| 瓢箪に口を当て、傾ける。湧き水でよく冷やした甲斐あって、きんと引き締まるような冷たさが胃の腑まで滑り落ちた。そして、捕まえて串に焼き上げたばかりの魚をひと齧り。狐色の香ばしい薫りが口に広がり、滴る油の熱が冷たさに締まった口の中を心地よく刺す。 体内に生まれる熱を感じながらあお向けた顔を戻すと、ふと視線の先で、折よく木立を真上から抜けて射し込んだ白い月光が、そこにあった池を煌々と照らした。それを見て鬼の少女はにっと笑い、懐から朱塗りの酒盃を取り出してそのほとりに歩み寄り、座り込むと、先ほどの豪快な呑みっぷりとはうってかわって静かに酒を呑み出した。呑み仲間はさやさやと囁く風の声、ざあざあとはしゃぐ水の歌、埋もれそうなほどの草のにおい、そして目に映る全てのもの。 「んー、いい月夜だね」 萃香は、遠い遠い昔に手に入れたお気に入りの杯を何度か揺らし、水面にさざめく天の淡い光を楽しみ、やがてその朱に口づける。息はつかず、しかしゆっくりと長々と杯を傾け続け、やがて彼女は口を離した。 「くはぁ」 堪えられない、と言うふうに赤ら顔で笑い、彼女は杯をしげしげと眺めた。朱塗りの上に金と銀で細やかに描かれたたなびく雲と鷺とが、夜の中にあってなんとも幽玄な輝きを放っていた。鬼の少女はふと昔の世界を、まだ世の全てが幻想の郷だったころのことを思い出していた。目に映るものがあまりに満ち足りていたから。幻想郷の夜があまりに濃く、あまりに生きていたから。たとえ同じ色で構成されていても、外の世界においてはもうそれこそ幻想することさえ難しい美しさがこの地にはいつまでも存在し続けていた。 「良かったなー、あの頃は。まだ誰も嘘なんか知らなくて、全身全霊で鬼に立ち向かって来てくれてたっけ」 それだから、むかしむかしの人間はとても幸せだった。鬼を正々堂々倒した者には幸福が贈られる…昔話の最後はいつだってそうだが、それもまた鬼と人との絆の一つだったのだ。萃香の顔に、静かな笑顔が浮かんだ。たとえそれがもう戻らない悲しい想い出だとしても、彼女たち鬼にとって嘆きよりなお喜びは強かった。鬼は美しいものをいつまでも忘れはしない。その記憶は、その時の美しさのまま胸の中にしっかりとあるのだから、喜びを感じずにいられようか。 ふと、頭上の木々から桜の花びらが一枚、風にさらわれて杯に落ちた。 「お、風流風流」 萃香は目を細め、どこまでも高い夜空に杯を掲げて乾杯した。柔らかな緑の草の上にごろりと転がりながら、一気にまた一杯乾す。そのまま頭上を見上げると、桜の枝が月も朧と視界を覆っていた。まだ咲き初めで、若葉の新緑が花に入り混じっているのがまたよい風情だった。 「いーねー、たまには静かなのも。静寂を肴に酒を呑むってのもおつなもんよね」 そう言うと、萃香はふと言葉を切って、心地よさげに目を細めた。近くに、地面を踏みしめる音が聞こえてきたからだ。 「…で、静かだからこそ次の賑やかさが楽しいってね。そして、飽きた頃にはまた静かになる…と」 ため息をひとつついて身を起こすと、その視線の先には紅白の巫女の姿があった。 「ああ、何だかいい匂いがすると思ったらあんたか。ご丁寧に魚も串焼きにして、宴会準備は万端ね」 そう言うなり、魚を明々と焼く焚き火の傍にかがみ込んだ霊夢は、一言のことわりもなくさっさと串の一本に手を伸ばしてかぶりついた。その背後には、他にも客らしき影が夜空にいくつも。どうやら、静かな手酌の時間は終わりらしかった。次は、賑やかな宴会の始まりだ。人間たちと萃まって、夢想の時代にしていたように。 「当然のように食うね。まあいいけどさ」 「あら、鬼がケチだなんて聞いたことないもの」 「ま、それはそうだけど」 そんな会話の間にも、焚き火を囲むようにして次々と新たな客が舞い降りて来ていた。静かな夜は、いまや賑やかな深夜にとって代わられていた。…そんなのもまた、悪くなかった。 酌み交わす酒の合間に、萃香はふと思い当たった。幻想郷はとても尊い場所だ。…ここが人からこぼれ落ちた幻想の集まるところだと言うのなら、今の人間もまだそれほど捨てたものではないのかも知れない。いつか他の鬼仲間たちも一緒になって、鬼の隠れ里から出た外の世界で人と再び宴会出来ることを、彼女は心から願った。例え、叶う望みが大いにあるわけではないとしても、あの萃夢想はまだ鬼たちの瞳の中で完全に消え去ってはいないのだから。 「くぁー、うまいっ!」 |
| 自作の中では、題名が一番うまくはまったと思っている一作です。投稿先でも、わりと題名への評価がよくて嬉しかったのを覚えています。 |