
海、それは人類の宝庫、まぐろ、それは力強い泳者、人類の重要な生物資源である。
スタンバイ、それは水産講習所・東京水産大学と続いた伝統そのもの、卒業生の心に脈々と波打っている。悲しい歌であり、学生の踊りである。あるいは、海(水産)に生きる男達の悲痛な叫び声でもあろうか(日下、1953)。彼らは吠え、踊る。 @遇いはせなんだかよう 館山沖でよ 二本マストのよう 快鷹丸そかよ ゴーヘーゴーヘ ゴーヘーサン ゴーヘーゴーヘ ゴーヘーサン A糧は尽くともよう 元気は尽きぬよ 遠洋漁業のよう 勇ましさそかよ ゴーヘーゴーヘ ゴーヘーサン ゴーヘーゴーヘ ゴーヘーサン この快鷹丸(かいようまる、140トン)は水産講習所・東京水産大学の初代実習船である。しかし、明治44年9月9日、遠洋漁業の実習中、韓国迎日湾口にて大暴風雨に遭い、遭難、数名の死者、多数の負傷者を出し、海の藻屑と消えた。 スタンバイはその快鷹丸殉難歌であり、慰霊、鎮魂の歌である。以来、学生・卒業生達は『スタンバイやるぞ!スタンバイ』という号令の下に、亡き海(水産)の先輩に哀悼の意を捧げるとともに、遠洋航海に出る時やスポーツ大会、結婚式の席上などで、高らかにうたい、吠え、踊る。仲間の壮途を祝い、志気を鼓舞したりするのである。
東京水産大学卒業後、早稲田大学大学院を卒業したYSの帝国ホテルでの結婚式で、早稲田の友人達は”都の西北”を高らかに歌った。出席者全員が頷いていた。そのあと、我々東京水産大学卒業生出席者は声も張り裂けんばかりに”スタンバイ”をうたい、吠え、踊り、心底から前途を祝った。全館中に響き渡るほどであった。声の大きさや踊りの豪快さだけではなく、心底から祝う気持が出席者に伝わったのか、あちこちで驚きの声があがった。 私の結婚式の時、同期生が行ったスタンバイの吠え、踊る姿を見て、出席者には彼ら・同期生が心から祝ってくれた気持が通じたようであった。親父の上司は後日、私に 「良い友達を持って幸せですね」とおっしゃられた。 スタンバイについて、日下(1953)は『彼らは、うたいながら、足をふんばり、手をゆらゆらと振って、波形の運動を象徴する…そのときの彼らの瞳は、怪物の爪のように襲いかかる波濤を追い、耳は、人の絶叫と、もはや耐えられなくなった龍骨の悲鳴とを、聞くのであろう』と表現する(日下実男:海鷹丸周航記.現代思潮社.1953)。
自分は1959年(昭和34年)、大学1年の春を東京水産大学[自治寮]で迎えた。寮は東京・品川の旧海軍経理学校跡地の大学構内にあった。私が入れられた部屋は幅約10m×長さ約20mの旧経理学校教室をそのまま利用したものだった。野球のキャッチボールが出来る程広く、2段ベッドと机、椅子、あとは個人の所有物が置いてあるのみで、俗称『大部屋』と呼ばれ、人数は2〜4年生が2人ずつの6人、我々新1年生が3人の計9人であった。 この広い部屋で先輩達はよく麻雀をしていた。 「うるさいからやめて下さい」などととても言える雰囲気ではなかった。言おうものならそれこそ何が起こるか分からなかった。水産の世界はどのような環境の所でも寝、耐えることが出来るよう訓練しておく必要があるとのことであった。
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| 東シナ海でトロール実習中のひととき、1967 |
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| 午前6時過ぎのスタンバイ練習、立っているのが2年生。おもい出(東京水産大学第11回生写真集、1963) |
入寮して数日内に各部屋ごとに、1年生歓迎会という儀式があった。歓迎会とは名ばかりで、上級生は楽しく飲むが、1年生は無理矢理、飲みつぶれるまで飲まされるのである。
