風間 崇(元角海老宝石)
俺、もう33歳だよ。
僕と彼はもう数年間会っていない。
「俺、現役の頃と何か変わったかな?」
そう聞いてきた彼は、年齢を重ねたせいなのか
それとも別のもののせいなのか、オーラに暖かさが増していた。
僕が以前彼と話して感じていたことは、ただひとつ。
ボクシングに対しての純粋さ
それに尽きる。
だが、それだけではなかった。
何に対しても、しっかり受け止めることのできる人間の大きさ。
改めて話してみて、これを感じた。
何を話していても茶化さない。素直に受け取って言葉を返してくれる。
話をしていて安心できる相手というのは、そういう相手なのかも知れない。
彼がボクシングを始めたきっかけ。それは何だったのだろう。
少しだけ過去に話を聞いていたけれど、詳しく知りたいと思ってはいけないだろうか。
彼は快く語ってくれた。
「純粋に強くなりたくて。肉体的にも、精神的にも。
俺の場合、精神的なものが大きいかな」
ボクサーになる前の『風間崇』は、ベーシストだった。
スポーツを見るのは好き。でも、自分でやるのは・・・。そんな人間だ。
おもむろに袖をまくって右腕を出す。
「初めてだよね?見せるの」
その腕にはおびただしい傷跡。
音楽で行き詰った時に 自業自得で 作ったもの。
自殺しようと思って手首を切ったなんてものではない。
刃物で作られたものとはまったく違う。
明らかに腕を切断していてもおかしくないようなものだ。
それは彼が自分を見直すきっかけになり、自分の考え方を変える経験の痕跡だった。
おかげでベースを弾くことも出来なくなってしまった。
出血多量で生死を彷徨った彼は数日間、集中治療室に入った。
周りには他の患者が数人。色々な人間が運び込まれて横たわっていた。
人間の生きるか死ぬかの狭間である空間の真っ只中に居たのだ。
事故に遭った外国人労働者。全身に火傷を負ってしまった赤ん坊。
生命維持装置をつけられ、心停止を知らせる音に医師や看護士が駆けつける。
「俺、何やってんだ?」
情けない。
「何で俺はここに居るんだ?居られるんだ?」
ここに居させてもらっているのが申し訳ない。
そんな気持ちでいっぱいだった。
それまでマイナス思考だったのがプラス思考に変わるきっかけとなった。
精神的に強くなりたいと思ったのは、きっとその時だったのだろう。
「ジョーとか一歩とか読んでいたから、憧れとかもあったんだと思うけど」
生き残り、右腕も繋がっている。
彼はボクシングジムに通い始めた。
まさかボクサーになるとは思わなかった。
彼は5年前、そう言っていた。
プロになったのは周りの後押し、導きによって。
可能性を認めて貰えるのならやってみよう。やるからには極めてみよう。
当時、バイトの合間にジムで練習をする生活。
「もっと走りこんでおけばよかったな」
練習に集中して時間を費やせたら良かったのに。
彼の目は名残惜しそうな色をしていた。
復帰をしようと思ったことは、もちろんある。
現実社会にムシャクシャした時。
目標が定まらない。何をしたらいいのか解からない。
ボクシングなら、目指すものがはっきりしているのに。
それだけでは現実逃避でしかない。
そう思って次の言葉をただ待つ僕に、彼は誤魔化しではなく続けた。
「純粋に、深夜の放映とか見るとやりたくなるよ」
闘争心が蘇るのだそうだ。
他の辞めていったボクサーたちも、その想いで復帰しているのかもしれない。
彼は今の自分の現状と向き合う決心をつけて前を見据えている。
常に自分にムチを打っていきたい。
その優しい表情の中に、僕は何か強いものを見た。
トレーナーになるとしたら。そんな話が出た。
「技術的な部分を教えるのは勿論ですよね」
そう、僕はそんな当たり前なことを聞きたいのではない。
彼はあらかじめ用意した質問に対して僕が予想していた答えと
まったく反することを言ってくれる。それを期待した。
予想した答えだったとしても、その後に必ず何かおまけが付いてくるのだ。
「精神面なんだけど、それは人に言われて育つものじゃないから」
彼はひげをたくわえた顎に手を当てる。
「強いっていうのはどういうことか。それを教えたいよね」
俺が若い頃だったら、長く続かなかったと思う。
そう言った『風間崇』という人間のボクシング人生は、それまでの経験と
その時の気持ちがなかったならば有り得ない代物だった。
「4回戦だった俺が言うのもなんだけど」
僕はそうは思わない。
リングに上がって相手と向き合ったことのある人間ならば
立派に戦ったあとでリングを降りた人間ならば
誰でも胸を張って話をしていいのではないのだろうか。
今離れてみて、ボクシングとは常に自分と向き合っている場所。
自分から逃れられない。現実からも逃れられない。
向かい合っていかなくてはいけない”真っ直ぐな場所”。
それを聞いて僕はミラーハウスを思い浮かべた。
密室のミラーハウス。
そこからどうやったら出られるのだろう?
ボクサーたちはその中に入って何かを見つけるのだ。
それはきっと、その時に目に見える結果だけではなく
何かを植えつけて、その後の人生にも芽を出すのだろう。
彼は5年前と同じように言葉を選んで話をする。
難しいと悩んだ挙句に、こう言って笑った。
「うん、リングに上がっているやつは、みんな純粋でカッコイイよ」
自分が同じリングに上がって試合をしていたなんて思えない。
「俺、上がっちゃってたんだ?って」
ジム内の話の時は昨日のように思い出せると言ったはずなのに
他人事のような口調だった。
ボクサーを辞めた彼の中で変わったと感じたこと。
それはきっと世界観なのだと思う。
今居る世界を彼は始終で「現実」と呼んだ。
バイトをしながら自分で飯を食っていくしかない。
追いかけるものがなくなり、責任感がのしかかる。
「切り替え」
彼はそう言った。
「今は『社会』の中が、『リング』の中なんだ」
あの頃があったから、今の自分がある。
在り来たりかもしれないその言葉が、どれだけ彼を表現出来るのだろう。
得た物。それは把握できないほど沢山ある。
ボクサー、風間崇だった頃。
それが彼のその後の、そしてこれからの人生の糧となっていく。
彼はそんな「宝物」を持って現実の日々を懸命に送っていた。
僕たちも現実世界の社会という名のリングの中に居る。
彼にそう教えてもらった。
子供に、本人の好きなことをさせたい。
その上でアドバイスをして、背中を押してやりたい。
何物にも変えられない宝物を手にした人間らしい言葉だった。
僕は自分の人生で何か大切なものを手に入れられるのだろうか?
この大きな安心感は、その宝物からにじみ出る温かさなのかもしれない。
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