは写真担当を志願し、今回は先生がお見えになる1組と4組が中心になって計画が進められたのです。
 同期生は7組まであり、私達5組はクラス会を何度も開いているのでクラスの結束は固く、同期会には17名が参加し、もちろん一番多かったのです。男性は髪が薄くなっているいる方が多かったのに対して女性軍はみんな若かったような気がします。いろいろ話をしている内に50年前の中学生に戻ってしまうのです。でも、話題の中心は老後の生活と健康問題に終始します。2年後の再会を約し、わがクラスも来年の再会を約しお開きとなりました。
 今回おいでいただいた3人の先生方もお元気で、私達のことをよく覚えていてくださいました。この仲間達をいつまでも大切にしておきたいと思いました。

  NHK横浜放送局を訪ねて 2003.6.18

 町内会の広報委員会での研修を目的としてNHK横浜放送局を訪問しました。神奈川県庁のそばにある同局には初めての訪問で、内心ドキドキしていました。
 私とNHKとの関わりをふりかえってみると、中学生の頃NHK横浜放送局友の会に入っていたことがあり、当時谷田部アナウンサーという人が私たちの会合に来てくれたことがあります。元来ラジオ好きな私は当時作文を投稿したり、その作文が放送されるときは電報が来て、ラジオの前でかしこまって聞いたこともあります。
 NHKの本局を訪問したのは昭和30年代の始めで、当時は新橋の駅をおりて、田村町の交差点のそばにありました。丁度勤務先の先輩のお子さんが入局したので、その方にお願いして案内してもらったのです。
 渋谷の放送センターには「はとバス」にのって何度か訪れていますが、もう20年以上前のことです。
 比較的最近の話になると、「YOU」という番組があった時、娘が女の子バンドのボーカルとして出演したことがあります。歌う曲の間に挿入するためNHKのクルーが今の自宅を訪れて、家の中を撮影していきました。1分弱の放映でしたが、そこに映った自宅はけっこう立派なものでした。
 今回横浜放送局を訪ねて感じたことは、@スタッフが若いこと。A意外と庶民的だったがやはりNHKだったこと。B狭いスタジオで、リモコン撮影、工夫がされていること などなどです。丁寧な説明には頭が下がる思いでした。スタジオでキャスターになったつもりでカメラに納まったり、そこでの記念撮影もよい思い出になりました。お話によると高齢者になるほどNHKファンが多くなるとのことで、私もその域に達しました。FM放送のスタジオはリスナーから見えないせいか、あまり神経を使っていないように感じました。番組の進行表を見るときちんと印刷されており、さすがはNHK、娘のコミュニティFM局ではメモ程度のシンプルなものにですからね。

  
カメラ部と共に50年 2002.12.13

 12月上旬、湘南信金「ギャラリー久里浜」で、関東自動車工業カメラ部の50周年記念写真展を行いました。この写真展は、部員9名がそれぞれのコーナーを持ち、その作品を披露したもので、いわば個展の集合体のようなものでした。初日に神奈川新聞の取材があり、翌日の紙面で大きく取り上げてくれたお陰か、来訪者も多く、現役社長まで見に来てくれたことは過去4回の写真展ではなかったことです。私は当然定年退職者ですが、現役時代からずうっと席をおいていたので、今回も他の二人の定退者と共に現役の方と一緒に加えていただきました。
 この50年は、私自身のカメラ歴50年にも重なるので、その思いはひとしおでした。カメラ部の出来た昭和27年、私は中学2年生で、初めてカメラを手にした年なのです。カメラといっても、当時はカメラを買えるはずもなく、購読していた雑誌『少年』の付録にカメラがついたのです。カメラといってもボール紙で作った四角い箱に小さなレンズをつけたもので、ピンホールカメラのようなものでした。そのカメラで同級生の妹さんを撮影したのが初体験で、それが何かの雑誌に掲載されたことを覚えています。その写真の現物をアルバムに貼った記憶がありますが、今探してもみつかりません。
 本物のカメラを持ったのはそれから数年先のことで、船越にあるマスダ写真館から中古のカメラを月賦で購入してこのカメラ部に入ったのです。当時、撮った社内のスナップは今もあります。そのカメラいじりがこうじて、昭和35年に当時車両検査をしていたある日、急に人事部長に呼ばれて社内報の編集担当者になったのです。
 その後約20年間の社内報担当者として会社の行事を撮影していきました。この間、結婚や子供の誕生など、自分自身もいろいろの遍歴をたどりましたが、私の青春はすべて社内報の行間と、撮影した写真に潜まれていったのです。今も古い写真を見ると当時のことが思い出されます。
 その後、情報誌の編集で、お店や料理の写真などを撮影しましたが、今でも私の撮った写真をメニューにしているお店もあり、親近感を感じます。
 今では仕事を離れて純粋に生き甲斐としての趣味の作品になりましたが、スナップを中心に今後も撮りつづけていきたいと思っています。
 自慢話をひとつだけさせてください。昭和41年に長女誕生の時の写真が自動車産業人写真展で「三笠宮賞」を授賞できたことで、私にとって最初で最後のビックな賞だったのです。今では当時のような感性はありません。今回の写真展には、この作品を「参考出品」として展示させていただきました。