「もう飲めません」と言っても許してもらえず、飲まなかった場合は、上級生が数人がかりで1年生を押さえつけ、口をあけ、無理に胃の中に流し込むこともあった。『自分の酔いつぶれる量を知っておくべきである』というのがその論理であった。後日談であるが、近年の一気飲みによる事故を聞くと、当時を振り返って、かっての仲間と
「同じような事がよく起こらなかったものだ」と話し合っている。
通常、日本では、おはよう、今晩は、有り難う、ご馳走さま、失礼します等の挨拶は、その使い方によって異なるが、寮では何時でも、何でも『オッス!』である。
「歩きながら先輩、知人等に会った時は、胸を張り、顔を上げ、大声で『オッス!』と叫べ、立ち止まっている時なら、その上に直立不動で挨拶しろ、また、オッス!と挨拶されたら、大声でオッス!と返せ」と扱かれた。その扱きの一つが上記の銭湯の例である。
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| 潜水実習・ヘルメット潜水器、1961 |
2年生時、高校の同期生で東大生の友人、K I さんが何回か寮に遊びに来て泊まっていった。その時、彼は
「寮内とか、品川駅から寮に来るまでの道すがら、何人かの学生に『オッス!』と言われた。お返しに、オッス!と言っておいた」と笑っていた。自分も1年生の始めの頃は、若い人にそのように挨拶していたのかも知れない。
授業始めの挨拶も『オッス!』である。英語のHI先生は『オッス!』は野蛮と思われたのか、大嫌いで
「少なくとも自分の授業の時だけは使うな」とおっしゃられた。すると、我々は直ちに「オッス!」(分かりました。次から使いません)と答えてしまった。そして、また、次の授業でも『オッス!』である。
HI 先生は、グレアム グリーンが大好きで、教科書には彼の原書を使っていた。1、2年次の教科書は『第3の男』『情事の終わり』であったかと思う。英訳そのものや文法を教えるよりも、グリーンのことや原書で書かれている部分の背景、英国文化、文学等を講義された。当時、新聞などでは「大学卒で英語を話せない者がごまんといる。大学は何を教えているのか?」と言うようなことが論じられた。そのようなことに対し、先生は
「英会話の上達が望みならば、米軍基地などでアルバイトをすれば良い。私は、ソフィア(上智)な英文学を教える」とおっしゃられた。私など、他の授業はサボっても、先生の授業だけは出席し、グレアム グリーンの話しに聞き入っていた。
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| 1959年度(昭和34)入寮記念(写真、または、ここをクリックすると写真が拡大) |
部屋回りという儀式もあった。新1年生は、入寮すると100近くあった各部屋へ挨拶に行くのである。ドアをノックし、部屋に入り、出身高校、専攻学科、名前等を『オッス!』を挟んで、大声で叫ぶ。例えば、
「オッス!○○県立○○高等学校出身、漁業科1年、花本栄二、オッス!」と大声で叫ぶのである。いくら声を大にしても、部屋の中の先輩は
「声が小さい、聞こえなかったぞ!もう一度やれ」
「オッス!もう一度やります。オッス!○○県立〜」
「聞き損なったぞ、もう一度やれ」外出先から換えって来た先輩は
「おう、今、部屋に帰ったところだ、続けろ」
お陰で、1年生同士は、やりつやられつで、お互いの出身高校は覚えてしまった。これら、オッス!も、最初はとまどっていたが、段々と慣れて来ると、挨拶だけではなく、その時の自分の想いを全て『オッス!』の一言で表せることを確信出来るようになり、何の抵抗もなく使うようになった。今では、乾杯の時、オッス!と言ったり、焼香の時など、話したいことは山ほどあるが、それが出来ないので『オッス!これ迄色々お世話下され、誠に有り難うございました。ある時はご指導頂き・・・
・・・』の一言を心を込めて胸の中で叫んでいる。
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| 潜水実習・アクアラング、1966 |
