更新日 : 2002年 9月 5日 |
尺八雑話(49) 「心と三界 (1)」 この間、司馬遼太郎氏の街道をゆくを読んでいたら興味深い個所があったので、引用させてもらう。 「華厳教にあっては「三界唯心」(唯心に「ゆいしん」のふりがなあり----蛙註)であって、客観的に物や事が存在することはない、と言い切っており、この雄大な教説は唯心であることを出発点としている。 心でそう思い、そう見ることによって、物や事が存在する。心を通さねば三界は存在しない。 ついでながら、三界とはただの(仏以外の)世界をいう。私どもただの人間は、生死輪廻する。この世界を分かって三つとする。 一つは、欲界である。ここには食欲、性欲、睡眠欲などが充満している。 つぎはやや高度で色界という。そこにあるあらゆる物質は存在として清浄で、この点、欲界ばなれしているが、ただ形に対する欲心がある。 第三番目は、無色界である。すでに物質はなく、精神のみが存在していてきよらかではあるが、それでもよく見ればなお不純な感じ(感じの横にレ点二つあり----蛙註)がある。 その不純は存在に対する愛という要素である。この場合、愛とはとらわれ(とらわれの横に四レ点―蛙註)、あるいは欲望ということで、悪のほうに分類される。 「普訳」の、「華厳十地品」(「」は二重鍵括弧----蛙註)に、 三界は虚妄にして、ただこれ一心の所作なり。 とある。 簡単にいえば、外界はまぼろしであって、それが存在すると思っているのは心の働きのせいである、ということである。ただし、これを意訳して、――すべては気のせいだ。 というふうに解釈してしまえば、華厳世界は成立しない。人間の心の働きに実践という衝撃を加えることによって精神を高い次元へ転換させる。そのあと解脱が開ける。 ただし、華厳教学では、人間が解脱するためにナマで存在している「三界」そのものは、存在せぬという。これでは、解脱の仕様もないことになるが、ともかく華厳思想というのはややこしいものである。」 (以上 司馬遼太郎著 街道をゆく 近江散歩、奈良散歩 p252・p253 朝日文庫) 難解極まりないが 次号で あえて独断により推測、分解してみたい。 (蛙) |
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