  
懐かしいマンドリンクラブ 2002.8.21

 勤務先でマンドリンクラブを作った動機は不純でした。同級生の相川一郎君が「楽器を持って街を歩くとカッコイイから、マンドリンクラブ作らない」と言われたのは1961年のある日でした。急遽メンバーを集め、楽器を月賦で購入して当時の川間クラブで初回の練習をしたのが3月3日でした。その時の記念写真は本当に若い人たちが集まっていたのです。
 その後、長女が出産したおり、講師の高橋八郎先生に命名をお願いしたところ「初音」という名前をつけて頂きました。当時は、私が音楽に狂っているときに初めて出来た女の子だから「初音」だなんて、勝手に判断していました。娘にとってこの名前は一生を決める名前になったようで、今でも音楽に関わり、コミニティFM局のパーソナリティとして活躍しています。
 ペリー来航から150年の来年は、横須賀市も「開国祭」と銘打っていろいろイベントを計画していますが、そのひとつ「ミュージカル」づくりの代表になり、曲を作り、この18日にそのプレ公演を見させてもらい、久々に感動しました。この「初音」という名前が源氏物語に出てくるなんて、つい最近知った事実で、なんとも恥ずかしい次第です。本人はよく知っていたようです。
 さて、そのマンドリンクラブですが、長い歴史の中にはいろいろな出来事もあり、消滅の日が来てしまいましたが、創始者の相川君はその前にラテンバンドをつくり、甦ってしまいました。彼の定年後もそのバンドは存続しており、横須賀市音楽協会にも加わっています。私はその後、横須賀マンドリンアンサンブルに加入し、初期のころは、司会や指揮を担当していましたが、諸般の理由でこのクラブからも去る日がきてしまいました。
 あれから約二十年たった現在、いろいろな情報が入って来ますが、当時のメンバーK君が仲間を集めて、自治活動センターなどを利用してささやかながら演奏を楽しんでいるのです。また、派手好きでハワイアンバンドへいってしまったI君は、ギターアンサンブルに加わり、合奏を楽しんでいるのです。その白髪がとても印象的でした。その写真を撮る私も、まだ音楽は捨てたものではないと再認識し、「またどこかのグループに入ろうかな」なんて一時的に思ったものです。今でも、1台だけマンドリンを手許においてあります。
 青春時代に体験したことは、その人の一生を左右するほど力があるんだなと痛感しました。音楽はまさに音を楽しむ趣味だなと思いました。老後の生き甲斐にも結びつきます。



   懐かしい記念撮影      1961.3.3
 後列左から 高橋(大内)、小山、飯田、田島
 中列左から 上野、大川、大谷、相川、渡辺(後に相川)、二本木、三富、中村
 前列左から 伊藤、小島、高橋先生、佐山、三上