また、寮では、スタンバイ練習の時と同様、毎夜のように、ストーム(嵐)があった。夜中にたたき起こされ、説教の上、運動場を走り回され、スタンバイをやらされた。特に、奨学金が出た日の夜には、豊富な資金で(実際はたいした金額ではないが)、安い焼酎を鱈腹飲んだ先輩達の嵐が次々と吹き荒れた。過ぎ去った後、ほっとして寝ていると、次に、別の先輩がやって来た。この繰り返しで、起こす方は1度でも、起こされる我々は何度か分からなかった。
どんな無理難題、屁理屈等に対しても、言い答えは許されなかった。返答でもしようものなら、それこそ鉄拳が飛んで来た。
「船で沖に行けば、理論的には考えられない、何時何が襲って来るか分からない自然の暴威に必ず出会う。また、社会に出れば、理屈に合わない無理難題は必ずある。漁業の現場は厳しい(今で言う典型的な3K)、どのような環境のところでも、それに耐えられる精神、肉体を養う訓練である」というのがその論理であった。(これら、寮生活については、佐野彭:凄げェ処に入っちゃた,第1回〜第3回.楽水 No.792〜No.794.2000〜2001(東京水産大学同窓会報)に記載されている)
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| 雪の中の東京水産大学自治寮、1963 |
一方、寮では、金が無くても生きて行けた。当時、JRの最低区間の料金が10円の時代、1日当たり、バイト代は約300円、寮の食費は90円、寮費は1ヶ月当たり数100円であったので、1ヶ月約3000円あれば寝て、食べるだけの生活は出来た。
ただ、主食は麦4、米6の割合であった。まるで米などないも同然で麦飯を食べているようなものであった。温かい内に食べればまだ良いが、少しでも冷めたものを食べようものなら食べられるものではなかった。本当に不味かった。その上、食器がアルマイトだったため、その不味さはこの上もなかった。
というわけで、食事は質的には満足行くものではなかったが、生活費は月3000円の奨学金とバイト代で何とかなった。バイトは、我々東京水産大生は良く働くということで幾らでもあった。
その上、誰が決めたのではないが、他人のものは自分のもの、自分のものは他人のものという共同生活、助け合いの精神があった。着る物は誰かのものを借りたり、貸したりした。寮生の故郷から送られてくる全国各地の名産などは最初に見つけた者の早い者勝ちで、本人が味わう暇もないほど直ぐ無くなった。
金が無い時は誰かが何らかの方法で助けてくれた。
先輩は扱く反面、面倒も見てくれた。何処かに出かける時、電車賃を始めとして、飯代、飲み代、映画館入場料等、必要な経費は全て先輩が支払った。夜遅く、腹が減ったが、金がない時など、同期生や先輩を訪ね
「腹が空いたのですが、金が無く困っています。オス!」と言えば、
「そうか、じゃあ行くか」ということで、近くの食堂へ連れて行ってくれた。たばこ銭がない時など、1本のたばこを何人かで廻しのみした。最後には、火が熱いので残りの部分に楊枝を刺して喫煙した。また、部屋が100近くあったので、各部屋を訪ねれば1部屋1本としても5日や1週間分は直ぐに集まった。
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| 寮の部屋の一風景、机の向こうにベッド、1961 |
夏休みに帰静(静岡)し、実家で生活した時、寮生活は一般社会とひと味違い、ひしひしと、鍛えられていることが感じられた。夏が終わり、帰寮した時には、ひとまわり大きくなっているように思えた。その後も寮では先輩に扱かれたが、自分も2年生になると同じように新入生を鍛えていた。ただ、殴ることと酒の無理強いだけはしなかった。
寮には、『自治寮』というその名の示す通り自治の精神があった。義務を果たせば何をやるのも自由であり、何でも出来た。
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| 雪の中の自治寮(左)と 水産講習所・練習帆船雲鷹丸、1963 |
東京水産大学生、特に入寮者の多くは『海に生きる』『魚が好き』『未知なる世界への挑戦』等の目的意識を持って入学して来た。授業には出なくても、クラブ活動に没頭したり、単位の付かない課外実習に行くなど我が道を進む者が多かった。厳冬の北海道のタラ漁船に乗ったり、定置網操業、トロール船への乗船実習など自分を鍛えていた。また、留年し、アフリカ、ブラジル等海外に漁業調査や実習に行く者もいた。
時には、既に卒業した何人かの先輩が、就職後、外地入港先で手に入れた、当時は珍しい土産のスコッチをぶら下げ寮に来て、漁場開拓の苦労話や海・自然の凄さを話してくれた。ある先輩は
「1950年代後半、先輩が学籍保留のまま、100トン位の小さなまぐろ漁船に乗って、サモアの船団操業に行ったことなどを、その先輩が沖から帰って来た時聞いた。凄いものだなと思った。その頃のサモア行きのまぐろ漁船にはクリカラモンモンが大勢乗っていて、大変恐かったようだ。その先輩はあと一航海で、学校に戻ると言って出かけて行ったきり帰って来なかった」と話していた。
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| マストに高き”水”の字は我らが尊きシンボルぞ(東京水産大学応援歌)と水大練習船、右の黒い船はS.F.ベアード号(アメリカ)、1960 |
このような悲しく、残念な話もあったが、とにかく、寮には困難辛苦を乗り越えて、何かをやってやろうという者が多く、活気があった。チャレンジ・挑戦への気持ちがみなぎっていた。
寮は学内にあったため、時間は充分あり、皆、十二分に使っていた。寮生は留学生を含め、北は北海道から南は沖縄まで全国各地から集まった300人近くがいた。誰もが、夜は夜で、本を読んだり、帰宅時間を気にすることもなく、何時でも300人近い誰とでも自由に話し合えた。時には、校庭で星を見ながら徹夜で議論した。あるいは、近くの旧品川宿周辺を、酒に酔い、放歌高吟した。近くの運河に飛び込んだ者もいた。中には街のちんぴらと渡り合うのもいた。寮に殴り込んで来たちんぴたもいた。しかし、やられた話は聞いたことがない。寮の、運動部の猛者が撃退していた。
卒業までの寮生活は、チャレンジ魂みなぎる下、扱き・訓練はあったが、助け合う共同生活等を通し、先輩・同期生・後輩との間に信頼や連帯感が一層強まり、団体生活や海で生きて行く上で、得難い経験と感じられ、とても充実したものであった。青春の原点であった。知らず知らずのうちに、何か分からないが、東京水産大学精神らしきものが身に付いたような気がした。
卒業後、同期生はそれぞれ自分の道へ進んで行った。魚を求めて七つの海を駆けめぐったり、えび・沖あみ等海外での漁場開発、南極観測隊員、外国移住、他大学への再入学、飛行機のパイロットなど千差万別あった。皆挑戦者魂を持っていた。
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| 雲鷹丸前にて卒業記念、1963 |
自分はといえば、くじらかまぐろの生態学をやりたいと思っていた。沿岸などの狭いところを泳ぐ魚よりも大海を泳ぎまくる魚の方がより雄大と思えたからである。特に、アムンゼン、スコットの南極探検や観測船『宗谷』、東京水産大学練習船『海鷹丸』の南極洋観測調査以来、南極・南氷洋に興味があった。そのため、出来れば、同洋で捕鯨関係の仕事に携わりたかった。しかし、当時、東京オリンピックが開催された1964年頃、捕鯨界は縮小されつつあり、その道に入って行く余地はなかった。