  
63歳の鼻たれ小僧 2002.1.1

 「よこすかIT塾」の講師を募集しているという情報をインターネットで見て、早速応募してみました。6日間の教習内容を具体的に書いたレジュメを提出して可否の結果を待っていました。
 このコースは定員20名で、11月から1月まで合計6回行われるもので、締め切りまでに受講希望者が54名にも達してしまい、会場の収容能力からみて無理なので、横須賀市の担当者と相談し、2コースに分けて、全員に受講のチャンスを提供することになりました。
 私が人前で話をするのは、勤務先の会社で「生涯生活設計教育」を労働組合と共催で行ったおり、トレーナーを務めた以来のことで、もう、ひとむかし以上前のことです。「生涯生活設計教育」は2年ほど担当しましたが、この教育に自分自身が触発されて会社を辞めて新しい道を選んでしまいました。「若いうちの苦労は買ってでもしろ」とはよく言われますが、いい年になってからの苦労は結構身に応えました。その後、情報処理、情報誌の編集、印刷関連と4社も転々とし、企業の格差と経営者の幅の広さ(?)をいやというほど体験しました。
 定年を過ぎた今になってみると、同期生とも足並みが揃ったし、今も社会と関わりを持っていることに喜びさえ感じます。
 その「よこすかIT塾」ですが、私の担当したのは「好きを事業にするために」というのがテーマで、主にこれからSOHO活動をしようという人に対する情報提供と情報交換を柱に「生涯生活設計教育」での体験から得た知識もアレンジしてカリキュラムを組みました。受講生の中には、エステシャン、インナーの販売、印刷関連、水彩画、陶芸等々、多種多芸の方が集まっており、私の方が勉強になり、心身共にリフレッシュすることができました。塾生の最高齢者が80歳で、しかもその方は「相性診断」の理論を確立し、そのプログラムを作成して商品化しようというのです。私はこの人から見れば「鼻たれ小僧」であることを再認識させられました。もっとパワーを持たなければと自分に言い聞かせました。
 最終回は1月31日ですが、この日までに全員が新しい事業の具体的な計画作りができるよう手助けしたいと思っています。

  
私のラジオ遍歴 2001.9.23

 幼少の頃、押入の中にあるラジオから「大本営発表!」を聞いて、「空襲警報発令」で近くの防空壕に避難したことを覚えています。その防空壕の入口から見た照明弾の落下は、北の空が昼間のように明るかったことがとても印象的で、今でも覚えています。横浜大空襲の日のことです。当時のラジオはコップに水を入れた中にアンテナ線を入れていたような気がします。
 終戦の年に小学生となりましたが、その頃はあまりラジオを聞く機会がありませんでした。当時は近くにあった芝居小屋「銀星座」というところで「子役」として出演しており、学校はお昼で早退していましたので、あまり勉強は出来ませんでした。
 中学生になってからは、自分でラジオをつくり、放送を楽しんで聞くようになりました。初めはスパイダーコイルにエナメル線を巻いた鉱石ラジオで、蚊が鳴くような放送を聞いていたのです。その後、並4ラジオから5球スーパーまで、部品を揃えてよく作りました。自分で作ったラジオを近くの公園に持っていって、木の上に登り、電柱から電源を拝借して聞いたこともあります。当時、NHK横浜放送局の友の会に入り、会合に出たことがありますが、中学生は私一人で、みんな社会人でした。その後民放のラジオ関東(現在のラジオ日本)が横浜の野毛山に出来たとき、いち早くスタジオ見学に行きました。今、アマチュア無線をやっていますが、元をたどれば鉱石ラジオにたどりつきます。
 私は、ながら人間で、ラジオを聞きながらアマチュア無線を聞き、時には空いている目でテレビワッチもしています。そのラジオからいろいろの知識を吸収することができたのは、人間形成上、ラジオによるところが多く、ラジオに育てられたようなものです。私の家にはラジオが何台あるか解りません。私の居るところすべてにラジオがあるのです。もちろん、トイレや浴室にもラジオが私を待っています。
 最近のラジオワッチのパターンは、目覚めのニッポン放送から始まります。高島ひでたけさんの番組「おはよう中年探偵団」から始まり、仕事中もニッポン放送を聞いています。夕食後はテレビワッチに変わりますが、深夜はNHKの「深夜便」を聞きながら眠る毎日です。ときどき夜中に目が覚めて、ラジオに引き込まれて眠れなくなってしまうこともあります。車で移動中はアマチュア無線を聞きながらラジオを聞いていますが、AMで飽き足りないときはFMにチャンネル変え、音楽を楽しみます。そのFM放送のパーソナリティとして娘が従事するようになり、私のラジオ遍歴が別の姿で子供に遺伝したものだと思っています。今では娘の放送を聞くことが楽しみのひとつになっています。