その頃、世界のまぐろ漁場は日本漁船によりほぼ開発しつくされていたが、まだ、少しながらも未開拓漁場が残されていた。そこで、まぐろの新漁場開発に挑戦すべく、船を持ち、まぐろ業務に積極的に取り組んでいた神奈川県の採用試験を受けた。何とか採用され、同県水産試験場でまぐろ生態研究の道に進むことになった。
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私は1966年(昭和41年)5〜12月、神奈川県水産試験場調査船・相模丸(700トン)調査員として、インド洋・南アフリカ・ケープタウン沖近くの海域等で延縄(魚を獲る漁具、約120kmのロープに釣針2000本を付け、海に流し、まぐろを釣る)によるまぐろ類分布、漁場開拓調査に従事した。当時、赤道域ではすでに漁獲は少なく、我々は先ず、6〜8月の間、当時、未だ未解明であった南アフリか沖の新漁場開発に挑戦した。そして、同域で漁期が終了した9月以降は赤道海域で当時の分布域、資源量等を知るため、漁獲、海洋調査などを行い、12月に三崎に帰港した。延べ8ヶ月の航海であった。
南アフリカ、ケープタウン沖は、時期的には南半球の冬に当たり、日本でいえば、冬の三陸沖に相当し、連日、時化が続き、時には雪や霙の降る寒い冬の海であった。手は、空中に出しているよりも海水の中に漬けている方が温かたった。風速15〜20mの中、風はヒューヒューうなり、船に当たった波は砕け、アッパーブリッジ(上部船橋)を越えるほどで、休みなく船上に飛び込んで来る。まるで豪雨の中での操業であった。波しぶきは顔全体を襲い、眼は塩であけられないほど痛かった。眼鏡を掛けた自分にとっては、土砂降りの雨の中、ワイパー(自動窓拭き)のない自動車に乗っているようなものであった。眼鏡を外し、漁獲調査に従事した。お陰で周りが見えにくく、この時ほど眼の悪いことを残念に思ったことはなかった。
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| 相模丸の出港。一路、インド洋へ、1966。 滑C洋総合研究所代表取締役 蓮沼啓一氏撮影 |
うねりも大きい。ざんぶらことそのままうねりは操業甲板に入り込んで来る。まるで浮上中の潜水艦のようであった。その時は、いち早く魚艙のハッチ(ふた)上に飛び乗るか、ブーム(起重機の腕木)につかまり難を逃れるしかない。さもないと海水ともどもデッキ(甲板)上をあっちへ行ったり、こっちへ来たりで、冷たい真冬の海での海水浴である。下手をすると、荒れる海に放り出されてしまう。当時、近くで操業中のまぐろ船は何人かの乗組員を海に落としていた。この年乗った自分の船も、その前年には、運良く助かったが、乗組員を海に落としていた。
連日の時化続きと時化による延縄の切断、その探索とで、操業時間は1日約20時間要した。その上、自由に使える真水は1日、洗面器一杯だけだった。操業終了後、顔を洗い、手ぬぐいを濡らし、それで汗と潮で濡れた身体を拭き、残りの水でシャツ等下着を洗った。それだけで水は無くなった。水のない不便さ、大切さを切実に感じた。この水のことも含め毎日、海の上での重労働と睡眠3〜4時間で、よく体がもつなあと思った。操業最初の頃、朝起きた時には、手がひろげられないほど痛かった。また、足全体、指も痛く、足を伸ばせば足全体に、指を曲げれば付け根に、伸びをすれば、体全体にケイレンが走った。眠さや疲れ、時化も加わって、この世の地獄といった感じであった。
ある時など風波で船は45°以上も傾いた。船橋で舵輪を持ち、その傾きを計器で見ていた2等航海士は「あのままでは船は沈むのではないか」と後で話していた。船の傾きに体を支えるのが精一杯なのに、うねりは相変わらず操業甲板へ襲いかかって来た。体はそのままうねりをかぶり、波しぶきに濡れ、全身ずぶ濡れで、寒さこのうえなく、ガタガタ震えながら、海に放り出されないよう支えるのが精一杯であった。操業をもう中止しなければ、船は沈んでしまうのではないかと1人心配した。しかし、船長は中止命令を出さず、漁獲調査は続けられた。