  
「捨てる神」と「拾う神」 2001.7.21

 数年前のことですが、当時勤めていた会社の経営があやしげになってきたので、生活を守るために内緒で求職活動を行っていました。いろいろな機関を通じて情報収集を行い、履歴書も用意していました。
 そんな折り、ついにその日がやってきたのです。退勤時間間際に社長から、「経営が苦しくなってきて、給料が払えなくなるので、1か月後に辞めてほしい」と、申し訳なさそうに目をそらせて、予告退勤通告を受けてしまったのです。これにはショックでしたが、たまたまその日の退勤後、求職活動をしていた別の会社へいく約束になっていたのです。約束通り訪れてみると、その社長から「当社に来てほしい」といわれたのです。いやな気持ちでいたのはたった30分位で、なんて間がいいのでしょうと思いました。このとき「捨てる神あれば拾う神あり」という諺が頭をかすめました。1日も休まずに、新しい仕事に就くことができたのです。
 今は年金生活主体で、こんな思い出が語りぐさになりましたが、まさに「人生いろいろ」といったところでしょうか。
 後日談ですが、「拾う神」もその後「捨てる神」になってしまったことを付け加えておきます。63歳を迎えての感想です。

  
「直木三十五(さんじゅうご)」の名前の不思議 2001.3.1

 芥川賞と直木賞といえばメジャーな文学賞で、誰でも知っています。私も過去に直木賞を目指そうかと思ったこともあったような気がします。
 芥川龍之介については地元横須賀とのかかわりが強く、横須賀時代が生涯で最も幸せなときであったといわれています。大学を出て初の赴任地が海軍機関学校で、ここで英語を教えていました。この正門は今も神奈川歯科大学の裏手に保存されています。当時の下宿先は汐入にありました。『蜜柑』という作品では横須賀駅を出た上り列車の様子が描かれており、吉倉公園には「蜜柑の碑」があります。
 大衆文学の新進作家に贈られる直木賞は知っていても、その名前を私は知りませんでした。直木三十五の本名は植村宗一といい、31歳の時に初めて筆名をつけました。名字の「直木」は本名の「植」を上下にわけたものであり、年齢の31をそのまま「三十一」としました。その後、年をとる度に「三十二」「三十三」「三十五」としました(「三十四」はなし)その後43歳で亡くなった昭和9年まで「三十五」でを通しました。
 表記の二つの賞は「直木三十五」の亡くなった翌年、文芸春秋社の菊池寛が創設したものです。この年が1935年であったことは何かの因縁なのかも知れません。
 その菊池寛も横須賀市大津にある市立婦人会館の隣に住んでいたことがあり、ここ横須賀は文学にもかかわりの深いところであると再認識しました。
 2月の温かい日に訪れた金沢区にある富岡山長昌寺には「直木三十五」の墓があり、そのすぐ近くに文学碑もありました。そこには「芸術は短く、貧乏は長し」と刻まれていました。
 「さがみ文学と歴史を楽しむ会」に入って2年以上経ちますが、今回の歴史探訪は私にとって特に印象的なものとなりました。