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| 相模丸の出港。このテープ下、一路インド洋へまぐろ漁場開拓を目指し、日本から出航。1966。滑C洋総合研究所代表取締役 蓮沼啓一氏撮影 |
このような時、自然の暴威に対し『何クソ!』と思った。『何でもドンと来い』『負けてなるものか』と思った。そして、何とはなしに『スタンバイ』が思い出された。
『あいはーせなんだかようー たてーやーまーおきでよー 2本マストのよー 快鷹丸そかよー 糧はつくともよー元気はーつきぬよー…』と心の中で叫ぶ。大学1年の春、先輩から味わった扱き(?)の苦しさなど何も思い出さない。ただ、スタンバイを通じて得たと思われる何か分からないが水大精神らしきものが頭に浮かぶ。
『お前は連日の時化の中、操業の連続おまけに睡眠時間もなく、体も疲れ、本当に苦しいだろう。しかし、スタンバイ発祥のもととなったお前の先輩、同じ水産の道を志した先輩達は、時化の中、お前と違い海の中で死と闘ったのだぞ!。お前はまだデッキ(甲板)上にいる。どちらが楽か、分からなければ言ってやろう。自然に負けるな。死と闘った先輩に負けるな、頑張れ!船は、船長が大丈夫と思う以上、安全なのだ。波に船外に放り出されないよう注意してれば良いんだ。どん底になればなるだけ強いんだ。水産健児の意気は海の如く深いんだ、負けるな!』の声が心に響いた。
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| 写真は、城ヶ島大橋から見た相模丸、中央の大きな船.1966. 滑C洋総合研究所代表取締役 蓮沼啓一氏撮影) |
さすがにこの時は、午後4時頃、船長は操業中止を命令。数日前と同じく、延縄にランプを付け船から放し、風に向かって、船を支えた。夜8時頃、幾分凪いだため、操業開始、しかし、延縄の切断多く、その縄を探すのに時間がかかり、終了は朝の6時。そのまま、朝日を見ながらの投縄であった。
このような時化の中での操業が約3ヶ月間続いた。自然の暴威の中、乗組員30名強、海の男達による新漁場開発への挑戦であった。
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スタンバイ、それは亡き海(水産)の先輩への鎮魂とともに仲間の壮途を祝い、志気を鼓舞したりする[うたとおどり]である。その中に潜むものは『開拓者精神、挑戦者魂であり、何にも負けないガンバリズム・不屈の精神』である。水産講習所・東京水産大学精神と言っても良い。英語では『stand by』と書く。『準備する、用意する。いざという時に頼りになるもの』の意味がある。
自分にとって、 海とまぐろは研究相手だっただけに、愛着が強い。これらの研究を通し、自然、環境が人間を含めた生物に如何に影響し、如何に大切かを経験的に知った。本ホームページは、海とまぐろとスタンバイに思いを込めて、ジャン ジャック ルソーの言う『自然にかえれ』、そして、環境保全、まぐろの有効利用等を願うものである。
特に、まぐろ資源の有効利用や自然にかえれを目指して、まぐろの話を主体に、三浦半島、葉山の海辺で綴った諸々の報告、海・山・魚・自然の写真、彫刻、木彫り作品など日本文化の紹介等である。目的に向かって少しづつこのホームページを作成して行きたいと思う。
なお、今、日本では外国語が氾濫し、小生にとって分からないものばかりである。外国語は固有名詞、既に日本語になった言葉以外、出来るだけ使わないようにした。
(2002年6月)
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| 1961(昭和36)年度東京水産大学自治寮入寮記念 (写真、またはここをクリックすると写真は拡大) |