  
「困った時は、おたがいさま」が合言葉 2001.2.20

 ハム(アマチュア無線)仲間が新しいボランティア組織を作って運営していると聞いたので、その事務所を訪ねてみました。横須賀中央駅から歩いて2分という立地条件は素晴らしいが、狭いワンルームマンションの一室に大きな夢がいっぱい詰まっているような感じがしました。
 この団体は「たすけあい横須賀」<http//:www5.ocn.ne.jp/~tasukeai/>といい、出産後の若いママから高齢者までの相互扶助を組織的に行っています。モットウは「お・た・が・い・さ・ま」で、困っているときに少ない負担でお互いに助け合おうというものです。一言でいえば有償の助け合いグループですが、活動する人も利用する人も対等の立場で手助けが行える仕組みです。現在300人を超す会員がおり、活動時間も2万時間を超えているというのには感心しました。
 私も年齢から考えて、いずれはこのような組織のお世話になる時期がくるのではないかと思いますが、先人がこのような組織を作ってくれたことに感謝します。
 以前、ある作業所を作った方は、ご子息の身体的障害を克服するため、大きな組織をつくってしまったし、心身障害者更正施設をたった一人から作ってしまった女性も横須賀にいます。人間というのはその気になりさえすればどんな大きなことにもチャレンジし、それを実現していくものだなと再認識させられました。
 この組織をつくるに当たって、友人が今まで体験した貴重な経験が「たすけあい」の原点であり、私にはとうてい出来ない快挙に拍手をおくりたいと思います。

  
SOHOは根暗(ねくら)な集団か? 2001.2.10

 今、SOHO活動を行っています。SOHOとは、Small Office Home Office の略で、「自宅で小さな事務所を拠点として個人、小規模事業者がパソコンによるインターネットやメールを通じて業務を受託する事業タイプ」というのが定義らしいのです。SOHOのことを Super Office Human Office と言った人もいましたが、むしろこの方がバイタリティがあって、感性豊かな人達という印象があります。
 パソコン相手で根暗(ねくら)な印象は拭えないし、つめたーい感じがしましたが、たまたま横須賀商工会議所の呼びかけで参加したSOHO検討会のメンバーが居酒屋へ行ったとき、そんな心配は吹っ飛んでしまいました。とにかく個性豊かな集団で、個性まるだしでの議論は人間味を感じます。何回かの会合で、メンバーの特徴や性格も解ってきて、自分としても新しい人脈がひらけそうな気がしました。
 いくらパソコンを使っていても、やはり人間は顔を合わせて情報交換をするのが一番で、これからは人間的なネットワークをどう構築するかが課題となります。私の場合は老後の生き甲斐で、比較的気楽ですが、これを生活の糧にしている人は大変なことだろうと思います。やっていることは一流会社の社長さんとなんら変わらないのですから。
 私自身この仲間から得るものは、自分なりの小さなネットワークの構築ができたことです。

  
クラス会の収束宣言 2001.1.20

 クラス会を始めて何年たったのでしょうか。クラスメートの消息探しから始まり、二十数年ぶりに合った仲間は、みなあの時の中学三年生になっていました。その後もボツボツ集まっていましたが、いつの間にか毎年行うようになってきて、女生徒が先生をよく観察していたことや、だれちゃんがだれくんを好きだったとか、私が全然気がつかなかったことを初めて知ったりしました。
 私は最初から幹事を務めていましたが、還暦を迎えた年に「これでクラス会にケリをつけよう」と収束宣言をしました。しかし、これで終わることはなく、任意で続けようという提案で、二年目までの幹事が決められました。そして、昨年暮れ、初めて私が幹事でないクラス会が開かれましたが、なぜか今までより、盛り上がり、参加人員も増えました。幹事でない会合がこんなに愉快なものであることを初めて知りました。
 社会に出ていると、利害がらみの付き合いが多くあり、変な気遣いからストレスがたまるものですが、この仲間にはそんな気配は全くありません。多感な頃の仲間はいつ会ってもあの時に戻れます。今後もこの付き合いは大切にしていきたいと思います。


                  

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